新緑の枯樹
     ― エピローグ ―

 城都に戻る前、ここでアルトスに遭った。 その時は日中だったが、今は星がひしめき合うほど見える、月の小さな夜だ。 ぐるっと木に囲まれた何もない草原に、ただ一本だけ細めの木が真ん中寄りに立っている。 前はそんなことすら気付かなかった。 よくもまぁ生きて帰れたと、これまでの自分に呆れる。
 さっきまで俺は、隊の半分ほどが泊まっている宿の、酒場に顔を出していた。 そこにはウィンの諜報仲間であるスピオンもいた。 計画通り、顔を真っ赤にしたアジルが俺に絡む。
「アルトスにつけ狙われてちゃ、出陣もなしですか」
「アルトス? そんなもん関係ない」
 本当は、関係ないわけなど無い。 スピオンのおかげで情報が筒抜けになっているあいだ、隊の全滅を避けるためには、仕方のないことだったのだから。
「怖いんじゃないですかぁ?」
「んなことねぇよ」
「だったらあなたがアルトスと会ったあの草原に木が1本だけあったじゃないですか。 そこに名前掘ってきてくださいよ」
「なんだそりゃ。 そんなとこまで行けってのか? 面倒だな」
「あれ? やっぱり怖いんじゃないですかぁ?」
「なんだって? そんなに言うならやってやるよ。 アルトス本人が出るわけでもないだろうに。 バカバカしい」
「じゃあ次に通った時に、ちゃんと名前を掘ってあるか確認しますからねぇ?」
 こんな具合の、売り言葉に買い言葉をスピオンに聞かせ、アルトスを草原に誘い出そうというわけだ。 スピオンが一人でこそっと酒場を出て行ったのを確認して、アジルとテーブルの下で親指を立てた。
 スピオンが国境を越えたという報告を受けてから、俺はこの草原までやってきた。 アジルは当然のようについてきた。 音を立てるとバレるので、アジルは簡単な皮の鎧しか着けていない。 アルトスを相手にしてこの鎧では、裸も同然だ。 しくじるわけにはいかない。
「アルトスが既にいたり、相手が隊で来たら、サッサと戻ってくださいね」
 そんな当然の言葉を背に受けながら、俺はアジルを林の中に残してこの草原を見渡した。 人影がないのを確認し、足元に気をつけながら、真ん中寄りに立つ木に向けて歩を進める。
 木の側に立って、細い幹をながめた。 でも、当然名前を彫る気にはなれなかった。 木に傷なんてつけられない。 もしかしたら見えていないだけで、この木にもドリアードがいるのかもしれないのに。
 微かにアジルのではない鎧の音が響いた。 やっぱり来たかと小さく舌打ちをする。 それから俺は、服の上から青い石の星に触れてリディアを想った。 リディアにこのペンタグラムを渡されてから、俺は何かあるとこの石に触れ、まるで呪文のように名前を唱えている。 俺はいつもこうしてリディアに支えられている。 リディアを想うことで、なにより落ち着くのだ。 一度大きく深呼吸をして、俺は木に向かったまま近づいてくる鎧の音に集中した。 聞こえてくるのは、一つの鎧が立てる音だ。
 木々の間からダークグレイの鎧が姿を現した。 ダークグレイといっても、これだけ暗い夜だとほとんど黒に見える。 だが、月の弱々しい光を背に浮かび上がったシルエットは、間違いなくアルトスの物だ。
 俺は少し離れたところで、やっと気付いたかのように身体をアルトスに向けた。 アルトスは足を止めずにこっちに向かってくる。 俺は、木から十歩ほど進んで歩を止めた。 アルトスは少し離れた位置で俺と対峙する。
「どうやら、命知らずなところは少しも変わっていないようだな」
 アルトスの言葉に、俺は黙って剣を抜いた。
「まぁ、その方が手間をかけずに片づく。 こっちには都合がいい」
 そう言うとアルトスも剣を抜く。 俺は冷笑を向けた。 俺の顔は月に照らされているので、アルトスには見えているはずだ。 思った通り、アルトスは忌々しげな顔になった。
「あんたも怒りっぽいのは変わってないな」
 わざと余裕があるように、俺はのどの奥で笑ってみせる。アルトスは目を細くして俺をにらみつけた。
「後悔させてやる」
 アルトスは剣を突き出してそう言うと、いきなり向かってきた。 やっぱり短気な奴だ。 俺は受けて立つような体勢を取り、その場で剣を構えた。
「うわっ!」
 虚をつかれたアルトスが、叫び声をあげた。 剣が触れるまであと十歩ほどという位置で、足下が突然崩れて落ちたのだ。 驚かないはずはない。 落ちるときに手がかりを探したせいか、アルトスの剣はラッキーなことに穴に落ちずに残っている。 俺は低い体勢で、穴のふちからそっとのぞき込んだ。 アルトスは中でさっさと立ち上がったのだろう、短剣を投げようと待ち構えていた。 俺は投げつけられた短剣を剣で叩き落として、それを拾った。 アルトスは憤怒の表情を俺に向ける。
「お前がこんな手段を使う奴だとは!」
「思わなかった? 悪いけど、俺、変わったんだ。 あんたを相手にして生きて帰ろうと思ったら、こんなことくらいしか思いつかなくてさ」
 アルトスは一瞬唖然とした顔をして、気を取り直したように苦笑いをした。
「まさかそこまでガキだとは。 馬鹿げてる」
「なんだか勘違いしてないか? 十七は大人かな」
「十七だと?!」
 アルトスは声を大きくした。 ひどいな。 何もそんなに驚かなくてもいいと思う。
「スピオンに情報を持っていってもらったんだ。 穴掘りも面白くて苦にならなかったし。 こうしてみるとこの穴、結構深いな」
 俺は笑いをこらえながら、手にした短剣をアルトスの頭の上方めがけて投げた。 奴が飛び上がれば、もう少しで届きそうな土の壁に突き刺さる。
「何やってる。 きちんと当てろ」
 俺がアルトスに当てようとして短剣を投げたと思ったのだろう、アルトスはフンッと鼻先で笑った。 俺は可笑しくなって思わず笑い声をたてた。
「短剣、いらないのか? そこからどうやって出るつもりだ」
「出るだと?」
 アルトスは目をそらさずに俺をにらんでいる。 出るといっても道具が短剣一本では、えらく苦労するに違いない。 俺は立ち上がり、手についた土を払った。
「何を考えている? 俺を逃がすつもりか? 後悔するぞ!」
 俺が背を向けようとすると、アルトスはサッサと殺せとばかりに騒ぎ立てた。やっぱり言葉にしなければ伝わらないか。俺は肩をすくめて苦笑した。
「命は大切にしたほうがいい」
「なにっ?!」
「戦なんて、馬鹿げてると思わないか?」
 アルトスは怒り半分で驚愕の表情をした。 自分までが口説かれるとは思ってもみなかったのだろう。 そのアルトスを穴の中に残して、俺はサッサとその場をあとにした。 もし穴に落とせなかった時のため、草を結んで輪を作ってあるので、ここに来た時と同じように、足元に気をつけて歩く。 スピオンがライザナルの諜報者だとハッキリしたからには、しばらくはアルトスと遭うこともないだろう。
 結局、俺が今できることはこんなことくらいしかない。 でも、どんな細い糸口でも、たくさん集めればきっと引き寄せるだけの力を込められる物になる。 今なら素直にそう信じることができる。 どんなに小さな希望でも、絶対に捨てたりはしない。 みんなのため、リディアのため、そして何より自分のためにも。
 生きたいと思う気持ちが、こんなにも力になるものだったなんて。 この思いは、大切に育てていかなければならない。 そしてそれを元に、俺はこれから少しずつでも強くなっていきたい。
 俺はもう一度ペンタグラムに触れて、リディアを想った。



あとがき?