レイシャルメモリー後刻

― その温かな手の中で ―

 そろそろ赤ちゃんが生まれるらしい。そう分かっていて仕事を続けているのには訳がある。母マルフィの側にいたくないからだ。
 母は、ことあるごとに夫であるバックスを悪く言う。ライザナルが巫女だったリディアちゃんの拉致を企んだ時、彼が私を助けられなかったからだと理由を付けて。
 でもたぶん、それだけではないのだと思う。確かに切っ掛けにはなったのかもしれないけれど、細々としたことが積み重なっているのだろう。どう弁護しても結局は彼が悪いことにされてしまう。
 そんなの聞いているだけで嫌になる。余計に気疲れするくらいなら、仕事をしていた方が楽だ。一日の半分を母と顔を合わせずに済むのも、おなかが大きいだけに気遣ってくれるのも、お産の先生がすぐ側に住んでいるのも有り難かった。
「明日もくるかね?」
 勤め先の術師にそう聞かれ、ハイと返事をした。でも家には母が待ちかまえている。まだ仕事をしていることへの文句、家にいないことへの文句も言われると思うと、とても気が重い。
 その一番聞きたくない母の声が治療院に響いた。
「大変だよ、事故で先生が!」
 何が起こったのかと、目の前の術師先生と顔を見合わせる。後ろにあるドアがいきなり母の手によって開けられた。受け入れのための騒がしさが、母に追いついてくる。
「馬車の事故、三人です」
 母の後ろから聞こえた声に、母から解放されると思いながら、気持ちは緊張した。
「母さん、どいて」
「アリシア、あんたの先生が」
「先生って、先生ならそこに」
 後ろを向きかけた私の腕を、母がつかんだ。
「違うよ、お産を手伝ってくれる先生だよ」
 え? と思って入り口の方を見ると、何度か診てもらったお産の先生が、肩の辺りを押さえ、足を引きずって入ってきた。なるほど、母はお産をてくれる人がいなくなったことを心配しているのだろう。
「そんなの後でいいじゃない。まずは手当てしなくちゃ」
 私は母を放っておいて、怪我人を迎えに行った。

   ***

 術師はお産の先生を最後に診た。その怪我は見た目よりく、しばらくは肩を固定して過ごしてもらうことになった。当然お産を診ることなんて出来そうにない。
「遠くて申し訳ないんだがね、ヴァレスの北側に同業者がいるんだ」
 ヴァレスは結構広い街だ。陣痛が始まってからだと、そこまで歩いていけないかもしれない。でも、それしかお産を診てもらうすべはないようだ。
「紹介していただけますか?」
「もちろんだよ。その先生に話を通そう」
 話をしている私を差し置いて、横から母が顔を出す。
「先生、お願いします、お願いします」
「んもう、いいから帰って」
「だってアリシア」
 ムッとした目で見つめると、母は、そうかい? と言いながら、玄関まで行ってウロウロしている。邪魔には変わりないけれど、さっきよりは全然いい。お産の先生が横から話しかけてくる。
「それでだね、そこはここから歩いて一時ほどの距離があるんだ。馬車で駆けつけるわけにもいかないから、産まれるまでの間だけでも仮住まいを探した方がいい」
「やはり、そうですか」
 こればかりは面倒でも仕方がない。でも、北側には軍の宿舎が多かったはずだ。夫と相談してみるのが早そうだと思う。
「見つけられるかね?」
「たぶん大丈夫だと、……、え?」
 思わずおなかを押さえた。痛みが強くなってくる。陣痛が来たのかもしれない。
「冗談、でしょ?」
「まさか、来たのかね?!」
 痛みに冷や汗が出てくる。少しじっとしていると収まってはきたが、こういう痛みが繰り返し来るのが陣痛だ。今はまだ歩けないこともないが、どんどん強くなる陣痛に耐えながら、一時も歩かなくてはならないのだろうか。そう思った時、入り口が騒がしくなってきた。
「と、とにかく地図を」
 お産の先生は足を引きずりながら、術師先生のところへ行ってしまった。ひどく心細くなる。
「どうしてあんたがここに来るんだい!」
「どうしてって。事故の聞き取り調査に……」
 入り口から聞こえてきた声に振り返る。今一番いて欲しい人と目が合った。
「お、アリシア。どうした?」
 夫のバックスが近づいてくる。後ろから母も付いてきた。
「あ、あなた……」
「なにを不安そうな顔をして。……、もしかして?!」
 駆け寄ってきた彼に、思わず抱きついてうなずいた。母は目を丸くして慌てている。
「どうすんだい?」
「どうって、先生のところに」
「あのね、先生、怪我をして」
「え?」
 指をさしたところに、地図を持った先生が戻ってきた。
「怪我人って先生でしたか! って、どうすれば?」
「ここ、ここだよ」
 地図を示した先生の指先に彼が見入る。知らない場所の地図を見ても、私にはちんぷんかんぷんで理解できない。
「同業者がいるんだ。まだ話しも通していないんだが、とにかく行ってみてくれないか? 馬も馬車も揺れがまずいから、できれば徒歩がいいんだが」
「了解」
 こともなげにそう言うと、彼はサッサと甲冑を外し、私を抱き上げた。
「重いでしょう? まだ歩けるわ」
「お前の一人くらいは平気だ。そんな心配いらないから、腹だけっとけ」
 彼はそのまま兵士たちのいる治療院の門まで進んだ。兵士たちの、奥さん、というつぶやきに恥ずかしさを隠せず、顔を彼の肩口に埋める。
「北の産院を知ってる奴いるか?」
 まるで身体の中から聞こえるような声が響く。
「はい、知ってますが」
「私用ですまんが、ひとっ走り行って、産まれそうなのを一人運び込むって伝えてくれないか?」
「了解っ」
 その答えが聞こえてすぐ、書けだした足音が遠ざかっていく。
「あと、お前。聞き取り調査頼むな」
「まかしといてください」
 とても明るい声の返事がする。おう、と返して、彼は歩き出した。
「私も行くよ」
 を含んだ母の声に、お願いします、と言った彼の横に、一人の兵士が並んだ。
「俺、付いていきます」
「お。まわりを気遣ってくれると有り難い」
「疲れたら代われますし」
「それはいらん。義母が疲れたらおぶってやってくれ」
「あたしゃそんな歳じゃないよっ」
 母の不機嫌そうな声にワハハとおおらかな笑い声を立て、彼は私をのぞき込んだ。
「揺れてるか?」
「少しはね。でも全然大丈夫よ」
 なにより気持ちが楽になった。彼がいてくれれば大丈夫。素直にそう思えた。
「じゃあ少し急ぐか」
 私がうなずいて笑みを向けると、彼は歩みを早めた。

   ***

 彼に抱かれたまま、一時経つ前に目的地に着いた。元気な産声を聞けたのは、それからさらに半日後だった。産んですぐに長い距離を移動するのは辛いだろうと、彼はいつの間にか近くの宿舎も用意してくれていた。
 今はその宿舎で休んでいる。息をめると、ソファで横になっている母の寝息と、隣の小さなベッドから赤ちゃんの小さな寝息が聞こえる。
 産まれたのはちょっと大きめな女の子だ。女の子というのが不思議なくらい、彼によく似ていると思う。母は、あんなに嫌っていた夫に似ているというのに、私に似ていないと文句を言いつつ、目では笑っていた。
 ドアがほんの少しだけ音を立てて開いた。彼が、そーっと入ってくる。手にした荷物を小さなベッドの側に置くと、赤ちゃんの顔をのぞき込み、すぐにこっちへとやってきた。
「あれ、起こしちゃったか?」
 小さな声の問いに、ささやくように返す。
「起きてたの」
「身体はどうだ?」
「平気よ」
 髪を直してくれた手を取って引くと、唇に優しいキスをくれた。
「あなたがいてくれて、とても心強かったわ。ありがとう」
「いやぁ、ラッキーだったよ。お前も赤ん坊も、……、ん、まぁ、そこのお婆ちゃんも俺の家族だ。不安な思いはさせたくないからな」
 笑みを交わした彼の後ろで、母がむくっと起き上がったのが見えた。私の視線に気付いたのだろう、彼も後ろを振り返る。
「誰がお婆ちゃんだって?」
 ウッと言葉に詰まり、彼が慌てている。
「だって、母さん、この子のお婆ちゃんじゃない」
「あたしゃまだ若いんだ。子供にそんな呼び方をさせたら、ただじゃ置かないからね」
 母が立ち上がると、声が大きかったのもあるだろう、赤ちゃんが泣き出した。子供がごねている声と比べるとまだ弱々しいけれど、それなりにしっかりした泣き声なのが嬉しい。様子を見なくてはと、私は上体を起こした。
 母は自分で一度口を押さえてから、赤ん坊を抱き上げた。軽く揺すりながらこっちへやってくる。
「よしよし、いい子だね、ほぅら、お婆ちゃんでちゅよ」
 ブッと彼が吹き出した。母がムッとした顔を向ける。
「なんだい」
「今、自分でお婆ちゃんって」
「仕方がないだろう? この子にはお婆ちゃんなんだから。でもそう呼べるのはこの子だけだ、お前たちがそう呼ぶのは許さないからね」
 そう言いながら、母は彼に赤ちゃんを手渡し、サッサとソファに戻っていく。お婆ちゃんと呼ばせるなと言っておいて、泣き声を聞いただけでころっと変わっている。おかしいとは思うけれど、赤ちゃんにはそれだけの魅力があるのだから、当然だとも思う。
「あたしゃ、その子が笑っている時にしか相手しないからね。泣いてる時は、自分らでなんとかしなさいよ」
 母は何事もなかったかのようにソファに寝転がると、大きくため息をついて薄い寝具を自分で掛けた。
 赤ちゃんを彼から受け取り、おしりが濡れていないか確かめた。彼に運んできてもらった産着を出してもらって着替えさせる。
「なぁ。俺に渡してくれた」
「何を? あ……」
 彼に言われて初めて、母が赤ちゃんを彼に渡したことを思い出す。彼が私の耳元に口を寄せる。
「ちょっとは認めてもらえた、ってことだよな」
「そうね」
 彼が出産に関する手回しをいろいろしてくれたことで、たぶん母も安心していられたのだろう。これだけの安心をくれる人なんて、きっと他にいない。認めないわけにはいかなかったのだと思う。
「きっと近いうちに懐柔できるわ」
 着替えさせた赤ちゃんを抱き上げると、彼は赤ちゃんの顔をのぞき込んだ。
「だといいけどな。まぁ、お義母さんはこの子さえ可愛がってくれれば問題ない」
 その言葉に思わず苦笑する。
「そのためにも、この子がいつでも笑っていられるようにしなきゃね」
「そうだな。それにはまずお前だ」
「そうね。頑張らなくちゃ」
 赤ちゃんにおっぱいを含ませながら顔を上げた先で、彼が、違う、と首を横に振る。
「そうじゃなくて。まずは、お前に幸せだと思ってもらわないと」
 思ってもみなかった言葉に涙が出そうになり、鼻の奥がつんとした。あふれ出てきそうな涙をこらえ、クスクスと笑ってみせる。
「俺、それはもう全力で頑張るよ」
 私の頬をゴシゴシと撫でてから握りしめた彼の手は、とても温かくて力強かった。



鈴子さまにいただいたリクエストの品です。
ご要望を受けたので、予定になかった騒動を作ってみました。(笑)
リクエスト、ありがとうございました。m(_ _)m