― 至高の空 ―
征弥(ユキヤ)という名前は、将来俺が車関係の仕事に就くようにと、姓名判断の本を調べながら母親が付けたらしい。なんでも、F1レーサーになって欲しかったんだとか。まったく、名前だけでなれるなら、誰も苦労しないだろうよ。というかそれ以前に、運送会社もタクシーの運転手も立派な車関係だろうが。その辺りは何も考えなかったんだろうか。
24歳になった今、結局俺は違う道に進んでいる。だが、車じゃないがレースをやっているのには違いない。F1と比べれば遅くて、せいぜい時速 130 kmほどだが、身体一つで出すスピードにしては滅茶苦茶速いだろう。いや、用具は色々必要なのだが。
「ユキヤ、Ready?」
その声にうなずいて、スタート地点に立つ。コースの先を見据えたまま、ゆっくりと深呼吸をする。タイム計測の時計音を数え、俺は白銀の舞台に最初の一歩を踏み出した。わずかでも抵抗が少なく済むように雪を蹴り、スピードに乗っていく。赤い旗門ばかりが続く、標高差 960 m、全長 3455 mのコースを、2分弱ほどで滑り降りなくてはならない。
スキー、アルペン種目の中でもこのダウンヒル、滑降競技は、非常に勇気が必要なレースだ。平均時速 100 kmを超えるため、まずは速度に対する恐怖に打ち勝つことを要求される。
このコースはスピードが出すぎないよう、旗門などの設定をしっかり決めてあって、昔から変更されたことがない。競技規則で最低ターン半径が 5 mほど大きく変更になった時も、すべてのカーブが範囲内に収まっていたので、どこも変える必要なく済んでいる。そのために、わりと重要視されるコースレコードが存在する、非常にまれなコースだ。
俺はそのコースを、空気の抵抗を受けないよう身体を丸め、風の隙間を縫うようにかっ飛んでいる、はずなのだが。
最近はどうしてこんなに遅く感じるのか。なのに恐怖感だけは変わらないなんて最低だ。もっと先へ、先へ。少しでも速くゴールへ滑り込まなくてはならないのに。これじゃ遅い。もっと前へ行けるはずだ。もっと、もっと、もっと。
不意に意識だけが身体の前に出た。コーチと決めたラインをたどっていたはずが、身体が右に流れる。すぐにジャンプだ。 70 mほど空を移動するのに、このまま飛んでしまったら着地点はどこまでずれてしまうだろう。焦っただけで迷う間もなく身体が宙に浮いた。恐怖が全身を支配した。
予定より 3 m弱右だろうか。修正するために出来る限り早く雪面を捕らえ、エッジを立てて踏ん張る。だが、続く左カーブへの途中、足にかかる負担に耐えられないと悟った。それでもあるだけの力で踏みとどまろうとしたが、強力なGで身体がラインから大幅に外れる。転倒することだけは免れたが、一度落ちたスピードを取り戻すのは無理だ。混乱する意識の中、俺はなんとかゴールまでたどり着いた。
ゴールスペースの脇でひっくり返り、意識的に身体の力を抜いて、ゆっくりと息を吸い込む。冷えた空気が肺から熱を奪っていく感覚に、どうやらちゃんと生きているらしいことや、俺が今一番いたくなかったポジションにいることを痛感させられた。
転倒してしまっていたら、とんでもなくダメージが大きかっただろう。よくても、極度の緊張から解放された時に起こる節々の痛みからは逃れられない。悪ければ、死ぬことすらあるのだ。あそこでコースアウトしなくてラッキーだったと思い込もうとして、逆に体の芯に残っていた恐怖が再び呼び覚まされてくる。
少しずつ身体を起こした。全身ガチガチになるほどの力を入れたせいか、ひどく怠い。転倒するよりはましかもしれないが、この状態なら、やはり徐々に痛みが出てくるだろう。
見える範囲にいた人が、数人こっちへやってきた。異国の言葉で、怪我はないか、と聞かれる。言葉の意味を日本語で反芻し、俺はヘルメットを外して、ない、と短く返事をした。
ふと、視界の隅を、苦笑いを浮かべた中年の男が通り過ぎていく。そっちに顔を向け、それが俺のライバルだと言われている奴のコーチだと思い出した。そいつは俺と目を合わせると、フッと息で笑って顔を前方に戻し、挨拶のつもりなのか、片方の手を挙げて通り過ぎていく。その仕草が、ひどく気に障った。
あんたまで心理戦に参加してるのか。そう言いたい口が開かないよう、俺は歯を食いしばって耐えた。俺のコーチはそいつと同じ国の人で、現役時代はそいつとライバル関係と言われていた。俺の目にはどこから見ても、俺のコーチの方が速かったのだが。そんな面倒を持ち込まれても困るが、俺が失敗したのだ、ざまを見ろ、とでも思っているのだろう。
俺のコーチにはその選手時代、強く憧れを抱いていた。奥さんが日本人だったからか、縁あってコーチを引き受けてもらえたことは、とても嬉しかった。なのに、ここのところ上位30位までに与えられるポイントも取れず、嫌な思いばかりさせているのだろうと思うと、ひたすら悔しい。
スランプというのはやっかいなもので、抜け出そうともがけばもがくほど、尚更はまりこんでしまう。失敗したのが本番ではなく公式トレーニングで、しかも怪我らしい怪我がなくて、よかったのか悪かったのか。おかげで明日は、身体の節々が痛む中でのレースになるだろう、と俺は自虐的に思った。
その日、夜になってから、コーチと一緒にラインの確認をした。そこまではよかったが、問題のジャンプの場所は、少しも変更されなかった。俺がスランプだと分かっていて、しかもこのコースが非常に難しいことも知っているくせに、コーチはひどくのんびりしている。俺がラインを頭にたたき込んでいる最中に、一人でウォッカを飲んでいるのだ。まぁ、滑るのは俺なのだから、別にコーチが何をしていようとかまわないのだが。
「失敗したのがネットの場所でよかったネ」
頭の中のゴールまで到達したとたん、コーチが口を開いた。
「いや、よかったって、ちょっと……」
そりゃあ、もし転倒した先がフェンスや雪の壁だと、レースどころじゃないダメージが残る可能性が高くなるし、命だって危ない。セーフティネットなら防護壁の中でも一番安全なことは間違いない。だが、転倒した先がセーフティネットでも、ただでは済まないのだ。
相変わらず身体の芯に恐怖が残っている。このまま出場しても、ろくな順位は取れないだろう。ポイントにだって届かない。征弥は駄目だと言われるくらいなら、いっそのこと滑らない方がよくないか? いや、でも滑らなければ、引退か、と言い換えられるだけかもしれない。
「ユキヤ、早くスタート位置について」
余計なことを考えているのが、コーチにばれていたらしい。目をつぶって大きく深呼吸をし、迷いを吐き出したつもりになって、俺はもう一度最初から頭の中でラインをたどり始めた。
身体との距離を確認しながら、いくつもの赤い旗門を通り過ぎる。椅子に座っているだけで、実際滑っているわけではない。だが、そのジャンプが近づくにつれて焦りが出てきた。意識しないまま、腕にも足にも勝手に力がこもる。
「ユキヤが考えるほど、状態は悪くない」
コーチの声に驚き、その意味に呆気にとられた。
「技術もスピードも上がってきてる。良くないのはここだけ」
そう言うと、自分の胸の真ん中を親指で指し示す。そんなことを言われたら、本当に胸が痛くなる。恐怖心やプライドや利害などという、余計な物が多すぎるのは分かっている。
「空を見ておいで」
「は?」
最初、何を言われたのか分からなかった。コーチはウォッカの入ったグラスを手に窓まで進むと、カーテンをよけて窓を開ける。冷たい空気が流れ込んできて、足元に絡みついた。外に明かりは少ないが、月のせいか山のシルエットが奇麗に見える。
「このコースは日によって違う色が見えるんだ。ジャンプした時に一瞬だけ、山の隙間の空が目に入るだろ?」
「それ、今日ミスしたとこじゃ」
そういえば、コーチはこのコースで結構な名を残している人だった。一時期はコースレコードも持っていたのだ。あそこのジャンプで、まさか空を見ていただなんて。
「日本語は空の色が少ないネ。英語にはたくさんあるのに」
「え? そんなはず……」
いきなり何の話しだと思いながら、真っ先に空色という単語が浮かんだ。でもそれしか出てこない。宵闇、は闇の色だから違うか。って、俺って、なんでこんなとこまで暗いんだ。
「sky blue、azure blue、cerulean blue、sky gray、それから」
コーチの口にした色は、確かにどれもが全部空色と訳される。
「horizon blue、zenith blue、heavenly blue、なんてのもあるネ」
地平線付近の空色、天頂の空色、そして、神がいると言われる至高の空の色。
「このコースは、私がこの世で唯一 heavenly blue を見た場所だ。ユキヤにも見て欲しい。そのためのラインなんだよ」
そんなことを言われても、俺なんかに見ることが出来るのだろうか。こんな、スランプごときで潰れかかっている俺に。甚だ疑問に思う。
「どうしてユキヤのコーチを引き受けたと思う?」
「え。どうしてって……」
今までコーチの口から、その理由を聞いたことはなかった。なにか理由を見つけようとしても、何も思い浮かばない。お金のためと言ったら殴られそうなくらい格安だし、俺にそんな価値があるとも思えない。奥さんと同じ日本人だからとか、日本が好きだというくらいしか、考えられないのだ。ひどい顔をしているだろう俺に、コーチは笑みを向けてきた。
「死ぬまでに一度でいいから、同じ空を見た感想を誰かと話し合いたかったんだ。私は、同じ空を見られるのは、ユキヤしかいないと思っているんだよ」
不覚っていうのは、こういうことを言うのだろう。思わず涙が出た。
昨日のミスのせいで身体の節々が痛みだしたが、本番当日の今日も思ったほどひどくならずに済んでいる。空に放り出されて無理矢理ターンをし、スピードが落ちたところで踏ん張ったからだろう。昨日までの俺なら、怪我がなかったことすら恥ずかしくて、雪に穴を掘って隠れているんじゃないかというくらい落ち込んでいるところだ。
だが泣いてスッキリしたからか、恐怖もわだかまりもポイントへの執着も全部捨てて、俺はその至高の空というヤツを見るつもりになっていた。少しでも視界が悪いと、危険防止のためにスタートが遅れたりするが、今は風もなく天気も良すぎるくらいに上々、あとは自分の力を出し切るだけだ。
昨日側を通りかかったコーチとその弟子が、一緒になって見下すような目を向けてきたが、しっかりと心の底から笑みを返してやった。お前らは俺のコーチに選ばれなかった人間なんだと、優越感さえ感じてしまう。今まで生きてきて気付かなかったが、俺は実は物凄い現金な人間なのかもしれない。
スタート地点に立っても、今までのスランプが嘘のように集中できた。これならいける。必ずライン通りに飛び、そして至高の空を見てやるのだ。
時計の音を合図にコースに飛び出す。出たとたんに、あれ? と思った。バーンがかっちり締まっていて、かなりいい状態なのだ。これも天気のイタズラだろう。この先コースは荒れるかもしれない。だが、スタート地点とゴール地点では気温すら違うのだから、後から滑る奴のことなど気にしている暇は無い。そう思った刹那、頭が勝手に回転を始めた。身体の痛みすら全部忘れた。
速度が上がっていくにつれて空気が風になり、頬をえぐろうとでもするように鋭くなってくる。その刺激で呼び覚まされた視界がクリアで、コースを捕らえるのが容易に感じる。身体の反応もよく、イメージ通り、ただひたすら赤い旗門を通り過ぎていく。スピードは乗っているが、昨日までの恐怖は心地いい緊張感と同化していた。
コースも半ばを過ぎ、ついにその時がきた。予定したラインを、スピードそのままに空に飛び出す。ちょうど速度のせいで狭くなっている視野の真ん中、山と山の間に、真っ青な空が映った。その青が感情に残っていた霧さえも一気に吹き飛ばしていく。
一点の曇り無く、高く深く青い空。今までこんな美しい空色は見たことがない。きっとこれがコーチの言う至高の空なのだ。ほんの一瞬だったが、その色はしっかりと脳裏に焼き付いた。
着地して左にカーブする。バーンに力を加えたと思えないくらいスムーズに回ったからか、逆にスピードが乗ってくる。セーフティネットすら、すっ飛んでいく景色に同化して視界に入らない。赤い旗門に誘導されてでもいるように、ラインがひどく自然だと分かる。
とてつもなく冷静に興奮している。あの青がすべてを払ってくれたせいだろうか。ウェアを裂くように通り過ぎる鋭い空気さえ、今、肌そのものに触れているように感じられる。
ゴールゲートが見えた。身体に合わせて曲げてあるポールを抱え込み、強風になってぶつかってくる空気を縫って進む。研ぎ澄まされた感覚が、ゴールゲートを抜けるまで、ずっと続いていた。
わき上がった歓声の中、ゴールスペースの隅まで使ってようやく止まった。無風の世界が戻ってくる。まわりの声が、いつもより大きい。単純に、今日は人が多いのか、と思った。
飛び交う声の中、首を回してコーチを探す。その視界に入ってきたタイムボードには、自分のタイムとは思えないくらいの好タイムが表示されていた。少しの間茫然と、口を開けて見ていた気がする。横から興奮したコーチが抱きついてきた。
「ユキヤ! おめでとう!!」
「なっ、何が?」
「このタイムなら確実に上位だ、ポイント圏内だよ!!」
顔を突き合わせ、グリグリと髪を混ぜるように撫でられる。そうか。ポイントを貰えるかもしれない。後からあてがわれた順番で滑って上位に食い込めたのなら、それはそれで凄いラッキーだと思う。スランプも脱出できたかもしれない。信じられないが現実だ。あの空のおかげなのだろう。
「ユキヤ、その顔はアレを見たんだね?」
コーチの意味ありげに微笑んだ嬉しそうな顔に笑みを返す。
「分からないです。けど、凄く綺麗な空でした」
「そうだよ、それこそが私たちの heavenly blue なんだ」
コーチはもう一度俺を抱きしめると、背中をポンポンと叩いた。
そのレースでの俺の戦績は、ポイント圏内どころか、驚くべきことに3位だった。今までで最高の順位、しかも初の表彰台だ。ここに上ることが、こんなに快感だったなんて知らなかった。ポイントもせいぜい一桁か10何ポイントだったのが、一気に60点だなんて不思議な感じだ。しかも、まだ上がいるってのが嬉しい。こいつらは至高の空以上に、違う世界を見ているのかもしれない。もっと巧くもっと速くなって、近い将来、必ず俺もその世界を見てやるんだ。
ライバルは何位だったか、ポイント圏外、30位以下だったことは覚えている。それよりも、会場の隅から見ているそいつらの恨めしそうな顔2つは、下手したらトラウマになるんじゃないだろうか。これ以上寄ってきたら、Vサインでもして撃退してやろうと思う。
表彰台を降りて、コーチの所に駆け寄った。まわりに人がたくさんいたが、気にせずに頭を下げる。
「ありがとうございます」
そう言って顔を上げると、そこにコーチの笑みがあった。あちこちからシャッターの音がする。
「やっぱりユキが付いているだけあるね!」
「は?」
訳が分からず問い返すと、コーチは俺の肩をポンと叩いた。
「名前だよ、なまえ。ユキヤにはユキが付いているから、ダウンヒルレーサーには向いている」
いやあの。ユキって、もしかして雪のことか? 漢字の持つ意味を少しも考えていないじゃないか。まわりの記者達がペンを走らせる音に、軽くめまいを覚える。
確かに、俺たちの heavenly blue なんてことをこの場で言っても恥ずかしいだけだし、下手をしたら頭がおかしいんじゃないかと言われてしまうかもしれないから、黙っていた方がいいだろう。
だが、まさかとは思うがこの人は、本当に名前にユキがあるからコーチに就いてくれたんだったりしないか?
いや、どっちだとしても、この名前が切っ掛けでコーチをしていると思われたら、heavenly blue 以上にバカにされそうな気がするんだが。
まぁでも、世間的には征弥という名前のおかげで、このコーチを獲得できたってことになるわけだ。一応、名付けてくれた母に感謝を表明しておいた方がいいかもしれない。久しぶりに母に電話して、F1レーサーになれなくてゴメンとでも言っておこうと俺は思った。