アルテーリアの星彩シリーズ

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― 嘘の中の真実 ―

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 ここ、表通りから一本脇にずれた道の両脇には、石造りの店が並んでいる。既に日が落ちた後なのだが、この通りは早朝から夜遅くまで人通りが多い。木でできた扉の隙間や開かれた窓から、笑い声や歌声、談論する声などが部屋の明かりと共にれている。
 大柄なの立てる金属のぶつかる音が、その喧噪を割って進む。名をバックスという中位の騎士だ。
「明日は手伝えよ? お偉方だからって休暇ばかり取ってないで」
 バックスはそう言うと、並んで歩いているフォースに不満そうな顔を向ける。フォースはチラッとだけバックスを見やると、不機嫌に顔をしかめた。
「バカ言え。二ヶ月ぶっ続けで休んだって首にならないだけの休暇が溜まってるっていうのに」
「そんなに?」
 目を丸くしたバックスに、フォースは苦笑する。
「上に人使いの荒い親父が居るからな」
 その言葉に、バックスは納得したのか、手のひらをでポンと叩いた。
「息子になら無理も言いやすいか」
「冗談じゃねぇ」
 速攻で言い返したフォースの肩に手を乗せ、バックスは半分笑いながら、まぁまぁ、となだめる。胡散臭そうに見上げたフォースに、バックスは片目をつむって見せた。
「んじゃ、明日ここでな」
「は? 分かってないな?」
 フォースが滅多に休みを取らないことは充分理解しているはずなのだが、バックスは取って付けたような笑いを残して、前方へ走り去って行った。
 フォースとバックスの付き合いは、騎士になる数日前から続いている。階級はフォースが一つ上だが、バックスは同じ騎士仲間でいて、友人であり兄のような存在だ。今回の異動で城都勤めになったバックスと、仕事だろうがプライベートだろうが、前線から戻るたびにどこかで会う算段をつけようとフォースは思っていた。
 ほとんどバックスの姿が見えなくなった時、フォースの背中に何かがぶつかる衝撃があった。身体に腕が回され、背中から誰かに抱きつかれている。
 後ろを振り返ると、フォースの亡くなった母親と同じ、亜麻色の髪が目に入ってきた。見上げてきたその顔には、全然覚えがない。だが、その女性は人違いをしたとは思っていないようだ。二十歳を数年超えたくらいだろうか。ブラウンの瞳を不安げに細め、赤く彩られた薄い唇をフォースの耳に寄せてくる。
「バックスさんの知り合いでヴェルナっていうの。ごめんなさい、助けて」
 そのヴェルナという女性は、小声の早口でそう伝えてきた。ほんの少し前までバックスと一緒にいたのを見かけたのだろう。フォースがうなずくと、ヴェルナは振り返って今来た方角へと視線を向けた。そこに、まぶしいほど明るいランプを手にした男が立つ。
「だから私、待ち合わせしてるって言ったでしょう?」
「そんな都合のいい話、信じられるかっ。おい、お前。怪我したくなかったら関わらない方がいいぞ」
 男に向けられた言葉に、フォースはヴェルナを後ろ手にうと、数歩前に出て、突き出されたランプにわざと顔をさらした。
「あんた誰だ? ヴェルナに何か用があるのか?」
 日が沈んでしまえば黒く見える自分の目も、これだけ強い明かりがあれば本来の紺色に見えるだろうとフォースは思った。
 この国、メナウルにはフォースと同じ瞳の色をした人間は居ない。この色はそのまま、首位騎士の息子で上位騎士でもあるフォースだという印なのだ。
 思った通り、その男はギョッとしたように目を見張ると、ランプを引っ込め、引きつった愛想笑いを浮かべた。
「い、いや、悪い。人違いだったみたいだ」
 そういいながら少しずつ後退ると、スマンと一言残し、男は逃げていく。フォースが振り返ってヴェルナを見ると、キョトンとした顔で男を見送っていた。フォースはその顔を横からのぞき込む。
「大丈夫?」
「もしかして、あなたって悪い人?」
 すぐ側のフォースに視線も向けず、走り去る男の後ろ姿を目で追いながら、ヴェルナは問いを返した。
「は? 悪くはないと……」
 言われてみれば、男はフォースの目を見ただけで逃げていったのだ。ヴェルナは自分の目の色を見ていないのだから、自分が顔が利く悪い奴に思われても仕方がないかと思う。
 逃げていった男が見えなくなって、ヴェルナは改めてフォースを見上げてきた。その瞳はメナウルでは一般的な茶色をしている。じっと見つめてくる視線に、フォースはとまどいながら視線を返した。
「いや、いい人でもないんだけど」
 フォースがどうしていいか分からず付け足した言葉を聞き、ヴェルナは安心したようにフッと息で笑うと、フォースに微笑みを向けてくる。
「ありがとう。正義感のみたいなバックスさんが笑顔で話す人だもの、悪い人じゃないわよね」
 その言葉に、フォースは苦笑をらした。ヴェルナがその苦笑をのぞき込む。
「あら、それとも悪い人なの? あ、女の子泣かせたことがあるとか」
 フォースは思わず吹き出して、慌てて口を押さえた。ヴェルナはクスクスと笑い声を立てる。
「あるんだ。うわ、悪い人」
「そんなんじゃ……。そうなのかな」
 フォースは、寂しげに顔をめた。ヴェルナは、フォースに寄り添うように並んで腕をとる。
「その話、聞いてあげるわ。最近、さっきの男につけられてたみたいなの。戻ってきたら怖いから、ついでに家まで送らせてあげる」
「送らせてあげる? 送ってください、だろ?」
 幾らかの笑顔を見せたフォースに、ヴェルナはニッコリ微笑んで、こっちよ、と指をめた腕を引く。
「ほら、言ってごらんなさい。名前は聞かないでいてあげるから」
 フォースは引かれた方向へと歩き出しながら、ヴェルナに苦笑を向けた。
「意味がない。バックスに聞けば分かる」
「人の説明って大変なのよ? 髪の色が濃くて、目が黒で、普通にカッコいい人。ほら、どこにでも居そうで分からないでしょう?」
「昨日会ってた人」
 フォースがれたように言った一言に、ヴェルナはクスクスと笑ってチラッと舌を出した。イタズラな表情は、幼く見えて可愛いと思う。
「聞いてどうするんだよ」
「追いかけられると逃げたくなるけど、逃げられそうになったら追いかけたくなるモノなの。追いかけられてた私が言うんだから、現実味があるでしょう?」
 目の前に突き出された人差し指を見て、フォースはなんの話だと、ため息で笑った。ヴェルナは、その表情をのぞき込むように見上げてくる。
「引きずってるぽいってことは、最近の話なんだ?」
「昨日」
 フォースが吐き出した言葉に、ヴェルナは、昨日?! と復唱して目を丸くした。その驚きように苦笑して、フォースは言葉をつなぐ。
「会っていきなり平手打ち食らって、泣かれた上フラれた」
 その言葉で、ヴェルナの目がますます見開かれる。
「彼女? だったんだ?」
「たぶん」
「たぶんって」
 そう返すと、ヴェルナは思い切り眉を寄せた。その表情に罪悪感を感じ、フォースは前に視線を戻す。
「城都を出る時に、いつまででも待てるから付き合えって言われて承諾したんだ。戻れたのが六ヶ月ぶりの昨日で」
 ふと、ヴェルナが目をじっとのぞき込んでいたことに気付き、フォースは思わず言葉を切って視線を返す。
「やり逃げ?」
 ヴェルナの口からこぼれた言葉に、フォースは目が飛び出さんばかりに驚く。
「や?! やってないっ。指一本触れてない」
 フォースの慌てようを横目で見て、ヴェルナは肩をすくめた。
「六ヶ月ねぇ。長い、か。なんにもしなかったからフラれたのかな」
「あ、あんたな……」
 フォースは気の抜けた声で言うと、空いている方の手で顔を半分う。ヴェルナは少しだけ、のどの奥で笑い声をたてた。
「でも、連絡くらいはしてたんでしょう?」
「全然」
 フォースの即答に、ヴェルナは大きくため息をつく。
「あのね。それ、フラれたって言うの? フッたの間違いでしょう?」
 ヴェルナの怒ったような声に、フォースは眉を寄せた。
「俺の仕事には、居場所を明かせない期間ってのがあるんだ。それが思ったより長くなってしまって」
「騎士みたい」
 騎士なんだけどと思いつつ、フォースはうなずいた。ヴェルナは難しい顔をして何か考えている。
「やっぱり、冗談じゃなくて、なんにもしなかったからじゃない? 愛されているって実感があれば、同じ六ヶ月でも違うわよ」
「何かすれば、愛されてるって思えるのか? それって随分短絡的だと」
 グイッと腕を引かれて振り返ったフォースの唇に、ヴェルナは唇を重ねた。
「そういう風にできているの。嘘でも思ってしまうモノなの。そうでしょう?」

   ***

 小さく声がれたのを聞いて、フォースは背にしていたベッドに向き直り、寝ているヴェルナの顔をのぞいた。悲しい夢でも見ているのか、寝顔がむ。この人も、きっと寂しい気持ちを抱えているのだろうとフォースは思った。
 昨晩自分が抱いたのは確かにヴェルナだ。でも、ヴェルナにとっては、嘘だと分かっていて、それでも愛されていると信じてしまった時の、その人の代わりだったのかもしれない。
 それとも、自分で言った言葉を実践して、本気で愛して欲しいと思ってくれたのだろうか。
 フォースは、ヴェルナの閉じられた瞳からこぼれてくる涙をそっとった。亜麻色の髪を何度かでると、ベッドに沈み込むように身体から力が抜けていく。ヴェルナがゆっくりを目を開いた。
「あ……。居て、くれたの?」
 悪い夢の中から抜け出せないでいるようなその顔に、フォースは微笑んで見せた。ヴェルナの瞳がしげに細まる。
「昨日の人、よね?」
「え? 覚えてないのか?」
 眉を寄せて寂しげな表情になったフォースに、ヴェルナは慌てて首を横に振った。
「覚えてないわけないでしょう? ただ、どうしてかしら。昨日は同い年くらいだと思ってたから」
「今日は違って見える?」
 フォースの問いに、ヴェルナは視線を合わせたまま、小さく三度うなずいた。身体をっている薄い布団から腕を出し、フォースの頬に触れる。
「でも、くつろいでくれているのなら嬉しいわ」
 フォースに笑みを向けると、ヴェルナは半身を起こした。夜具からこぼれそうになる胸を慌てて隠す。
「向こうを向いてて」
 フォースはうなずくと部屋の隅に行き、棚にある小さな肖像に目をやった。両親なのか、ヴェルナに似た男性と、優しい表情で寄り添う女性が描かれている。服を着る衣擦れの音が、フォースの背中から耳に届く。
「随分優しく抱く人ね。私があんな風に誘ったから、自分勝手に無茶苦茶されるかと思った」
 ヴェルナの笑みを含んだ言葉に、フォースは苦笑した。
しそうで怖い」
「女なんて、そうそう壊れやしないわよ」
 クスクスとヴェルナが笑う声が近づいてきた。フォースの耳元で、もういいわ、とささやくと、ヴェルナは側にある木でできた窓を大きく開ける。
 部屋いっぱいに朝の光が差し込んできた。フォースはまぶしさに顔を歪め、それからゆっくりと目を開く。ヴェルナは、朝日を映して紺色に輝く瞳を間近にし、目を丸くした。
「その色?! もしかして首位騎士の息子のフォース? 上位騎士になったばっかりで、十六歳? 十六歳っ?! 七つも下、……詐欺だわ」
 フォースは顔を片手で覆い、ため息をつく。
「詐欺って。いくつだと思ってたんだよ。ってか、歳まで知ってんだ」
 ヴェルナは呆れて笑ったのか、ため息なのか、短くハッと息を吐き出した。
「誰だって歳くらい知ってるわよ。その目の色、どうやったって誤魔化せないでしょう? どうする気だったのよ」
「誤魔化す? 何を?」
 なんの話かと、フォースはヴェルナの顔をのぞき込む。
「サッサと起きて逃げようって思ってたんじゃないの?」
「……、居るだろ?」
 ヴェルナは、しげなフォースの表情に嘘はないかと、正面から見据えた。
「責任取れとか結婚しろとか、無茶苦茶言われるかもしれないのよ?」
「それ、無茶苦茶なのか?」
 真面目な視線を返すフォースに背を向け、ヴェルナは身体中の空気を全部吐き出すかのような大きなため息をつく。
「浅ましいわ。今、頭の中を玉の輿って言葉が横切っていったわよ」
 その言葉に、フォースは笑みを浮かべた。ヴェルナはアッと声を上げて口を押さえると、その声にどぎまぎしているフォースに向き直る。
「ごめん。食べるものがないの。買い物、付き合ってくれる?」

   ***

 ヴェルナの部屋を出てその足で自宅に寄り、持ち歩くのが面倒だと、フォースは真新しい上位騎士のを身に着けた。家を出て表通りを市場の方向へと歩く。
「ねぇ、仕事、時間は大丈夫なの?」
「本来は休みなんだ。今晩から一日はバックスの仕事に付き合うことにしてるけど」
 フォースの隣を歩くヴェルナは、まわりが気になるのか、落ち着かない様子だ。何度も、ホントに本物、とつぶやいてはフォースに苦笑させる。
「大変なんでしょう? その歳で上位騎士だなんて」
 鎧を着けてから仕事の話ばかりしてくるヴェルナに、フォースは一つずつ丁寧に答えを返す。
「十四から普通に騎士やってるから、あんまり。成り立ての頃は辛かったけど。むしろ今は休みですることがないと手持ち無沙汰で」
「十六でそれって。寂しいわね」
 そんな風に言われ、フォースはまた苦笑しか返せなかった。実際自分でも寂しいと思うのだ。
「好きな娘はいないの? もしかして昨日の話、待ってもらえないのが怖くて、他の娘で確かめたんじゃないの?」
 ふとリディアの顔が頭をよぎり、フォースはうろたえた。騎士になる数日前、騎士三人に襲われているところを助けた娘だ。その出来事があったことで、騎士としてやっていくことを心に決め、迷いも消えた。大切な人だと思うし、国を守ることがリディアを守ることにがるなら、それだけで充分なはずだった。
「正解?」
「え? ……、いや」
 確かにこの仕事のせいで、どう頑張ってもリディアとは年に数回しか会えない。フォースは普段、ここ城都ではなく、前線にいるのだ。しかも、自分に会うことで襲われたことをリディアに思い出させてしまうのなら、むしろ会えない方がいいと思う。
「女はね、相手の仕事なんて二の次。その人が好きなら関係ないのよ」
「そう、なのかな。でも、こんな仕事じゃ可哀想なだけだろ」
 仕事がどうという問題ではない。だがリディアに起こったことまで喋る気にはなれず、フォースはただ無難に話を合わせた。
「あら、上位騎士って所に惚れてれば、帰ってこなくったって全然平気よ」
 意表をつかれた言葉に、フォースは思わず吹き出した。だがその言葉が思い切り現実的に思え、フォースは力の抜けた視線をヴェルナに向ける。
「それも寂しい」
「やっぱり?」
 ヴェルナは苦笑すると、フォースの顔をのぞき込むように見た。
「でも、じゃあ、どうしたいの? 可哀想じゃなければいいってわけでもないじゃない」
「そう、だな。思い切り矛盾してる」
「バカね。好きだから一緒にいたいって思うものでしょう?」
 好きだから。その言葉が胸に響く。きっと自分はリディアが好きなのだろう。だからこそ、襲われたことなど思い出して欲しくないし、寂しさも悲しさも味わって欲しくない。そう、自分では駄目なのだ。
「ねぇ、誰も側に居ないよりマシだと思わない?」
 ヴェルナは自身を指差して笑う。ヴェルナと一緒にいれば、この寂しさも埋まっていくかもしれないと、フォースは漠然と思った。
 フォースが返事を返すより先に、ヴェルナは店先へと足を向けた。フォースも後からついていく。ヴェルナが受け取った大きめの紙袋を預かり、フォースは片腕で抱えた。
 ヴェルナが店を変えた時、琥珀色の長い髪がフォースの視野の片隅に映った。思わずハッとして目を向ける。リディアだ。まさか一人でいるのかと、人混みの間から知った顔を探す。その中にリディアの父親であるシェダの姿を見つけ、安心すると共にホッとため息が出た。
「ああいうのが好みなんだ?」
 もう一つ増えた紙袋を手にし、いつの間にか隣に立っていたヴェルナの声に、フォースの心臓がねた。
「え? あ、いや……」
 好みという言葉が、フォースにはひどく安っぽく聞こえ、素直にはうなずけそうにない。ヴェルナは当惑しているフォースに笑みを向けると、琥珀色の髪を目で追う。
「綺麗で可愛い娘ね。いいとこのお嬢様かしら」
「神官長のお嬢さんだよ」
 フォースがヴェルナになんとか微笑みを向けて顔を上げると、こちらを向いているシェダと目が合った。フォースはその場から、シェダにしっかりとした敬礼を向ける。シェダはヴェルナにチラッと視線をやり、フォースに笑みだけ返した。そのままリディアの視線をるように位置を変えると、シェダはリディアの背を押すようにエスコートし、人混みに紛れていく。
 フォースはシェダの後ろ姿を見ながら、ヴェルナといる自分をリディアに見られなくてホッとしたような、いっそのこと見てくれた方がよかったような、複雑な気持ちに襲われていた。やはり、好きだからこそ、他の女性といるところを見られたくはない。でも、もし一瞬でも視線をくれたら、リディアのためにこの気持ちを忘れようという努力は、楽にできたかもしれない。
 ヴェルナは、二人が見えなくなったあとをじっと見つめているフォースの表情をのぞき込む。
「神官長さんだものね。緊張した?」
「いや、いまさら緊張はしないよ。付き合いのある家族なんだ」
「付き合い? 神官長さんの家族と?! って、そうよね、不思議なことじゃないのよね」
 目を丸くしたヴェルナに、フォースはうなずいて見せた。翌日の晩には首位騎士である父と共に、シェダの邸宅まで行かなければならない。いつも行かないつもりでいても、結局はシェダと父の言いつけを断り切れなくなる。
「こんな風に女性と歩いていたりしたら、絶対シェダ様にからかわれると思ったんだけど。まさか、遠慮したのかな」
 フォースは首をひねって苦笑する。ヴェルナは、シェダとリディアが去っていった方向を見つめた。
「もしかしたら神官長さん、あの娘にあなたを見せたくなかったのかも」
「教育上よくないから?」
 フォースが冷笑しつつ返した言葉に、ヴェルナは肩をぶつけて、バカね、と笑う。
「あの娘、あなたのこと」
 ヴェルナは、肩をすくめたフォースの横顔に、そう言いかけて言葉を切った。振り返ったフォースに、首を横に振ってみせる。
「ん、ううん、なんでもない。あの神官長さん、とてもいいお父さんなのね」
 ヴェルナの言葉に、フォースは黙ってうなずいた。
 シェダは事あるごとフォースをからかうように、神官になってリディアと結婚しないか、と言葉を向けてくる。いまさら神官になどなれるわけがない。そんな自分は自分じゃないとフォースは思う。
 今、リディアは両親の元で幸せに暮らしているのだ。それを壊すような真似はしたくない。できるだけ関わってはいけない。好きだなんて気持ちは、自分の中だけで終わらせなくては。
 ふと、フォースは自分が押し黙ってしまっていたことに気付いた。ヴェルナが半歩後ろを歩いている。フォースは足を止めて、ヴェルナと肩を並べた。ヴェルナは少し驚いたようにフォースを見上げると、力の抜けた笑みを見せる。通り過ぎる人と肩をぶつけてよろけたヴェルナに腕を回し、フォースは抱えるように引き寄せた。
「私のは嘘、あの娘のは……」
 その言葉はあまりにも小さく、フォースには届かなかった。
「え?」
 何か言ったのかと聞き返したフォースに、ヴェルナは、一日だけ、とつぶやき、深呼吸をすると、声を大きくする。
「自分に腹が立ってきたの。バカよ、私」
 何を言っているのかと、フォースはヴェルナの顔をのぞき込んだ。ヴェルナは眉を寄せ、フォースを見つめ返す。
「もう、ほんっとに頭にくるっ。あなた、ちゃんと男なんだもの。十六歳のくせに!」
 その言葉に、フォースは呆気にとられて立ち止まった。
「え? それって、俺のこと怒ってるんじゃあ……」
「違うわよっ。さ、帰って食事食事っ」
 ヴェルナはフォースの腕を取り、家の方へと引っ張っていった。

   ***

「今日はありがとう」
 一日を雑談で過ごし、バックスと待ち合わせの場所まで来ると、ヴェルナはフォースの唇に触れるだけのキスをした。
「ヴェルナ、俺……」
 フォースが抱きしめようとした手をヴェルナは優しく押しとどめ、かな笑みを向ける。
「男って、抱かせてくれる女はみんな愛しいって思うように出来ているんですってね」
 怪訝そうな顔で見つめるフォースから視線をらし、ヴェルナは冷笑する。
「言ったでしょう? 嘘だと分かっていても、それでも愛されていると信じてしまうって。だから、あなたは私に愛してるなんて嘘をつかないで」
「でも、俺は」
 人差し指をフォースの口に添え、ヴェルナは、駄目よ、と静かに首を横に振った。
「私といると、あなた、いつでも細く張りつめたリュートの弦みたいなのよ」
 ヴェルナは、自嘲なのか眉を寄せた笑みを浮かべると、気持ちを隠すように目を伏せる。フォースはその言葉が理解できず、ヴェルナの両肩をむと、正面から向き合った。
「嘘だってつき通してくれれば、俺には本物と変わらない」
 フォースの言葉に、ヴェルナは目を見張った。何か言いかけた言葉を胸に手を当てて飲み込み、んでしまった目で精一杯の笑顔をフォースに向ける。
「バカね。あなたは流されることを覚えちゃ駄目。そうすれば間違いなく幸せになれるわ。いいわね?」
 そう言うと、ヴェルナはフォースを抱きしめた。
「一日付き合ってくれてありがとう。とても、……楽しかった。さよなら」
 その言葉と共に、ヴェルナは身をして駆け出した。みるみるうちに遠ざかっていく。一度途中で足を止めると、振り返って笑顔で手を振り、ヴェルナは雑踏の中へと消えていった。
 フォースはヴェルナを引き留めることができず、ただ後ろ姿を見送った。喪失感が心を支配していく。それでも、追いかけようと足を踏み出すことはできなかった。
 後ろから腕を取られる。我に返って振り返ると、バックスが居た。とたんにヴェルナと過ごした一日が、まるで夢だったかのように感じる。
「今のヴェルナ? 何してたんだ? フォースも知り合いか?」
 バックスの問いに、フォースは苦笑した。
「みたいなモノ。フラれたて」
 今までフォースがバックスに恋愛関係の話など振ったことがなかったせいか、バックスは異様に驚いた顔になる。
「はぁ? 私は玉の輿に乗るの、とか言っておいてフォースをフッたのか? サッサと上位騎士だって言えばよかったのに」
 その言葉で、玉の輿を浅ましいと言っていたヴェルナが、フォースの脳裏を横切った。
「言わなくても、この目のおかげで名前までバレたのに」
「あ、そ、そうなんだ?」
 バックスは、どうしたらいいのかわからないといったで、頭をいている。フォースは微かな自嘲を浮かべた。
「落ち込みそうだ」
「でも、それにしては、ホッとしたような顔してるじゃないか」
 バックスの言う通り、確かにかだが安堵の気持ちも自分の中に存在しているのが感じられる。そう、リディアを守っているのだという気持ちを、まだ持っていていいのだと思うと、なんだか妙なくらい安心できる。
 ヴェルナの気持ちは、本当に嘘だったのだろうか。自分もヴェルナを抱いたから愛情を持っていると思ったのかもしれない。でもその気持ちのことだけを考えると、フォースにはどうしても嘘だったとは思えなかった。
 言わせてもらえなかった言葉は、まだフォースの中で消えずに木霊していた。

   ***

「そうそう、ヴェルナなんだけど」
 三ヶ月の後、前線から戻ったフォースが城都の城内執務室で書類に向かっている時、バックスは、そう話を切り出した。
「実家に帰ったよ。なんでも、結婚してみたくなったとか。親が薦める人に会ってみるってさ」
「そうなんだ」
 書類から目を離さずにそう答えながら、フォースは確かに冷めつつある気持ちを感じて苦笑した。風化していく気持ちと相まって、ヴェルナと話していて気付いたもう一つの大切な気持ちが、どんどん育ちつつある。別れの時にヴェルナを追いかけることができなかったのは、自分がもう一つの想いを選んだからなのだろう。そして結局ヴェルナも、違う道を選んだのだと思う。
「なんでも、好きな人ができたんだけど嘘から始めちゃって、一日で別れたものだから寂しくて、だと。女はわけが分からん」
 嘘という言葉が、フォースの胸で跳ねた。ペンを動かしていた手が止まる。まさかと思う。もしそうだったなら、ヴェルナはあの時、なぜ続けようとしなかったのか。自分がヴェルナを引き留めれば、違う結果があったのかもしれない。
 バックスは残念そうに、でもあっさり諦めたとばかりにノビをする。
「あーあ、いい女だったんだけどな」
「そうだね」
 それにしても、自分に向かって間違いなく幸せになれるなんて、ヴェルナはどうして言い切れたのだろうとフォースは不思議に思った。幸せに思える状況がどういうものなのだか、フォース自身でも想像がつけられないでいるのに。
 ふと、机の向こうからバックスが顔をのぞき込んでいるのにフォースは気付いた。
「なに?」
「ちょうど年上の女がよく見える年頃だよな。まぁ、元気を出せ。大丈夫だ」
 どうもバックスは慰めてくれるつもりらしい。フォースは苦笑した。
「大丈夫って、なにが?」
「ヴェルナはちょっと変わった奴だからな。俺が女なら、フォースの地位と顔だけで結婚してるぞ」
 その言葉に、フォースは思わず吹き出し、何をかいわんやと視線を投げた。
「俺はバックスが女でも絶対結婚しない」
「なにぃ? このクソ生意気な」
 バックスは、丸めた書類でパコンとフォースの頭を叩く。
「絶っっっ対結婚しないっ」
 フォースは頭を抱え、その言葉を繰り返した。