レイシャルメモリー後刻

― その瞳に映る世界を ―

「若いよな」
 馬車の窓から、大きく身体を乗り出して手を振っているシェダを見て、隣に立っているフォースがつぶやいた。リディアはフォースの腕を取ったまま、ため息混じりの小さな笑い声を立てる。
「落ちたらどうするのよね」
 馬車は見る間に小さくなっていき、城門の向こう側に消えた。
 子供が産まれる時に側にいたいというシェダの主張は、リディアにも理解はできる。でも、本当に仕事をしているのかと不思議なほど、シェダは頻繁に顔を見せていた。たまに届くグレイからの便りには、特に仕事に支障が出ているような記述はない。そうなると断ることもできず、後は任せておくしかできなかった。
「お仕事に戻りましょう」
 リディアはフォースを見上げて笑みを交わし、城へと向かう。フォースが足元に気を配ってくれているのが分かるので、急がずにできる限り慎重に歩く。下を向いても足元が見えないほど、自分のお腹がはち切れんばかりに大きくなっている。
 黙って立っているだけでも大変なのだが、歩いた方がいいと言うタスリルの言葉を信じ、リディアはできるだけ庭に出るようにしていた。シェダの見送りも、人の手を借りずに歩いている。といっても、フォースはいつでもどこにいても、隣に立って身体を支えてくれているのだが。
「明日はフォースのお父様が、ご到着なさるのよね?」
「……、そうだった」
 シェダへの対応にいっぱいいっぱいになっていたのか、フォースはクロフォードが来ることをすっかり忘れていたようだった。クロフォードは、子供が生まれるまで滞在するらしく、周りはすでにその準備に入っている。庭に花が増えているのも、そのせいに違いない。
「リディアはいつも通りでいい。無理はするなよ?」
「ありがとう」
 いつも通りと言っても、近いうちに陣痛が始まるだろうとタスリルが言っていた。いつも通りどころか、相手をすることもできず、自分のことだけになってしまいそうだ。
「一度休むか?」
 フォースにそう聞かれ、リディアは首を横に振った。
「執務室に行くわ」
 その答えに、フォースがリディアの顔をのぞき込んだ。リディアは苦笑を浮かべ、フォースの耳元に口を寄せる。
「いつもと少し違う気がするのよ」
「えっ?!」
 小声でいた言葉に驚いた声を出してしまってから、フォースはいつも通りの表情を取りっている。周りに不安を見せてはいけない立場だ。
「抱いて行こうか?」
 二人でいる時なら気にならないが、今は見送りで人がそれなりにいたりする。いつもと違うことを周りには知られたくないし、いつもと同じ状態なのに抱かれているのも恥ずかしい。
「そんなに心配しないで。お産が始まってからも歩いていて大丈夫だって、タスリルさんが言っていたでしょう?」
「そりゃそうだけど……。と、とにかく行こう。診てもらわないと」
 領主代理の上、フォースの教育係でもあり薬師でもあるタスリルは、執務室の奥にある特別な部屋で暮らしている。タスリルに会うには執務室に戻ればいい。周りを騒がせることなくいられることに、リディアはいくらか安堵した。
 二人で執務室に入ると、後から付いてきていたイージスが頭を下げ、部屋の外側からドアを閉めた。その音にフォースと視線を合わせてから、リディアは奥にあるドアをノックする。呼びかける前にタスリルがドアを開け、リディアに手招きをした。
「戻ったんだね。おいで。診てあげよう」
「お願いします」
 リディアはそう答えると、フォースに微笑んで見せてからタスリルの部屋へと入った。
「レイクスはそこで待っておいで」
 タスリルがフォースに意味ありげな笑みを向けてからドアを閉めた。ドアが閉まる直前に見えたフォースの心配そうな顔が、まぶたに残っている。
「ここにお座り。早く返さないと、レイクスが心配のしすぎで煮えてしまう」
 タスリルに指し示された椅子に、リディアは身体を預けた。タスリルがリディアのお腹に手のひらを当てて目を閉じる。その唇からブツブツと言葉の詠唱が漏れてきた。リディアにとって知らない言語だったが、手の温かさと同じように耳に優しく響いてくる。
「すぐにでも始まりそうだ」
 タスリルはリディアに笑いかけると、また目を閉じた。静かな時間が流れる。お腹の赤ん坊も不思議と動かない。あまりの心地よさに眠りかけたその時、お腹に痛みが走った。
「ああ……っ、んん」
 痛みを押し込めようと、リディアは眉を寄せて息をこらえる。
「来たんだね。すぐに収まるよ」
 痛みのことを言ったのだと理解して、リディアはなんとかうなずいた。タスリルの手は、相変わらずお腹の上にある。
「息を全部吐いてごらん。その方が痛みをやり過ごせるし、声を出すより疲れない」
 タスリルがそう言ううちに、不思議なくらい痛みがひいた。元の身体とどこも違わないように感じる。リディアは思わず、ふぅ、と息をついた。タスリルが苦笑を向けてくる。
「もっと痛みが増すし、間隔が狭まって時間が長くなる。覚悟しておくんだよ」
 はい、と返事をしながら、リディアは不安な思いを抱いていた。痛みが思っていたよりも強かったのだ。
 お産に関する呪術は神の領域だからと、作ること自体が禁じられていたので、一つも無いらしい。それでもこうして、いくらかでも診てもらえることは、安堵に繋がっていた。タスリルの手がお腹から離れる。
「待っておいで。準備をしてもらうからね」
 そう言うと、タスリルは立ち上がり、ドアを開けた。
「うわっ?!」
 すぐ側にいたらしいフォースの、驚いた声が聞こえた。
「何してるんだい」
 タスリルに冷静に突っ込まれ、フォースは慌てている。
「な、何って。リディアの声が聞こえたから気になって……」
 ふうん、と息を漏らすと、タスリルは眉を上げ、心配げなフォースと顔を突き合わせた。
「準備を頼むと、イージスに伝えておくれ」
「え?」
「ほら早く。お産が始まったんだよ」
 はい、と大きな声がして、フォースの足音が離れていく。それを聞いてリディアは、フォースに側にいて欲しかったのだと気付いた。
「仕事を進めてはいたようだが。あの様子じゃ、すぐに戻ってくるだろうね」
 タスリルは、リディアの思いを察しているかのようにそう言った。だが、ライザナルの王族が出産する時は、男性が部屋にいてはいけないらしい。
 でも、それでいいのかもしれないとリディアは思った。もし側にいたとしたら、フォースはもっと心配してしまうだろうし、自分もフォースに甘えてしまう。
 同室にいることが禁止されているのは、出産の痛みの中でなりふり構わなくなった姿を、夫に見せてはいけないかららしい。それで子供を望まなくなった皇帝がいたとのことだ。バカバカしいとは思うが、その時産まれたのが女の子だったせいもあり、当時は結構大きな騒動になったのだそうだ。
 タスリルが一度側まで来て肩にポンと触れ、細々と呪術の道具が置いてある机の方へと足を進める。
「静かだね。エレンのお産の時は、先に妊娠が分かったリオーネよりも早かったせいで、それはもう大騒ぎだったんだよ」
 その言葉でリディアは、フォースが持っているサーペントエッグにあったエレンの肖像を思い出した。どちらか先に生まれた方が、王位継承権を得られたのだから、騒ぎも大きかったに違いない。でも、お産が始まってしまったら、他のことを考える余裕は無かっただろうと思う。
 タスリルは机から何か手にすると、リディアのところへ戻ってくる。
「お守りだ。お前さんから返しておやり」
 リディアが差し出した手に、フォースのエッグが乗せられた。
「どうしてこれを……」
「ルジェナに来た時、レイクスからふんだくって持っていたんだよ。ちょっとは緊張感が持てるだろう。どうしたって継ぐのはレイクスなのだから、誰が持とうと関係ないんだけどね」
 タスリルの言葉で、ヴァレスの神殿にいた時、リディアもエッグを預かったことを思い出した。その時の王位継承権は、二人で一緒に暮らすためには邪魔なだけだった。でも今は、その地位をきっちり遂行していくことが、二人のためでもある。しかも、産まれるのが男の子だったなら、王位継承権二位の数字が付く。大変な思いをしなくてはならないだろう。リディアは思わずお腹を撫でた。
「最後まで見守ることができるなら……」
 そのつぶやきに、タスリルは目尻のしわを下げた。
「エレンも同じことを言っていたよ」
 その名前を聞いて顔を見ようと、リディアはエッグの表面、金の細工に爪をかけて開いた。そこから落ちた小さな紙切れをつまみ上げ、そっとのぞいてみる。
「これ……」
 そこにはリディア自身が書いた、幸せでいて、という文字があった。ずっと入りっぱなしになっていたのだ。
 もう随分昔から、リディアはフォースの幸せを願ってきた。そして今は、自分の幸せもフォースのためだということを知っている。お腹の子を産むことが、二人の幸せの一部分になるだろうことも。
 紙の切れ端をていねいにたたみ、リディアはエッグの紋章の上に置いた。反対側にはクロフォードとエレン、赤ん坊だったフォースの肖像がある。
 この絵が描かれた頃から、フォースを思う気持ちはたくさんの人で繋がっている。同じように、まだお腹にいる赤ちゃんを思う気持ちも、きっとたくさんの人で繋がっていくだろう。そのためにも、まず無事に産まれて欲しいとリディアは願った。
「一緒に頑張りましょうね」
 お腹の赤ん坊に優しく語りかけると、リディアはエッグの左右を合わせて閉じた。

   ***

「準備が整っ、え?」
 執務室奥、タスリルの部屋のドアを開けたフォースの目に、椅子にゆったりと腰掛けたまま目を閉じているリディアが映った。タスリルがフォースを振り返り、薄い笑みを浮かべる。
「今のうちに、少しでも眠っておいた方がいいからね」
 タスリルが術を使って眠らせたのだろう。リディアが無事だと分かって、フォースは音を立てないよう、静かに息を吐き出した。リディアは最近、ほんの少しのことでも起きてしまっていた。やはり大きなお腹をしていては寝苦しいのだろうと思う。
「だが、もう少ししたら、痛みが来るだろうよ」
 タスリルが付け足した言葉に、一気に心配が戻ってくる。フォースは、リディアにそっと近寄った。手に握られているサーペントエッグを見て、フォースはタスリルに渡したままにしていたのを思い出した。
 フォースが皇帝を継ぐのは、国民にも周知の事実として受け入れられている。リオーネの一件もあり、すでに向き不向きではなく、やらなくてはならないことになっていた。皇帝としての任務を遂行できなければリディアにも弊害が生じるだろう。子供が生まれれば、その子供にもだ。
 リディアの顔をのぞき込んだその時、眉が少し寄った気がして思わず身構えた。リディアは少しずつ目を開けてフォースに気付くと、ニッコリと微笑んだ。
「フォース」
 差し出されたリディアの手を取る。
「準備ができたよ」
 そう伝えると、リディアはしっかりとうなずいた。その表情が一瞬で歪み、手を握る力が強くなる。
「リディア?」
「痛……」
 タスリルが側に来てかがみこみ、リディアと視線を合わせた。
「息を吐くんだよ」
「ん……、ああ」
「もっと、もっと吐くんだ」
 タスリルの手が、リディアの腰をさすっている。その視線がフォースに向けられた。替われということなのだろう、フォースはリディアの腰をさするのを受け継いだ。リディアは息を吐ききったのか、目を開けて小さな呼吸を繰り返している。
「ほら、その方がやり過ごせるだろう?」
 タスリルの言葉に、リディアが小さくうなずいた。やり過ごせるということは、痛みは変わっていないということだ。フォースの不安はさらに増した。
「どのくらいかかるんです?」
「分からんよ」
 簡単に帰ってきた返事に文句を言いたくなるが、どうにもならないことなのも理解できる。不意に、こわばっていたリディアの表情が緩んだ。その唇から、ホッとしたような息が漏れる。
「治まったら、今のうちに部屋を移動しよう」
 タスリルに、はい、と返事をして、リディアが一人で立ち上がった。フォースは思わずポカンと見つめる。
「大丈夫なのか?」
「痛くない時は、普段と変わらないのよ」
 そうは言っても、リディアの顔は幾分緊張しているようだ。だが、見ているだけの自分が取り乱してはいけないと思い、フォースはいつものようにリディアの腰を支えた。
「行こう」
「はい」
 その返事にうなずいてから、フォースはリディアの歩調にあわせ、ゆっくりと歩き出す。執務室を通って廊下に出ると、そこはいつのまにか使用人で溢れていた。
 ジェイストークと数人の兵士が確保している空間を、準備を終えた寝室に向かって歩く。心配げな顔の人や、頑張ってくださいと声をかける人もいて、リディアは頬を染めてその一つ一つにうなずき、挨拶を返している。こんなに人を使っていたのかと、妙な感心をしてしまう。
 リディアの部屋は、いつもは使わない廊下側のドアが開かれていて、そこから中に入る。部屋では、イージスを初めとするお産を手伝うことになっている使用人たちが、すでにリディアを待っていた。
「リディア様、お召し替えを」
 イージスがリディアの手を取り、浴室へと連れて行く。代わりにチュエナという清掃担当の婦人がフォースの側に立った。
「赤ちゃん、楽しみですね」
「え? ああ」
 リディアへの心配が先に立ち、いくぶん会話が上の空になる。
「リディア様がベッドに入られたら、ご退室くださいね」
「あ、そうだった」
 ライザナル王室では男は部屋にいられないのを思い出す。
「側にいられないなんて」
「見てたって心配は変わりませんよ」
 チュエルはそう言って楽しげに笑う。確かにどんな状況でも心配には違いない。
「それに、陛下にご連絡もなさいませんと」
「それは、するけど……。あ」
 連絡と聞いて、フォースの脳裏にシェダの顔がよぎった。シェダも呼び戻さなくてはならない。出立したばかりなのだから、連絡も早い方がいいのだろう。そう分かってはいても、フォースには後回しにしたい気持ちが大きかった。
 リディアが浴室から戻ってきた。身体を締め付けない、夜着のような服に着替えている。
「フォース」
 リディアはフォースのすぐ前に立つと、笑みを浮かべた。
「頑張るわね」
「待ってるよ」
 そう言ってうなずき、フォースはリディアの頬にキスをした。
「父を呼び戻すのは、もっと後でいいわ」
 リディアの言葉に、思わず噴き出しそうになる。
「大丈夫だよ。むしろ、あとから何度も言われる方が面倒だろ?」
 あ、と口を押さえ、リディアが苦笑した。気を使ってくれているのが分かる。でも、気遣わなくてはいけないのは自分の方だとフォースは思う。
「サッサとやること終わらせて、隣にいるよ」
 そう言って視線を合わせ、うなずいたリディアとキスを交わした。
 ベッドの側にいたタスリルが、リディアを手招きした。フォースはリディアを連れてタスリルの側に立つ。
「よろしくお願いします」
「ああ。待っておいで」
 目尻のシワが微妙に下がったことで、タスリルが優しい笑みを浮かべたのだと、フォースには理解できた。しっかりと礼をして廊下に出る。
「レイクス様」
 迎えたジェイストークと警護する兵士の他には、女性の使用人ばかりが残っていた。
「男は廊下にいるのも駄目なのか?」
「いえ。各自、自主的に持ち場に戻っております。すでにリディア様は通られましたしね」
 ジェイストークの笑みのせいで、半分冗談なのだと分かったが、フォースは返事の代わりにため息をつき、執務室へ向かって歩き出した。
 リディアは皇太子妃なのだし、愛想もいい。見たいという気持ちは充分に理解できる。だがフォースはそれ以上に、出産というモノがどれだけ大変なことかを意味しているように思えてならなかった。
 国全体で見れば出産は日常茶飯事だが、妊婦が死んでしまうことも多い。母親が無事だとしても子供に何かあったり、その逆もある。まさか、最後かもと思って見に来たわけではないだろう。だが、完全に振り払ってしまえるほど、不安は小さくはなかった。
「レイクス様、大丈夫ですか?」
「なに言ってる。悪いことが起こるかもしれないなんて、そんなに考えてな、あ」
 思わず振り返ると、ジェイストークはいつもより少し気が抜けたような笑みを浮かべていた。
「と、とにかく、ジェイに心配かけるほど、大丈夫じゃないなんてことはない」
「はい」
 余計な言葉に、当然ジェイストークも気が付いているだろう。フォースは恥ずかしさを隠して前を向き、再び歩き出した。
「父上に連絡は入れたんだろ?」
「させていただきました。すぐこちらに向かわれるとのことです」
「あとは父さんとシェダ様だけか」
 だけ、と言ってから、ミレーヌが頭に浮かんだ。今のリディアにとって必要なのは、むしろ母親の方だろう。だが、シェダに知らせをやったら、聞いた場所から取って返してしまうと思う。フォースは執務室のドアを開けるついでに振り返り、ジェイストークを見やった。
「自室に仕事を運んでくれ」
「承知いたしました」
 返事を聞きつつ執務室に入ると、フォースは厚く作られた小さな紙を取りだした。背中にジェイストークが兵に指示する声を聞きながら、ミレーヌ宛に手紙を書き始める。
 リディアが産気づいたことは、グレイにファルを送って、ルーフィスとミレーヌに伝えてもらう。シェダにはミレーヌにも連絡したことを合わせて知らせる。シェダがヴァレスまで戻るか戻らないかは本人の意志に任せようと思う。
 後をジェイストークに任せ、フォースは庭に出た。短く三度口笛を吹くと、ファルが城の裏側から姿を現した。すぐ側に舞い降りたファルの足に手紙を取り付ける。
「頼んだぞ」
 ファルも慣れたのか、特に合図も無いうちに飛び立ち、新たに合図がないか確かめるように上空を一度旋回してから、ヴァレスの方向へと遠ざかっていく。フォースはファルが見えなくなる前に、城に取って返した。