― 叶わなかった初恋 ―


 唇の上でチュッと小さく音がした。目の前の男の子の顔は涙でにじんでいたけれど、ポロポロと涙をこぼしているのは分かった。
「おっきくなったら結婚しようね。絶対奈々ちゃんのこと迎えに来るからね」
「うん、約束ね。裕くん、引っ越ししても忘れないでね」


 それはまだ小学校に入ったばかりのこと。裕くんは同じ小学校の3年生くらいだったと思う。私が覚えているのは、その一場面だけ。でも別れるのは悲しかったし、寂しかった。子供なりに、とっても好きだったんだと思う。
 付き合おうと言われるたび、裕くんが心のどこかに引っかかった。付き合ってみても引っかかったままだった。
「まさかまだ待ってる、なんてことはないだろ?」
 こんなセリフは今までに何度か聞いた。でも。


「え? ホントに? あの時の奈々ちゃん?」
 このセリフが聞けるなんて思わなかった。とても嬉しそうな笑顔が目の前にある。
「え? もしかして、裕、くん……?」
「久しぶりだね」
 社員旅行の飲み会だよ? 同じとこに入社してたなんて、しかもカッコイイ先輩だと思っていた人が裕くんだなんて偶然すぎる。
「入社の時の履歴書が目についたんだけど、名前もそうだし同じ街出身だし、面影があると思って声をかけたら、ホントに奈々ちゃんだったなんて」
 確かにそう言われてみると、ちょっと裕くんの面影がある気がする。いい方向にいい方向に育てば、こうなるのかも。
「会えるなんて、凄い偶然だよな」
 ええと。この偶然、凄すぎるんですけど。しかも反則ってくらい、いい男に成長しちゃってて。ちょっとラッキー?
「引っ越しする前は、お互いの家とか近くの公園でよく遊んだよね。懐かしいなぁ」
「待ってたのに。迎えに来てくれる気、無かったんだ?」
 ちょっと不機嫌そうに言ってみる。でも裕くんはますます嬉しそうに顔をほころばせた。
「ホントに待っててくれたんだ?」
 うわ。墓穴だったかもしれない。しかもその笑顔に、私の心臓が大きくなってる気がする。動悸息切れ火事親父ってくらい、もう滅茶苦茶。
「でも、こんな風に会えるなんて。運命感じるよね」
 ノドの辺りにある心臓を飲み込んで、私はしっかりうなずいた。


 会社の飲み会なのに、端の方で二人で話し込んだ。あれからどこに行って何をして。話したいことはたくさんあった。長くても10分に一度はお酒や料理を手にしてからかいに来る人がいたから、お酒を取りに行く、なんてコトもしなくて済んでいる。
「二人で何やってるの?」
 ニヤニヤした赤い顔にも、裕くんは上機嫌で笑みを返す。
「実は俺、奈々と婚約してるんだ」
「なにっ?! ほんとか!」
「だから、手を出すなよ」
「うわははは! 了解了解」
 最初は止めたけど、酔っているからか全然聞いてくれない。こんなやりとりを社長まで含めて何人としただろう。
 もう止めるのも面倒臭くて黙ってたのだけど、やっぱり肯定していることになっちゃってそう。でも、相手が裕くんなら、これでよかったのかも。
 ほら。またからかいに来る人がいる。あ、このあいだ裕くんの話をして、お付き合いを断った人だ。
「信じらんねー、婚約しただとぉ? 俺も奈々ちゃん狙ってたのに、抜け駆けどころじゃねーな」
 裕くんは上機嫌でケラケラと笑っている。
「裕くんとは幼なじみなんです」
 代わりに答えた私に、その人は不思議そうな顔をした。
「え? ゆうくん? あの裕くん? まぁ、明裕の裕の字がゆうとも読めるか」
「はい?」
 なにを言ったのか聞き返したつもりだったのに、その人にはちっとも聞こえてないみたい。
「しょうがないなー。明裕がそんなに手が早い奴だったとはなー」
 その人は、二人で仲良くねー、などといいつつ戻って行ってしまう。キツネにつままれた顔を裕くんに向けると、至極真面目な顔でこっちを見ていた。ドキドキが大きくなる。
「明裕って……」
「ゴメン」
「ゴメン?」
 その目がしっかり私を見据えてる。やだ、この人少しも酔ってないんじゃ……。ということは。
「ゴメンって? 嘘? 今までの全部嘘?!」
「や、さっきのに振られた経緯を聞いたんだ。幼なじみって誰でも同じような付き合いかと思って。裕くんの代わりに俺と付き合ってよ。駄目?」
 ちょっとっ。何が、駄目、なのよっ。あのね、それもう遅いから。社長にまで婚約してるって言っちゃったじゃない。
「んもう、嘘つき!」
「あ、でも、嘘は裕くんじゃないってことだけだよ? その後の経歴、恋心なんてのは本物、付き合いたいってずっと思ってたんだ」
 いや、この際問題はそれじゃないでしょう。
「裕くんは初恋だったのっ、綺麗な思い出だったのに」
「初恋は叶わない方が幸せだって言うよ?」
 私、そんなの知らない。知ってたって知らない。
「それに、俺に運命感じてくれたんだよね?」
 思わずウッと言葉に詰まる。
「……、ずるい」
 けど。た、確かに感じちゃったよ。どうしよう。
「まぁ、付き合ってみて嫌だったら振って。それなら受け入れられるけど、そんな過去の男に付き合うチャンスさえ奪われるのは嫌だからな」
 ポカンとその真面目な顔を見ているうちに、また一人お酒を手に寄って来る。
「明裕ぉ。お前数少ない貴重な女の子に、なんてコトするんだよぉぉ」
「してないしてない、まだ何もしてない。それは追々ね」
 裕く、じゃなかった明裕って男は、いつの間にか酔っぱらったような顔を作ってる。
「この幸せものぉ」
「邪魔邪魔。お前邪魔」
 首絞められて笑ってるし。でも、手は冷静にお酒をもぎ取っていたりして。
 その上追い返してこっちを向いたときは、もう真面目な顔をしてるって一体。この人ホントのキツネなんじゃ?
「じゃ、そういうことで。これからよろしくね」
「そういうことで。って……」
 でも。裕くんには悪いけど、いつのまにかこの強引なところ、ちょっと好きかもしれないなんて思っちゃってる。これがホントの運命だったらいいなって。キツネに化かされるのも悪くないかも。
「あ、そうそう。裕くんじゃなくてアッキーって呼んで」
 はぁ? 言うに事欠いて、何がアッキーよ。
「イヤ。裕くんって呼ぶ」
 そのくらいしか私にできる仕返しが思いつかない。明裕は眉を寄せると、ハァと大きくため息をついてから顔を上げた。
「まぁいいか。奈々と付き合えるなら裕くんでも」
 そう言ったかと思うと、明裕は満面の笑みを浮かべた。しかも、もう呼び捨てられてるわ、肩を抱き寄せられるわ。んもう、何この人。全然堪えてない。アバウトすぎ。ポジティブ過ぎ。


 でも。初恋、吹っ切れちゃったみたい。裕くんとの初恋は、叶わない方が悲しくないかもしれない。近づいてくる唇に目を閉じながら、私はなんとなくそう思った。


「叶わなかった初恋」は
NNR様主催「キスから始まる物語」掌編小説コンテスト
参加作品です。