10101hitキリ番小説「ドラゴン」

― 砂と水 ―


 俺は陽が完全に落ちてから起き出した。日陰を作るために張っていた白いバスタオルをたたみ、その端をり付けていた棒を砂から抜く。顔をゆっくり上げると、無情にどこまでも続く砂地が目に入る。まわりは月明かりで幾分青っぽく見えた。
 大事にしている水を、水筒に口を付けて一口だけ身体に入れる。体中が取り合うように水の感触が広がっていき、俺は深呼吸をした。
 水が少し入った水筒と大判のバスタオル、拾った棒2本を抱えて歩き出す。荷物はそれだけだ。他はサッサと捨てた。充電切れの携帯も、カバンごと何もかもだ。それは生きてこの砂漠を出るために他ならない。
砂を踏む音だけが耳に入ってくる。今日は風もないので、舞い上がる砂に邪魔をされずに済む。迷ってから四日、いや、五日経っただろうか。この砂漠はどこまで続いているのだろう。
 足元の砂は、波打つように高低があり、砂山を越えるのはく体力がいる。そのため俺は一つの星だけを目指して、砂山の裾を縫うように歩いた。距離は長くなるし、やはりいくらかの高低はあるのだが、体力を考えるとそれが一番良案な気がした。

 どのくらい進んだだろうか。いくつかの砂山を迂回した。そしてまた一つ、左前方に山を見ながら歩く。その山が一瞬透けて見えたような気がした。
 俺はもう一度、水を飲んだ。砂山を確かめるように見て、また足を進める。だが、もう顔を上げるだけの気力が出ず、足元だけを見ていた。水はもうかしか残っていない。今夜のうちに街にたどり着けなかったら、もう駄目だろうか。幻覚が見えるくらいだ。終わりが近いのかもしれない。
 そう思うと、一気にいろいろなことが頭に浮かんできた。人間は助かりたいと思った時、こんな風にいろいろ思い出すモノらしい。そこから生きるための手がかりはないか、記憶のすべてを掘り返してみるのだ。だが、この状態で助かる道など、どう考えてもありそうになかった。ただ、残してきた恋人の笑顔が俺を支えていた。もうすぐ朝になる。炎天下の中、これ以上一日も昼は越せないかもしれない。
 ふと、地鳴りのような音が聞こえてきた。足元が揺れている気さえする。俺はゆっくりと顔を上げた。
 そこに目があった。体がすくむ。何もかもが砂と同じ色をしたドラゴンがそこにいた。迂回しようとした山が背で、地鳴りだと思ったその音は、ドラゴンが発している鳴き声だったのだ。逃げようにも足が動かない。食われて死ぬのか。多少は痛いかもしれないが、このままひからびていくよりは楽かもしれない。俺はなんだか身体の力が抜け、近づいてくる大きな口を現実として受け入れていた。
「いけない」
 いきなり場違いな声がした。巨大な首が左に進んでいく。そこに女の人がいた。ハッとするほど恋人に似ている。
「いけない」
 もう一度声をかけられたドラゴンは、猫が甘えるように鼻先をその人にりつけた。やはり鳴き声は続いているが、ノドを鳴らす音なのか、さっきまでの声よりも幾分軽い気がする。その女性は、いい子ね、と緩やかに笑みを浮かべ、ドラゴンの鼻筋だと思われる部分をでた。身に付けている薄地の洋服は、どこかの民族衣装のようで、すこし時代錯誤に見える。その人がこちらを向いて苦笑した。
かしてしまって、ごめんなさいね」
 俺は体中の力が抜けてしまい、思わずその場にへたり込んだ。足が根を下ろしてしまったように動かない。
 分かっている。これは幻覚だ。こんな所に人がいるはずがない。ましてやドラゴンなど想像上の動物だ。この地球上どこに行っても存在などしない。
 そうか。俺はもう駄目なんだ。ここが終わりなんだ。だったら最後に妄想だろうがだろうが、一人じゃないのはありがたいことかもしれない。
 その人はシェティアと名乗った。
「こんな所を、どちらに向かっているのですか?」
 シェティアは立っていた場所に座った。向かい合わせではなく、少し離れた左脇だ。優しげな視線はドラゴンに向けられている。
「街、街に……」
 俺のかすれた声に、シェティアは悲しげにうつむいた。
「そう、ですか。こんなところで人に会えるなんて、始めてです」
 そりゃ、そうだろう。今日街を出てきたなんて、都合のいい言葉を聞ける訳がない。俺は自嘲するように笑った。
「でも、この子には会えました」
 シェティアは微かに笑みを浮かべて砂色のドラゴンを見やる。まるで返事をするように、ドラゴンは顔をシェティアに向けた。
 それから、お互いが自分の国を語った。
 シェティアは、俺の話を何から何まで珍しそうに、目を丸くして聞いた。電話もテレビも電車も知らないのだ。話に聞いたことさえ無いようだった。
 そしてやはりシェティアの生活は、思った通り地味なものだった。ドラゴンがそこにいるせいか、子供の頃に本で読んだファンタジーな世界が思い浮かんだ。ここで目を閉じたら、そのままそこへ行けそうな気がした。死を超えた世界がどんな所かは知らないが、そういう場所ならいいと思った。
 シェティアは自分の身体を抱くように、両肘を抱えた。元からあまりよくなかった顔色が、さらに悪く見える。
「明け方になると、寒くて……」
 俺が心配そうにしていることに気付いたのか、シェティアは苦笑を浮かべながらつぶやくように言った。俺は立ち上がり、シェティアの所まで歩いていって、持っていたバスタオルを背中からシェティアにかけた。ほんの少し触れたその肌は、地熱を放出しきった砂のように冷たかった。驚いて引っ込めた手をごまかすように、俺はんできた東の空に目を向けた。
 日が昇ってしまうのだ。最後に見る日の出かもしれない。でも、シェティアには少しでも暖かな方がいい。そう思えるのが少しだけ救いになった。
「すぐに暑くなる。?」
 シェティアに視線を戻そうとした。だが、そこにはもう誰もいなかった。肩にかけた白いタオルだけが砂の上に落ちている。いつの間にかドラゴンも消えている。
 幻覚がおさまったのだ。孤独感がわき上がってくる。いや、最初から孤独には変わりない。だが俺は、今までオアシスにいたような気さえしていた。
 落ちているタオルを手に取り、ふと、その下にあった石のようなモノに気付く。半分埋まったそれは、砂より白っぽくて半球のような形をしていた。触れた部分が砂に同化するようにカサッと落ちる。指先に伝わったシェティアと同じ温度に、心臓がゴトッと音を立てた。その穴から見えた物は、たぶん裏側から見た眼窩だ。これは石などではなく頭蓋骨だったのだ。
 そうか。シェティアはここで果てたのだ。俺が今過ごしたのは、幻覚ではなくて人間だったのかもしれない。といっても、もう身体のない魂だけだったかもしれないが。
 俺は穴を掘ってその骨を埋め、砂をかけた。崩れる砂に少しイライラしたが、なるべく高く山を作った。上に置いてやる石もない。墓にはとても見えなかったが、俺にできるのはここまでだった。
 ここで死ねばシェティアと一緒にいられるかもしれない。きっとシェティアも寂しかっただろう。
 いや、違う。シェティアには砂色のドラゴンがいた。永きの間、一緒にいたに違いない。ドラゴンを見やる優しげな瞳を思い出した。それは俺を待っていてくれる人の微笑みを思い出させてくれた。
 俺は行こう。俺があきらめた時点ですべてが終わるのなら、その時までは抵抗しようと思う。もし、あと一キロしか進めなくても、一キロ近づいて死ねることをシェティアに感謝しよう。
 俺は水筒のふたを取った。一口だけ飲んで、残りを墓の上にかけた。ほんの少しの水が、砂の上で小さなシミを作る。からになった水筒を墓石の代わりに置いて、タオルをたたんだ。
 ふと、水のシミが異常なほど成長しているのに気が付いた。墓を中心として、どんどん大きく広がっていく。わずかな水だけで、こんな広さになるはずはない。
 その時。鼓膜が破れんばかりの大きな音と共に、まわりの砂がいきなり舞い上がった。目を閉じて手にしていたタオルで顔を覆う。強風のせいなのか、足を進めるどころか、足が地に着いているのかすら分からない。また幻覚か? でも、身体を包んでいるこの砂は本物だ。砂嵐? こんなに突然に? 息が苦しい。気を失ったら埋もれて終わりだろうと、必死で耐えた。
 いきなり砂から放り出された。身体がほんの少し落下して、地表の砂に膝と手をつく。
 後ろでまた大きな音がいた。振り返ったそこに砂色のドラゴンがいた。首を高く空に突き上げて放たれる雷鳴のような声に、大気が切り裂かれていく。ただ、目の前で巨大なドラゴンを見上げ、耳をつんざくような咆哮を聞いても、不思議と恐怖は感じなかった。
 ドラゴンは羽を広げ、大きく羽ばたいた。その翼の起こす風でまた砂が舞い上がり、俺はまた目を閉じてタオルで顔を覆う。身体にぶつかってくる砂は少しずつ収まり、すぐに何も感じなくなった。ゆっくりタオルを外してドラゴンのいた方向を見ると、そこにはもうドラゴンの姿はなかった。ただ、代わりに街が見えた。

 俺は街に向かって歩き出した。砂漠で迷い、向かっていた方向には街がなかったことを、俺は宿で見せられた地図で知った。


「砂と水」は、10101hitキリ番小説です。
もん様にいただいたキーワードは「ドラゴン」でした。
もん様、ありがとうございました。