レイシャルメモリー後刻

― この街道の果てまで ―

 食事の風景が質素になってきたと、レイサルトは思った。祖父である前皇帝クロフォードが生きていた五年前、自分が十歳の頃までは、溢れんばかりに花が飾られ、それに負けないくらいの料理が並んでいた。
 今は皿の数も半分ほどに減り、珍味だと言われる食べ物は、たまにしか見なくなった。とはいえ、朝日が白いテーブルクロスを輝かせているので、むしろ華やかで穏やかな空気が、そこにある。
 料理が少なくなった分だけ出入りする使用人も減っているため、部屋は落ち着きを増していた。と言っても、両隣には二人の弟、レンシオン、レファシオがいるし、父フォースと母リディアの間には八歳になったばかりの妹、リヴィールがいる。おまけにジェイストーク、イージス、ソーンもいるので人数は多い。
 五年もの時間をかけ、日常が少しずつ変化しているのをレイサルトは感じていた。父が皇帝を継いでから、他に変わったことはないかと考えを巡らせ、レイサルトは両親の服装に目を留めた。テーブルの上と同じように、服装にも飾り気が無くなっている。
 経済状態はむしろよくなっているので、質素にしなければならない必要はない。式典や行事などでの礼服は昔と変わらないため、庶民の目には変化など無いように見えているだろう。皇帝になったからこそ、メナウルの騎士と聖歌ソリストだった両親らしい生活を追求できるようになったということか。
「どうした?」
 いつの間にかフォースがこっちを向いていた。レイサルトはその視線と向き合う。
「いえ。なんでもありません」
 解決したことを、わざわざ確認する必要はない。レイサルトが苦笑を返すと、フォースは軽くうなずいて食事に戻った。
 忙しいはずのフォースだったが、家族で食卓を囲んでいる時はいつも余裕の笑みを浮かべていて、逆に暇そうに見える。レイサルトはそれをジェイストークに言ってみたことがあったが、その方が話しかけやすいからでしょう、と返された。そして、それをイヤだと思われたなら反抗期ですよ、とも。
 そのことでレイサルトは、自分は守られているのだ、と強く感じるようになった。思い出すに付け、嬉しいような恥ずかしいような、くすぐったい気持ちになる。そして同時に、自分が反抗期であるだろうことも理解してしまった。
 気にしないでいようと思っても、一度意識してしまうと容易には止められない。だが、ジェイストークに反抗期だと悟られたくなく、余計なお世話だと思う気持ちに対しては、努力して目をつぶっていた。
「これ、メナウルの果物だよね?」
 デザートに出された大きな柑橘類の果物を見て、真ん中の弟レンシオンが嬉しそうに目を細めた。柑橘系の果物は気温が足りないので、ライザナルでは南方でしか実らない。この大きさの物は、間違いなくメナウル産だ。
「そうだよ」
 レイサルトがそう答えると、十歳になったばかりの下の弟レファシオが、反対側から、ふぅん、と、ため息混じりの声を漏らした。
「レイ兄様、食事が終わったら出発されるんでしょう? メナウルに行けていいなぁ」
 その羨ましげな声に、レンシオンが、でもね、と口をむ。
「父上も母上も兄上も、お仕事で行かれるんだ。レファシオも行きたかったら、役割を負わせていただけるように勉強しなくちゃ」
「ええ? 勉強かぁ。ううん……」
 難しい顔で考え込んだレファシオを見て、お互いに一瞬だけ目を合わせた両親が控えめに笑った。
 レイサルトは、フォースとリディアと一緒に、五年前から毎年メナウルへ行っていた。勉強をしたから行けるのではなく、勉強をしに行くのだとレイサルトは思う。水と作物のやりとりについての確認など、仕事面での行動にも同席し、城都やヴァレスの様子やドナ近辺の畑を見て回った。
 皇帝を継ぐのなら、覚えなくてはならないこと、できなくてはいけないことは山のようにある。フォースがライザナルに戻るまで、メナウルの騎士だったなどと信じられないほどに。
「失礼します」
 ノックも早々に、アルトスが入室してきた。早足でフォースの元へと歩み寄ると、耳元に口を寄せて何かいている。フォースの表情が明らかに引き締まった。
「用件は?」
「時間はいくら掛かってもかまわないから、直接腹を割って話されたいとのことです。メナウル行きの日程もすべてお話しした上、ご滞在いただくよう客室へお通しいたしました」
 控えめな声ながら、アルトスの声はレイサルトにもしっかりと届いた。アルトスのことだ、自分にも聞かせたかったからなのだろうとレイサルトは思う。その予測は間違いではなかったのだろう、アルトスと目を合わせて小さくうなずいたかと思うと、フォースはレイサルトに視線を寄越した。
「用事ができた。メナウルへはレイサルトが行ってきてくれ」
「ええっ? 一人でですか?!」
 レイサルトが慌てて聞くと、フォースはリディアに視線を向けた。
「行くか?」
「残るわ」
 リディアは少しも間を置かずに言うと、穏やかに微笑んだ。レイサルトも母が父を置いて旅をするなど、ありそうにないとは思ったが、少しは悩んでくれるだろうかと期待しただけに、身体からすべての力が抜けた思いがした。
「行ってくれるか?」
「はい。ご同行いたします」
 フォースに問われてそう返したアルトスに、レイサルトはとても心強さを感じた。
「次の式典までに戻ってくれればいい」
 アルトスは、御意、と言って頭を下げた。レイサルトはアルトスの口の端に、笑みがあるように見えた。

   ***

 ラバミスに腹を割ってと言われたからには、大きな部屋で対面するのは不自然だ。だがフォースは、狭い場所で顔を突き合わせて話す気にはなれなかったし、実際帯剣はしなくても、剣を持てるだけの空間は欲しかった。
 レイサルトを見送ってリディアと自室に向かいつつ、フォースはラバミスと会う部屋を用意するようにと、すぐ側にいるジェイストークに伝えた。
「承知いたしました」
 ジェイストークは軽く頭を下げると、フォースの耳元に口を寄せる。
「ウィン殿は、特に情報は無いと。完全にラバミス殿が単独で動かれているようです」
 その言葉に目を向けることなく、フォースは一度うなずいた。ウィンはいつでも反乱を起こせるようにと、フォースが皇帝になった今でも、血の気が多いを集めて囲っている。どこかから不満が出れば、その中の誰か彼かが知っていて、いち早く問題をつかむことができる立場にいるのだ。
 話しが大きくなれば、敵わないと分かっていても、たぶん本当に攻めてくるだろうとフォースは思う。だが、だからこそ、ウィンはそのままの立場でいて欲しいと思っていた。ウィンもまた、フォースにとって大切な目となっているのだ。何でもできる立場だからこそ、ウィンのようなが必要だと思う。
 ジェイストークが、では、と側を離れた。部屋を用意しに行くのだろう。マクラーン城には謁見の間をはじめ、来客と面会するために造られた部屋が数多くある。細々と打ち合わせをしなくても、ジェイストークなら自分の気持ちを汲んだ上で、最適な部屋を選んでくれるだろうと、フォースは疑いの欠片も持っていなかった。そして、ラバミスの用意ができ次第、フォースもその部屋に行く予定でいる。
 護衛の騎士二人を部屋の外に残し、リディアと一緒に自室に入った。いつもならフォースにとって、緊張から解放され、心の底からホッとできる時間だ。だが今日は少し違っていた。
 一歩先に部屋に入っていたリディアが、ドアを閉めてすぐに振り返ったのだ。少し不安げなリディアの瞳が、努めて笑みを浮かべたのを感じ、フォースは思わずその肩をつかんで抱き寄せた。
 行き先が慣れたメナウルだとはいえ、レイサルトを一人で出したのは、急な決定だった。自分と同じようにリディアも、レイサルトが無事に帰ってきて、その顔を見るまでは心配だろうと思う。
 神の守護者と呼ばれる種族の者が、初めて来ているのも、間違いなく不安材料になっている。何を話しに来たのかは、まだまったく分からないし、ラバミスの滞在はメナウル行きを承知した上でのことだ。面倒な話しをするから、長期に及ぶと考えている可能性もある。とにかく、世間話でないのは明らかだ。それが何であれ、リディアも家族も、そして国も、守らなくてはならない。
 腕の中で、リディアが小さく息をついた。苦笑して見上げてくる唇にキスをして、フォースは腕に力を込める。
「なにも心配いらない」
 それだけ言うと、リディアはゆっくり大きくうなずいた。琥珀色の髪が光をはらんで揺れる。その髪をくように撫でると、リディアはかすかな笑い声を漏らした。
 フォースが腕をゆるめて顔をのぞき込むと、リディアは柔らかな笑顔で見上げてきた。状況が何一つ変わったわけではない。ただ、信じてくれているのだとフォースは思った。
「お茶をれるわ」
 その言葉にフォースが笑みを返すと、リディアはすぐ側で小さく手を振り、台所へと入っていく。フォースはお茶の用意を始めたリディアをのぞきながら通り過ぎ、南に向いている窓の前に立った。
 この城から初めて見下ろした時よりも、マクラーンの街は広くなっている。今では街の外壁は形だけのモノになった。その外側にも溢れるように人家や商店が建ち並んでいる。そして街全体には、術師街ですら明るくなったと思えるほどの活気もある。それを感じるにつけ、自分のやり方は間違えていない、とフォースは自信を持って思えた。
 この繁栄は、ペスターデの功績が大きい。フォースがマクラーンへと移り住んだ十年前に、ペスターデもジェイストークと一緒にマクラーンへ戻った。ペスターデが現地で進めた寒さに強い作物を作る努力は、収穫増加と後継者の輩出という、二つの方向に実を結んだのだ。ペスターデが亡くなった現在も畑は北方に広がりを見せ、さらにその地で研究が進められている。
 結果、少しずつだがライザナルの国力は上がり続けている。マクヴァルを倒してすぐの頃は、自国のことだけで精一杯だった。だが今なら他国とも、いい関係をけていけるのではないかとフォースは思う。
 ジェイストークによると、ラバミスは三十代半ば、だいたいフォースと同じくらいの歳だという。背の高さもあまり変わらず、ただひどく細身なのだそうだ。そこを強調したジェイストークの話し様は、暮らしが楽じゃなさそうだと暗に伝えたかったからだろうと、フォースは感じていた。
 ディーヴァは山なだけに高地で気温も低い。種族の者たちがどの辺りに住んでいるかは分からないが、そこで育つ作物とその苗を分けることくらいなら造作無いだろう。
 テーブルにお茶が置かれる音で、フォースは振り返った。それに気付いたリディアはニッコリ微笑んで立ち上がり、フォースの方へと歩みを進めてくる。フォースの差し出した手に、リディアが腕をめた。視線が街とその向こうにある森との境界あたりに向く。フォースも同じ方向に目をやった。
 レイサルトはマクラーンの街を抜け、メナウルへと続く街道に入った頃だ。今回の旅で、やってきて欲しいことはいくつかある。サーディと会って契約の更新をすること。シェダとミレーヌのマクラーンへの引っ越しを進めること。今回会えるはずだった人たちに、元気でいると伝えてもらうこと。
「レイ、楽しんでこられるといいわね」
 ああ、とだけ返して、フォースはリディアの腰に腕を回した。二人で微笑みを交わし、視界に入ったお茶に目をやる。同じ動きをしたことが可笑しくて微笑み合うと、フォースはリディアの腰を抱いたままテーブルへと歩き出した。

   ***

 食事のあと、レイサルトは予定通りの時間にマクラーン城を出発した。予定と違ったのは、一緒に行くはずだった両親、フォースとリディアが馬車にいないことだ。
 初めて両親の見送りを受けた。行ってまいります、と頭を下げ、できる限り冷静に、普段通り振る舞った。この旅の間、気が休まる時がないかもしれないと、レイサルトは思っていた。
 馬車はマクラーンの街を出て、街道を南下している。いくつかの地点で宿泊をし、一日に何度か馬を取り替えながら、メナウルに向かうことになっている。
 街道の脇は、ただひたすら作物の緑と土の縞模様が続いていた。レイサルトが生まれた頃、街道をこの形態にしたルジェナで盗賊の奇襲が減り、作物の収穫も増えたため、ライザナル全体で採用されるようになったらしい。畑は、奥に見える自然のままの斑な緑とは違った、穏やかで若い緑を見せている。
 道の脇に畑というこの形態を始めたのはフォースの発案だったと、レイサルトは周りの人間から聞かされていた。ずっと城内にいただけでは、思いつけないやり方だ。
 単純に父を誇ればいいだけのことだと、レイサルトは思い込もうとしていた。だが同時に、嫉妬心のようなモノがある。自分には考えつかないだろうと思うその感情は、恐怖にも似ていた。
 今回レイサルトは、フォースとアルトスの会話を聞いて、誰かが訪ねてきていることは知っていた。来客との話し合いから外されたことで、自分にはなにも出来ないのだろうと思う気持ちが強くなってしまった。できないから、フォースとの同席を許されなかった、そう思った。
 レイサルトは進行方向を向いて座っていて、その向かいにはアルトスがいる。誰かが来たという話しを持ってきたのはアルトスだ。アルトスは自分から話す人ではないし、余計だと思ったことはらない。
 来客が誰であれ、フォース本人がメナウルと定期連絡をするよりも、優先させなくてはならない人間ということは理解できる。だが、肝心のそれが誰なのかを、まだ教えてもらってもいない。知りたければ、レイサルトの方からアルトスにねてみる以外に無かった。
 話をどう切り出すか考えても、少しもよさげな案が出てこない。レイサルトの視線が、何度か窓とアルトスを行き来した。
「何か?」
 先にアルトスに話しかけられ、レイサルトはバツの悪い思いをした。だが、言いそびれてそのままになるよりは、いい機会に違いない。ハッキリ聞いてしまおうとレイサルトは口を開いた。
「父を訪ねてきたのは、誰なんです? 父が迷うことなくメナウル行きを取り消すなんて、一体」
「ラバミスとおっしゃる方です」
 即答で名前が返ってきた。だが、その名前に聞き覚えはない。
「どういう方ですか?」
 今度は一瞬間があった。
「神の守護者と呼ばれる種族の方です」
 それがどういう人間なのか、レイサルトが理解するまでに、少しの時間が必要だった。自分の顔がこわばるのが分かる。
 自分と同じ紺色の瞳を持つという、神の守護者。生けげた見返りに神と話し、神の力を使って神を守ってきたという種族だ。ディーヴァ山脈のシアネル側に住んでいるらしいが、その場所は依然分かっていない。
 ただ、その暮らしは激変しているはずだった。フォースがマクヴァルからシェイド神を解放して以来、神が降臨をやめたのだ。神の守護者が使っていた神の力も、アルテーリアから無くなった。時代の流れが大きく変わったのだ。
 それと共に、それぞれの神が所有する土地としての国境が曖昧になった。人の意志が国境を定めている状態になり、今、国境を保つためには、繊細均衡る努力が必要だ。
 それともう一つ、一年を通してやかだった気候に、大きな移り変わりができた。季節の変化が激しくなったのだ。
 先手を打っていたライザナルと、ライザナルに追随したメナウルでさえ、作物の収穫量が一時期落ち込んだ。ライザナルとメナウルはほんの数年で立て直し、安定もしたが、ディーヴァやシアネル、パドヴァルなど、人口の少ない他国の情勢は不気味なほど伝わってこなかった。
 それなのに、十年以上経った今、神の守護者がれたのだ。何か問題があったのかもしれない。そうでなくても、今まで霧に包まれていた種族の実態や、ディーヴァとシアネルあたりの情勢が明らかになる。ライザナル皇帝であるフォースが、直に会わないわけにはいかないだろう。
 レイサルトは、父方の祖母であるエレンという人が、その神の守護者の一人だと聞いていた。フォースが持っているサーペントエッグにある細密肖像画を見せてもらったが、確かに祖母は紺色の目を持って描かれていた。
 そしてフォースは種族と一般人の間に生まれた戦士と呼ばれる立場で、レイサルト自身も瞳の紺色を受け継いでいる。無関係とは言い難かった。
「今になって、一体何を……」
「さぁ。なんでしょうね?」
 笑みさえ浮かべたように見えるアルトスの表情に、レイサルトはあっけにとられた。
「心配にならないですか?」
「何がです?」
 あまりに簡単に返された言葉に、レイサルトは苦笑した。ラバミスという人はライザナル皇帝という立場に対して、何か無理難題を押しつけに来たのかもしれない。もしくは、戦士としてのフォースに、よくない知らせを持ってきた可能性もある。だがアルトスは、まず間違いなく、本当に何も心配してはいないのだろう。それだけフォースを信頼しているということだろうか。むしろ、面白がっているように見えなくもない。
 アルトスはの場を除くと、フォースに敬語を使うことが無い。だが、友人と言うほど仲がよくも見えない。むしろ、練習と言っては本気としか思えない剣の打ち合いをするし、り合いもする。それなのに、側にいるジェイストークに止められることもない。
 心配することは無い。普段と変わらないアルトスを見ていて、レイサルトは少しずつ、その思いが大きくなってきた。
「悪い方向にだけ考えるのは、おやめください」
「そうですね。つい悪く考えてしまいました」
 レイサルトは、素直にうなずいた。アルトスの目に、不意に力が増す。
「いい方向にのみ考えるのも、おやめください」
「え?」
 思わず見入ったアルトスの黒い瞳が、柔らかに笑みを浮かべる。とたん、まるで思考が流れ込んできたかのように、レイサルトは納得できた。ここでいかに悩もうとも、結論を出すのはフォースなのだ。そしてそれは、今のレイサルトにとって絶対だった。無力感が気持ちを支配していく。
「はい。俺が考えても無駄ですね。それより、これからやらなくてはならないことを考えます」
 アルトスはいつもの表情で軽くうなずき、もう一度口を開く。
「予定通り、本日はギデナで宿泊となります」
 ギデナには馬車や馬を置く拠点がある。宿泊するにはちょうどいいのだろう。レイサルトは、はい、と返事をして、窓の外に目をやった。
 旅路の先のことを考えたかった。誰かがメナウルに行かなくてはならないことも理解できている。だが、同じ紺色の目を持つ者として、その場にいられないことがひどく悔しかった。

   ***

 ジェイストークが選んだ部屋は、フォースがいつも使っている執務室と同じ広さの部屋だった。後から行くので待っていてもらうようにとラバミスに伝えてあったが、フォースはラバミスより先にその部屋に入った。
 いきなり対等に話しをするつもりはないので、向かい合ったソファーを通り過ぎ、奥に置いてある机の椅子に腰掛ける。フォースは分厚い本を机に置いて、適当に真ん中あたりを開いた。
 当然、読んではいない。ラバミスに、フォースの読書を中断させるのだという負い目を感じてもらうためだ。その負担を感じないようであれば、逆にフォースも気を使わずにすむ相手だと分かる。もうじき来るはずの気配を感じ取ろうと、意識はドアの外側に向けていた。
 はたして、二人分の足音が近づいてきた。部屋の外に立っている騎士のが、敬礼をしたのだろう金属音を立てる。ご苦労様、と言ったジェイストークの声が聞こえた。
 ドアに三度、ノックの音がした。入れ、と答え、フォースはドアを見ていたその目を、並んでいる文字に落とす。
「失礼いたします」
 ドアが開いて、二人が入ってきたのを視界の隅でえてから、フォースはようやく顔を上げた。幾分顔を引きつらせたラバミスだろう男と目が合う。確かに同じくらいの歳、背丈に見えるが、非常に細身だ。髪はこざっぱりと切ってあるが、服装は街の人間よりも、いくらかくたびれて見える。
 そして、当たり前なのだがその目は紺色をしている。第一王子のレイサルトは同じ紺色だが、第二、第三王子のレンシオンとレファシオ、王女のリヴィールは茶系だった。そのため、自分以外に目にしたのは、母とレイサルトとラバミス、まだ三人だけだ。実体では見たことのない種族の人間も、一人いたことはいたのだが。
「ディーヴァからおいでになった、ラバミス様にございます」
 ジェイストークが深々と礼をすると、ラバミスはつられるように頭を下げる。そこに緊張が見て取れたフォースは、逆に気持ちが落ち着いた。わざと便宜上だととれる堅い微笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。閉じた本が、パタッと小気味のいい音を立てた。
「種族の方に、来ていただけるとは」
 ラバミスの前に立って、真っ直ぐ見つめる。落ち着かないラバミスに、フォースはソファーへ腰掛けるように勧め、自分はサッサとその向かい側に腰を下ろす。ラバミスは息なのか声なのか分からない音で、はい、と返してソファーに座った。
「お茶をお持ちいたします」
 ジェイストークは、視線を合わせたフォースの気持ちを察したのだろう、そう言い残して部屋を出て行く。ラバミスはジェイストークをチラチラと目で追っていたが、完全にドアが閉まると、意を決したようにフォースに向き直った。
「戦士、だな?」
 ラバミスの問いに、フォースは思わず息で笑った。その言葉を懐かしいと思う。それを肯定と取ったのか、ラバミスは安心したように再び口を開いた。
「種族の一員として、やってもらわなくてはならないことが残っている」
 口から出たのは敬語ではなかった。やはり少しでも上の立場から物を言いたい、すなわち有利に進めたいのだ。それだけ面倒なことなのだろう。それゆえフォースは、そのまま話しに乗るわけにはいかなかった。
「種族の一員になど、なった記憶はない」
 フォースが返した言葉に、ラバミスは凍り付いている。フォースはその顔に苦笑を向けた。
「早くに亡くなった母が、種族の者だったというだけだ。それも、何も知らされず混乱に巻き込まれ、様々な文献を調べてくれた友人から知った。だいたい種族の人間として会ったのは、あなたが初めてだ。これで一員だなどと、都合が良すぎると思わないか?」
「しかし、……」
 返す言葉が見つからなかったのだろう、ラバミスは口をつぐんだ。だが、ハッとしたように顔を上げる。
「都合よく思われても、仕方がないのかもしれない。だが、サピロス祖父さんとは話さなかったのか?」
「サピロス?」
 フォースが聞き返すと、ラバミスは一度大きくうなずき、しっかりと視線を合わせてくる。
「十七、八年ほど前だったか、マクラーンに来たはずだ。会って話しを聞いたのでは?」
 祖父さんと呼ばれるだろう風貌なら、フォースは確かに見たことがあった。石でできた小さな部屋で黒曜石の鏡を割った時、その欠片から立ちのぼった魂だ。会って話しを聞いたとは言いがたい。
「思い当たったようだな。聞いていないとは言わせないぞ」
 フォースの考えていることを見透かしたのだろう、ラバミスはフォースの顔をのぞき込んできた。
「多分そうだと思っただけだ。俺が会った時は、既に亡くなっていた。名前も知らない。話を聞けたのも、一言二言だ」
 フォースの答えを聞いて、ラバミスは眉を寄せる。
「亡くなっていたら話を聞けるわけがないだろう。気味の悪いことを」
「なんと言われても、実際そうなんだ、種族の人間が呪術で封印されていた。その黒曜石の鏡を割った時、立ちのぼった魂に声を掛けられた。白髪で白いえ、シェイド神の解放を望み、俺を子孫と呼んだ」
 その言葉を、ラバミスはあっけにとられて聞いていた。サピロス祖父さんだ、と弱々しくつぶやき、肩を落とす。
「生きて、……、会えなかったのか」
「だが、指針は与えてもらった。感謝している」
 ラバミスはボーッと何もないテーブルを見つめている。その視線が頼りなげに揺れた。
「確かに、戦士にとって種族の者が他人に見えても仕方がないというわけか」
 ラバミスは頭を抱え込んだ。当然このままでは話し合いにはならない。フォースは、強い意志を持ってラバミスを見つめた。
「何も聞かないとは言わない。ただ、種族の者だからといって、すべてを聞き入れるわけにもいかない。今はライザナルの皇帝だ。そこは理解してもらわないと困る」
 ラバミスはその力に押されたのか、口元を何度か引きつらせる。
「それは、……、分かる」
 そう言って肩を落とし、ラバミスは短くため息をついた。
「だが、やってもらわないことには……」
 ラバミスは眉を寄せて言いづらそうに、しかし真っ直ぐに視線を合わせてくる。フォースは言ってみるようにと、手のひらを上に向けて、どうぞ、とした。
「強くはないが、時折シャイア神の声が聞こえるんだ」
 予想と違う言葉に、フォースの動悸が激しくなる。
「未だにか?」
「いや、五年ほど前までは、種族の誰にも聞こえていなかったんだが」
「それで、なんて言ってるんだ」
 フォースは思わず先を急かした。ラバミスは興味を引いたことに安心したのか、ホッと息をついてから口を開く。
「最後の巫女に会わせろと」
 その言葉に、フォースは息を飲んだ。ラバミスはフォースの感情に怒りの存在を見つけたのか眉を寄せたが、一息ついてから話しをつなぐ。
「巫女に直接話しをつけようとも思ったんだが。下界で聞くところに寄ると、戦士が巫女をったと」
「目的は」
 忌々しげに聞き返したフォースに、ラバミスは首を横に振った。
「いつでも神は手っ取り早く、要点しかおっしゃらない」
 フォースは片手で顔をい、盛大なため息をついた。その話し方が、なにより神の言葉らしいと思う。神は種族の者に対しても、フォースとリディアに対する姿勢と同じ態度を取っていたのだ。だとしたら、詳しいことはラバミスにも分からないだろう。聞くだけ無駄ということだ。
 生け贄まで捧げてこの程度だなど、降臨が無くなって本当に良かったとフォースは思う。だが、シャイア神がなぜリディアに会いたがっているのか、皆目見当がつかない。
「当人が側まで行けば、何か伝えてくださるかもしれない」
 ラバミスの言葉を、フォースは顔をゆがめただけでやり過ごした。何か伝えるより先に、手を出される可能性もある。もし何か起こってしまったらと思うと恐怖心が起こってくる。そうなってからでは遅いのだ、用心するに越したことはない。
 だが用心といっても、神に対してどうすればいいというのだろう。いつも避けることはできなかった。起こってしまってから、対処するばかりだった。
「会わせられなかったら、一体どうなることか」
 ラバミスは、硬い表情を崩さないフォースに、追い打ちを掛けてくる。
「そうだな。分からない……」
 どこまで行けば、シャイア神の声が聞こえるのか。ライザナル側からディーヴァへ登るのは、山が険しすぎて無理だ。ディーヴァ山脈を南下して、メナウルのすぐ北を東側に回り込まなくてはならない。
 フォースはそう返事をしながら、ほとんど無意識のうちに、その行程を頭の中にき始めていた。