レイシャルメモリー後刻
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 ここ城都の城は、ライザナルの城に比べてましやかで実用的だ。速度を落とした馬車から城を見上げ、今の両親が城を建てるなら、こんな感じになるのではないかとレイサルトは思った。
 レイサルトはヴァレスで、コルが運んできたフォースからの新しい手紙を受け取っていた。その中で、両親がライザナルに戻るまではメナウルに滞在するように、との指示を受けている。どういう理由があるのか書いておらず、まるきり想像が付かないので、ひどく気になる。そのため城都での用事を早いうちに済ませ、両親が戻ったとの知らせを聞いてすぐライザナルへ入れるよう、早くにヴァレスに戻り、滞在することを決めていた。
 城の正面入り口で完全に止まった馬車のドアが、アルトスの手によって開けられた。レイサルトは、視界に入ってきた祖父ルーフィスの顔に笑みを向ける。
「お久しぶりです。お元気そうで、なによりです」
 その言葉にルーフィスも笑みで目を細めると、レイサルトにうなずいて見せた。
「ああ。私も妻も元気だよ。今、ゴートに家を建てていてね」
「ゴートといえば、ヴォルタ湖の?」
「そう、湖畔の街だ。レイたちが来る次の機会には出来ているだろうから、遊びに来たらいい」
「ええ、ぜひ」
 笑顔を交わすと、ルーフィスは、また後で話そう、と、レイサルトの先に立って歩き始めた。アルトスの足音が、レイサルトの後ろに続く。
 謁見の間に移動する間、レイサルトは両親が来なかったことについて何か聞かれるのではないかとビクビクしていた。聞かれたら、包み隠さず話さなくてはならなくなる。今回のことを打ち明けることで、自分の不安が噴出してしまうかもしれない。みっともないことは、したくなかった。
 だがルーフィスは、そのことについては何も口にしなかった。世間話に交えて滞在日程の確認を取ったような会話を交わしただけだ。フォースとサーディとは、頻繁に鳥を使った手紙のやりとりがある。もしかしたらサーディ経由で、両親の話しを聞いたのかもしれなかった。
 だとしたら、尚更そのことについて話しをしたくないとレイサルトは思う。どれだけのことを伝えてあるのか分からないのだ。自分よりもサーディが知っていたら恥ずかしい。
 ルーフィスがノックしたのは、来るたび一番最初に通される、慣れた部屋のドアだった。このドアを開けたら、正面の大きな窓から光が差し込んでいて、左側にソファーやテーブルがあり、右側には低い高さの飾り棚がある。些細だが、室内の予測を立てられることで、レイサルトの緊張が幾分緩んだ。
「どうぞお入りください」
 帰ってきた返事は、女の子の声だ。はたして、ルーフィスが開けたドアの向こうには、十三歳になったばかりのサーディの娘、ファリーナが立っていた。
「レイサルト様、こんにちは。父は席を外しておりますが、すぐに戻ります。どうぞこちらでお待ちください」
 ファリーナはレイサルトと目が合うと、ニッコリと笑みを浮かべて軽いお辞儀をした。
「お茶をお持ちします」
 ファリーナは、レイサルトが笑みを返しただけでそう付け足し、ドレスの裾をひるがえして部屋の奥に入っていく。振り返ってアルトスに苦笑を向けると、アルトスは薄く笑って部屋にレイサルトだけを残し、ドアを閉めた。
 信用されているのか、どうでもいいと思われているのか、謁見の間で一人きりになれるとは思ってもいなかった。気が抜けて、思い切り大きなため息が出る。
 この部屋に通される時は、いつでも両親が一緒だった。正面の窓から外を見たかったが、当然勝手には動けない。今なら大丈夫そうだと思い、レイサルトはその窓に近づき、外に目を向けた。
 ここは城の二階だが、少し高台に建っているせいもあり、目線より下に街が見える。たくさんの屋根が陽の光を跳ね返し、空の青に映えて美しい。その景色が、ルジェナ城を囲む湖面に似ているとレイサルトは思った。
「あっ」
 背中から聞こえた声にレイサルトが振り向くと、トレイにお茶を乗せたファリーナが立ちつくしていた。窓の側にいることに罪悪感がわく。
「あ、ごめん、何かマズかった?」
「いえ、レイサルト様、すみません。私、座っていただくのを忘れました」
 ファリーナはトレイを手にしたまま、深々と頭を下げた。カップがカチャッと音を立て、ひっくり返さないかと心配になる。
「いや、かまわないよ。むしろ一度ここから外を見てみたかったから、スッキリしたっていうか」
 レイサルトは慌てて微笑んで見せた。ファリーナは安心したのか、ホッと息をつく。
「ごめんなさい。どうぞこちらにお座りになってください」
 もう少し窓の外を見ていたかったが、ここでごねてはファリーナが可哀相だ。レイサルトは言われた通りに席に着いた。ファリーナはおぼつかない手つきでテーブルにお茶を置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
 御礼の言葉に微笑んだファリーナを見て、レイサルトも安心した。ガチガチのまま目の前にいられると、その緊張は間違いなく伝染する。
 特に話すこともなく、レイサルトはお茶を手にし、愛想笑いをしてから一口飲んだ。お茶の香りがさらに気持ちを柔らかくする。
「サーディ様、お后様、ディロス君、みなさまお元気でお過ごしでしたか?」
 前皇帝ディエントと后セレーネは健在だが、現在はサーディにすべてを任せて一線を退いている。城都から二日分ほど南にある街に住んでいるとレイサルトは聞いていた。
「はい。父母も弟も、みんな元気にしております」
 よかった、と小さく声に出して一息つくと、レイサルトはすっかり落ち着いた。
 ファリーナは顔を上げて口を開きかけると、言葉を飲み込んでうつむき、小さく息をついている。それが何度か繰り返されて、ファリーナは何か言いたくて言い出せずにいるのだろうとレイサルトは気付いた。
「どうしたの?」
 思わず疑問をそのまま口にした。ファリーナはレイサルトと視線を合わせ、目をしばたたかせている。
「どう、って……?」
「何か聞きたかったんじゃ?」
 レイサルトの問いに、ファリーナは目を丸くした。
「え? どうして分かったんですか? ええ、おうかがいしたいと思っていることが……」
 言葉をしたファリーナを見て、もしかしたら言いづらいことだったのかと、レイサルトは気付いた。だが、すでに聞いてしまったモノは仕方がない。ファリーナはまた何度か言いかけて口を閉じ、意を決したように顔を上げた。
「あらためておうかがいするようなことではないのですけれど」
 そう言うと、ファリーナは気を落ち着けるためか、一度深呼吸を挟む。
「いつもの女性騎士さん、今回はいらっしゃらないのですか?」
 思いがけない問いに、レイサルトは思わずドアを見やり、その向こうにいつもと違ってアルトスがいることを思い出した。
「ああ、イージスさんのことかな? 彼女は基本女性騎士の教官をしているし、今回は母が来なかったから来ていないんだけど。彼女に何か?」
「え? あの、私、憧れているんです。だって、とっても素敵じゃないですか。お会いしたかったわ」
 ファリーナは、さも残念そうに肩を落とした。唇を少し尖らせているようにも見える。
 レイサルトは、自分が小さかった頃にアルトスに憧れ、将来騎士になってみたいなどと考えていたことを思い出した。そんなことは、もちろん無理に決まっている。それが分かっていても、子供ながらに夢を見ていた。ファリーナの感情は、それと同じようなモノかもしれないとレイサルトは思う。
 ファリーナは、しっかりしているようでも普通に十三歳なのだろう。まだまだ子供だし、結婚とは無縁そうな雰囲気にホッとした。
「次は、いつ頃いらっしゃるのですか?」
「どうだろうな。また次の年になるのかな」
「そうですか……」
 ため息と共に瞳を伏せた姿は、まるで恋人に会えなくて落ち込んでいる姿のようで、レイサルトは何か言ってやらなくてはならないという気持ちになる。
「一年に一度ライザナル側が訪ねてくるだけじゃなく、メナウル側もライザナルに来てくれたらいいのにね」
 レイサルトの言葉に、ファリーナは瞳を輝かせた。
「ええ、本当に。うかがえたら嬉しいです」
「両親の里帰りを兼ねてとか言うけど、メナウルだけで会うよりは交流も深まるはずだし、国民の感情も変わってくるだろうし」
 ファリーナは、周りまで明るく見えるほどの笑顔をたたえ、何度もうなずく。そんなに会いたかったのかと思うと、イージスに対して恋愛感情を持っているようにすら感じてしまう。
 ドアが早い調子で三度ノックされた。アルトスの合図だ。
「サーディ様にございます」
 低い声が聞こえてから、ドアが開かれた。レイサルトは立ち上がってドアに向き直る。
「久しぶりだね」
 サーディはいつもフォースにするように、その手を差し出してきた。かしこまって頭を下げつつ、レイサルトはその手を取る。
「ご家族は元気でいらっしゃるか?」
「はい。元気でおります」
 サーディの優しげな笑顔に、再び大きくなった緊張が少しずつ解けていく。
「サーディ様も、お元気そうでなによりです」
 サーディは楽しそうに笑い声を漏らすと、もう一方の手でレイサルトの手をポンポンと叩いた。
「またずいぶん背が伸びたね。もうそういう歳か」
 サーディは含み笑いをして、チラッとファリーナを見やる。
「ずいぶん楽しそうだったが、いったい何の話しをしていたんだ?」
「はい。ライザナル側でメナウルにお邪魔するだけではなく、メナウルからもいらしてくださったら嬉しいと」
 レイサルトの話が予想と違ったのか、サーディは一瞬呆けたような表情をしてから頬をゆるめた。
「もしかしたら、君も初心者向けだったのかと思ったんだが」
「は? 何の話しですか?」
「いや、なんでもないよ。そうだね、こちらからうかがうのも悪くない」
 サーディはそう言ってうなずくと、ソファに手を向け、レイサルトに座るようにと促した。
「まぁ、今日はゆっくりしたまえ。契約の話は明日まとめて済ませよう」
 レイサルトは頭を下げてから、指し示されたソファに腰を落ち着ける。手招きされたファリーナはサーディの隣に座った。
 水や作物の輸入についての契約更新は、更新の度に同じ話を繰り返している。まとめてで話が済むというなら、特に変更も無いということなのだろうとレイサルトは安心した。
「ところで、やはり結婚の話が出ていたりするんだろうね?」
 突然の話に、ほんの数日前を思い出し、レイサルトは苦笑した。
「はい。一度だけですが」
「一度? それは少ないね」
 サーディはレイサルトの表情をうかがうようにニヤニヤとのぞき込んでくる。
「あ、まだ候補はいないのかと、スティア様に聞かれただけです」
 レイサルトの口から妹の名前を聞いたサーディの笑みが、冷めた笑いに変わった。
「なるほど、スティアなら言うだろう。その辺り、メナウルとライザナルとでは違うのかもしれないな。フォースなら無理に相手を探すようなことはしなさそうだし」
 サーディの話しを聞いていて、レイサルトはレクタードの話を思い出した。だが、変な女が寄ってこないように監視されるとか、面倒があったら言えとか、そんな話しをサーディにするのは、さすがにはばかられる。
 スティアを悪く言うわけにもいかず、レイサルトは苦笑を浮かべてごまかした。サーディは、そうかスティアか、と呟きつつ笑っている。
「まぁ、人にかされる歳になる前に見つけてしまえれば問題にされなくて済むんだが。自分のことを思い起こすと、だいたいの人間がかしても無駄だと理解できるはずなんだがね」
 まだノドの奥で笑っているサーディにも、この女性だったから結婚することになったのだと思われるが例外なく存在している。その人と結婚するのは、他の時期ではダメだったと感じているのだろう。
「そんなに急かされたんですか?」
「ああ。君の歳にはを開くたびに、好みの娘はいないか、よく見ておけと言われていたよ」
 サーディはにこやかだが、ファリーナは驚いたのだろう、目を丸くしてサーディの横顔を見ている。
「お父様、もしかしたら私もそんな風に言われるようになるの?」
「たぶん言われるけれど、気にする必要はない。頑張って探しますとでも言っておいて、できるだけ自然にいることだ」
 ホッとした様子でニッコリと微笑んだファリーナに、サーディはもう一度口を開く。
「自然でいるのは大切だよ。伴侶になる人に対して仮面を付けていたら、どんどん苦しくなる。まぁ、仮面を付けていて苦しくなるのは、結婚についてだけではないがね」
 だが、自然にいることほど難しいことはないとレイサルトは思う。いつでもまわりの目が自分の価値を計っている。そしてその高低で、自身の存在意義も上下してしまう。一々まわりからの影響を受けていては、それはすでに自然な自分ではない。
 考え込んで伏せていた視線を上げると、サーディとまっすぐ目が合った。その微笑みが向けられていることで、なぜかふとフォースの顔が頭をよぎる。
「もしかして、父が私のことを何か」
「いや? 君のことを相談されたわけではない」
 レイサルトは、フォースがサーディに相談していないらしいことに安心はしたが、その言い回しが気になった。表情をうかがうと、サーディは軽く苦笑を浮かべる。
「まぁでも、心配はしていたよ。君くらいの時期、まだフォースは純然たる騎士だった。次期皇帝としての重圧など、まるきり無かっただろう? もしかしたら君が昔の私のように悩んではいないかってね」
 サーディの言葉に、レイサルトは片手で顔を覆った。やはり心配されていたのだ。余計なお世話だと思いながら、顔を覆うのはフォースがよくする仕草だと気付き、慌てて顔から手を離す。サーディは、微笑みをファリーナに向けた。
「新しくお茶を持ってきてくれるかい?」
 サーディの優しい横顔と視線を合わせ、ファリーナが、はい、と返事をして立ち上がった。キッチリとしたお辞儀を残して部屋を出て行く。ドアが閉まった音を合図にしたように、サーディは、そうそう、と少し身体を乗り出してきた。
「悩むのは当たり前だ。私たちだけではない、誰でもだ。日々ことが起きているのに何も考えない、感情が動かないなんて人間はいないだろう?」
「それは、そうです」
「だから言っておいたよ。君の立場で悩んでいなかったら、人として終わってるって」
 思わず吹き出し、レイサルトはそのまま感情を放り出したかのように、ポカンとサーディの顔を見つめた。
 サーディも皇位継承権を背負って生まれてきたのだ、自分と同じように悩んできただろうことは、レイサルトにも容易に想像が付いた。悩んでいてもいいのだという肯定が嬉しい。
 でも現在、サーディは完璧に自分を手に入れているとレイサルトは感じる。前皇帝の影に左右されることもない、どんな出来事にも揺るがない自分という存在を持っているのだ。
 この強さはフォースも持っている。自分もいつか手に入れなければならない力なのだろうと思う。だが、一生を掛けても手に入れられるとは思えない。
「私もサーディ様や父のように、皇帝になる日が来るのでしょうか」
 レイサルトには、その根本の事実から信じられなかった。サーディの微笑みが、遠くを見る眼に変わる。
「ああ、私もそんな風に思っていた時期があったよ」
 同じ思いがサーディにもあったのかと、レイサルトは驚いた。記憶をたどっていたサーディの視線が、レイサルトの目に戻ってくる。
「こういう立場にいると、父を目標にするのが一番お手軽だ。側で見ていられるのは父しかいないわけだし。実際フォースはよくやっているから、遠く感じるだろうね」
 はい、と、レイサルトは素直にうなずく。やはり自分は、父のようになりたいのだ。その目標があまりにも遠いから、途方に暮れているのかもしれないと思う。
「だが、君とフォースでは育ちも成長の過程もまるきり違う。君の環境は、むしろ私に近いだろう。フォースとは出来ることもずと変わってくる」
「……、そうですよね」
 父のようにはなれないと宣告されたように聞こえ、レイサルトは必死でため息が出そうになるのをこらえた。その代わりに、サーディがため息をつく。
「だからこそ、君ならフォースを越える存在にも成り得るよ。羨ましいくらいだ」
「越える? 羨ましい、って……」
 自分で口にしてみた言葉も、レイサルトにはひどく幻想的に聞こえた。
「自信を持っていい。フォースと構造用材が違うというのは、むしろ利点だ」
 持っていいと言われて自信が持てるなら苦労はしない。だが、かつては同じ思いを持ち、現在は立派に皇帝を務めている人の言葉だ。レイサルトは、少しは信じてもいいのかもしれないと思えた。
「大丈夫、君はまた違った面から国を補佐する優れた指導者になっていけるはずだよ」
 この、国を補佐する、という言い回しで、レイサルトはフォースの真剣な目を思い出していた。フォースもよくそんな言い方をしているのだ。サーディとフォース、どちらが最初に言ったのかは分からない。だが、君臨するという言葉よりも、よほどしっくりくる気がする。
 フォースとサーディを見ていると、同じ方向に歩調を揃えることこそを大切にしているのが、レイサルトの目にも明らかだった。そう、自分が権力として上に立つ必要は無いのだ。国を補佐する立場になるのだとしたら、自分に絶対的な力があろうと無かろうと、あまり意味はないのかもしれないとレイサルトは思う。
 向き合うのではなく、同じ方向に進む。その意識の変化だけで、レイサルトの中にあった強迫観念は、不思議なほど薄れていった。
「君はフォースに似ているよ。そう、そのまっすぐ自分のやりたいことを追求していく所は特にだ」
 そう言うと、サーディはさも可笑しそうに笑う。その表情を見ていてレイサルトは、昔のフォースとサーディはどんな生活をしていたのかという興味が大きくなった。
「父が騎士だったというのが想像できなくて。不思議な気がします」
 レイサルトの言葉を意外だと思ったのか、サーディが少し目を見開く。
「何も聞いていないのかい?」
 はい、と返事をすると、サーディは軽く肩をすくめた。
「まぁ、フォースが話しても、苦労話にしかならないだろうからな。じゃあ今晩は、ゆっくり君の疑問を晴らすことにしよう」
 そう言いながらサーディが浮かべた笑みは、レイサルトの目にも、ひどく子供っぽく見えた。


 窓から見える中庭に、明るい朝の光が差し込んでいる。それを見たレイサルトは、急いで身支度を調え、机にあった一枚の紙を手に取り、ドアを薄く開けて廊下を見た。
「アルトス、いる?」
「おはようございます」
 ドアの影になっていたところから、アルトスが姿を現す。
「お早いですね」
 訝しげな顔をしたアルトスに、レイサルトは振り返らないまま、親指で後ろを指差して見せた。
「中庭に行ってみたくて。もう許可は得てあるんだ」
 レイサルトは、城内からの簡単な経路が書かれたメモを、アルトスに差し出す。
「承知いたしました」
 そのメモを受け取り、少し目を落としただけで、アルトスは先に立って歩き出した。
 この城は、増築を重ねて迷路のようになったマクラーン城とは違い、とても単純な作りをしている。アルトスは手にしたメモを気にする様子もなく、レイサルトがサーディに教わった道筋を、まっすぐに歩いていく。はたして、あまり時間をかけずに中庭までたどり着くことができた。
「ここにいてください」
 レイサルトはアルトスにそう言い置くと、中庭に一人で足を踏み入れた。
 マクラーン城の中庭に比べて、こぢんまりとしたそこは、三方を壁に囲まれた場所とは思えないほど陽が入って明るい。花壇は無く、数本の低木と、奥まったところに一本だけ、まだ細いが二階の窓に届きそうなほど生長し、枝葉を大きく広げた木が立っていた。
 レイサルトが背の高い木の横を通って上を見ると、大きめなバルコニーが目に入ってきた。ということは、サーディから聞いた両親が落ちた場所というのは、たぶんこの辺りなのだろう。その時植えられたという苗木が、ここまで大きくなるものなのかと感心して見上げる。
 レイサルトは、その木の幹へと歩みを進めた。折れた木の代わりに植えられたのは、側で自生していた物だったという。その折れた木が残した子孫だろうとサーディは言っていた。
 レイサルトは、そっと幹に手のひらを当てて瞳を閉じた。表皮の乾いた感触と、ほんの少しひんやりとした温度に集中する。
「俺が今ここに存在しているのは、あなたの母君のおかげだそうです。ありがとう。……、いや、母君ではなくて、ご両親? なのかな?」
 何を言っているのかと自分で可笑しくなり、レイサルトは息で笑った。
 その刹那、日向の匂いが鼻先をくすぐった。思わず開けた目に、なびいた髪が見えた気がして、自然に視線が後を追う。だがそこには、誰の姿もなかった。
「レイサルト兄様!」
 後ろからの明るい声に振り返ると、メナウルの第一王子であるディロスが、敬礼を向けたアルトスの横を挨拶しながら通り抜け、駆け寄ってくるのが目に入った。結構な勢いなので、レイサルトはその場に立ったまま、ディロスが側まで来るのを待つ。
「普段通りに学校に行っているから、ほとんどお話しもできなくて」
 目の前に立ち、肩を弾ませながら言ったディロスに、レイサルトは苦笑を向ける。
「一応父の代わりだからかな。少しは話す時間が取れると思っていたんだけど」
 いつもなら、親同士が雑談しているのを横目に、レイサルトはディロスと色々な話をしていた。今回はそれが無かったため、寂しく感じたのだろうとレイサルトは思う。
「兄様、今日の午後には城都を出てしまうんでしょう?」
 側から見上げてくる真剣な瞳に、ああ、とうなずいてみせた。ディロスは大きなため息をつく。
「僕も学校に行かなくちゃならなくて。残念です。でも、ここから戻る間なら一緒にいてもいいですよね?」
「もちろん」
 そう返事をすると、ディロスはさも嬉しそうに、屈託のない笑みを浮かべた。
「そういえば、綺麗な人でしたね。どなたなんですか?」
「え? 何が?」
「何って、さっきここで兄様がお話ししていた人ですよ。兄様に手を振っていなくなっちゃったから、声をかけたんですけど」
 思わぬ言葉に、レイサルトはキョトンとディロスの顔を見つめた。中庭に入った時からディロスに会うまで、誰にも会っていないはずだった。
 だが、日向の匂いの記憶が脳裏に蘇ってきた。誰かが通り過ぎたと思って目で追ったのだ。それはもしかしたら、両親を助けたドリアードと呼ばれる妖精と同じ部類の妖精だったのかもしれない。
 キスをしたいほどの男じゃなかったのか、それとも男を必要としていなかったのか。後者であって欲しいけれど、妖精界に連れて行かれるのも困る。ふと真面目に考えている自分が可笑しくなり、レイサルトはノドの奥で笑った。
「兄様?」
「あ、ゴメン、なんでもないんだ」
 慌てて応えたレイサルトの顔を、ディロスが疑わしげにのぞき込んでくる。
「なんでもないって何がです? さっきの人は?」
 ディロスの好奇心が膨れあがっているのを感じ、レイサルトは笑いを押し殺してディロスの耳元に口を寄せた。
「さっきの人は、きっとドリアードだよ」
「ええっ?!」
 目を丸くしたディロスの口に、レイサルトは人差し指を立てて当てた。
「大きな声を出さないで」
 ディロスは、うん、とうなずくと、話の先を急くように耳を寄せてくる。
「だから、話をしてもいいけど、キスはしちゃいけない。妖精の世界に連れて行かれてしまうかもしれないから」
「はい、わかりました。兄様、早くここを離れましょう」
 レイサルトは慌てているディロスに腕を引っ張られながら歩き出す。
 中庭を出る前、レイサルトが一瞬振り返った視界の中に、木の側に立ち、ツンと横を向いた妖精の姿が見えたような気がした。