レイシャルメモリー後刻


   ***

「レイクス様、シェダ様とミレーヌ様が到着されました」
 もう何度やり過ごしたか分からない痛みが治まった時、リディアの耳に廊下からのジェイストークの声が届いた。ドアは開いていて、代わりのように女性の騎士が二人、廊下を向いて立っている。部屋には十五人ほどの女性がいるが、それぞれ無駄口が無いせいで、声が筒抜けになっているのだ。
「リディアはどこかね?」
「え? あ、隣ですが」
 シェダがたずねる声と、フォースが答えた声が聞こえた。フォースが隣の部屋にいたのは知っている。リディアは声が聞けただけでも嬉しかった。
「待ってください」
「なんだね?」
「男性は部屋に入れないんです」
「私は父親だ。リディアにとって男性ではない」
 シェダの言葉に、リディアは思わず顔を引きつらせた。すぐ側にいるタスリルがヒヒヒと笑い声を漏らす。リディアは恥ずかしくて顔が赤くなった気がした。
「女性のみ入室いただけるしきたりとなっております」
 今度はジェイストークの声だ。そう言い換えられては、一言も返す言葉がないのだろう、シェダの声が聞こえなくなった。
「あ、ミレーヌ様はお入りいただけます。どうぞ、こちらへ」
 二人分の足音が近づいてきた。ミレーヌだけが姿を見せる。ミレーヌはニッコリと微笑んで部屋に入ってきた。
「お母さん。あ、痛……っ」
 気が緩んでいたからか、予測していたはずの痛みに思わず声が漏れる。リディアは慌てて息を吐ききったが、その息は苦しげな声になって部屋に響いた。ミレーヌが側に来て腰をさする。
「一度乗り越えるごと、産まれてくるのが近づいているのよ。もうすぐ会えるわ」
 その言葉に、リディアは細かな息を繰り返しながらうなずいた。痛みのある時間は長くなり、間隔も狭まっている。たくさんいる人々の数だけ、こんな痛みがあったのかと思うと信じられない気持ちになる。
 でも、その数だけ乗り越えた人がいるのだ。自分も乗り越えて母になり、ミレーヌが見せてくれる優しい微笑みで、赤ちゃんを見つめたいと思う。もう少しでまた痛みは去るのだと、リディアは自分を励ました。
 痛みが消えてホッと息をついた時、悲鳴のような声を上げてしまったことを思い出した。隣の部屋にいるのだから、フォースにも聞こえてしまっただろう。
「心配させちゃったかしら……」
「ああ、たくさん心配させておやり。そうでもないと、割に合わないよ」
 タスリルはそう言って笑うと、お腹に手を当てる。いつものようにブツブツと呪文の詠唱が聞こえ、リディアは安堵した。ミレーヌは、かしこまってそれを見ている。
「もうじき息みたくなるだろうけど、いいと言うまで力を入れちゃいけないよ」
 その言葉に、はい、とリディアはうなずいた。ずっと持ったままでいるサーペントエッグが、温かに感じた。

   ***

 廊下側のドアの側を歩き回るシェダが、フォースの視界の隅に映っている。それすら気にならないほど、フォースの意識は隣に繋がるドアの方角へ向いていた。窓の側に置かれた机で仕事をしてはいるが、リディアの部屋から聞こえる声や音にも聞き耳を立てている。タスリルの声が聞こえることもあれば、誰か他の女性の言葉が漏れてくることもある。
 リディアの声は母親であるミレーヌが入室してすぐに聞こえた一度きりだ。息を吐ききってやり過ごす、というタスリルの言いつけを守っているのだろう。
 だが、気を抜いたら叫び声を上げてしまうほどの痛みなのだ。仕方がないとは思いつつも、リディアに何もしてやれないことにフォースはいらついていた。
 仕事は思うように進まないが、対処を終えた書類はある程度の山になっている。それだけ時間が経っているのだとフォースは実感していた。だが、隣からはなんの連絡も入ってこない。異常がないということなのだろう。
 だが、そんな言葉の一つでもいいから、報告が聞きたかった。ドアの側を足音が通るたび、どうしても視線が惹き付けられる。
「君はどうしてそんなに落ち着いていられるのかね」
 どうしてとは言ったが、シェダの声はたずねているというよりも呆れているように聞こえた。そんな風に言われるのは、シェダがまったく自分を見ていないからだと思う。
「落ち着いてなど。隣の音に耳を澄ませているから、そう見えるのだと思いますが」
「独り占めか!」
 シェダの声が大きくなり、フォースは慌てて手のひらをシェダに向けた。
「いえ、ここからリディアの声は聞こえません。まったく。一度も」
 本当かね、などとつぶやきながら、シェダはフォースの後ろを通り、ドアに耳を寄せる。フォースは知らない振りで、また机に向かった。沈黙が重たく感じる。
「いつの間にか呼び捨てだな」
「は? あ。いけませんか?」
「事実を述べたまでだ」
 そう言うと、シェダはまた黙り込んだ。こんな会話では、沈黙の方がまだマシかもしれない。隣の音に加えてシェダまで気になってしまったら、仕事などまったく手につかなくなった。ただ、ペンだけは離さず持っている。
「だいたい、子供なんて作るからリディアがこんな目に……」
「はぁ? 赤ん坊はまだかと望んでいらしたではないですか」
「一度しか言っておらん。二回目が言えないほど早かった。待つ楽しみも考えてくれたら有り難いとも思えるものを」
 これは何があっても、何かにつけて言われるだろうと容易に想像がつく。ただ何を言われても、今さらだったりするのだが。
「女の子だ。女の子がいい。そうは思わんか?」
「別に、生きていてくれたら、どっちでもかまいません」
 ドアから聞こえる音をあきらめたのか、シェダはフォースの後ろをウロウロし出す。
「誰に似ているだろう。髪の色が何色かも気になるな」
「そんなの、どうでも」
「親なら普通気になるだろう」
「普通がどうか知りませんが、今俺は、ただ無事でいて欲しいだけです」
 フォースの言葉に、シェダは長いため息をついた。
「そういえばこの間も、産婦と赤ん坊の葬儀があっ、いや、なんでもない」
 なんでもないも何も、そこまで言ってしまったら言ったも同然だ。この間も、ということは、それなりに数が多いということなのだろう。母子の葬儀があるたびに、シェダはリディアを心配していたのだろうと想像がついた。だがフォースには、シェダの内情など、どうでもよかった。
「あなたっ!」
 いきなりドアが開き、ミレーヌがそこにいた。フォースは思わず立ち上がった。
「ミレーヌ、リディアは?」
 シェダは問い詰めるように顔を寄せる。ミレーヌは眉を寄せ、フッとため息をついた。
「順調ですよ。けど、そんなところで騒いだら、全部筒抜けです。非常識ですよ。リディアに嫌われても知りませんからね」
 そう言ったミレーヌを、シェダは唖然とした顔で見つめている。ミレーヌの視線がフォースに向いた。
「もうすぐ産まれますよ。息みがきましたからね」
 フォースは、ハイ、とだけ返事をした。ミレーヌはフォースにだけ笑顔を残してドアを閉める。
 フォースは、まだ終わらないのかと、力が抜けたように椅子に座り込んだ。待っているだけでも辛い。だが、さらにもう一つ問題があった。その元凶が、をふるわせている。
「私が何か嫌われるようなことを言ったというのかっ」
 ドアに向かってそう言ったシェダが振り返る。シェダには記憶ってモノがないのかとフォースは思った。
「そう言えばこの間も」
 そこだけつぶやいて口をつぐんだフォースに、むきになったシェダが視線を向けてくる。
「あ、あれは純粋にリディアを心配して言ったことで、だ、だからだ、その……」
 シェダは説明するのをあきらめたようだ。難しい顔をしてフォースの後ろをフラフラと歩き始めた。もうこのまま何も話さない方が、よほど建設的だと思う。
 ふと隣の部屋から騒然とした空気が漏れてきた。その中に苦しげなリディアの声も聞こえ、心臓が跳ね上がる。シェダも気付いたのだろう、ドアに耳を寄せた。
「もうすぐだな」
 その声は嬉しそうだ。だがやはり心配が先に立つ。なにせ、今まで聞こえなかったリディアの声が聞こえるのだ。しかもその周りを巻き込んだ喧噪は何度も繰り返され、そのたびに息が詰まる思いになった。
 隣の部屋で、すでに何度目かわからない声が飛び交い始めた時、廊下側のドアにノックの音がした。
「レイクス様、陛下がご到着されました」
「あ。そうだった」
 クロフォードが来るということを、フォースはすっかり忘れていた。慌てて駆け寄り、ドアを開けると、クロフォードはすでにジェイストークのすぐ後ろまで来ていた。
「まだだそうだな」
「はい、まだ……」
 心痛を見て取ったのか、クロフォードはフォースの肩をポンと叩いた。
「何度か経験すれば慣れる」
「は? な、何度かって」
「もし今回が男でも、いろんな状況を考えたらもう一人はいた方がいい」
 クロフォードの言葉を、フォースはポカンと見つめた。何度経験しても慣れるとは思えないし、いろんな状況が何なのかすら考えられない。
「もう少しよ」
 ミレーヌの声が届き、フォースは息を飲んだ。廊下に一歩出て、リディアの部屋の方をのぞき見る。ワァッという歓声のあとに、赤ん坊の産声が聞こえてきた。
「産まれたか!」
「産まれましたね!」
 フォースの後ろからシェダが出てきた。クロフォードとガッチリ握手を交わすと、そのまま隣の部屋へと歩いていく。フォースは思わず唖然として二人を見ていた。
「レイクス様?」
 ジェイストークの声で我に返り、フォースもリディアの部屋へと足を向けた。
「王子様です」
 途中で誰かがそう言ったのが聞こえた。中を見ると、先に通されたクロフォードとシェダがリディアに声をかけ、すぐに浴室へと入っていくのが見えた。赤ん坊はそっちにいるのだろう。
 二人の女性騎士の間を通り、部屋に入った。リディアはベッドに横向きに寝かされ、腰から下は隠されている。フォースがまっすぐリディアの頭側へ歩を進めると、気付いたリディアが笑みを向けてきた。その笑みが歪む。
「痛むのか?」
 かがみ込んで顔を近づけたフォースの問いに、ベッドの向こう側にいるタスリルが肩をすくめた。
「これが最後の痛みだよ。手を握っていておやり」
 なんのことか分からず、それでも言われた通りに手を握ると、リディアはほんの少し微笑み、身体に力を込める。リディアの足側に回ったタスリルが、笑みを浮かべてうなずいた。リディアの手からも力が抜ける。
「よし。よく頑張ったね」
 タスリルの言葉で、フォースはすべてが終わったのだと理解した。
「今連れてくるからね」
 タスリルはリディアの側にいた数人を連れて浴室の方へと入っていく。
「無事でよかった……」
 フォースがつぶやくと、リディアは可笑しそうにクスッと笑い、握った手のもう片方の手を、フォースの前で開く。
「これがあったから心強かったわ」
 その手のひらで、エッグが揺れた。その手に手を重ね、フォースはリディアに口づける。
「こんなに大変なら、俺、もう」
「リディア様」
 イージスが再び泣き声を上げ始めた赤ん坊を抱いて、浴室から戻って来た。リディアは上体を起こしてエッグをフォースに渡し、そっと大事そうに赤ん坊を抱き取る。一度フォースと視線を合わせて微笑むと、リディアはそのままの笑みで赤ん坊を見下ろした。フォースもその視線をたどる。
 リディアの腕の中で泣き声を立てる小さな人間に見入った。泣くことに力が入りすぎ、顔がしわくちゃで赤い。
「フォースにそっくりよね」
 髪の色が自分と同じなのは分かるが、本当に似ているかは分からない。リディアがふんわりと揺らすうちに、赤ん坊の泣き声が少しずつ小さくなってくる。泣き声が落ち着くと、少し人間らしくなった気がした。
 フォースは、顔を上げて見つめてくるリディアになんとか笑みを向け、もう一度赤ん坊に視線を戻した。まぶたを開いて母親を見上げたその瞳に息を飲む。髪だけではなく、瞳もフォースと同じ色だったのだ。リディアは嬉しそうに控えめな笑い声をたてた。
「フォースと一緒だわ」
 その深い紺色は、神の守護者と呼ばれる一族のもので、生存しているのはフォース自身、自分一人しか知らない。シャイア神とシェイド神のゴタゴタが残っていたら、自分がやり残したことを、この子が負わなければならなかったのかもしれなかった。
「終わらせて、よかったんだな」
 フォースのつぶやきに神妙にうなずくと、リディアは赤ん坊を差し出してきた。エッグをリディアに預けてそっと腕に抱くと、間近にある同色の瞳に自分が映っているのが見えた。小さな手が、ひどく愛おしい。
 子供の頃、家族という一つの単位が苦手だった。いつでも別世界のようにさえ感じていた。それが今は目の前に、そして腕の中にあり、自分がいつの間にか同化している。
「リディア。……、ありがとう」
 喜びや愛おしさや安らぎなど、様々な思いが自然と感謝の一言にこもった。リディアはくすぐったそうに微笑む。
「フォースも、ありがとう」
 赤ん坊を挟んで口づけを交わした。フォースの後ろから足音が響く。
「私にも抱かせてくれるか」
 クロフォードだ。フォースは立ち上がってその腕に赤ん坊を預けた。赤ん坊は瞬きを繰り返したかと思うと、声を上げて泣き出す。
「おぉ、よしよし。私の腕で泣くとは大物だな」
 クロフォードは慌てて赤ん坊をフォースに返した。フォースはリディアからエッグを受け取ると、その手に赤ん坊を渡す。それを見ていたクロフォードは、上着の内側に手を入れると、金色のエッグを探り出してフォースに向き直る。
「レイクス、息子のエッグだ」
「は? もう、できているんですか?」
「お前の代で継承権一位になるのだから三人お揃いの金だ。あとは肖像を入れるだけになっている」
 クロフォードは満面の笑みで、フォースに真新しいエッグを手渡した。それはフォースのエッグと同じ大きさで、細工は一段と細かくなっている。
「比べてみると、技術が進んでいるのがよく分かるな」
 クロフォードは自分のエッグを外し、フォースの手に並べて乗せた。三つ並んだ金色のエッグは、細工の出来がどんどん良くなっている。その輝きも、細かな傷のせいか少しずつ違っていた。だがそこには、脈々と受け継がれていく変わらない思いを感じる。
 エッグを作った職人が受け継いだ技術や情熱。それと同じに、自分もライザナルという国のため、国民のため、そして家族のために引き継がなくてはいけないモノがある。
 フォースはまず一番古い一つを、クロフォードに返した。今回作られた新しい一つは、リディアが抱いている息子の胸に置く。そして残った自分のエッグは、すべての責任を負う決意と共に、服の内側に取り付けた。
 だが。まずフォースが最初にやらなくてはいけない仕事は、浴室で言い争っているシェダとミレーヌをなだめることだった。