レイシャルメモリー後刻
   ***

 ワーズウェルの作った半甲冑は、しっかりした作りながら軽く、山道を歩いているとは思えないほど、フォースにとって快適だった。
 ティオがリディアを運ぶようになってから、進む速度が格段に増した。道はゴツゴツした岩場で一度消えたが、その道ざる道を進む時も、ティオにとっては平坦な道と変わりないようだった。その緑色の後ろ姿を見ていて、目にしていなかったここ数年で、ティオがいくらか大きくなっているようにフォースは感じた。
 その岩場を結構な距離進んでから、道がまた復活した。大きな石混じりの道に戻っているが、岩場よりは進むのが楽だ。後ろにいる二つの隊と側近である一つの小隊は、間隔を変えることなく律儀に付いてきている。
 いくつかの低い尾根を越えてきた。道の先は、今までで一番高さがあるだろうと思われる尾根に向かっている。ただ、さらにその向こうに尖った山の頂上が見え、ここから先に進むのはひどく困難だろうとフォースは思った。
 先頭を歩くラバミスが、尾根に立った地点で振り返った。その顔が薄く微笑んでいるように見える。今度はなんの反応を見たいのかと憂慮しながら踏み出した足が、意志と離れて先をく。
「村、なの?」
 ラバミスの後ろで立ち止まったティオの上から、リディアのつぶやきが聞こえた。
 ラバミスに並んだフォースの視界に、村の全景が飛び込んできた。足元の尾根を越えた先の低地と尖った山の間が、尾根を削り取ったような平らな土地になっており、そこを石で作られた人工的な建造物が覆い尽くしている。山を削って作ったのだとしたら、ひどく大掛かりだっただろう。
 その眺望は、神殿を前にしているような荘厳さすら感じさせた。フォースは地図で見てだいたいの地形は把握していたが、ここまで作り込まれた村だとは考えていなかった。
 まず、尖った山のにある広場に目を引かれた。丈の低い草で覆われた広場は、寒さのせいか、あまり元気の無さそうな緑をしている。だが、その広さと平坦さは、さながら小さな湖でも見ているようだ。
 その広場を囲む観客席のように、石で組んで屋根を草木で覆った家々が軒を連ねている。その広さや戸数を考えると、千人ほどならば楽に暮らせるに違いない。
 そして、家々の後ろ、左側は底の深い崖になっており、右側は山の頂方面や、足元の道へと急な階段でつながっている。その階段のある壁面のような斜度の土地には、陽の光を最大限に受ける角度を作った細い畑が、幾段にも層をなして重なっていた。
「側近以外の方々には、ここで待っていただく。ここからなら村の中であなたがどこにいるか、何をしているか、見通せるはずだ」
 ラバミスの言葉に、フォースは足元の階段を目でたどった。出発前にラバミスの説明にあった通り、階段を下りて広場手前まで行き、そこを右に折れて坂を登る供物台への道筋が、そのままに見て取れる。確かに一目瞭然だ。
「あの道を登れば供物台か」
 緊張のせいか、抑揚のない声が出た。そのまま冷たい視線を向けたフォースに、ラバミスが幾分引きつったような顔を向けてくる。
「途中また岩場で道が消える。このまま案内する」
 ラバミスにうなずいて見せてから、フォースはナルエスに目を向けた。フォースの表情を読んだのか、ナルエスはサッと敬礼をすると、後ろにいる隊に伝達に走った。
 ――リディア――
 側に来ていることで安心でもしているのか、女神のゆったりと落ち着いた声が頭に響く。リディアは会話をするように瞳を閉じ、胸に手を当てている。ティオにも違いが分かるのだろう、その声を恐れるようなことも無い。
 今までになく優しく聞こえる声は、危害を加えるために呼んだのではないと思える。だが、声だけで判断するのは危険かもしれないと、フォースは気を引き締めた。なにしろシャイア神にとって好都合なだけで、人にとって不幸だろうが悲劇だろうが、いっさい気にもとめていない可能性もあるのだ。用心するに越したことはない。
 後ろの隊に待つように伝えたのだろう、ナルエスが戻ってきた。シャイア神に捧げる供物、花や果物を手にしている兵士数人だけが隊を抜け出してくる。後ろの騎士や兵士たちは、それぞれ村を見張るための場所を確保したり、休憩の体勢を取ったりと様々に動いているようだ。
「いいか?」
 ラバミスの問いに、ああ、と短く答え、フォースは足を踏み出した。ラバミスも慌てて歩き出す。
 村へと続く階段は高低差が激しく、しっかりと足元を見ながら進まなくてはならないため、村の風景を楽しむ余裕はなくなった。だがフォースは、村の様子をうかがうことだけは続けていた。
 三分の二ほど下ったところで、その道の先、広場の手前に人がぽつぽつと集まり始めた。ラバミスと連れだって歩くだけで村を抜けられるとは思っていなかった。村の長もいるだろうし、血気盛んな若者だっているだろう。敵意は無かったとしても、文句のひとつくらいは言いたい奴がいるに違いない。
 階段が終わった辺りで、待ち構える人数は十数人になっていた。遠くからうかがっていたり、家の中からのぞいている者もいる。ティオがいなかったら、たぶんもっと集まったに違いないとフォースは思った。
 集まった人間は、思いのほか若い男が多いようだ。長老と呼ばれるような、それなりに歳を取った人間が姿を現すところを想像していたフォースは、自分より年下だろうと思われる男が前に出たことに少し驚いた。
「待っていた。あなたが皇帝か」
 睨むような強い視線を向けてきた男を、ラバミスがさえぎる。
「我々はシャイア神の言葉こそを大切にしなくてはならない。今はそんな話をしている場合ではないだろう?」
 その言葉で、少なくとも何か問題があるらしいと容易に想像が付く。今ここで話しを聞いておけば、すぐに解決は無理でも、先に女神の元に行くことで、考える時間は取れるとフォースは思った。何も知らずに話し合うよりは、対処もしやすい。
「何の話しだ」
 フォースは若者を止めようとしているラバミスに声をかけた。ラバミスはフォースを振り返って顔をしかめる。
「だから、先にシャイア神のところに行くべきであって、長老以外の人間とする話でも」
「神は人の世界から手を引かれてしまった」
 若者はそう言いながらラバミスを押しのけて前に出た。長老は他にいるのかと安心しながら、止めようとしたラバミスを制し、フォースは若者に先を話すようす。
「ディーヴァですら神の存在は薄く、自然は厳しくなる一方だ。作物も育たなくなった。あなたが戦士なら、きっちり責任を取っていただきたい」
「責任?」
 フォースは、強い意志を持った若者の言葉に、冷たい視線を浴びせた。半甲冑の威厳のせいもあってか一瞬ひるんだが、若者は再び口を開く。
「そうだ。神を呼び戻せないなら、減ってしまった分の作物や建材の調達、して欲しいことは山ほどある」
 若者が握っている拳にある力で、村での生活がひどく辛いのだろうと想像が付いた。この村では畑を増やすのも容易ではないだろう。だが、それはこの村の内部のことなのだ、干渉してはならないとフォースは思う。
「この村はライザナルか?」
 フォースは静かな口調でそう口にした。意表を突かれたのか、何度かまぶたをしばたいた後、若者はハッとしたように目を見開く。
「今、なんて言っ」
「この村はライザナルの一部かと聞いている」
「そんなわけがあるか!」
 若者の顔が一瞬で上気した。後ろにいる者たちも騒然としている。フォースは正面から村人たちを見据えた。
「だったら私とは何ら関係がないことだ。君たちでどうにでもしたらいい。ライザナルも神に手放されたのは変わりない」
「だから、ディーヴァの暮らしが悪くなったのは、あなたが戦士として神を排除したからだと言っている」
 若者は、分からない人だ、とつぶやきながら長いため息をつく。フォースはわずかに肩をすくめると、息で笑った。
「私が排除したのは、神の力だ。神ではない」
「そんなのは詭弁だっ」
 若者の言葉に、後ろにいる村人たちも、そうだそうだ、と口々に同調している。フォースは怒りが声に出ないようにこらえて口を開く。
「私にとっては、君たちの意見の方が詭弁だ。そのくらいなら、シェイド神を開放するのを邪魔する行動の方が、まだ理解できる」
 その言葉に、若者は目を丸くした。フォースはかまわずに話し続ける。
「そうすれば神の力は残り、君たちの暮らしが悪くなることも無かっただろう」
「かっ、神の邪魔など、できるわけがないじゃないか!」
 若者が上げた大声に、フォースは苦笑して、ゆっくりとうなずいた。
「その通りだ。私に何ができる? 神が降臨しなくなったのは、神の意志だ。いや、もし私に神を説得できるというなら、かわりに君がやればいい。同じ守護者なんだろう? この村の者が神とどんな関わりを持とうと、私に断りを入れる必要も無い」
 反論の余地が無くなったのか、村人たちはシンと静まりかえっている。唇を噛み締めている若者の前にラバミスが立ち、沈黙を破った。
「お前も神の言葉を聞いただろう。神が残ろうとも、私たちはもう神の力を使えない。種族など関係なく生きていくしかないんだ」
「だけど、この状態で、どうやって生きて行けと」
「それは……」
 ラバミスも村人と同じように口をつぐんだ。真ん中に新しいが無いのが不思議なくらい、空気が重く沈んでいる。
 フォースは大きくため息をついた。苦々しげに顔を上げた若者に、視線を合わせる。
「わけが分からないな。だいたい、なぜこんな高地で暮らす必要がある? もう神を守らなくてもいいし、神と話す必要もないなら山を下りればいい。山にしがみついているよりは住居の材料は手に入りやすいし、作物も何倍も育つ」
 いくつもの視線がフォースに向けられた。その顔は一様に放心したような表情をしている。
 それも当然かとフォースは思った。これだけに作り上げた村を捨てて行かなくてはならないとなると、決心も未練も、この上もなく大きいだろう。ずっと続いてきた一族なのだ、場所を移したことすら無かったのかもしれない。だがフォースには、それ以外に解決できる方法は思い付かなかった。
「行こう。案内してくれ」
 フォースが声をかけると、ラバミスは心配げな目をフォースに向けてくる。
「あ、あの、荷物は……」
「何の話しだ。行くぞ」
 リディアとあちこち遠くを眺めながら立っていたティオが、はーい、と元気よく返事をして、供物台へと続く階段を上り始めた。慌てているラバミスを無視して、フォースも後に続く。ラバミスは若者たちが気になるのか、何度か振り返ってから階段に足をかけた。
 階段を登り切り、村が見えなくなった辺りで、ラバミスがフォースに並んだ。
「運んできた作物の苗は……。育て方を教えていただけるのではなかったのか?」
「悪いが、渡す気が無くなった。謝罪の意味に取られては困るからな」
 フォースがそう返すと、ラバミスは声も無くうなずき、列の前へと出て行った。
 確かに、素直に渡す気は無くなっていた。だが、持って帰るのも労力が必要だ。現在隊がる場所にいておけば、ラバミスも気付くだろうと思う。
 場所を変えろだなどと、そこまで言ってしまってよかったのか。フォースは自分が口にした、山を下りる、という言葉を、村を離れた今も噛み締めていた。だが、種族の中だけで生きていってくれなくては、ライザナルが彼らの生活を背負わされることになる。ライザナルにとっての正義が、種族の一員としてのフォースの中で、苦味となって広がっていた。
 フォースには、この苦味に覚えがあった。しかも一度ではなく何度もだ。誰もが間違っていないと考える正義でも、裏表を見通すと、そこにどうしても消せないシミが見えてしまうのだ。
 騎士になったその日、命をかけることへの代償を求める気持ちを踏みにじった。城都でソリストとしてのリディアを守った時、センガとダールの命を見捨て、ドリアードのフレアを犠牲にしなければならなかった。マクヴァルを倒した時、人が神に頼らずに自分の足で立たなくてはならないという苦痛を、アルテーリアのすべての人間に強いることになってしまった。
 自分を信じるというのは辛いことだ。自分と相手が対立関係の場合はなおさらだ。それでも、やはりどれも譲るわけにはいかなかったのだとフォースは思う。ここで少しでも意志を曲げてしまったら、今までのすべてが、誰にとっても正義には成り得なくなってしまう。
 今回のこともそうだった。ライザナルを守るために、ひいては種族の者たちのためにも、自分がここで自信を失うわけにはいかないのだ。
 種族の者を思いやったつもりで半端な態度を取るなど、種族の者にとっては侮辱にしか感じないはずだ。いや、無理にでもそう思い込みたかったのは、自分の起源が誇り高いモノであって欲しいという願望があるからかもしれないのだが。
 もしも侮辱と思わず依存してしまうような種族なら、微塵も発展することは無いだろう。ここから先には滅びがあるだけだ。
 フォースはまわりに悟られることの無いよう、静かにため息をついた。


 急な岩場を越えた場所に、供物台が見えてきた。フォースは下にあるはずの村を振り返ってみたが、坂にある凹凸の陰になっているのか、まったく見えない。岩場を避けて山を登ったら、ちょうど隠れるような場所になっているらしい。クロフォードが供物台に来てエレンを連れて行った時、岩場に踏み入れることはなかったのだろう。こんなに側まで来て村を見つけられなかったのは、このせいだったのかとフォースは感心した。
 女神の声は村を越えた辺りから、急激に近づいた。さすがに供物台近辺までくると距離を感じなくて済むらしい。
 供物を手にしていた兵士が供物台まで駆けていき、上に花や果物を乗せた。名を呼ばれているリディアは、ティオの上で胸に手を当て、祈りを捧げている。懐かしい光景だが、ただ懐かしんでいるわけにはいかなかった。
 ――リディア――
 女神の声が、一段と大きく響いた。供物台に目を向けると、その向こう側に虹色の光が浮かび上がってくる。ティオがリディアを地面におろしたのを見て、フォースはリディアの前に立ち、その光と対峙した。
「なんの用だ!」
 光に向かって叫んだフォースの声に驚き、ラバミスがフォースの肩をつかむ。
「無礼な! それに女神が答えるようなことは今まで無かっ」
「分かってる」
 それだけ答え、フォースはまた女神の光を凝視した。
 ――フォース、戦士よ――
 今度はフォースを呼ぶ女神の声が響いた。ただ答えが聞きたいと、フォースは祈るような気持ちになる。
 人間が人間として生きていくために神から独立したのなら、同等の立場として神とも会話が出来るはずだ。会話さえあれば、人は神から見放されたのではなく、独立したのだと確信できる。その思いが持てれば、今までのことは間違いではないと思えるし、これからのことも自分自身の正義に自信を持って貫いていける。
 ――リディアに降臨を――
 会話にはなっている。だがその言葉に、フォースは顔をしかめた。リディアも不安げな様子でフォースの腕に触れてくる。その手を取り、フォースは虹色の光にまっすぐ視線を向けた。
「理由を聞かせてくれ」
 フォースの脳裏に、シャイア神の意識が勢いよく流れ込んできた。同じような感覚があるのだろう、ラバミスは地面に額を押しつけ、リディアはフォースの腕を掴む手に力を込めて耐えている。滝壺に落ちる大量の水のように激しく雪崩れ込む意識に、フォースも頭を抱え込みたいと思う。だがフォースは、なんとかして女神の真意を受け取ろうと、女神の意識に集中しようと努力した。
 フォースは、ライザナルへの一歩を踏み出した反目の岩で、頭に同じような衝撃があったことを思い出していた。その時の衝撃と比べると、ずいぶん軽いのだ、今なら理解できるはずだと思う。すっと収まっていく意識の中から、いくつかの言葉が頭に残った。手から力が抜けると共に、確認するようなリディアのつぶやく声が聞こえてくる。
「感情、入れ替わったまま、戻す……?」
 フォースは振り返ってリディアの顔を見た。考えてみれば、リディアに女神の声が聞こえること自体、有り得ない話だった。
 フォース自身とラバミスは、神の守護者と呼ばれる種族なので、女神の声が聞こえても当たり前だ。だかリディアは、前に巫女だったというだけで、今は女神とのつながりは無いはずなのだ。それが聞こえているのだから、女神が言ったことに間違いはないのだろう。
 リディアは何か思い付いたのか、ハッとしたように口に手をやり、フォースを見上げてきた。
「そういえば降臨されている時に、シャイア様の感情を強く感じたことがあったわ。もしかしたら、その時に入れ替わっていたのかもしれない」
「そんなことが?」
 フォースがのぞき込んだリディアの視線が、記憶をさまようように虚空を見つめる。
「あれは、……、そう、神殿の地下で本を探している時だったわ。シャイア様、まるでフォースを自分の子供のように愛してた」
 入れ替わった気持ちでも、リディアがそんな思いを持っていたと思うと、何となく照れがある。フォースは顔が赤くなったような気がして、子供かよ、とつぶやき、気を落ち着けるために一度小さく息をついてからシャイア神の光に視線を向けた。
「苦痛は無いのか」
 そう口にしたとたん、流れ込んだままの大量の意識から、降臨は一部分、苦痛は変わらない、という言葉が脳裏に浮かんできた。すべての返事が、あの大きな意識の中に含まれているのかもしれなかった。
「フォース、私、シャイア様の言うとおりにするわ」
 フォースは、リディアが見上げてくるその瞳を見つめ返した。リディアは笑みを浮かべている。
「私の気持ちもシャイア様の中にあるって事でしょう? それに、きちんと元通りにならないと、シャイア様がディーヴァに帰れないのかもしれない」
 リディアの強い視線に反対する理由が、フォースには無かった。分かった、とうなずいてみせる。
 リディアがシャイア神の光に向かって立ち、フォースを振り返った。フォースはその背中に寄り添うと、リディアに腕を回して支えるように抱きしめる。二人で視線を向けると、虹色の光は返事をするように少し大きくなった。
「シャイア様」
 虹色の光はリディアの真上まで来ると、その身体に小さな光球を落とした。光のは留まることなく、リディアの中に入っていく。それと共に、リディアの瞳が緑色に輝きだした。しばらく空を見つめていた目が、ラバミスに向けられる。
「守護者よ」
 リディアと違って少し低い声に、ラバミスは目を丸くし、慌ててひざまずいた。
「神の力無くとも、そなたたちの力があろう」
 かしこまって頭を下げたラバミスを見て、緑色に光る瞳が笑みを浮かべる。
 降臨を受けて間のない頃、リディアの意識は表に出ることはなかった。瞳の色を見て、今もその状態なのかもしれないとフォースは思った。リディアの身体に回したフォースの手に、リディアの手が添えられる。
「すべて返す」
 そう言って振り返ったリディアの瞳から、少しずつ緑色の光が抜けていく。フォースはリディアを抱きしめる腕に力を込めた。
「フォース」
 まだ低い声で名を呼ぶと、リディアの唇がフォースの唇に重なった。
 フォースは薄く開いた目で、すぐ側で閉じられているまぶたを見ていた。身体はリディアのままなのだが、このキスはリディアのモノではなく、シャイア神のモノだと確信する。
 虹色の光が辺りの空気に溶けていくにつれ、リディアの目に少しずつ意志が戻ってきた。キスをしている自分に驚いたのか、一瞬目を見開いたが、その目が笑みで細くなる。
「大丈夫か?」
「ええ、平気よ。入れ替わっていた分も、元通りになったと思うわ」
 まだ解いていない腕の中で、今度はリディアがいつもと変わらないキスをした。フォースは安心すると同時に、抱きしめる腕に力を込める。
「よかった」
「でもね」
 その言葉に、リディアの口からどんな相反する言葉が出てくるのだろうと思い、フォースは幾分身構えた。それが可笑しかったのか、リディアはノドの奥でクスクスと笑い声を立てる。
「気持ちは全然変わっていないの」
「変わっていない?」
 訳が分からずにフォースが聞き返すと、リディアは肩をすくめた。
「そう。フォースに対して母親みたいに思う気持ちはシャイア様のモノだと思っていたのだけれど、私にもあったのね」
「は?」
 フォースは思わずリディアの顔をジッと見つめたが、リディアはいつものように優しい笑みを浮かべているだけだった。
 リディアが前と変わらずにいてくれるのだ、安心していいのかもしれないと思う。子供のように思われるのが、いいことなのか悪いことなのかは分からない。でも、元々自分もリディアを庇護している部分もある。お互い様だったのだろうと思い、フォースは苦笑した。
「とにかく、これで終わりだ」
「ええ。シャイア様もディーヴァに帰れるわね」
 ああ、とうなずいて、フォースは軽リディアと軽いキスをし、リディアと笑みを交わして後ろを振り向いた。ポカンと口を開けたラバミスと目が合う。
「え? あ、む、村に戻ろう」
 ラバミスは我に返ったようにそう言うと、サッと背を向けて歩き出した。その顔が赤かったような気がしてリディアと苦笑し合い、フォースはラバミスの後に続いた。ティオが駆け寄ってきてリディアを肩に乗せる。少し離れていた騎士や兵士も後から付いてきた。
 一番の心配事が無くなると、フォースの目には景色が晴れやかに見えた。岩場を通り抜けて村が見えてくると、その整然とした作りに改めて感嘆したくなる。
 アルテーリアに残っているのは、神には関係無い、人と人との関わりだけだ。自分たちでなんとかしていけるに違いない。村のことは種族内のことだから今以上の口出しは出来ないが、ラバミスをはじめ、村の若者たちも将来を真剣に模索している。きっといい方向へと動いてくれるだろう。そして、レイサルトが無事に使命を果たして帰ってきてくれたらいいと思う。
 村に近づくにつれ、その様子が少し変わっていることにフォースは気付いた。多くの人々があわただしく通路を行き来しているのだ。そして、足元から続く階段を下りきったところに、数人集まっているのが見える。
「長老だ」
 ラバミスがほんの少し首を動かし、フォースに下を指し示した。距離が狭まるにつれ、階段下の集まりの中に、真っ白な髪に白いローブを着た老人と、村を通った時に見た若者たちが見えてくる。その老人が長老なのだろう。フォースのまわりにいた騎士や兵士が、警備のためにフォースに幾分近づいた。
 階段を下りきると、ラバミスが長老の側へ駆け寄った。女神とのことを報告しているのだろうか、長老は穏やかな笑みを浮かべ、何度もうなずいている。
「これは一体どういう事なんです?」
 フォースが側に立った時、ラバミスが長老に問いを向けた。長老は大きくうなずくと、フォースに視線を向けてくる。
「ライザナルの皇帝殿ですな。先ほどは若い衆がご無礼をいたしました」
 頭を下げる長老のまわりで、バツが悪そうな顔をしながら若者たちも頭を下げた。
「どうぞ、お気になさらず」
 フォースの返事で、若者たちの中に安心したような空気が広がった。長老は軽く首を回してまわりのため息を押さえ、もう一度視線を合わせてくる。
「私たち種族は、下界に降りることにしました」
 思ってもみなかった言葉に、フォースは目を見開いた。
「それは……」
「一つの道として考えてはいたのです。ただ決断するには、私が少々歳を取りすぎていまして」
 決断を下す立場として人ごとではなく、フォースは思わず心配げに長老を見つめた。長老は一度大きく息をつくと、再び口を開く。
「私は迷ってしまった。あなたは強い方です」
「いえ。その決断、尊敬します。私はただ、ひとでなしなだけです」
 ライザナルにとって、これが正義なだけだったのだ。自分が種族の立場だったら、ここまで作り上げた村を出るなど、思い付きもしなかったかもしれない。種族は大きな試練に立たされることになるのだ。それでも、長老は柔和な笑みを微塵も崩さなかった。
「私たちのような者は、ひとでなしであることも重要な要素ですよ」
 すでに村を出始めている人々を目で追いながら、長老は声を立てて笑った。返ってきた言葉に、べることのすべてを理解しているからこその自信が見える。
「行く宛はあるのですか?」
「下界に住む遊牧民の邪魔にならぬよう、北方の未開の地へ移り住もうと考えています。気温が変わらなくても、天候の変化は山より穏やかでしょうから」
 ライザナルとシアネルは、ディーヴァ山脈が途切れた北の土地で隣り合っている。山を挟まないだけ、国としては近くなるのかもしれなかった。
「それでしたら。寒さに強い作物の苗を持ってきておりますので、どうぞお持ちになってください」
「そうですか! それは助かります」
 長老は目を細めて手を差し出した。フォースはその手を両手で包むように握手する。目を丸くしているラバミスに、フォースは薄い笑みを浮かべて見せた。
「状況が変わった。新たな門出への贈り物として、ちょうどいいと思うんだが」
「ありがとう……」
 ラバミスは、座り込んでしまうのではないかと思うほど、大きく息を吐き出す。どちらにしろ置いていくつもりだった物だが、廃棄されていた苗を拾うよりも、贈られた方が数倍気持ちがいいに違いない。
「忙しくなるだろう? 隊を待たせてある場所にそのまま置いていくから、後で持っていけばいい」
 村人の流れを見ながら言ったフォースの言葉に、ありがとう、と、ラバミスがうなずいた。合わせてきた視線が幾分歪む。
「こんな風に村を離れる時が来るなど、思ってもみなかった。寂しいが、そうも言っていられないな」
 ラバミスの言葉に、メナウルを初めて離れた時を思い出し、フォースは、そうだろうな、とつぶやき、うなずいて見せた。
「準備がありますので、私はこれで」
 頭を下げた長老に、フォースは同じ様に挨拶を返した。
「それでは私も失礼いたします」
 フォースは村を出る階段へと身体を向け、足を踏み出した。少し離れたその背中に、しかし村を捨て置くのはもったいない、とラバミスの声が愚痴っぽいうなり声で届いてくる。
「今まで見つからなかった村だ。時が経てば遺跡になり、種族の存在を存在以上に雄弁に語ってくれるだろう。そうなったら面白いと思わんかね」
 そう、種族の存在意義も、自らの戦士としての意義も、この村と一緒に遺構と化したのだ。芯から楽しげな長老の声に、フォースは振り返らずにうなずいた。