「Make Your World」
「Winter  Cheers!」参加作品


 落葉樹 


 ここだ。雪を踏みしめて少しだけ山に入った場所で顔を上げ、俺はそう思った。傾斜がなだらかすぎるスキー場のように、白い雪が敷き詰められた空間があり、その左右には葉のない林が広がっている。雪との対比で黒々と見える枝の上面を、うっすらと張り付いたように白が冷たく覆う。今の俺が描くにはピッタリな風景だ。
 俺は手袋を外してポケットに突っ込み、薄いカバンからF3のスケッチブックを取り出した。小さな水筒と紙コップの間に手を差し込み、使い慣れた2Hの固い鉛筆を探り当てる。そして厚いコートの上から、シャツの胸ポケットに入れてある練り消しの存在を確かめた。練り消しは外に出しておくと、この寒さで固くなってしまい、使いずらそうだと思ったからだ。
 大切な友人を失ったのは桜の頃だった。なんの言葉も残さず、あっけなく逝った命を、俺は片時も忘れられずにいた。泰之が死んだなんて、信じられるわけがない。そんな認められないことで悲しんだりしない。泣いたりなんて絶対にするものか。寝ているような、でも冷たい顔を目の前にしてさえも、俺はその死を許さなかった。
 その時俺は、悲しいとか寂しいとか、そういった感情の一切を無視することを覚え、その代償に、喜びも感動もなくした。咲き乱れる桜を目の当たりにしてさえ、下手な絵や写真を見るように何も感じなくなっていた。
 当然、そんな状態でいい絵など描ける訳がない。何度も描こうとしてあきらめた。これは綺麗なんだろう、そう思っても描く気にはなれなかった。当たり前だ。何を見ても心が動かないのだから。それならば、最初から感動も感情もない死んだ景色を描こうと思った。その形だけを写し取るなら、こんな俺でもできないはずがない。感情のない無の世界なら描けるに違いない。そう思っていた。
 俺はやっと見つけたこの景色と無心で向き合った。そこにあるだけの物をスケッチブックに写し取る作業が、妙に俺を落ち着かせた。久しぶりの感覚に夢中になり、俺は四角いスペースを木で埋めていった。
 どのくらいの時間描いていただろうか。だいたいの木を大まかに写し取り、細かな枝に掛かったところで、手がかじかんで思うように動かなくなっているのに気付いた。俺は大きく息を一つついて、その景色とスケッチブックから目を離した。水筒と紙コップを取り出して右横に置いたカバンをつぶし、その上に描きかけの絵と鉛筆を落ちないように乗せる。紙コップを雪に刺して水筒のコーヒーを注ぎ入れ、コップの縁を持ってそっと持ち上げた。最初は熱さでまともに掴めなかった紙コップが、手の冷たさを吸い取って暖を取るには丁度いい温度になってくる。
 両手で包み込んだコーヒーを一口飲んで、俺は短くため息をついた。ピンと張った空気に割り入ってくるコーヒーの香りが心地よい。手がだんだん暖まって、楽になってくる。心の中には何もない。まったく何もないままだ。これでいい。描けるのなら、俺はこのままで充分だ。
「この絵、何か違うぞ」
 泰之の声に、俺は慌てて振り返った。だが誰もいない。幻聴か? 当たり前だ。幻聴に決まっている。だが、そうだな、泰之の声かもしれない。泰之は、俺が絵を描いている時に、こうして茶々を入れることがたびたびあった。今ここに泰之がいたらやっぱり何か文句をつけてくるに違いない。
(この絵、何か違うぞ)
 泰之の言いそうな言葉だ。俺はコーヒーを雪の上に置いて、描きかけの絵を手にした。そうかな、違うかな。どこが、どんな風に? 返事を期待した訳ではなかったが、俺は自然と泰之に問いかけていた。死んだ景色に死んだ絵だ。違和感もない。どこも違わないぞ。
 パサッと乾いた音に、俺は顔を上げた。数メートル先の枝から雪が落ちたらしい。細かな雪のかけらが、先に落ちた雪の後を追うように舞っている。俺は絵をカバンの上に戻し、雪をかけないように気を付けながら立ち上がった。何の気なしにその枝に近づく。思わずその枝を手にし、指ではじくと、うっすらと残っていた雪が枝を黒く残して落ちていった。
 ふと、鮮やかな部分に気がついた。それは目をこらさなければ見えないほど小さいが、わずかに緑色を含んでいる。ドクンと心臓が胸を揺らした。それを芽と呼ぶには、まだ小さすぎる。でも、この枝は確かに生きているのだ。この冷たい雪の中で春を待ちつつ。かさついて弱々しく冷たいこの幹も、内側では命を燃やしているのだ。
 そうだ。そうだった。泰之、お前の言った通りだ。この景色は生きている。俺の絵には命がない。確かに違っている。
 だが、それと同時に俺は気付いていた。俺の絵を見て違うと言ったのは、確かに泰之だったことに。失ったことに変わりはないが、俺の中で泰之は生きているということに。
 途端、今まで見ていた景色に命の灯がともった。胸の中で息を潜めていた落葉樹が、芽を吹き、葉を広げる。痛いほどの新緑の春が、破裂しそうなくらい体中に広がっていく。その勢いを押しとどめることはできなかった。堰を切ったように涙が溢れてくる。
 泰之は、死んだのだ。認める認めないの問題ではなく、やはり俺は無力で。でも、この胸に泰之は居る。間違いなく生きて俺を支えているのだ。俺は泣いた。その木の幹を抱えて、今まで押し込めていた思いのすべてを泣き尽くした。
 緩やかな斜面を撫でるように、サッと日が差した。一本一本の木が生き生きと枝を伸ばしている、まぶしい冬の景色が姿を現す。木々の命までも見える気がするのは、きっと日差しのせいだけではない。泰之の死を悲しみ苦痛に思うことで、感情のすべてを取り戻せたんだと思う。見える物を素直に美しいと思える目も、心が揺れ動くだけの余地もだ。
 俺の中で、泰之には長いこと冬を過ごさせてしまった。でもこれからは、ここと同じように春を迎えていけるだろう。
 帰ったらあのスケッチを元にして、大きなキャンバスに描き直すよ。大丈夫、この風景は間違いなく俺の胸に焼き付いている。泰之に違うなんて言われない、今度は生きた絵を描けると思う。


− 終 −



「落葉樹」は紅月赤哉さんのHPで企画された
「Make Your World」の
「Winter  Cheers!」参加作品です。

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