レイシャルメモリー後刻
   ***

 窓から差し込んできた朝の光にまぶたをでられ、レイサルトは薄く目を開けた。マクラーンにある自室とは違う白い壁、そして、きらびやかな朝の光が目に入ってきた。
 ライザナルの王族がヴァレスに訪れた場合、滞在する家は決まっている。フォースとルーフィスが二人で住んでいた家の内装を整えたモノだ。特に飾り立てていないためか、両親の私室と雰囲気が似ていると、レイサルトは来るたびに思っていた。
 レイサルトがその家に到着して丸一日が経った頃、ハヤブサのコルが両親からの手紙を運んできた。用事が済み、ヴァレスにも寄るということだ。自分が口を挟む余裕もなく、すべてが丸く収まったらしい。
 結局、水路や畑の視察に来ているサーディと、両親共に会うことになる。レイサルトがどういう行動を取っていたかも全て筒抜けだ。役に立てなかったと思う苛立ちは、自分が来ても意味がなかったと思う脱力感に変わっていた。
 もう一度目を閉じて大きく息をついた時、ドアにノックの音が響いた。返事をする間もなく、ドアが開かれる。
「レイ、朝よ。いつまで寝てるの。母さん、出掛けちゃったわよ」
 そう言いながら入ってきたのは、レイサルトの護衛に付いているバックスとアリシアの娘、ネブリカだ。まるで兵士のように髪を短く切ってズボンまではいているが、それが逆に女性らしさを引き立てている。一つ上なだけとは思えないほど、レイサルトには色っぽく見えた。
「いつまでって、夜が明けたばかりじゃないか」
 レイサルトが文句を言うと、ネブリカは少し目を見開いた顔を向けてきた。
「あら、起きてたの? 珍しい」
「ここで寝坊をしたのは一度だけなのに、その言いぐさは」
 レイサルトは近づいてくるネブリカを見て、腕だけ出して夜具を押さえた。ネブリカは怪訝そうな表情になる。
「そうだった? でも、ちゃんと記憶に残っているのは、寝坊した時のレイだけなのよ」
「それは、いつもと違ったから印象に残っただけだろ?」
 そう? と、決して肯定ではない返事をして、ネブリカは夜具を一気にまくり上げた。少しひんやりした空気が身体を包み込むと同時に、ネブリカのかん高い悲鳴が響き渡る。レイサルトは思わず上体を起こし、両手で耳をふさいだ。
「レイっ、何でなんにも着てないのっ?! しかも隠すとこ違う!」
「声がでかいって!」
 レイサルトが怒鳴り返してやっと気付いたのか、ネブリカはハッとしたように口に手を当てた。
「それと、見たくないなら背を向ければいいだろ」
 そう言ってはみたものの、レイサルトの視線は、キョトンとしているネブリカの視線と合ったままだ。レイサルトは自分がネブリカに背を向け、用意していた衣服を着け始める。
「昨日の晩バックスさんに無理やり酒を飲まされたから、夜着を着るのも面倒臭くて。脱ぐだけ脱いで寝たんだ」
 レイサルトがしたいいわけに、壁にぶつかったようなため息が、背中から返ってきた。
「飲む方も飲む方だけど、飲ませる方も飲ませる方なのよね……。二日酔いになってない?」
「なんとか無事」
 レイサルトは、ネブリカとのやりとりで、いいわけがとりあえず通じたのかとホッとした。
「そうそう、フォース様とリディア様、もうじきいらっしゃるって。ドナに到着されたらしいわよ。まっすぐタスリルさんのお店に向かうって連絡があったわ」
 その声に振り向くと、ネブリカは背を向けたままレイサルトに手を振ってくる。
「食事のしたく、できてるわよ。待ってるわね」
 ネブリカはレイサルトを見ることなく部屋を出て行く。服はもうほとんど着終わっているので、そんな話し方をしてもらう必要はなかった。だが、ネブリカにはレイサルトの状況が見えないので仕方がない。レイサルトは慌てて上着をつかみ、ネブリカの後を追った。


 術師街の道は、主要の通りでも道幅が狭く、人が三人横に並べるか並べないか程の広さしかない。レイサルトはその道を、バックスとアルトスを後ろに従えて歩いていた。
 向かっているのはタスリルの店だ。タスリルは十年ほど前にすでに亡くなっているが、店の呼び名は相変わらずそのままになっている。タスリルがグレイに意見されて付けた看板に、タスリルの店と書かれているから、ということになっている。
 地面を掘り下げてある階段を下りると、てのひらより小さいその看板が見えた。これでは宣伝にもならないだろうが、タスリルが折れたと大騒ぎしていたフォースやグレイを、レイサルトは覚えていた。
 ドアを開けると内側に付いている鈴が、いつものようにガラガラと鳴る。
「レイ、久しぶり」
 バックスとアルトスを置いて中に入ると、若い叔母、ニーニアの声がレイサルトを出迎えた。ニーニアは薬師の中でもまだ若く、なによりライザナルの王女が薬師になったという経歴のせいもあって、周りの薬師に可愛がられていると聞いている。黒いフードの下から、実際可愛らしく色白な顔がこちらを向く。
「あら、浮かない顔ね」
「そ、そうですか?」
 心情が筒抜けだと思ったら、慌てた声が出た。
「グレイ、レイが来たわよ」
 言い訳する間もなく、ニーニアがグレイを呼ぶ。レイサルトは、再び笑みを向けてきたニーニアに、苦笑でごまかすしかなかった。あまり広い家ではない、すぐにグレイの返事が聞こえる。
「息子、よく来た」
「違います」
 呼び名が似ているからと、毎度言われる言葉に出迎えられ、いつものように速効で否定する。だが、神官服を着て現れたグレイに、クックと鳩みたいな笑いだけで流され、レイサルトはため息をついた。
「レイ、フォースたちもサーディもここに集まってしまっては狭すぎだ。神殿に移動するよ」
 グレイの言葉にニーニアが二度うなずく。
「両方に連絡は付いてるわ。レイは通り道だから一緒に行こうと思って待ってたの」
 思わず出そうになった苦笑をこらえ、レイサルトは、分かりました、と扉に向き直った。
 グレイは、レイサルトの後ろから外に出ると、バックスに経緯を説明している。ニーニアはアルトスに、久しぶり、と声を掛け、小さな鍵で締まりをしてから階段を上がってきた。行こう、と促され、レイサルトはグレイの隣に並んで歩き出す。
「一人でおつかいに行ってきたレイを見たら、タスリルさん、喜んだだろうな」
「おつかいって」
 言い方には引っかかるが、確かにおつかいには違いない。レイサルトは肩をすくめた。
「でも、たいしたことしてませんから」
「おや? 言うねぇ」
 肯定されなかったことに驚き、レイサルトはグレイの目を見上げた。その視線はレイサルトに笑いかけ、また前を向く。
「フォースはたいしたことじゃないことを、真剣に毎年続けているのかな?」
「そ、そんなことは……」
 無いと言いきれず、レイサルトは眉を寄せた。
「でも、父は種族のことを解決していたのに、私は」
「国の代表として、メナウルとのことを解決していた。フォースはレイがいなかったら困ったと思うぞ?」
 そう言われても、帰りに父がメナウルに寄れば、それで万事解決しただろうとレイサルトは思う。浮かない顔のまま、視線を上げることはできなかった。
「納得がいかないみたいだね。じゃあ、もう一つ理解してもらおうかな」
 グレイの声が引き締まった気がして、レイサルトはその顔を見上げた。グレイは前を見たまま、ゆっくりと息を吐いてから口を開く。
「まぁ、フォースに聞けばいいか」
「は?」
 思い切り気が抜けた声が出た。レイサルトはグレイに疑いの目を向ける。
「今回のことで、私が理解できていないことがあるんですか?」
 グレイは、あるよ、と言って大きくうなずいた。
「でも大切なことだから、私が口を出すべきじゃないのかもな」
 そう言われてしまっては、それ以上追求できない。レイサルトは何も聞けず、ただ黙ったまま歩みだけを進めた。

   ***

 フォースとリディア、子供の姿のティオ、そしてジェイストークを乗せた馬車はドナを通り過ぎ、ヴァレスに向かっていた。リディアは馬車に乗ると眠たくなるらしく、今もフォースの肩に寄りかかって瞳を閉じている。ティオは窓枠に腕を乗せ、不思議なくらい静かに、通り過ぎる景色を眺めていた。
「簡単な用事でしたので、私が来る必要はなかったのですが」
 もしかしたらジェイストークがメナウルまで来るかもしれないと、フォースは予想していた。その予想通り、ジェイストークは手紙で済む知らせだけを持ってメナウルまで来たのだ。フォースは、ジェイストークがこのままいてくれてもいいかと、半ばあきらめていた。
「レイが心配だったんだな」
「お二人のことも心配でしたけど」
 その台詞に一瞬言葉を失い、フォースはジェイストークに苦笑を向ける。
「分かったよ。もういい」
 ジェイストークには、フォースとリディアがマクラーンを出たその三日後、子供達を連れ、あとを追ってもらっていた。現在、レンシオン、レファシオ、リヴィールはルジェナに滞在している。
 リディアと一緒にディーヴァへ行っている間、レイサルトにはメナウルに、下の子供達はライザナルにいるようにと命令していた。それは、どうしてもしておかなければならない処置だった。ディーヴァから無事に戻ってきた今は、その制約から解き放たれているのだが。
「そういえば、アジルさんに聞きましたよ」
「なにをだ?」
「レイクス様がシャイア神とキスされていたと」
 その言葉に噴き出しそうになり、フォースは口を手で覆った。ジェイストークは、いつもの笑みを浮かべず、むしろ真剣な顔をしている。フォースはため息をついた。
「これで二度目だが、からかわれているとしか思えない。悪質だ」
 下がった視線の端にリディアの瞳が見え、フォースは思わず息を飲む。それに気付いたジェイストークが顔色を変えた。
「あ、あの、これは」
「シャイア様もフォースに恋愛感情を持っているのよ」
 リディアは、ジェイストークの慌てっぷりに苦笑しながらそう言った。
「まさか」
 素で疑問を返し、フォースは眉をしかめた。
「私がフォースに母みたいな感情を持っているって言ったでしょう? それ、シャイア様の感情だと思っていたのだけど違ったのよ。きっとシャイア様も、恋愛感情は私のモノだと考えていらしたに違いないわ」
 リディアが穏やかに微笑んでいるのを見て、ジェイストークが胸をなで下ろす。
「では、シャイア神はその勘違いのせいで、今回入れ替わっていた感情を戻さなければならないと考えたのでしょうか」
「いえ。入れ替わっていたのは、予想外の部分だっただけ。戻さなくてはならなかったのは確かだわ」
「無駄ではなかったということですね」
 ジェイストークの表情は、すっかり元に戻っている。フォースは、リディアが自分を責めるつもりがなさそうだと感じてホッとした。
「だけど、どうして入れ替わっていた、なんてことになっていたんだ?」
「それなのだけど。多分、サーディ様とのことをめてくれたのかもしれないわ。……、あ」
 リディアは明らかに余計なことを言ったという顔をしてから、そのままの表情で苦笑の息を漏らした。
「サーディとのことって? 慰めるって一体……」
 フォースはリディアの顔をのぞき込んだ。リディアはいかにも言いづらそうに、それでも口を開く。
「フォースがライザナルに行って随分経って、そう、呪術の本を見つけたことを手紙に書いた頃だったかしら。講堂の裏の廊下で、少しの間、……、ギュって抱きしめられて」
「はぁ?! なんでそんな」
 思わず大きな声が出て、フォースは言葉をのどに押し込めた。ジェイストークがオロオロしているのを邪魔に思う。
「フォースがライザナルに行ったあとは、私がシャイア様そのものみたいな役目だったの。辛いことがあったんだと思うわ」
「だけど」
「もちろん嫌だったわよ」
 視線を合わせて真剣な声で言ったリディアは、はにかんだような微笑を見せた。
「シャイア様は、嫌がっていたのを分かってくださったの。それからすぐにシャイア様と感情の交換があって、グレイさんやお父様にまで白い光が飛ぶようになったから……」
 その光なら、フォースも確かに見たことがある。触れようとした人に向け、バチッと何かがはじけるような音がしていた。
「あれはそれで」
「ええ。それからはシャイア様に守っていただいているって思えて、気持ちがとても楽になったわ。男の人で被害を受けなかったのはフォースだけなのよ」
 リディアは、フォースがサーディに対して腹を立てることの無いよう、考えて伝えてきたのだろう。確かにそれは理解できた。実際自分が戻れないかもしれないという状況だったし、今さら蒸し返したところで仕方がないのも分かる。だが内心、わだかまりが生まれていた。これも嫉妬なのだろうとフォースは思った。
 不意に、外を見ていたティオが、フォースを振り返った。どうやってもティオには感情を隠しようがない。フォースはあきらめの境地で、ティオが口を開くのを待った。
「フォース、戦争するの?」
 一瞬頭が真っ白になる。フォースは、ティオが何を言ったのかを考える時間が必要だと思った。
「レイクス様っ! このようなことで戦争だなど、おやめください!!」
「フォース、駄目よ駄目、お願いやめて!」
 凄い勢いで止めに入ったジェイストークとリディアの言葉を放心した状態で聞いて、フォースは盛大にため息をついた。
「そんなこと微塵も考えてない」
 顔を見合わせるジェイストークとリディアを尻目に、フォースはティオと向き直る。
「ティオ、嫌がらせの度合いが増してるぞ」
「嫌がらせなんてしてないよ? 思い付いたことを言ってみただけなのに」
 ティオは自分が何を言ったか分からないらしく、キョトンとしている。
「この状況じゃあ、ティオの疑問が俺の思ったこととして取られるだろ」
 ティオはハタと気付いたのか、ポンと手を打ち、そうか! と口にした。フォースの視界の端に、脱力したようなジェイストークとリディアが見えた。
「フォースはちょっと嫉妬しただけなのに、戦争しようと考えてるって思われちゃったのか!」
「あのな。だから、人の思ってることを口にするなと何度言ったら……」
 ティオが慌てて口を塞いだのを、フォースは、成長してないな、とつぶやきながら見つめた。

   ***

 レイサルトが神殿に着いたのと同時に、フォースとリディアがヴァレスの街に入ったとの知らせが届いた。もうあと少ししたら、両親と顔を合わせることになるのだ。
 レイサルトは、自分と会った両親がどんな反応をするのかが不安だった。メナウルとの取り交わしなどは、両親が毎年行っているのと同じように、無難にこなせたと思っている。だが臨機応変にできているかと言われたら、首をる以外無かった。
 店を出てすぐにグレイが言っていた言葉も、ずっと気になっている。レイサルトには、自分がメナウルに滞在することがどうして大切だったのか、まるきり見当を付けられないでいた。
 バックスを外に置いたまま、グレイ、ニーニア、アルトスと共に神殿に入る。グレイに勧められ、ソファに落ち着いたレイサルトの前に、お茶が置かれた。その手をたどって見上げると、アリシアが微笑んでいる。
「どうぞ」
「出掛けたって、ここだったんですか」
 そうよ、とうなずき、アリシアはレイサルトの横に腰掛けた。
「レイはネブリカのこと、どう思う?」
「え? どうって……」
 聞かれたのが見た目のことか性格のことか、それとも他の意味合い、つまりは恋愛感情のことを聞かれたのかが分からず、レイサルトはただ苦笑した。アリシアはため息をつくと、眉を寄せる。
「髪も短く切っちゃうし、ドレスは着てくれないし。少しは女の子らしくして欲しいと思っているのだけど」
 ネブリカに対する自分の感情を聞かれたのではないと分かり、レイサルトはホッとした。
「らしくしていなくても、ネブリカさんは、ちゃんと女の子ですよ」
「そう? そう思う?」
 パッと明るい顔になったアリシアに、レイサルトは面と向かってうなずいてみせる。極上の笑みで、よかった、とつぶやいたアリシアは、もう一度レイサルトに視線を合わせてきた。
「安心して聞けるわ。ネブリカのことどう思う?」
 同じ台詞だが、さっきの台詞とは明らかに意味合いが違う。
「え? どうって……」
 レイサルトは意識して同じ言葉を返し、同じように苦笑した。聞きづらくなったのか、アリシアはレイサルトを見たまま、ため息をつく。
「グレイさん、この子、こういうところは母親似だわ」
 話を振られたグレイは、ワハハと声を立てて笑い出す。
「立場が立場だけに、母親似でよかったと思いますよ」
「そうだけど。真剣に聞いたのよ? 真剣な返事が聞きたいと思わない?」
 アリシアは、言葉の途中で開かれた扉に目を向けた。その向こうに見えたフォースとリディア、ジェイストークの三人が、バックスに促されて入ってきた。子供の姿のティオが一緒にいたが、外に残るつもりなのだろう、閉まる扉の隙間から、バックスと話を始めるのが見えた。
 ジェイストークがいることに少し驚いたが、アルトスには来ると分かっていたのだろう、お互いに薄い笑いを付き合わせている。レイサルトは両親を出迎えようと立ち上がった。
「アリシア、レイには無理に結婚相手を決めさせることはしない」
 そう言い切ったフォースの真向かいに立ち、アリシアは目の前の顔を指差す。
「無理は言ってないでしょ」
「自然がいいって言ったんだ」
 フォースは少し不機嫌そうな顔で、アリシアを見返している。自分のことでケンカでも始まりそうな雰囲気に、レイサルトは冷や汗が出た気がした。
「結婚するのは、何をするにも面倒だと微塵も思わない人ができてからだ」
「基準が、面倒、なの?」
 アリシアはフォースの言葉が意外だったのか呆気にとられ、その視線をリディアに移してニヤッと笑う。
「まぁ、あんたの場合は、それでよかったのかもしれないけど。普通そんなに障害のあることなんて無いわよ」
「障害だなど、特別なことだけじゃない。普段の生活から、なにもかもだ」
 目をらさないフォースに、アリシアは肩をすくめた。まぁまぁ、とグレイが割って入る。
「結婚ってお互い関わり合うモノだから、あながち間違いでもないんじゃ?」
 グレイはアリシアに向けてそう言うと、フォースには、いらっしゃい、と笑みを見せた。アリシアは、グレイにも肩をすくめて見せ、廊下へと入っていった。
 フォースはグレイに笑みを返すと、レイサルトの目の前に立った。その向こう側には、いつものようにリディアの穏やかな笑みが見えている。
「元気そうでよかった」
 そう言ってポンと肩に置かれた手が、レイサルトにはとても大きく感じた。やはり、将来自分がこんな手を持てるとは思えない。
「父上。母上もお元気そうでなによりです」
「本当に、悪いことが起きなくてよかったわ。レイが勤めを果たしてくれたこと、誇りに思います」
 リディアの言葉に顔が赤くなった気がして、レイサルトは慌てて頭を下げた。張っていた気が一気に緩んだような脱力感が、身体を支配している。
 ふと、グレイの目配せが目に付いた。グレイは、今回のことでレイサルトが理解していないことがあると言っていた。それを聞けというのだろう。
「私がメナウルに滞在したことに、何か意味があったんですか?」
 レイサルトの視界の隅で、グレイがわずかに微笑んだ。その笑みを見てグレイが一枚噛んでいることを悟ったのか、フォースはリディアと苦笑を交わしてから、レイサルトに向き直る。
「今回メナウルに一人で行ってもらったのは、悪いことが起こった場合を考えてのことだ」
「悪いこと、ですか?」
 ほんの少し前、リディアもそう言っていた。レイサルトの問いに、フォースはしっかりとうなずく。
「なにせ神が相手だ。私たちはディーヴァ、レイはメナウル、弟たちはライザナルにいたことで、もしどこかで何か起こったとしても、全員が影響を受ける割合は低くなる。あとは分かるな?」
 確かに、国の中心として誰かが残れば、混乱は最小限に抑えられるだろう。その存在を芯にして、国は静かに移り変わっていくことができるのだ。
「思いっていませんでした」
「まぁ、神が私たちを否定するなら、どんな手を尽くそうと、生きていられることは無いのだがね」
 その言葉を聞いて、両親が越えてきた危険に思いを巡らせ、レイサルトはゾッとした。相手は神だ。何が起こるかなど想像も付かない。
 だが両親は、その困難を抜けてきている。サーディに聞いた話しによると、自分が生まれる前から何度も、何度もだ。両親が共にあきらめることがなかったからこそ、両親も自分も、こうしてここに存在している。
 ジェイストークが扉を開けたのが、レイサルトの視界に入った。顔を向けるのと同時に、サーディが入ってくる。
ってるな」
「サーディ、元気そうだ」
 フォースはサーディに歩み寄り、ガッチリと握手を交わしている。
「フォース、リディアさんも無事でよかったよ。昔を思い出して、気が気でなかった」
「昔? そうか、気が気でなかったからなんだな」
 フォースが何を言っているか分からないのだろう、サーディはリディアとグレイの顔に視線を移した。
「一体なんの話」
 グレイに問いを向けようとしたサーディのをフォースが小突いた。
「は?」
 サーディは額を押さえ、キョトンとしてフォースの顔に目を向ける。レイサルトには何が起こっているのかサッパリ分からなかったが、当のサーディもそうなのだろう。フォースの後ろでは、リディアがオロオロしている。
「気が気でなかったから、あんなことをしたってワケだ」
 フォースの言葉で、昔のことを思い出したのか、サーディは目を丸くした。
「や! あれは、その、すまんっ! 隠していたワケじゃないんだ、黙ったまま罪悪感を持ち続けるのが俺の贖罪だってグレイに言われて、それで」
 そこでグレイが吹きだした。苦笑にもなりきっていない、気の抜けた顔をフォースに向ける。
「あれか。フォース、またなんて昔のことを」
「ついさっき知った」
「本当にゴメン!」
 サーディが頭を勢いよく下げた。フォースはサーディの首の後ろをつかみ、上体を起こさせる。
「もういい」
「って、こんな起こし方。怒ってるんだろ?」
 サーディは顔色をうかがうようにフォースを見た。フォースは肩をすくめる。
「ちょっとはな。でも、それ以上に俺自身にもだ。原因の一端は俺にもあるわけだし」
「フォースは嘘をついていないよ」
 そう言いながら、扉の中を通ってティオが姿を現した。レイサルトに目を止めると、側に駆け寄ってくる。
「どこから連れてきたの?」
「え? 連れて、って一体……」
 レイサルトが周りを見回しながらそう答えると、ティオはニッコリ笑ってレイサルトの中を背中の方へと突き抜けた。エッと思って振り返ると、ティオがいつの間にか、レイサルトと同い年くらいの女の子の手をつかんでいる。
「イヤよ、放してよ」
「この人は俺の友達の子供。だから駄目」
「えぇ? 友達ぃ?」
 ティオは疑わしげな目をフォースに向ける娘を引っ張り、扉に向かって歩き出した。
「ティオ、その娘、もしかして……」
 困惑顔のフォースに、ティオは、あったりぃ、と元気に返事をした。
「俺、そろそろリーシャを探さないと」
「あ? ああ、ありがとう」
「リディアも元気でね」
 リディアは、ありがとう、と言いながら、小さな子にするようにティオを抱きしめて頬にキスをした。
「じゃ、またね!」
 ティオは軽く手を振ると、そのまま扉を抜けて出て行った。
 少し重たい沈黙が残っているのを、レイサルトは不思議に思った。
「もう会えなくても、きっといつまでも元気でいてくれるわね」
 リディアの言葉で、妖精は歳を取らないということを、レイサルトは思い出した。ティオとは幼い頃に二度ほど会っただけだ。会いに来る間隔を考えれば、ティオと両親とは、もう会うことはないのかもしれなかった。
「にしても、親子揃って取りかれやがって」
 グレイがニヤッとした笑みをフォースに向けた。フォースはため息をつきながら、笑いをこらえているサーディとグレイを横目で見ている。
「あら、まだ立ちっぱなし? お茶よ、座って座って」
 アリシアがトレイにお茶を乗せて戻ってきた。
「そうそう、まだ神の守護者の話を聞いていないんだけど?」
 その声に、みんなが思い思いの席に着き、アリシアが持ってきたお茶を片手に、フォースの話に耳を傾ける。
 レイサルトにとっては、すべてがおとぎ話のようにしか聞こえなかった。感情を入れ替えるなど、どういう状況なのか想像も付けられない。ただ、今回自分が一緒に行ったとしても、何もできなかっただろうことは理解できた。
「彼らは結局、シアネルの北部に移住することになったんだ。準備がしてあったのかと思うほど、すぐに行動を始めていた」
 フォースの言葉にサーディが、へぇ、と声を上げた。
「それは早いな。もしかしたらディーヴァ山脈が切れたところまで行けば、ライザナルの援助も期待できる、と考えているとか」
「いや、彼らは自立している。助け合いという点では援助もするかもしれないが」
 フォースの自信に満ちた顔を見て、グレイが安心したように息をつく。
「いい関係を続けていけそうなら、そりゃよかった。神については、今まで散々利用された形だったからな」
「だけど、それでよかったんだ。そうじゃなければならなかったんだ」
 そう言うと、フォースはリディアと柔和な笑みを交わした。
 やはり父は強い人だとレイサルトは思った。それでも時折見せる子供っぽい部分を考えれば、生まれてきた時はただの赤ん坊で、たぶん自分とあまり変わらなかったのだろうと推測できる。父が努力を重ねてきたように、自分も成長することをあきらめなければ、同じように強くなっていけるのかもしれない。
 レイサルトは穏やかな空気に満ちた部屋を見回した。両親、サーディ、グレイ、アルトス、ジェイストーク、アリシア。彼らも生きている限り歩んでいくのだ。
 彼らや他の人々が生きてきた道は、街道となって足元に存在している。そして自分もまた、この街道に立っている。
 今、父に追いつくことは、どうやってもできない。だが、この街道をたどって進んでいけば、いつか父が見ている世界を見ることができるに違いない。
 レイサルトは手にしたお茶の残りを、一気に喉に流し込んだ。それは身体の隅々まで染み渡り、心の奥底までうるおしていった。