― 満月の牙 ―


 かすかな祈りが響く夜の教会に、ヒラヒラと小さな影が舞い込んだ。石の床に転がった音を立てて着地したのは、羽を広げたままのコウモリだ。
 コウモリはぶら下がるための両足を使って、よたよたと立ち上がった。深呼吸をするかのように胸を突き出して顔を上向けると、グンと背丈を増していく。
 薄い膜のような羽が白く細い腕になり、胸のあたりから丈長のドレスが湧き出るように現れて、細身の身体を包み隠す。頭頂のふわふわした短い獣毛は、長いアッシュブロンドに変化した。
 鼻が潰れたような顔は、いつの間にか金色の瞳だけをそのままに、二十歳前後の女性のものに形を変えている。
「アルフレート」
 白い肌を妖しく彩る血の赤をたたえた唇から、心地よい、だが冷たい響きの声が紡ぎ出される。
「ルーナ」
 祈りを中断して彼女の名を口にし、神父は立ち上がった。彼女、ルーナは、髪をかき上げて整え、ドレスのを払う。
「村から少し離れた小屋の地下に、三人の男が村長の娘を連れ込んでたわ。一人は、……、私をこんなにした人よ。これから村長と身代金の相談ですって」
 それを聞いた神父アルフレートは、安堵かられた微笑みを浮かべた。その現場に乗り込むことで、ようやく死というモノを引き寄せられる気がしたのだ。視線が落ち、ほんの少しうつむいたせいで、肩より少し短めに切った薄茶色の髪が揺れ、同色の瞳が陰りを増す。
 これでける。アルフレートは望みが叶うかもしれないその場所に、憧れさえ感じていた。今まで死というモノには、どうやっても手が届きそうになかった。神が与えた運命なら、どんなことでも受け入れるべきだと思って生きてきたのだ。ましてや神父という身で自殺など、神への冒涜そのものなのだから。
「行くの?」
 歩を進めてくるルーナに、アルフレートは無言でうなずき返した。すぐ横に立ったルーナが、アルフレートの全てを捕まえるように腕をまわして抱きしめる。
「ルーナ?」
「……欲しいの」
 ルーナの小さなつぶやきに、アルフレートはフッと息で笑ってうなずいた。ルーナに身体を向けると、首にかけていた十字架を背中に回し、足が浮くほど強くルーナを抱きしめる。
 ルーナはアルフレートの肩口に頬を寄せると、牙をむき出して首もとに噛みついた。血液を嚥下するかすかな音が、アルフレートの耳に心地よく響く。
 初めてルーナに血を与えた時、これで死ねるかもしれないと思った。だが、二度前の満月の夜に変化してしまった身体が、それを許してはくれなかった。人としての自分は二十八年で終わってしまったというのに、それでもまだ生きているのだ。食事の邪魔にならないように頭を少し傾けたまま、アルフレートはルーナを抱いていた。
 傷が広がらないようにか、ルーナはゆっくり牙を抜き取ると、ふぅ、とため息をついた。見つめてくる生気を増したルーナの瞳に、自分の顔が暗く沈んで映る。
「生命力が強いって素敵」
「死んでいるのと同じだ」
 人でなくなった自分には、むしろ生命力などいらなかった。表情を変えないアルフレートに、ルーナは首を振ってみせた。
「でも、血は熱いわ」
 ルーナは目を細めると、アルフレートの唇にキスをした。
 外に人が近づく気配を感じ取ったのか、ルーナは扉を振り返るとアルフレートから離れ、石でできた柱の影に溶けるように姿を消した。同時にガタッと大きな音を立てて扉が開かれる。
「村長?」
「娘がさらわれたんだ。もう私にできることは、神に祈ることくらいしかない。しばらくここにいさせてくれ!」
 アルフレートがうなずくのを見ると、村長はふらつく足で祭壇の前まで進み、身体を小さく折りたたむようにして祈りを捧げている。
 相打ちにできれば村長の娘を助けられるかもしれない。自分は死ぬことができて、しかも彼女を助けられるなら一石二鳥だ。だがもしそのために死ねなくなるのなら、彼女の存在を無視してしまうかもしれない。そう思うと、自分が助けに行くとは口が裂けても言えなかった。
「神よ。どうか娘を無事に……!」
 組んだ両手を高く上げ、ただ祈り続ける村長を残し、アルフレートは静かに講堂を後にした。
「神、か」
 そうつぶやいた口の端には、自嘲が浮かび出た。そして声にはできない事実を、心の奥底で反芻する。
 俺は断じて神ではない、狼人なのだ。と。

   ***

 私をこんなにした人。そう言ったルーナの言葉を思い出す。娘をさらった犯人三人のうち、一人は吸血鬼なのだろう。アルフレートは上下とも黒く動きやすい服装に着替えると、相打ちになるための道具である、聖水をかけた木のを手にした。
 なにか武器になるモノも必要かとの考えが脳裏をよぎったが、頭を振ってそれを打ち消す。もし生き残ってしまったらと思うと、何のために行くのか分からなくなる。
 アルフレートは裏口から表に出た。村長の娘がさらわれた話が広まっているからだろう、外は日が落ちたにもかかわらず騒然としている。目立たないように表通りを避け、ルーナに教えられた小屋を目指した。
 空には満月になる一日前の月が、明るく辺りを照らしている。遠くに黒く見える森が、アルフレートの記憶を掻き立てた。

 二度前の満月の夜のこと。アルフレートは日の落ちた森の中、小さな明かりを手に家路を急いでいた。妙に弱々しい狼の遠吠えが、何度も耳に入ってくる。気味が悪いと思いつつ、だからこそ気にしている暇もなく、ただ先を急いでいた。
 脇のからアルフレートを追い越すように、子供が飛び出した。目を疑い見つめていると、その子は道の真ん中にへたり込んだ。駆け寄って助けようと伸ばしたその腕に、その子は突然噛みついた。
 小さな明かりに浮かんだその顔は、紛れもなく狼で。アルフレートの腕を押さえた手の甲にも、黒い毛がびっしり生えていた。視線が合うと目を見開き、腕を解放した牙のある口が、あいつじゃない、とつぶやき力を失った。
 仰向けに寝かせると、胸が血で染まっているのが目に入った。見る間に狼の顔が人間の子供の顔に変化していく。何が起こったのか分からないまま、アルフレートは、しっかりしろ、と声をかけ続けた。だが、その子は二度と目を開けることはなく、力尽きた身体は崩れていった。
「……、神よ」
 ポツンと残った銀の弾丸以外、骨すらも残っていなかったが、アルフレートはその子のために祈りを口にした。不自然な音を立てた藪を振り返ると、そこに一人の男が立ち上がった。
「ついに殺ったか」
 不気味な笑い声が響いたかと思うと、その男は大きなコウモリに変化し、空に向けて飛び立っていった。重たく、考えたくもない事実を残して。
 あの子は狼人だった。紛れもない事実だと思いつつも、認めたくはなかった。人に戻った顔は、とても可愛らしい人間の男の子だったのだ。かまれたことも、傷の痛みがそれほど酷くないために、完全に無視することができた。今思えば、すでに身体は狼人へと変化していたからなのだろうが。

 そして。一度前の満月で、現実を思い知らされた。満月の光を浴びるほど、神父服に包まれた自分が狼の姿に変わっていく。見慣れない女性の横を通って教会の講堂から逃げ出すと、月光をさえぎるようにドアを閉めた。
 誰かがドアを開けたら、神父として、そして人間としての自分は終わってしまう。いや、それより前に、すれ違った女性にはすでに見られてしまったかもしれなかった。恐怖と共に近づいてくる足音をさえぎったのは、高く澄んだその女性の声だった。
「神父さまは体調がお悪いようで、お休みになりました」
 ドアの向こうの声は、アルフレートの事情を知っていた。村人を講堂から外に出して扉に鍵を掛け、それからアルフレートが隠れていたドアを開けた。
 彼女は、見ないで欲しい、と嘆願するアルフレートを優しく抱きしめ、死にたい、と繰り返す言葉を唇でぬぐった。
「私もそうだったわ」
 ルーナと名乗ったその女性は、吸血鬼に見初められてしまったと、まるで懺悔でもするように語った。自らが牙を立てずとも、運ばれてくる血液は間違いなく人間のもので。その事実を無視し続けることができず、吸血鬼の元を飛び出してきたらしい。
「お願い。生きて」
 そしてルーナは言ったのだ。その血をちょうだい、と。

 狼人の身体になってしまったせいか、明日には満ちる月の存在感が大きい。アルフレートは嫌悪から、その月を直視することができなかった。目をそらした先では数々の星が美しく瞬いている。
 月の明るさに左右されないだけの輝きを持つ星が、アルフレートには羨ましく思えた。もしも自分が星だったなら、今夜は月の光に負け、闇に紛れているだろう。あの子供の牙を受けた時から、月光にかき消される存在になってしまったのだと思う。
 二度と元には戻れない。しかも、神父であるからには、自ら死ぬことすらできない。
 でも。これから向かう先には吸血鬼もいる。もしルーナに牙を立てた吸血鬼が子供の狼人を殺した吸血鬼と同一人物だったなら、間違いなく狼人の殺害方法を知っているのだ。
 死にたいという望みが、やっと叶えられる。神父のまま死ねるのは、きっと幸せだろうとアルフレートは思った。
 ふと、祈りを捧げる村長の顔が浮かんだ。そう、ただ殺されるだけでは娘を助けることはできないのだ。死ぬことと助けること、できることなら両方を手にしたい。アルフレートは気を引き締めながら、小屋が見えてくるだろう方向を見つめた。

   ***

 村外れにポツンと立つ小屋は窓に明かりもなく、何事も起こっていないかのようにひっそりとしている。見張りがいるかもしれないと思ったが、アルフレートは気にせずに近づき、扉に手をかけた。
 音を立てて開きかけた扉が、わずかに動いただけで止まる。小さな金属音がしたのは、簡単な金具を鍵の代わりにしているからなのだろう。
 アルフレートは一歩だけ離れると、その扉に向けて蹴りを放った。盛大な音がして扉が開き、反対側の壁にぶつかってもう一度音を立てる。二つの蝶つがいは、かろうじて壁と扉を繋いでいた。
 小屋の中はがらんとしていて、人の姿は見えない。でも今の音で間違いなくアルフレートの存在は知れたはずだ。ここにも探しに来たのだと、地下で息を潜めているのだろう。
 だが、金具を小屋の内側から止めてあったのは、中に人がいるからだ。そこに気付かない犯人の間抜けさを笑うと、アルフレートは部屋を見回した。窓から入ってくる月明かりのせいで、床にある地下への入り口が嫌でも目に付く。
 アルフレートは小屋の扉を閉じた。音を立てないように月光が差し込む窓の隣、一番暗く見える部分に立つ。
 少しして、地下への入り口が細く開いた。中から光が漏れてくる。そこから一人顔を出して周りを見回すと、目をこらしてアルフレートの方向を凝視した。当然のように目が合う。
「誰だ?!」
 その男は慌てて出てきた。手にしたナイフを振り回しながら駆け寄ってくる。ナイフを持った手を左腕で払い、右の拳をみぞおちにたたき込む。ぐぁ、と絞り出すような声を上げて、男は床に伸びた。
 開いたままの入り口から、もう一人が姿を見せ、アルフレートに拳銃を向けて引き金を引いた。パンと乾いた音の後、身体に衝撃が走る。アルフレートは壁に背を預けたまま、ズルズルと座り込んだ。左の肩口に焼けるような痛みがある。
 地下から女の悲鳴が響いた。村長の娘と思われる、誰を撃ったのかと騒ぐ声と、引き金を引いた奴だろう、当たったと喜ぶ声が聞こえてきた。
 壁に寄りかかって身体の力を抜く。撃たれたのは肩で心臓ではない。死ねなかったことに安堵する気持ちを意外に思った。
 大きく息を繰り返すうちに、傷は耐えられる痛みに変化してきた。それでも弾のある場所が熱いのは、銀の弾丸だからか。
「少し静かにしてろ!」
 中から人が出てきた。いや、気位の高そうな口をきくからには、その男が吸血鬼だろう。
 アルフレートはじっと動かないまま、胸の十字架に視線を感じていた。吸血鬼がフッと鼻で笑う。
「やはりこいつか。餌が無くなれば、ルーナも戻るかもしれんな。それが嫌なら、村人を襲うか」
「有り得ない」
 アルフレートの声に、吸血鬼は身体を硬直させた。
「ルーナが村人を襲うなど」
 そう言いながらアルフレートは、ルーナがこの吸血鬼の元に戻ることもないと思いたい自分に気付く。
「しくじったのか!」
 吸血鬼が腰の剣を抜く間に、アルフレートは杭を手に立ち上がった。残る1人が慌てて出てくる。その手には今しがたアルフレートを撃った銃が見えた。
 薙いでくる剣を下がって避ける。唯一吸血鬼に勝てる武器を失うわけにはいかないので、杭で剣を受けられない。
 振り下ろされる切っ先を見ながら飛びすさり、何か手はないかと視線を走らせる。その視界に銃を構えた男が入ってきた。床を思い切り横に蹴る。引き金が引かれた直後、アルフレートの首を擦過した弾丸が、背後の窓ガラスに飛び込んだ。
「心臓だ、馬鹿!」
 吸血鬼は男にそう叫びながら再び剣を薙いでくる。アルフレートは一瞬早く扉を開け、その陰にかがみ込んだ。扉が真ん中辺りで砕け、上半分が剣の力に持って行かれる。
 身を隠した扉の残り半分を壁から引きはがし、アルフレートは吸血鬼に向けて振り回した。思わぬ反撃に体勢を崩し、壁にぶつかった吸血鬼の心臓をめがけ、握りしめた杭を突き出す。
 吸血鬼を貫いた杭が壁に食い込む音のあと、アルフレートの脇腹にナイフが深々と突き刺さった。銃を捨てた男がいつの間にか、気を失っている男のナイフを手にしていたのだ。
 アルフレートは男の肩口をつかむと、顔を突き合わせる。
「なぜ撃たない」
「た、弾が、もう……」
 恐怖に顔を引きつらせた男を、思い切り壁に向かって投げつける。男は顔面から激突し、気を失ってひっくり返った。
 ククッとのどの奥で立てた苦しげな声が耳に届く。
「ルーナがお前にここを教えたのは、お前が死ぬのを期待していたのかもな」
 その声にアルフレートが振り向くと、吸血鬼は嘲笑を浮かべていた。
「そして彼女も、死にたかったのかもしれん……」
 悲しげに、最後の一息でそう言った吸血鬼を見て、彼なりにルーナを愛していたのだとアルフレートは思った。ビクビクと身体をけいれんさせると、吸血鬼は動きを止め、足先、指先から砂となって崩れだす。形を失っていくその口が、ルーナを呼んだ気がした。アルフレートは全てが床に落ちるまで、ただその様を見つめていた。
 辺りに動きが無くなり一息つくと、アルフレートは脇腹のナイフを抜き取り、傷口を手で押さえた。後ろから息を呑む音が聞こえる。
「神父さ、ま……?」
 娘が視界に入るギリギリまで首を回すと、娘はその場に気を失ってくずおれた。どうしたのかと手を差しのべようとして、ナイフを持った手と傷を押さえた手が、血に染まっているのが目に入る。こんな姿を見たら、卒倒しても不思議ではない。
「汚い」
 思わず、つぶやきが口を突いた。
「美味しそうよ」
 扉のあった場所を見ると、いつの間にかルーナが立っていた。
「どうして……」
 アルフレートが漏らした言葉に、ルーナはチロッと舌を出す。
「心配だったのよ、私のご馳走がなくなっちゃう」
 ルーナはすぐ側まで来ると、アルフレートが手にしているナイフを取り、弾丸が残っている肩口めがけて突き立てた。痛みに顔が歪んだが、声を立てずに耐える。
「でも、これはいただけないわね」
 そう言ってルーナがナイフを慎重に抜き取ると、銀でできた潰れた弾丸が、刃先に付いてきた。ルーナの手から離れたナイフが、床で冷たい音を立てる。アルフレートは知らず知らずのうちに、その弾丸を凝視していた。
「もう使えないわよ」
 どこか寂しげな笑みを浮かべ、ルーナはアルフレートの肩から溢れ出る血を舐め取った。

   ***

 気を失っている娘を教会に運んだ。
 アルフレートはこびりついた血の匂いもすべて洗い流し、すっかり神父の格好に戻った。講堂に入ったドアの音で、娘が気を取り戻す。アルフレートは、今初めて娘を見つけたような顔をして、上体をゆっくり起こした娘の側に立った。
「あなたは村長の。どうしてここに? 大丈夫ですか?」
 娘はうなずくと慌てて立ち上がり、嬉しそうにアルフレートを見上げた。
「神父様、生きていらっしゃったんですね。よかった」
「なんのことです?」
 アルフレートは訳が分からないといったように取りいながら、もしも娘がしっかり覚えていたら、どうしようもないのだと覚悟を決める。
「だって、撃たれたり刺されたりで、血だらけだったから……」
「私がですか?」
 娘は不思議そうにうなずいてから、アルフレートの首をのぞき込む。
「確かここにもひどい傷が……、無いわ?」
 狼人は生命力も治癒能力も非常に高い。傷があったところがきはしても、まわりと見分けが付かないほどには治癒しているのだろう。
「あなたは今、私が留守の間にここに運ばれていたのですよ? きっと夢を見たのでしょう」
「そうかもしれません」
 娘がそう思い込んでくれそうで、アルフレートは安堵した。娘は記憶をたどるように目を細め、首をかしげる。
「でしたら、どなたが助けてくださったのでしょう。神父様にとても似ていらしたのは……、神様なのかしら」
 村長の娘は期待をいっぱいにした目で、アルフレートを見つめた。アルフレートは苦笑を返す。
「そんなことより、早くご家族の所へ。みなさん心配なさってますよ」
「はい。ありがとうございました」
 娘は丁寧にお辞儀をすると、講堂を出て行った。アルフレートは心からホッとして後ろ姿を見送る。
「よかったわね」
 入れ違うように奥のドアから入ってきたルーナが、冷たい声を立てた。
「でも、死ねなかった」
 ルーナも死にたいのかもしれないと言った吸血鬼の声を思い出し、アルフレートはそう口にした。
 今は死ねなかったことよりも、ルーナがどんな反応を返してくるかが重要だった。見つめたアルフレートの目に、眉を寄せたルーナが映る。
「あなたが無事だったから、あの子が助かったのよ? 嬉しかったんでしょう? 今幸せだと思わないで、いつ思うの?」
 想像もしていなかった言葉に、何を言い出したのかと、アルフレートはルーナを呆然と見つめた。
「昔のことでしか幸せを感じられないなんて、もったいないと思わない? あの時は幸せだった。それで今はどこが幸せ?」
 ルーナは今幸せと思えというのだ。それはむしろ、神父としてアルフレート自身が説かなければならないことかもしれなかった。
「そうか。そうだな」
 アルフレートに前向きな感情を持って欲しいとルーナが考えているだろうことは、容易に想像がつく。それは自らの死を考えていないという証拠のようなものだ。苦笑したアルフレートに、ルーナはさらに不機嫌な顔をした。
「だけど、そんなのが幸せだなんて、ちょっとだわ」
 ツンと顔を背けると、ルーナは柱の陰に入って姿を消した。

   ***

 翌日。日の入り際に目がうつろな男が講堂へとやってきた。アルフレートを見つけると、駆け寄り、すがるように腕をつかむ。
「覚悟をしてきました。どうか神の裁きを」
 鍵をかけるのが一歩遅かったのだ。時間がかかるとまずいと思い、アルフレートは眉を寄せた。
「わしは狼人なのです」
 狼人と聞き、そんなことかとアルフレートは力の抜けた笑みを浮かべる。自分がそうだからこそ、男が狼人でないのは一目瞭然なのだ。
「ライ麦パンはお食べになりますか?」
「食事時には、毎度食べておりますが」
「腹痛があるでしょう」
 言い当てられて驚いたのか、男は丸い目をし、下腹をさすった。
「はい。この辺りがどうにも痛くてたまらんのです」
「それは麦角菌で起こる中毒症状です。ただの幻覚ですから大丈夫、あなたは人間ですよ。一度薬師の所へ行かれたらいい」
 アルフレートの言葉に男の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうごぜぇます」
 男は何度も頭を下げ、扉に向かう。日が落ちた反対側の空に満月が顔を出したのだろう、身体に青白い光を感じる。アルフレートは笑顔のままで、男を追い出すように扉を閉めて鍵をかけた。
 間に合った安心感から窓の満月を見やると同時に、手の甲に毛が生え始め、震えと共に大きく膨れあがっていく。だが、身体が変化するのが二度目の今日は、最初に受けた衝撃と比べると、すでに信じられないほど心境が変化していた。
 この身体になって満月を見た時から、嫌悪感に囚われ、自身の存在すらわしくなった。神父である自分と狼人である自分が、一つの意識に共存できるはずがない。そう思ってからは、消えてしまいたいとだけ考えていた。
 だが。もつれて抜け道の無かった気持ちは、ルーナに必要とされることで少しずつほどけていたのだ。そして、人間でいた頃と同じように幸せを感じろと言われたことで、変わらずに神父のままの自分でいていいのだと許された気がした。
 どこからか現れたルーナが、アルフレートを後ろからいた。
「地下へ行きましょう。お願い。私のために生きて。生きていて」
 ルーナはまだアルフレートの気持ちの変化に気付いていないのだろう。抱きしめられたままの体制で、ドアから講堂の裏側に転がり込む。それでもうっすらと漏れてくる月の光に、狼人化が少しずつ進んでくる。
「ルーナ」
 アルフレートは肩まで使って背中を押しているルーナを振り返った。どうしても今、これだけは伝えておきたい。
「ねぇ、早く」
「君がいてくれて、幸せだと思ってる」
 驚きに見開かれた目に、アルフレートは微笑んでみせた。ルーナは嬉しそうに緩みかけた顔を伏せると、再び背中を押し始める。
「何言ってるの。早く地下に、行かないと。行か、なきゃ……」
 その言葉の最後の方は、涙声になっていた。
 ルーナは食糧の確保ができたから嬉しかっただけかも知れない。もしそうだとしても、ルーナに必要とされている間は存在していていいのだと、アルフレートは素直に思えた。