― 境界 ―


 塔の上まで上り、冷たい風に身体をさらす。厚い雲の間から顔を出した細い月の明かりだけが、地上を照らしてめく。森が夜霧を内包し、街の灯りはすでに消え、闇が生き物のように建物の隙間でく。

 今夜はどうしても寝床に入るわけにはいかない。眠りに落ちたら。今日こそは……。

 毎夜、夢の中で逢うあの人は華だ。柔らかな笑顔をたたえ、いつも手を伸ばしたら届きそうなほど近くに存在している。
 だが、決まってこの手は届かない。翌朝、空気をつかんだ感触だけが、手のひらでうずくことになるのだ。
 休んだはずなのに疲労が全身をい、あの人への思いが心を支配している。すべてを投げ出して、何度でも眠りにつきたくなる。

 このままではいけないのだと、身体のどこかが警鐘を鳴らしている。朝から一番遠い今ならば、至極冷静でいられるのだ。もう眠ってはいけない、それがきっと最善の方法なのだろう。
 ここは睡魔とは無縁の場所だ。深く息を吸うと身体の隅々まで冷気が行き渡り、感覚が鋭くなる。まだ大丈夫だと思うと、可笑しさに声を立てて笑いたくなる。

 気付くと夜霧が森から溢れ、山を隠し、街も飲み込んでいた。月も雲に飲み込まれ、単純で深い風景が狭く広がっている。
 霧は浸食を続け、足元にも流れ込んできた。この時期にここまでの霧は珍しい。でも、冷たい空気の感覚は、鈍ることなく肌を撫で続けている。大丈夫だ、眠らずにいられる。その自信は揺るがない。

 ふと、肩口から前に霧が流れてきた。後ろから微かな風が吹いたのだ。振り返ると。

 あの人がいた。

 変わらない優しい笑顔が愛おしい。手を伸ばすと、指先に感触があった。思わず自分の指先に触れて確かめる。間違いない、あの人は今ここに存在しているのだ。

 夢のようだが夢ではない。ここでならこの思いを果たすこともできる。捕まえて力の限りく。唇に首筋に肩口に、口づけを繰り返す。
 自分の後頭部を背を、あの人の手が何度も行き来する。手の中の感触が、自分を支配していく。今こそこの人のすべてを、自分だけの物にできる。
 霧さえ入り込めない距離に、あの人がいる。身体も心もあの人が満たしていく。夢ではない、あの人が腕の中にいる。

 夢ではない。あの人がいる。これは夢ではない。

 歌が耳朶に触れる。穏やかで優しい響きは、あの人の声だ。子守歌だろうか。
 そうだ、子守歌だ。眠ってはいけない。いや、頭は冴えている。大丈夫だ、眠らずにいられる。あの人の、この膝の感触は揺るぎない。

 ――おやすみ――

 え? 何か言ったか? 聞こえた気がした。声は聞こえていない。でも、何か聞こえた。あの人が微笑む。あの人が。

 君は、誰だ?

 徐々に微笑みが消える。あの人も消える。頬に感じていた膝は……。

 ここは、どこだ?

 どこだ……

 ど、こ…………