キリ番小説「五月」

― 讃花 ―


「どしたん?」
 顔を上げて後ろを振り返った僕に、悠は数歩通り過ぎてから脳天気な顔をこっちに向けた。
「何見てるん?」
 そう言いながら僕の顔に顔を寄せ、悠は僕と同じ方向に目をやる。
 学校への行き帰りに毎日通るそこには、よく手入れされた庭が広がっていた。敷地の大きさを考えると、この煉瓦で出来た低い塀は開放的だと思う。
 僕の視線の先にあるのは、その庭の角にある一本の椿だ。少し通り過ぎてから振り返ると、なんとか木の全部が見える。
 花の時期には紅色の花が咲いていた。真ん中が黄色くて、とても美しかった。今はその葉に跳ね返る艶のある緑色をキラキラと誇示している。
 特に変わった種類ではないと思う。でも、どういうわけかその存在感が、見るたび僕に安心感と安らぎを与えてくれた。
 その視界の中に、悠の顔が大写しになる。
「何見てるって聞いてるのに」
 視線を真っ直ぐ追うことができなかったのだろう、悠は少し不服げな顔をしている。
「椿だよ」
「どこ?」
「あれがそう」
 僕が指差した方向を、悠はじっと見つめた。眉を寄せてさらに見入る。
「何も咲いてないよ」
「花の時期なんてとっくに終わってる」
 僕の答えに悠は肩をすくめ、口をへの字に曲げた。
「なんだ、ただの木か」
「また明日な」
 悠の言いように無性に腹が立った僕は、キョトンとしている悠をその場に残し、振り返りもせずに木のある方へと歩き出した。
 側に立ってみると、どうしてその木に惹かれるのかが分かる気がした。
 毅然としたその存在感は、なんだか父に似ているのだ。側にはいないけれど、だからこそそう思うのかもしれない。
 何も言わず、でも僕の心の傍らにいて、いつも見守ってくれている。何かいいことがあると喜んでいるような顔つきで、悪いことがあると悲しそうだったり、不機嫌な顔で怒っていたり。
 僕の気持ちがどれだけの風を吹かせても、土砂降りの雨を降らせても、まるで全部を受け止めてくれるかのように、そこに居続けてくれる。
 ふと、心の中の父が怒っているような顔をしていることに気付く。分かってる。僕がよく分からないイライラで悠にあたったから。本当は分からないなら分からないと説明しなきゃならなかったから。
 でも、もうさっきの場所に悠はいない。明日会って、ちゃんと謝るよ。この気持ちを、もういくらかでも説明できると思うし。分かってもらえるかは分からないけれど。
 僕はまだ緑色の固そうな実に視線を向けて、そう約束を交わした。
「おーい、聞いてきたぞ」
 その声に振り向くと、悠がやっぱり脳天気な笑みを浮かべて走り寄ってくる。
「な、なに?」
「いや、ただの木じゃないってのは分かった。だからなんて種類か聞いてきた」
「ホントに?」
 僕はただただ驚いた。怒らせたとかそんなことは悠が一人で越えてくれていた。僕が言わなければならないのは、すでにゴメンナサイじゃない。
「ありがとう」
 その言葉に照れたように頭を掻くと、悠は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。元気そうだ」
 その言葉にハッとした。この時期のせいか、すぐに暗い気持ちになる。そんなことまで心配してくれていたのだろうか。
「あぁ、いやいや、この木の種類、サンカっていうんだって。サンカのサンに花」
「サンカのサン?」
 それではまるきり分からないことに気付いたのか、悠はワハハと朗笑した。
「ごめんごめん。ごんべんに、ええと、夫二つの下に貝って書く字があるだろ? それそれ」
 悠の楽しそうな声に、今度はきちんと漢字が頭に浮かんだ。
"讃花"
 その響きは、悠という友人を持っていることに最高の讃辞をくれている気がした。
「ありがとう」
 もう一度お礼を言って木を振り返った。わずかだけど、ほんのり赤みがかった実が目に入ってくる。さっき誓った時は、まだ固い緑だった実だ。思わず顔を近づけて見入る。
 この木も僕の気持ちを思って喜んでくれている、悠を讃えてくれている。心の中にいる父もだ。そんな気がした。
「行こうか」
 顔を上げて微笑んだ僕に、悠はやっぱり脳天気な顔を向けてくる。
「行こうぜ。そういや今日来た転校生、可愛かったよな」
「ええ? ああいうのが好みなんだ?」
 歩き出した悠と肩を並べる。今度はまっすぐ前を見て歩けている気がした。


「讃花」は、キリ番小説です。侘助様にいただいたキーワードは「五月」でした。
侘助様、大変お待たせして申し訳ありませんでした。ありがとうございました。