レイシャルメモリー後刻

― 起きて見た夢 ―

 緑が濃い森の中、馬が通れる程度の手入れをされた道が続いている。右手前方に、それほどの高さはないが、美しい岩肌のが見えてきた。
 騎乗用の軽い鎧を着けて手綱を取る腕の中で、寄り添うように身体を預けていたリディアが首をもたげ、その崖に目をやる。
「綺麗ね。曇っていなければ、もっと綺麗だったかも」
「ああ。だけど崖が道に近すぎる気がしないか?」
 俺は出発する前に見せられた地図と、今の場所を記憶の中で照らし合わせた。今通っている道は、その地図だともう少し崖から離れていたはずだ。
「でも、この道をまっすぐって言われたわ。脇道も無かったし」
「そうなんだよな。そういえば、このあたりで山賊が出るとか言ってたっけ」
 俺の言葉に、リディアは特に表情を変えることなく、ええ、とうなずく。信頼してくれるのは嬉しいが、あまり大勢で出てこられたら本気で危ない。戻るべきだろうかと思ったその時、あそこに、とリディアが前方を指差した。木々の上に、塔の先端が見え隠れしている。
「城だ。そういえば地図にもあったな。わりと近そうだ」
「そこで道を聞いてみましょう」
「だな。違っていたとしても本来のルートに戻る道が、この先にあるかもしれない」
 リディアは、ええ、と返事をして俺を見上げた。しっとりと潤ったピンク色の唇に触れるだけのキスを落とすと、リディアは柔らかな笑みを浮かべ、また前方へと視線を向ける。
「あ、雨だわ」
 リディアの言葉に周りを見ると、鎧の肩プレートが雨粒に打たれてプツッと音を立てる。すぐに雨音の間隔が狭まってきた。俺は後ろに積んだ小さな荷物から、ローブを取り出す。
「急ごう」
 俺はリディアを抱き寄せ、頭からローブをって、馬を進めた。

   ***

 道の右側にあるその城は、個人所有の割には結構な大きさがある。白く大きめの石でできていて、角の部分を赤い石で飾り付けてあるという、一見して可愛らしい外観をしていた。扉のない門をくぐって馬を降り、堅い木でできたアーチ型の扉をノックする。
 少しして扉が開かれた。半分白髪でグレーの髪をした初老の男が、目を見開いてリディアを見つめる。
「どちら様でしょうか」
「旅の者です。道を教えてください。できれば、雨が上がるまで雨宿りさせていただきたいのですが」
「……本当に?」
 返された質問を不思議に思いながら、ええ、と返す。
「お客様に失礼ではないか」
 声のした階段の上方を見ると、三十になったかならないかくらいの、細身で身なりのいい男が降りてきた。応対してくれていた初老の男が俺たちに深々と頭を下げる。
「申し訳ございません」
 初老の男は、まだいくらか頭を下げたまま後ろに引き、階段から下りてきた男が前に出た。
「城主です。執事が失礼をいたしました。でも、どうか分かってください。そちらの女性が、つい最近亡くなった私の妻によく似ているのですよ」
「奥様に……」
 リディアがその奥方に似ているから、その親族だと思われたのだろうか。俺とリディアは、なんと答えていいか分からずに、顔を見合わせた。
「あ、お気になさらず。どうぞ中へお入りください」
 どうぞこちらへ、と城主が廊下を指し示し、奥へと歩き出す。俺とリディアはその後に従った。
「どちらからいらしたのですか?」
「ルジェナです」
 俺の答えに、城主はハタと思いついたように手を叩き、ああ、とうなずく。
「数日前に王族の結婚式があったとか。ご参列されたのですか?」
「ええ、まぁ」
 はたして結婚した当人を参列者と呼んでいいモノかと思ったが、まさかルジェナからラジェスへの密行の途中で、本人ですと答えるわけにはいかない。やはり、意地でも前から持っている使い古した鎧を着けてくればよかったと、今さらながら後悔する。
 通されたのは、応接室だった。ドアを開くと、正面の壁、大きめの二つの窓に挟まれた場所に、女性の大きな肖像画が飾られている。これが城主の奥方の肖像画なのだろう。確かにどこかリディアに似ている。その下には、控え目だが上品な調度品が数点飾られた棚があり、部屋の中央には金箔が織り込まれた布地張りのソファーと、美しい木目のテーブルが置かれている。俺とリディアは、勧められるままソファーに座った。
「あなたに似ているでしょう?」
 肖像画を指差した城主に、リディアは、そうですね、とだけ返している。こんな聞かれ方をしたら、うなずく以外にない。
「失礼します」
 戸口から声がして、丸めた地図を持った執事が入ってきた。城主に指図を受け、テーブルにそれを広げる。城主は身を乗り出すと、地図を指し示す。
「ルジェナはここです。ラジェスはこちらで、この城はここに。ここをまっすぐ行かねばならないところ、右の枝道に入られたのでしょう。何か他のことにでも気をとられていらしたのですか? 見落とされるなど、よほどのことだと」
 気をとられることなど、何もなかった。やはり道を見逃していたのだ。しかも、どうしてわざわざ脇道に入ったのか分からない。
「ここまで一本道だと思っていたくらいで。本当にどうして分からなかったものやら」
「奥様に見とれていらしたか」
 城主はそう言うと控え目に笑い声をたてた。いくら見とれるといっても、道一本、しかも街道をれるなど考えられない。俺は苦笑して話をした。
「この先、もとの道に繋がるルートはあるでしょうか」
「いえ、この先は裏手の崖を越える道になっています。来た道を戻られるしか」
 城主の言葉に、そうですか、と答え、心配げな瞳で見上げてくるリディアと目を合わせた。
「行きましょう。今日中にラジェスへ着くには、急がなければ」
 俺がうなずきかけた時、城主が、しかし、と口を挟む。
「今からですとラジェスへ着く前に日が落ちてしまいます。雨もあがりそうにないですし、一晩泊まっていらしてはどうですか?」
「ですが、これ以上ご迷惑をおかけするわけには」
 行方不明が一日だけでも、ラジェスで待っているジェイには間違いなく心配をかけてしまう。できることなら無理をしてでも、今日中にラジェスまで行きたい。だが城主は、何かあっても、と苦笑した。
「このあたりは山賊が出るので危険です。迷惑など露ほどにも。それに、実はこの城は妻が利用していたものなのです。どこを見ても妻を思いだしてしまう。寂しがっている私を気遣って、あなた達がこちらへ寄っていただけるようにと、妻が機会を作ってくれたのかもしれません」
 俺は思わず肖像を見上げた。亡くなったのはつい最近だと言っていた。この城主がこんな風に気にするのも仕方がないことかもしれない。それに、実際日が落ちて山賊に襲われでもしたら、危険極まりないのだ。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」

   ***

 執事が運んでくる夕食をご馳走になり、城主の酒に付き合い夜も更けてから、隣り合った二つの部屋へと案内された。部屋は中にある一つのドアで繋がっていて、廊下側には鍵をかけられるようになっている。よくある夫婦用の部屋だ。
 部屋まで案内してくれた執事は、俺に二つのランプと鍵を手渡し、深々とお辞儀をして元来た方へと戻っていった。俺はすぐに二つの扉の鍵を閉め、短剣をリディアが泊まる方の部屋のドアに立て掛ける。リディアの所へ戻ると、不安げに俺を見上げてきた。
「フォースも何か変って思ったの?」
「え? あぁ、剣か? いや、特に怪しいとか思った訳じゃない。ああしておくと、ドアを開けると盛大な音がするから、とりあえず安心だろ」
 俺の言葉に苦笑すると、リディアは眉を寄せた。
「何? 怪しいって思ったのか?」
「こんな城に住んでいるわりには、粗野だったと思わない? じろじろ見られた時には気味が悪かったわ」
「けど、このあたりは田舎だから。肖像にもいくらかは似てたしな。驚いても特に不思議じゃないだろう」
「そうだけど……」
 まだどこか心配げなリディアの髪を、俺はそっとくように撫でた。柔らかで弾力のある感触が伝わってくる。
「だけど? 他にも何か?」
「特にこれってコトじゃないのだけど。なんだか空気が重くて怖いの。でも、まさか部屋を一つにしてくれとは言えないものね」
 俺は、恥ずかしげに浮かべた微笑みを抱き寄せて腕の中に包み込み、軽く閉じたまぶたへ、滑らかな頬へ、柔らかな唇へと、触れるだけのキスを落とした。
「フォース……」
 薄く開いた瞳からの視線と、白くしなやかな腕が絡みついてきて、俺は背に回した腕に少しずつ力を込め、もう一度唇を重ねた。
 リディアの手が俺の存在を確かめるように背を移動する感触に、思わずキスを深くする。頬から首筋に唇を這わすと、きめの細かいすべらかなノドが仰け反って扇情的なラインを描き出し、上気したせいでいつもより赤い唇から短いため息のような息が漏れてくる。
 ドアの方からいきなりカタッと音がして、リディアがビクッと身体を震わせた。不安げに見上げてくるリディアの頬を撫でる。
「見てくる」
 そう言って身体を離すと、リディアは両腕で自分の身体を抱くように抱え込んだ。
 リディアをベッドに座らせ、ランプを手にすると、俺はドアまで行って立てかけていた短剣を手にし、鍵を外してドアを開けた。廊下に出て左右に明かりをかざしてみたが、人が隠れられそうな場所もなく、何も変わったところはない。
「フォース?」
 弱々しげなリディアの声に、俺はドアに鍵をかけ、もう一度短剣を立て掛けてリディアの所へ戻った。
「どう?」
「いや、別になにも」
 リディアは不安げな表情のまま、ランプを台の上に置いた俺を見上げてくる。
「ねぇ、明日、なるべく早く出ましょう。日が昇ったらすぐにでも」
「ああ。そうしよう。ジェイをあまり待たせるわけにもいかないしね」
 俺の言葉に、リディアはいくらかだが安心したように息をついた。
「じゃあ、サッサと寝なきゃな」
 コクンとうなずいたリディアを引き寄せ、そっと唇を合わせる。
「ありがとう。おやすみなさい。真ん中のドア、開けておいてね」
 了解、と答え、もう一度キスをする。ドアのところでリディアに手を振って、俺は隣の部屋へと入った。

   ***

 サッサと寝なければいけないと思ったからではないだろうが、なかなか寝付くことができなかった。今はもう寝るのを諦めて、身支度をし、剣も身に着けている。
 窓の外はまだ闇で周りがよく見えない。だが、雨はあがっているらしかった。
 ふと、リディアの息遣いが聞こえた気がした。ランプは二つともリディアの所だ。俺はいくらか漏れてくる明かりを頼りに、リディアのいる部屋へと入った。
 ランプは一つだけ灯が細く灯っていた。その明かりに映し出されたリディアの呼吸が乱れていて、ひどく早い。うなされる声も聞こえてくる。
「リディア? どうした? リディア?」
 駆け寄ってベッドに腰掛け、名を呼びながら抱き起こすと、うっすらと瞳が開かれて視線がさまよった。リディアはそれから俺をしっかり見つめてくる。
「フォース……」
 リディアは、夢の続きからようやく抜け出せたようにため息をつき、俺に寄り添ってきた。リディアの身体に腕を回すと、えているのか震えが伝わってくる。
「夢を見てたの」
「夢?」
 俺が聞き返すと、リディアはゆっくり、大きくうなずいた。
「とてもリアルだった。怖くて、痛くて、悲しくて……」
「痛い?」
「変よね。でも、まだ身体に余韻が残っていて」
 自分の身体を抱くように両腕を回し、眉を寄せて俺を見上げた瞳から、大粒の涙が溢れ出て、リディアは慌てたようにうつむいた。
「やだ、引きってる……」
 俺はリディアの髪にキスをして、そっと抱き寄せた。
 カチッと鍵の開く金属音がして、立てかけてあった短剣が倒れる音と共にドアが動いた。の部分がドアストッパーのように引っかかる。リディアが小さく息を飲んだような悲鳴を上げた。鞘を外すようにドアが揺らされ、今度は大きく開かれる。手にしたランプの明かりに浮かび上がった顔には、まったく見覚えがない。
「何か?」
 俺は男の顔を確認してから立ち上がり、声をかけた。その男は顔を上げ、剣に手をかけた俺を見つけてうろたえている。
「も、申し訳ありません。まさかこの部屋を使われているとは思わず。失礼をいたしました」
 深々と頭を下げると、その男は慌てて部屋を出て行った。
 鍵はもう一本あったのだ。その存在を城主は知らなかったのだろうか。城主の奥方が使っていた城なら、知らなくても不思議はないとも思う。
 それでも。今の男はリディアの立てた声が聞こえなかったのか、聞こえていて、それでも入ってきたのか。単純に間違いならいいのだが、そうでない可能性も捨てきれない。鍵はまだこの部屋の外にもあるのだ。とりあえず、用心だけはしなければと思う。
 俺は元のようにドアに鍵をかけて短剣を立て掛け、リディアの元に戻った。見上げてくるリディアの顔色が、悪くなっている気がする。俺はベッドに座ってリディアを抱き寄せた。前よりもリディアの震えが大きい。
「大丈夫か?」
「今の人、夢の中で山賊だったの」
「え?」
 思わぬ言葉に聞き返すと、リディアは不安げに見上げてきた。
「見たことがある人なら、夢に出てきても驚かないのだけど、まったく知らない人だったから……」
 確かに、嫌な印象を持っていたから山賊として夢に出てくるならありえる話だ。だが、リディアが見たという夢はそれとは違う。いわゆる既視体験だ。
「どんな夢だったんだ?」
 話してしまった方が、きっと落ち着けるだろう、そう思って俺はたずねた。
 リディアは少しの間、胸に両手を抱えるようにして黙っていた。それからゆっくり口を開く。
「ここで眠っていたら、男が二人入ってきて乱暴されたの。隣の部屋に寝ているはずの恋人を呼ぶんだけど、返事が無くて。そのうちに返り血を浴びたような血だらけの男が三人増えて、その人たちにも……」
「い、痛いって」
 思わず口を出した俺に、リディアは微苦笑を向けてくる。
「大丈夫よ、夢だったんだもの」
 リディアは、そうは言ったが、笑みもすぐに強張り、表情がひどく硬い。
「でも、どんな風にされたか、全部覚えていて……」
 こんな話を聞いたら、なんだか俺の方が落ち着けない。抱き寄せる腕に力を込めると、リディアは俺に抱きつくように、身体を預けてくる。
「隣に続くドアから、執事が恋人を引き摺ってきて、よく寝ているだろう、睡眠薬をたっぷり飲んだからね、って言いながら、手にしていた短剣で刺し殺してしまうの」
「執事って、この城の?」
 リディアはコクンとうなずいた。
「それからその執事に、新しい城主様だ、って、今まで使用人をしていた男を紹介されて」
「それが……」
「ええ。今の城主だったわ」
 そりゃあ確かに気味が悪い夢だ。リディアは気を落ち着かせるためか大きく息をつくと、話の続きをはじめる。
「城においておくと危険だからって、昨日見えていた崖の上の隠れ家みたいな洞窟に連れて行かれて。逃げようとした時に自分で持っていた短剣で刺されて崖から落ちてしまうの。崖下で、胸に刺さっている短剣を抜きたくても抜けなくて。恋人が、私の城が。七人の山賊たちを、って頭の中でグルグルしてて、とても悲しくて寂しくて……」
 何も言えなくなり、話が終わるまで、つい聞き入ってしまった。リディアがため息のようについた息が震えている。俺はしっかりとリディアを抱きしめて、髪を撫でた。
「夢だったんだろ?」
「ええ。でも、場所がここなの。目を閉じたら、全部私のことみたいに思い出せてしまって」
「でも、夢だ」
 リディアは自分で納得したいのだろう、俺の胸に顔を埋めたまま、何度もうなずいた。
 確かに、殺されたのが城主の言っていた奥方だとしたら、無視できないくらい現実に当てはまる。だが既視体験らしいのは、さっき入ってきた使用人の顔だけだ。夢をそのまま事実と混同するのは、あまりにも安直すぎる。
「場所を変えよう。ここよりは隣の方が、まだマシだろう?」
 リディアは、俺を見上げてしっかりと首を縦に振った。俺は、歩ける、と苦笑するリディアを抱き上げて隣の部屋へ運び、ベッドに降ろした。
「少し休んだ方がいい。起きて側にいるよ」
「でも、フォースは? 疲れてない?」
 ベッドに座った俺を心配げに見上げてくるリディアに微笑んで見せ、少し青ざめた唇にキスを落とす。
「全然平気だよ」
「ありがとう」
 リディアは、俺の手を引き寄せて指を絡ませると、微笑んで瞳を閉じた。