レイシャルメモリー後刻

― その輝きは永遠に ―

 暗い部屋の四隅に、ろうそくの明かりが弱くっている。ここタスリルの店は、色々な品物が雑然と広げられているので、四隅の明かりだけでは不自由だ。グレイは明るく灯したランプを手にして、一つの引き出しを開けた。乾いた摩擦音を立てた引き出しの中には、何も入っていない。
「あれ? ここのはず」
 少しの間考え込むと、グレイは取っ手をさらに引っ張り、引き出しを抜いて裏返した。ランプにかざしてみたが、やはりただの底板だ。
「そんなわけないか……」
 引き出しを元に戻し、腰に下げた小さな袋から一枚の手紙を取り出して見入る。描かれている矢印は、間違いなくカラの引き出しを示していた。
 念のため、側の引き出しを開けてみる。どの引き出しの中にも、腹痛とか寒気とか表示のある薬袋が整然と並んでいた。その薬袋の下には、作り方の書かれた本がきちんと置かれている。
「どうして無いんだよ」
 引き出しの中は、部屋に見る雑然さとは違う。指示をするにしても、引き出し一つ間違うことは無さそうに思える。だが、ルジェナにいるタスリルからの手紙が指し示している場所には、あるはずの本が無かった。
 惚れ薬の本だ。と言っても、ハエをすりした惚れ薬と違い、効き目の高い劇薬が載っていると手紙に書いてある。惚れさせるという面では効き目が強いが、一歩間違えると好きになって欲しいその人を殺してしまう、危険度の高い薬らしい。
 考え込んでしまったグレイをかしたのだろう、部屋の片隅で闇に紛れていたソーカルというハヤブサが翼を広げた。ろうそくの炎が頼りなげに揺れる。グレイは口を閉じたまま、ため息をついた。
「待ってて。今手紙を書くよ」
 グレイは卵形の紙押さえをよけて紙を一枚取り、側にあったペンに手を伸ばした。

   ***

「無かったって、じゃあどこに?」
 サーディがお茶を手にしたまま聞いてきた。グレイは、眉を寄せた視線をサーディに向ける。
「なんでも、左に二件んだ隣の薬師が、その本を欲しがっていたらしいんだ。でも留守なんだよね。軍でも捜索してもらえるように、頼んであるんだけど。見つけ次第、本のことを聞いてくれると思う」
 グレイはその薬師と、一度だけすれ違った事があった。特徴はすべて話してある。あとは待つしかなかった。サーディはお茶に口をつけると、テーブルに戻す。
「その薬師が持っているんだとしたら、その劇薬、作ってしまいそうだよな」
「普通の惚れ薬なら知っているだろうからね。その本が必要だったのは、その劇薬を作りたかったんだろうし」
 そう言うと、サーディはうなずいただけで黙り込んでしまった。いつ本が持ち去られたのだろう。それによっては、すでに薬が存在しているかもしれない。
 何も起こらなければいいとグレイは思った。その薬が使われたとしても、惚れさせられるだけで死んだりしなければいい。いや、嫌な奴に薬で気持ちの自由を奪われるなんて、その人にとっては殺されたも同然なのかもしれないが。
「タスリルさん、明日フォースと一緒に来て、店を引き上げるってさ。さすがにリディアは来られないらしい」
「皇太子妃がおめでたで引っ越し作業はさせて貰えないよな。フォース、グレてるんじゃないか?」
「らしいね」
 サーディと二人、努力して浮かべた笑みだけ交わし、グレイは廊下に向かった。
懺悔室に行ってくるよ」
 いつもなら、事が起こってから耳に入ってきた。だが今回は違う。これから起こるかもしれないのだ。それなのに、止める手だてが自分に無いことが、ひどくもどかしい。
 懺悔の部屋は、講堂側から入る部屋と、神殿裏側から入る二つの部屋が連なっていて、間には何もはまっていない小さな窓がある。気分的には、自分が懺悔する側の部屋に入りたいとグレイは思った。だが、そんなわけにもいかない。
 グレイは懺悔の部屋の神官側に入室し、椅子に腰掛けた。隣の部屋と繋がる小窓に立てかけてある、人がいない事を示す札を外す。こちら側に神官がいるという合図だ。懺悔が無ければ無いでいいことだと思うし、もしあったとしても真剣に話を聞くことで、嫌な気分からいくらかでも逃れられるかもしれない。グレイはそれを期待していた。
 講堂側の扉が開き、誰かが入ってきた。入って来るなり低い嗚咽が聞こえる。
「うかがいましょう」
 グレイはいつものように、そう言葉にした。
「お座りください」
「すみません、すみません……」
 弱々しい声で謝りながら、椅子に腰掛けた気配がした。小さな窓から伝わってくる雰囲気で、成年の男性だと分かる。座ったあとも、何度も謝罪を口にしながら、頭を下げているようだ。
「取り返しの付かないことを……、愛する人を、殺してしまったのです」
 グレイは思わず身体を硬直させた。小窓からそっと向こう側をうかがう。涙がこぼれるうつむいたその目は、あの薬師のモノだ。事件を止めようにも、すでに起こってしまっていたのだ。
 懺悔なのだから、軍に知らせることも出来ない。この部屋を出たら、すべて忘れなくてはいけないと思う。グレイは動悸を深呼吸で押し込めた。
「薬を多く飲ませてしまったのです。の針が振れない量で、まさか、こんな事になるなんて……」
 それが惚れ薬なら、少しでも多く飲ませたいのは人情だろう。その量がそこまで厳密なモノだったのだと、グレイはゾッとした。
「シャイア様、どうか私の罪をお許しください。そして、ヤーラをお願いします。どうか、どうか……」
 袖で涙をぬぐい、薬師は懺悔室を出ていった。最初の挨拶だけで、グレイは一言も返せなかった。それでも、薬師が少しでも救われているのなら、それでよかったのだと思う。だが、たぶん被害者だろうヤーラとやらは救われない。
「ねぇ」
「え?」
 誰もいないはずの向こう側からの声に、グレイは思わず反応を返した。
「あ、よかった、聞こえるのね」
 小窓の向こうに、いつの間にか長い金色の髪が見えている。薬師が出て行ってから、誰も入ってきてはいないはずだった。だとしたら、薬師と一緒に入ってきていた事になる。
「どなたです?」
 まさかと思いながら、グレイは声をかけた。
「ここ、懺悔室でしょう? 私が誰かなんて必要?」
 言われてみればそうだ。名前も性別も、ここでは重大ではない。でも。
「もしかしたら、先ほどの方のお知り合いでいらっしゃいますか?」
「そうよ。って、分かっているのに聞くのね? さっきの薬師にお願いされた、ヤーラっていうのが私」
 その声は明るい。明るいが、この人はあの薬師にすでに殺されているらしい。小窓から見える髪は、夢か幻か。思わず冷たい笑いがグレイの口を突いて出た。
「ええ、分かりました。ですが、お願いされたというのはシャイア神に、ですよね?」
「そうだけど。あなた冷たいんじゃない? 神官なんだから、シャイア神との架け橋なはずでしょう?」
「は。冷たいというのは友人にも、よく言われますが」
「さっきの薬師に恨みを持ってはいるけど、取り憑くほど恨んでもいないわ。なのに、お迎えが来てくれないのよ。せっかくこれでヴェーナに帰れると思って喜んだのに」
 ヴェーナに帰るということは、ヤーラは妖精や精霊の類なのだろう。確かに、グレイの目に見えている腕は、人間と比べると細くて白い。帰れると思ったから、暗さを感じられないのだろう。逆に喜んでいるような、ヤーラの明るさにホッとする。
「どうすればいいのか、サッパリ分からないの。あなた神官なんだから、なんとかしてくれないかしら」
 まくし立てられて半分気をとられつつも、グレイは真剣に考えた。恨みじゃないなら、残る要因は一つしか思いつかない。
「でしたら、未練、ですか?」
「未練? そうね、きっとそれだわ! それを無くせば、シャイア様も迎えを寄越してくれるかもしれないわね!」
 ヤーラが手を胸の前で組んで、クルッと一回転したのが小窓の向こうに見えた。暗いどころか、どこまでも明るい人だ。そうグレイは思ったが、ヤーラはそれきり動かない。少し待ってみたが、何も言わない。
「……、どうかされましたか?」
「分からないの」
「何がです?」
「何に未練があるのか」
 思わず噴き出しそうになるのを、グレイは真剣にこらえた。帰れると喜んでいるとはいえ霊なのだ。ここで笑ってしまうと、さすがにたたられそうな気がする。
「それを私に聞かれましても……」
「分かってるわよ。自分で探すわ。シャイア様がそうしろとおっしゃるなら、きっとそれにも意味があるんでしょ?」
「ええ、きっと」
 どうやら解放してもらえそうだと思い、グレイはヤーラに気付かれないよう、小さく息をついた。うつむいたことで目に入った小窓から、ヤーラが顔をのぞかせている。
「うわ」
 グレイは思わずその顔に見入った。死相が見えるようなことはなく、頬にはほんのり赤みが差して生き生きしている。いや、幽霊に向かって生き生きしているというのも変な話しだが。
「うわって。それだけ? 怖がらないのね」
「怖いと言うより可愛いですよ」
 グレイの言葉に、ヤーラは可笑しそうに笑い出した。
「ありがとう。じゃあ私、探してみるわね、未練」
 そう言うと、ヤーラは人がいない事を示す札を立てかけた。グレイの方が出ていけということなのだろう。
「では、私は戻ります。何か必要な物などありましたら言ってください」
「物なんてあっても使えないし」
 そう言われて、グレイはヤーラが幽霊なのだと思い出す。
「そうでした。では、何か手伝えることでもあれば」
「たまにでいいから、様子を見に来てくれたら嬉しいのだけど」
 少し不安げなヤーラに、グレイは、そのくらいなら、と微笑んで見せた。
「では、また来ます」
 元気といういい方は正しくないのかもしれないが、ヤーラは元気に手を振る。グレイが懺悔室のドアを閉める時、一瞬ヤーラの暗い顔が見えた気がした。

   ***

 あくる日、朝のこと。
「捕まえたんですね」
 安心感から息をついたグレイに、バックスが大きくうなずいた。
「薬師ってのは思ったよりも連携が取れているんだな。術師街で話しが広まったと思ったら、居そうな場所ってのが上がってきて、その辺りで聞き込んだら当たりだ」
 バックスはかすかに口元をませる。
「被害にあったのは妖精だから遺体もない。一件落着なんだが、後味は悪いな」
 罪のない一つの命が失われてしまったのだ、スッキリ終われないのは仕方がないだろう。そう思いながら、グレイはバックスにうなずいて見せた。
 それよりも、問題はヤーラの霊だとグレイは思う。取り憑くほどの恨みではないと言っていたし、捕まっただけなのだから、まだ幽霊のままかもしれない。それとも、あれから未練を見つけて、シャイア神の元へ行けただろうか。
「さて、帰って掃除を手伝うか」
 バックスはそう言ってニヤッと笑った。
「今夜フォースを泊めるしな」
「タスリルさんの店に泊まるって言ってたのを誘ったんでしたっけ?」
「そう、娘を抱かせてやろうと思ってな。フォースの子供が男の子だったら玉の輿だ」
「それ、色々気が早すぎですって」
 グレイの言葉を聞いて、バックスは朗笑する。
「だが嫁にはやらん」
 ちょっと前に玉の輿と言っただろうと思いつつ、ライザナルの王子が婿入りする図式が頭に浮かび、グレイは苦笑した。
「俺はあとで店の方に行ってみますよ」
「じゃあ、楽しみにしてるって伝えといてくれ」
 そう一言残し、バックスは手を振って神殿を出ていく。楽しみにしてるなんて伝えたら、フォースに拒否反応が出るのではないかと思いながら、グレイはバックスに手を振り返して見送った。
 バックスとのやりとりで、グレイの気持ちはいくらか復活した。だが、殺された妖精の霊が気になるのは少しも変わらない。グレイは、もしまだヤーラがいるのなら様子だけでも見てみようと、懺悔室へ足を向けた。
 気持ちを落ち着けるため、知らず知らずのうちに小さく息をついてから、グレイは懺悔室のドアを開けた。小窓にヤーラの顔がのぞき、手まで振ってくる。
「あの薬師、捕まったのね」
「知ってたんですか」
「さっき聞いたわ。あなたの隣で」
 ヤーラの言葉に、グレイは思わず言葉を詰まらせた。
「ちょっとはホッとしたのだけど、やっぱりシャイア様はお迎えに来てくださらないみたい」
「そのようですね」
 グレイは、ため息が出そうになるのをこらえ、ヤーラの顔をのぞき込む。
「で、未練は見つかりましたか?」
 未練と聞いて、ヤーラは大きなため息をついた。
「急かさないで。なんかこう、気持ちがモヤモヤしているのは分かるのだけど」
「進歩しているんですね」
 暗い顔を見たグレイは、ヤーラに笑みを向けた。ヤーラの表情がパッと明るくなる。
「そう? そうよね! 自分の気持ちの問題だなのだから、きっともう少し突き詰めれば分かるわよね!」
 ええ、と返事をしながら、グレイは明るかったヤーラの顔が少し曇るのを感じた。
「何か思いつきましたか?」
「きっと、コレなんじゃないかって思うことはあるのよ」
 ヤーラは声を明るく保とうと、努力しているようだ。少しでも切っ掛けをつかめたのならいいことだと思う。
「何です?」
「言ってもいい?」
 その切り返しを奇妙だと思いながらも、グレイは、どうぞ、とうなずいた。ヤーラは言い辛そうに視線を泳がせると、グレイに目を留める。
「私きっと、あなたが好きなの」
「……、は? またそんな」
「一緒にいたいんだわ。だから、逝きたくないの」
 逝きたくないも何も、すでにこの妖精は死んでいる。それでもグレイは、目の前にある、いや、もしかしたら何もないのかもしれないが、切なげな瞳を可愛いとは思っていた。
 でも、一緒にいる、ということを実行するには、一生束縛されるか、グレイも霊という存在にならなくては無理だろう。速攻で拒否したくなった気持ちを慌てて飲み込む。
「難しい問題だし、少し考えさせてくれるかな」
 その言葉で、緊張して固まっていたヤーラの表情がフッと緩んだ。
「ずっと待ってるわ。断られたら、どうしようかと思った」
 どうしようって、何をどうしようと言っているのか。とりあえず拒否しなくて正解だったのだとグレイは思った。
「じゃあ、また後で。でかけてきますので」
「うん、待ってるね」
 とにかく笑顔を作って懺悔室を出る。待っていると言われたものの、懺悔室を出ても隣にいたようなことを言っていたので気が抜けない。さてどうしたモノかと考えながら、廊下を戻る。
 バックスも言っていたが、今日はタスリルが来る予定になっている。こんなことを相談できるのは、タスリルくらいだろうか。ヤーラの命を奪った薬を知っているのだから、もしかしたら何か分かるかもしれない。とにかく行ってみようとグレイは思った。