レイシャルメモリー後刻

― 目が離せない ―

 皇位継承権一位という思いも寄らなかった状況で、リディアは俺の妻になった。堅苦しい儀式や行事にも文句を言わず、ただ側で笑顔を見せてくれる。そうじゃなかったら、この生活がどれだけつまらないモノになっていただろう。
 昼の間はほとんど執務室にいる。リディアとずっと二人でいられるはずだったが、俺の教育係と領主としての補助役と相談役まで兼任しているタスリルさんが一緒にいる。だが、リディアにとっては、これでよかったのかもしれない。
 しなくてはならないことが山のようにあるのだ。この執務室での仕事中はゆっくり話をするもない。リディアはタスリルさんと話をしたり、何か怪しげな物を作るのを手伝ったりして、退屈することなく過ごせているようだ。
 今も色々な資料を読まされている。集中できていると思っていたが、二人のひそひそ話が耳に付いた。
「気をつけるんだよ」
「でも、敵意のある人はいないのですよね?」
 いや、普通の声なら気にならないが、聞こえないように気をつけている抑えた声だと思うから、なおさら気になるのだが。
「術で防いでいるからね。だけど敵意じゃないから、やっかいなんだ」
 チラッとだけリディアに目をやると、リディアが不思議そうな顔をタスリルさんに向けているのが目に入った。
横恋慕は基本的に好意だからね」
 しわがれた声に思わず吹いた。タスリルさんの冷笑がこっちを向く。
「おや、聞いてたね?」
「わざわざ気になるように言うからじゃないか」
 反論すると、タスリルさんはヒヒヒと声を立てて笑った。そんなことよりも。リディアに気をつけろと言ったのは、そういう奴がいるってことか。気になる。非常に気になる。だがリディアは、タスリルさんと一緒に控えめに笑った。
「大丈夫です」
 いやに簡単に返したリディアの言葉が、気持ちのどこかに引っかかる。いくら敵意がないからといって、実力行使に出られたら危険だ。
「大丈夫って。気をつけないと」
「大丈夫じゃないって言うの?」
「何が起こるか分からないだろ」
 そう返した言葉で、リディアの顔が悲しげにんだ。
「わかりました。気をつけます」
 頭を下げると部屋を横切り、リディアはサッサと部屋を出て行く。
「おい、ちょっと待っ」
 立ち上がろうとして頭がゴンと強く何かにぶつかった。頭を抱えてもう一度椅子に逆戻りする。見ると、大鍋を抱えたタスリルさんが後ろを通っていた。
「ああ、悪いね。大鍋運んでたもんでね」
 ヒヒヒと笑い、タスリルさんは奥の部屋に大鍋を運び込んでいく。
「わざとだろっ。今読んだ中身、全部忘れちまったじゃないか」
 その声にタスリルさんが振り返り、もう一度立ち上がろうとした俺をビシッと指さした。
「覚えてからお行き。その頃には頭も冷える」
 タスリルさんはそう言い残してドアを閉めた。

   ***

 タスリルさんは、頭を冷やすのは俺の方だと思っているらしい。覚えろと言われても、気持ちの苛立ちと、リディアの悲しげな顔がちらつくことで、何も頭に入らない。資料を半端にして廊下に出た。ペスターデの研究準備でいないジェイストークの代わりに、兵士が一人立っている。
「リディアは?」
「前庭に行かれたようです」
「イージスも一緒か?」
「はい」
 イージスが一緒と聞いて、少しホッとする。リディアの様子があきらかに変と感じたと思うのだが、兵士はそれ以上何も言ってこない。今聞かれたら、イライラが増してしまうだろう、聞かれなくてよかったと思う。
 だが、イライラが増そうが、知らない振りはできない。気をつけないと危ないのはリディアなのだ。そんなことも分からずに行動するのなら、いっそどこかに閉じこめてしまいたい。
「どこへ行かれるんです?」
「え? あ、前庭に」
 兵士が発した不意の問いにそう答えてしまってから、俺は後悔した。前庭にはリディアがいるのだ。側に行ってしまえば罵倒するかもしれないし、捕まえて連れ戻したくなるだろう。
「どうしました?」
 歩き出さない俺に、兵士が声をかけてきた。
「俺の警護はいい」
 そう短く返して歩き出す。それこそ敵意のある人間はいないのだから、特に護衛されなくても危険はない。振り返らずとも兵士の足音がついてこないのが分かる。
 庭へ続くドアから見ると、真ん中あたりに四人いるのが目に入った。リディアとイージス、ソーンがいて、もう一人はソーンの知り合いらしい。ソーンが手招きして呼び寄せているその男の子は、短く切りそろえた髪が跳ねる勢いで、ソーンの方へと駆け寄った。一瞬悩んだが、結局そっちの方へと歩を進める。
「ノルドっていいます。十四歳?」
 ソーンがリディアにそう紹介する声が聞こえてきた。ノルドはウンウンとうなずいている。
「ペスターデさんに指示を受けて、花の世話をしているんです」
「よろしくお願いしまぁすっ」
 無駄に元気な声を立てたそいつは、いきなりリディアの手を取り、振り回すような勢いで握手した。
「あ、レイクス様!」
 ソーンの声にノルドという奴の目がこっちを向き、リディアも振り向く。いくらかリディアの表情に硬さが増した。
 ノルドは腕を身体の脇にきちっと添えると、全身が硬直しているかのように動かなくなる。リディアと俺に対する態度が、ひどく違うことにまた苛立つ。
 俺はそのまま歩を進めると、無言のままリディアの手を取って引いた。リディアはほんの少し抵抗しただけで、黙ったまま付いてくる。イージスはリディアと少し距離を取って、しっかりと護衛している。
「怖っ。機嫌悪いのか?」
 後ろからノルドの押さえた声がした。
「わかんない」
 ソーンが不思議そうな声を出す。
「あ。もしかしてリディア様に触ったから?」
 何を言っているんだと毒づきながら、だが実際そうなのだ、なおさら腹が立つ。振り返りかけて、リディアがこっちを見ていることに気付き、慌てて視線を前に戻した。
 城に入ったところで、リディアに繋いでいた手を引っぱられた。振り返ると、伏せていた視線を向けてくる。
「フォース、まさかあの子にいたり……」
「気をつけろって言われてる時に、無頓着すぎるだろ」
 そう言うと、リディアは目を丸くした。
「気をつけろって。あの子はまだ十四の子供だわ」
「十四は子供じゃない」
 十四といえば、俺が騎士になった歳だ。目一杯虚勢を張って、なんとか認めてもらおうと必死だった。あの時が子供だったなどと思いたくない。だが、思いたくないということは、思っているということだ。
 だいたいが妬いたとか妬いてないとか、そんな問題じゃない。子供だから危険じゃないなんてことはないはずだ。
「もういい」
 俺は繋いだ手をほどいて、早足で元いた執務室へと向かった。確かに、あの程度ならイージスがいれば大丈夫なのだろう。だが、だったらどうして気をつけろなどという話になるんだ。子供だというのも分かる。でも。
 思考が進まない。タスリルさんの言う通り、やはり俺は頭を冷やさなくてはならないのだろうか。
 部屋の前にはさっきの兵士が立っていた。向けられる敬礼に返礼したくなるのを押さえて部屋に入る。いつも座っている場所にまっすぐ向かい、腰を落ち着けて資料を手にした。落ち着いたのは腰だけで、思考はどこかに飛んでしまっているのだが。
 大きくため息をついて資料に目を落とした時、薄くドアが開いた。隙間から滑り込むように女性が入ってくる。
「あの。レイクス様?」
 ドアを後ろ手で閉めた女性は、ひどく露出度の高い服装で、隠すためか見せるためか透き通ったショールを肩にかけている。五、六歳は上だろうか、化粧が濃く、髪まで派手な金色だ。怪しいことこの上ないが、見たところ刀剣類は持っていない。
「君は」
「踊り子をしています」
「そうじゃなくて。ここになにか用か?」
 その女性は、まるで踊りの振り付けのように足を踏み出し、口に手を当ててクスッと笑った。
「なんだと思います?」
 踊り子と言うだけあって、視線を俺から一瞬外しただけで、その女性は歩きながら器用に一回転した。透き通ったショールがフワッと床に落ちたのを、呆然と見つめる。
 その女性はクスッと笑い、机の向こう側に立った。その手で自ら服のボタンを外し始める。
「え? 俺は薬師じゃない、タスリルさんなら奥の部屋に」
 目が怖いんだけど、この女。胸をさらけ出し、服を足元に落とすと、机を回り込んでくる。
「は? ちょっと待て、違うって」
 思わず立ち上がり、俺は机の反対側に逃げ込んだ。
「入ります」
 リディアの声がしてドアが開いた。リディアの視線が女性の裸になった胸元に向く。
「お、奥様?!」
 その女性は慌てて胸を手で隠した。
「レイクス様と情を通じたこと、お許しください!」
「はぁ?」
 何を言い出すのかと女を見やると、非難するような視線を向けてくる。
「奥様の前だからって、とぼけるなんてひどいっ」
 そう言うと、女は目までませている。もしかして、ってか、もしかしなくても裸で気を惹くつもりだったのか? あっけにとられ、ポカンと口を開けたまま見ていると、奥のドアからタスリルさんが出てきた。またヒヒヒと笑いながら部屋を横切る。
「そこまで言われないと気付かないなんて、心配するまでもなかったかね」
 タスリルさんは笑いを抑えようともせず、相変わらず変な声で笑いながら部屋を出て行った。心配するまでもなかったって、もしかしたらリディアのことではなく……。
「リディア?」
 呼びかけてみたが、リディアはこっちを見ずに女の側に行った。
「ほんの少し前、あなたがここに入ったのを見ていました」
 温和な顔で言ったリディアに、踊り子はみがバレたとばかりに肩をすくめ、舌を出す。
「どういった情が通じたと思われたのか分かりませんが、夫は簡単に誘惑されるような人ではありません」
「ど、どういった情って、あんた……」
 女は呆けた顔でリディアを見ている。いや、それは俺も突っ込みたいけど。
「服を着て、ここを出てください」
 リディアは、女が脱ぎ落とした服をひろうと、後ろからかけてやっている。
「リディア」
「この人を通した兵士は、イージスさんにしぼられてるわ」
 二度目の呼びかけに返事は帰ってきたが、リディアはまだこっちを見ようとしない。
 タスリルさんが気をつけろと言ったのは、俺の浮気心だったのだろう。俺は半端に聞いて、リディアが危険なのだと勘違いをしたのだ。
 俺が言った気をつけなくてはという言葉は、俺の浮気に気をつけろという意味に取れてしまう。リディアが怒っても当然だ。
 ショールを拾いに行ったリディアに近づき、後ろから抱きしめる。
「ゴメン、勘違いしてた」
 リディアが瞳だけで振り返った。
「俺のことなら気をつけなくても大丈夫、リディア以外の人に惹かれたりしない。本当だ」
「それは今、分かったわ。でも……」
 俺を信じてくれるなら、でもってのは、いったい。
「……、見たでしょう」
 ブッと吹き出した踊り子に、思わず目をやる。
「俺が何を見……」
 視線の先で、慌てて胸を隠した踊り子の仕草で、それが何だったのかに思い当たった。
「そ、それは不可抗力だっ」
 俺はリディアの肩をつかんで向き合わせ、その瞳を見つめる。
「見ようと思って見たわけじゃ」
「でも。比べられたら嫌だもの」
 眉を寄せて見上げてくるリディアに、俺は短く息をついた。
「比べようにも、俺にはリディアだけだ」
 ほんの少し笑みが浮かんだ気がしたが、リディアはまたうつむいてしまう。こうなったら、リディアがどれだけ綺麗か納得してもらうほかにない。
「分かった。ちゃんと見たこと無いんだろ。見に行こう」
「何を?」
「何をって、決まってるだろ。きちんと見れば、すごく綺麗だって分かるから」
 キョトンとしていた視線が、自分の胸をとらえて戻ってきた。
「ええ?! だ、だって、まだこんなに明るいのに」
「明るくなきゃ、しっかり見えないだろ」
 顔を赤くして逃げ腰なリディアを捕まえて、逃げられないように抱き上げ、ドアの所まで歩を進める。
「でも私、いつも見てるから……」
却下。凄く綺麗だってことを知らないくらいしか見てない」
 そう返すと、リディアは困惑して視線を泳がせている。
「ねぇフォース、降ろして」
「比べられるなんて気にしているうちは駄目」
 俺はリディアに笑みを向け、ドアを見やった。
「開けてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 後ろの女が叫んだが、当然無視されてドアが開けられた。とたん、まるで襲われでもしたような女の叫び声が部屋に響く。その声に、兵士が部屋の中を見て目を丸くした。
「うわっ、脱いじゃった?!」
 その兵士に呆れるような目を向けてから、イージスが部屋の女に視線を移す。
「バカっ、見ないでよっ、ただの兵士のくせに!」
 俺に見せることで利益を得ようとしていたのかと思うと、腹が立ってくる。
「服着せて追い出せ」
 頬を緩めかけた兵士に、冷たい視線と言葉を向けた。
「おっ、俺がですか?! そんなぁ、せめて服くらいリディア様が」
「リディアは小間使いじゃない」
「じゃあ、イージス殿が」
 その言葉に、イージスが深いため息をつく。
「まだ分かっていないようですね」
「ここを通したのもお前だろ。後始末までしっかりやれ」
「そんなこと言われましても……」
 兵士は弱々しい声で言うと、リディアに慈悲でもうような視線を向ける。
「リディアは俺と私用」
 俺はリディアを兵士の視線から隠すようにして、兵士とイージスの間を通り抜けた。兵士の顔が一瞬にして赤くなる。
「しっ、しよう、って。ままま待ってくださいよっ。昼間っからそんなコトを……」
「は?! ば、バカやろ、私用って言ったんだ。駄洒落じゃねぇ、落ち着いて音調をよく聞け!」
 余計な勘違いをされたことで、こっちまで顔が赤くなっている気がする。
「イージス、後を頼む。この城の兵士にあの女は向いてない。何かあったら、そいつを首にしとけ」
 振り返らずに言いつつ、俺はそのまま私室の方向へと足を踏み出した。後ろから兵士が俺を止める声が聞こえたが無視する。すぐにイージスが兵士に指示をする声と取って代わった。
「フォースは私だけの人でいてくれるのよね?」
 腕の中で遠慮がちに言ったリディアに笑みを向ける。
「当たり前だ」
 そう返すと、微笑んだリディアの視線がこっちを向いた。
「あの兵士も踊り子さんも、イージスがなんとかしてくれるわよね」
「ああ。もう大丈夫」
 俺はリディアの見せた笑顔に安心し、うなずいて見せた。
「じゃあ、フォースも気が済んだのよね?」
「そうだな。半分だけ」
 そう答えると、リディアは不思議そうに首をかしげる。
「え? 半分? 半分って?」
 私室の前まできてリディアを降ろし、逃げられないよう、その手を取ってドアを開けた。
「え? フォース?」
 キョトンとしているリディアの手を引いて部屋に入れる。
「ちゃんと見ないと」
「あ。……、そ、そんな」
 文句を言われる前に、きつく抱きしめて口づける。唇が離れると、リディアはわずかな笑みを浮かべて俺を見上げた。
「もういいの。フォースが私を綺麗だって思ってくれてるのも信じるわ」
「ホントに? 見なくていいのか?」
 リディアは真剣な目で何度もうなずく。
「分かったよ。じゃあ、俺に見せて」
「え?」
 固まってしまったリディアに笑みを向け、俺は部屋のドアを閉めた。



ドラ☆さまにいただいたリクエストの品です。
肝心のケンカがぬるくて申し訳ないです。(^ ^;)ゞ
リクエスト、ありがとうございました。m(_ _)m