― 呼ぶ音 ―


 街の郊外、川からほんの少し離れたところに、沙智子とその夫が住むアパートがあった。夏の暑い時期、夕方になると、沙智子はソーダ水や容器に入れたすいか、白桃、マンゴーなどと、日除けの傘を持って、河川敷に涼みにいくのが習慣となっていた。
 その日沙智子が手にしていたのは、瓶入りのラムネと日傘だった。幼稚園くらいの男の子が足首まで水につけてかがみ込み、ダムのつもりなのだろう、黙々と石を重ねて、小さな湖を造っている。川の流れは緩やかで、その水面は降り注ぐ陽の光をチラチラと反射して美しい。沙智子は土手を降りた場所に腰を落ち着けた。柔らかな風と、陽の匂いが沙智子を包み込んだ。
 川のこちら側は住宅地で、庭が広いからか、ゆったりと家が建ち並んでいる。対して向こう岸はあまり建物がなく、上流の方に古い二階建ての病院がひっそりと建っているだけだ。
 空がだんだん赤く染まってくる。いつもなら家に戻る時間だったが、子供の作業が気になって、何となく残っていた。家々の窓ガラスがオレンジ色の光を反射している。だが病院の窓には光がなく、空洞に見えた。初めてガラスが入っていないのだと気付く。
 もともと流行っていない病院だった。いつの間にか廃墟になっていたのだろう。廃墟も病院というだけで薄気味悪く感じる。そのうち幽霊が出るなどという噂も立つに違いない。空になったラムネの瓶を置き、沙智子は自分を抱くように両手で腕を包み込んだ。
 ふと、子供が視界に入ってきた。沙智子が病院に気を取られているうちに川遊びをやめたらしく、一人でとぼとぼと上流の方へ歩いていく。その先を見ると、長い黒髪に薄茶のワンピースを着た、細身の女性が手招きしているのが見えた。子供が駆け寄って、腕の中にすっぽりと収まる。
 子供は振り返ると小さな湖を指差して、ママがくれたお花、と言った。女性は、いいのよ、と首を振り、子供の手を引いて上流へと歩いていく。
 急激に闇が降りてきて、子供の作った淀みが薄黒くなってきた。雲も出てきた。天気が崩れるかもしれない。沙智子は眉を寄せて立ち上がり、家への道を歩き出した。


 最後に残ったグラスを洗いながら、沙智子は黒いゴムの排水溝に、水が吸い込まれていく様子を見ていた。白い洗剤の泡が排水溝に落ち込んでいくと共に、自分の気持ちも黒く染まっていくような気がした。
 最近、夫の帰りが遅くなった。遅くなるなら連絡してと何度も頼んでいるのに、電話もメールもないまま遅く帰る夫にため息が出る。連絡さえくれれば心配もせずに済むし、一人で夕飯を食べたからといって、こんなに寂しい気持ちになることも無いと思う。
 蛇口をひねり、水を止める。流れていかない暗い気持ちが、胸の中に淀みを作った。沙智子はその淀みを追い出したくて、大きくため息をつく。少しだけ吐き出せた気がした。
 アイス珈琲でも飲もう。そうしたらきっと落ち着けるに違いない。落ち着いて文章を考えられるようになったら、夫にメールしてみてもいい。もしうるさいと怒られても、心配し続けるよりは、きっといいから。そう思い、沙智子は最後に洗ったグラスを置いて氷を入れ、冷蔵庫から取り出したペットボトルの珈琲を注いだ。風鈴の音だろうか、氷の音と混ざって、カラン、とガラスの音が聞こえた。
 食卓に戻って椅子に腰掛ける。珈琲を一口飲むと、その香りが不安を隠し、ノドと気持ちを冷やしてくれた気がした。今なら冷静に見られるかと携帯を覗いてみたが、やはり連絡は入っていない。
 連絡できない状況なんて、そんなには無いだろう。電話もメールもしたくない何かがあるとしたら。少しも手を離せないほど、仕事が忙しいのだろうか。それとも、もしかしたら浮気かもしれない? まさか、そんなことはない。真面目な人だ。私を愛してくれている。疑うなんて失礼だ。でも。
 一度思いついてしまったその疑いが、頭にこびりついて離れない。珈琲のグラスの中で、また黒い淀みが渦を巻いた。
 沙智子は手にした携帯で、夫の会社に直接電話をかけた。知らない誰かが出たら、黙って切ってしまえばいい。大きな会社ではないのだから、夫がそこにいるなら電話に出るかもしれないと思う。
 通話を切るボタンに指を乗せながら、呼び出し音が消えるのを待った。だが、同じ音が虚しく繰り返されるだけで、その音は消えようとしない。
 誰もいない。まさか、残業がなかったのだろうか。そんな考えが浮かんだが、沙智子は首を振って振り払った。仕事が終わったから誰もいないのだ。もうすぐ帰ってくるのだろう、そう思い込もうと努力する。携帯を閉じてテーブルに置いた。また、カラン、とガラスの音がした。
 会社からは車で20分程度だ。夫が浮気をしているなんて疑いを持ったことがバレないように、ちょっとだけ拗ねた顔で出迎えてやろう。夫が連絡しなかったことをゴメンと一言謝ってくれたら、そんな疑いは忘れてしまえばいいのだ。
 グラスのまわりに水滴の付いたアイス珈琲を、一気にノドに流し込む。今夜も暑く、寝苦しい夜になりそうだ。一ヶ所だけカーテンを閉め忘れていることに気付き、沙智子は立ち上がって窓に近づいた。カーテンを引こうとして、風鈴の短冊に手が触れる。リーン、と長く響く音がしたのは南部鉄の風鈴だ。
 そういえば今年はガラスの風鈴をやめて、南部鉄の物に変えたのだった。それなら、さっきの音は何だったのだろう。ガラスの音がしていたような気がする。夫が下げたのだろうか。でもどこに?
 沙智子は窓を見て回ったが、どこにもガラスの風鈴は無かった。最後、ベランダに通じる窓へと近づき、カーテンの裏側をのぞいた。だがやはりガラスの風鈴は見あたらない。気のせいだったのだろうと窓に背を向けた時、後ろで、カラン、と音がした。ドキリと胸がなる。
 音は外からだったのだ。でも、最初に聞こえたのはいつだっただろう。ずっと同じ場所でガラスの音がしていると思うと、気味が悪い。
 沙智子はもう一度窓に向き直ると、カーテンをそっと開け、ベランダの様子をうかがった。隣の風鈴だろうかと思いついて納得したとたん、アパートの前の道で、カラン、と音がした。
 ベランダの向こうに目をやると、電灯の下に浮かびあがった視線と目が合った。背筋に寒気が走る。河川敷で見た長い黒髪、薄茶のワンピースの女性だ。白い手にはラムネの瓶。その瓶が、カラン、と音を立てた。
 女性の逸れない視線に動揺し、沙智子は部屋に入る振りをして目をそらした。恐怖に負けてもう一度振り返ると、女性がアパートの入り口に向かって手を振るのが見えた。ラムネの瓶が鳴る。
 沙智子は家に入り、カーテンを閉めた。その女性にバレないよう、薄く空けた隙間からのぞき見る。そこに見えたのは、手を振り続ける女性の姿だった。誰かが通るのを待っていたのだろうか。手を振るのをやめるとクルッと後ろを向き、川の方へと歩いていく。カラン、とビー玉がぶつかる音も遠くなる。沙智子がホッと息をついた後ろで、ドアの開く音がした。
「ただいま」
 耳に夫の声が届き、沙智子は息を呑んだ。
「あ、あなた……」
 暗く疲れ切った顔の夫が部屋に入ってくる。この人はなぜ今帰ってきたのだろう。あの女性が手を振っていたのは、この人にだろうか。そう疑う気持ちが、容赦なく膨れあがってくる。
「どうした?」
 訝しげに眉を寄せ、夫が聞いてきた。
「ベランダから見てたの」
「何を」
「女」
「女?」
 夫はさらに訳が分からないといった顔を沙智子に向けてくる。
「あなたに手を振っていたじゃない」
「は? 見てないけど」
「髪が長くて、薄茶色のワンピースを着て」
 夫が息を呑んだ気がした。あの女を知ってる。嘘をついて隠そうとしているのだと思う。
「ラムネの瓶を持ってた」
「ラムネ? なんだそれ。知らないって」
 隠されているという考えに囚われて、沙智子は夫を信じられなくなっていた。この人は真面目だし、私を愛してくれていると思う。でも、それとあの女の存在は別の話かもしれない。また胸の中で何かが黒く渦巻いている。
 沙智子は子供が造っていたダムを思い出した。その淀みは、穴が空いたように黒くまがまがしく見えた。それからどこかが狂い、おかしくなっているように沙智子には思えた。
 ふと、河川敷にラムネの瓶を忘れてきたことに気付いた。私が片付けなかったから、あの女はわざわざうちに来て嫌がらせをしたのかもしれない。そうだ、そうに違いない、夫は関係ない、きっとそれで間違いない。
「行ってくる」
「え? どこに、おいっ」
 沙智子は家を飛び出した。河川敷まで行って、子供達が造っていたダムを壊さなくてはならない。きっとそれで淀みは消える。胸の中の淀みも消える。
 そしてあの女がいたら、ラムネの瓶を取り返さなくてはならない。そうしないと、きっとまたここに来て、夫に手を振る。あの音を鳴らすのだ。
「おい、待てって!」
 沙智子の耳に、夫が追いかけてきている声が聞こえた。
「怒ってるのか? 明日からは早く帰れるから」
 追いかけてくれるのは嬉しい。でも、河川敷へ行くのを止められたら困るのだ。脱げたサンダルを拾おうともせず、沙智子は足を速めた。だが、河川敷の隅まできて、沙智子は夫に捕まってしまった。河川敷は明かりもなく暗い。ただ、半月が薄ぼんやりとした光を発している。
「なぁ、何やってるんだ、一体どこに」
 夫の手には、沙智子のサンダルがある。ほら、この人は優しい。だからやっぱりあの女が。
「そこ、そこだから」
 沙智子は川を指差した。半月に青く照らされた淀みが見える。夫の手から離れ、駆け寄った。そこに小さく瑞々しい花束が供えてあることに気付く。だが、そんなことには構っていられなかった。
 服が濡れるのもかまわず、まわりの小石をかき集めて淀みを埋める。どんどん平らになり、小石がほんの少し水に浸かった状態になった。ホッとした刹那、視界の中に小さな足が入ってきた。
 ドキッとして顔を上げると、そこに男の子がいた。ダムを造っていた子だ。ママがくれたお花、という言葉が蘇ってきた。供えてある花がその花なら、この子はすでに死んでいるのか。それでもダムを壊したことを謝りたかったが、その後ろに薄茶色のスカートが見えた。のどの渇きのせいで声が出ない。
 顔を見上げると、女は手にしたラムネの瓶を差し出した。声にならないまま瓶を受け取ると、女は薄く悲しげな微笑みを浮かべた。腕から力が抜け、瓶が大きめの石にぶつかる。ガチャンと音を立てて、瓶の下半分が割れて崩れた。
「沙智子!」
 夫が駆け寄ってくる。後ろから抱きしめられ、引きずられるように後ろに下がった。
「この女」
 夫が険のある声を立てる。女の視線が私の後ろに向いた。冷たく射るような目だ。
「さっき確かに……っ」
 夫の声はかすれ、かすかだったが、しっかりと沙智子の耳に入った。とたん、女が空気に溶け始めた。微笑みを浮かべて子供を抱くと、共にかすれるように見えなくなっていく。
 後には、置いてからそんなに時間は経っていないだろう花が残った。先に亡くなった子供に供えた花だったのだろう。彼女はこの花を供えた時は生きていたのだ。なぜ、夫は彼女が死んでいることを知っていたのかと、疑問が湧き出てくる。そして、その答えは頭の中で明確に形を成した。
 夫はやはり、彼女を知っていたのだ。しかも、彼女がいつ亡くなったかと言うことも。それは夫の言う「さっき」。そして「確かに」夫の目の前で。
 沙智子はただ茫然と、消えていく女と子供を見ていた。完全に見えなくなってしまうと、不意に夫の腕が首にまわり、力がこもった。なにか夢でも見ているように、頭がボウッとしてくる。
「沙智子、ゴメンっ」
 その涙声に、瓶を持った沙智子の右手が勝手に動いた。半分になって鋭く尖った部分が、勢いよく顔の横を通る。ぎゃあ、という叫びと共に生ぬるい血しぶきが飛び、夫の腕から力が抜けた。
 耳元で、カラン、とラムネ瓶の乾いた音が聞こえた。