「大切な人」の、裏。

     ― 持久力 ―

 恋人のリディアが女神の降臨を受けてしまってから、二位の騎士である俺が陛下の命を受け、リディアの護衛を務めている。護衛に就いてからは、ほとんど一日中リディアの側に居られるという嬉しい状況だ。
 ただ、女神に降臨を解かれてしまうとコトなので、恋人とはいえうかつに手を出したりはできない。リディアの父であり神官長でもあるシェダ様は、手を出したらどうなるか分かっているだろうね、というような冷たい視線付きで、最後の一線さえ越えなければいいと気楽なことを言っている。実際は、手なんか出したら最後の一線どころか、止められる気がしないので、せいぜいキスをするのが限度だったりするのだが。
 一日のほとんどをヴァレス神殿の中で一緒に過ごしているが、当然、睡眠だけは別々の部屋でとる。リディアの部屋は、俺の部屋と廊下を挟んで斜め向かい、すぐ側だ。
「フォース、おやすみなさい」
「おやすみ」
 その日もリディアと部屋の前で別れ、後の見張りを警備補助のバックスという騎士に頼む。バックスは騎士の一年先輩で五歳年上だが、騎士に成り立ての頃から付き合いがあって馴染みが深い。普通ならば騎士同士、面倒な引き継ぎがあったりするのだが、バックスとは簡単なやりとりだけで済む。
「それじゃ、あとよろしく」
「了解」
 そして、いつものようにお互い手を挙げるだけの挨拶をして、俺は自分の部屋へと入った。
 部屋へ入り、まずを外す。身体は一気に楽になるのだが、不安も頭をもたげてくる。最近はまったく前線に出ることもないのだが、このままでは身体がなまってしまう。もしも何かあった時に困るので、ここヴァレスに来てからは、毎日一息ついたあとの時間を利用して、腹筋や背筋を鍛えたり、腕立てを続けている。
 腹筋、背筋の運動を終えた頃、ドアにノックの音がした。
 ドアを開けると、そこにはリディアとバックスが立っていた。
「あれ? どうした?」
「リディアさん、眠れないんだって。俺、ほんのちょっとだけ外したいんだ、その間見ててもらってもいいかな」
 説明をするバックスの前で、リディアはいかにもすまなそうにしている。俺は笑顔を作った。
「別に俺はわないよ」
「サンキュー、なるべく早く戻るよ」
 バックスはそう言うと、サッサと廊下の突きあたりにある階段の方へと歩いていった。
「フォース、い汗」
 顔を上げて気付いたのか、リディアは薄いブラウンの瞳を丸くして、部屋へと入ってきた。そして奥の棚からタオルを持ってきてくれる。勝手知ったる、というか、間借りしているのは俺の方だ。リディアは聖歌ソリストの見習いをしていたので、神殿の中を知っていても当たり前だったりする。
「何してたの?」
 タオルに顔を埋めた俺の耳に、リディアの声が届く。
「トレーニングだよ。いざって時、動けなかったら困るだろ」
「毎日?」
 俺がうなずくと、リディアはポンッと手を叩いた。
「じゃあ、私が部屋に入ったあと、しばらくしてからフォースが出て行くのって、もしかしてお風呂?」
「風呂ってか、水を浴びてくるんだけど」
 それを聞いて、リディアは顔をほころばせる。
「なんだ、そうだったの。毎日どこに行っているんだろうって、ずっと不安だったの」
 不安って、リディアはいったいどんなことを考えていたんだろう。リディアは目にとまったらしい砂時計の砂が落ちるのを、じっと見ている。
「ああ、それ。それで時間計って身体動かしてるんだ」
 え、と振り返り、リディアは困ったような顔をした。
「ごめんなさい、邪魔しちゃって」
「邪魔なんかじゃないよ。そうだ、乗ってみる?」
 キョトンとしたリディアの前で、俺は腕立て伏せの体勢をとる。
「背中じゃ辛いから、このへんに」
 俺は身体を片手で支えて、腰のあたりを示した。
「乗っかっちゃって平気?」
 俺がうなずくと、リディアは砂が落ちきった砂時計をひっくり返し、椅子に座るように乗っかった。
「これで同じ時間ってのはしくないか?」
「そっか、そうよね」
「ま、いいか。挑戦してみよう」
「ホントに?」
 俺はいつもやっているように、腕を曲げて身体を低くした状態から、一気に床を突き放すように押し上げた。キャアと悲鳴を上げて、リディアは背中にさるように抱きついてくる。リディアの長い琥珀色の髪が、肩口にサラサラとこぼれた。俺は腕に掛かる負荷が大きくなって、腕を突っ張ったまま落ち着くのを待つ。
「リディア?」
「ごめんなさい、ビックリした」
 リディアは背中に手をついて起きあがろうとする。
「そのままでもいいよ」
 俺はリディアを背中に乗せたまま、ゆっくり腕立てを繰り返した。
「いつもはさっきみたいな腕立てしてるの?」
「ああ。さっきのは瞬発力を付けるための腕立て。この状態だと持久力だな」
 腕立てを繰り返す俺の背中で、リディアは動かずにじっとしている。
「信じられない」
 つぶやくような声が聞こえ、俺はリディアに聞き返した。
「何が?」
「だって私、一度もできないんだもの」
「い、一度も?」
「今、笑ったわね?」
 いつもよりも断然早く、腕が辛くなってくる。吐き出す息が震え、どうもリディアには笑い声に聞こえたらしい。
「い、いや、笑ってない」
「嘘。意地悪」
 そう言って、リディアはほんの少しだけ体重を肩の方へずらした。
「意地悪って、おい……」
 リディアには分からないかもしれないが、ずれたのがほんの少しでも、腕に結構な負担が掛かってくる。だからといって、ここでギブアップするのも腹が立つし、情けない気もする。砂時計が気になるが、ここからは見えない。
「今どのくらい?」
「半分くらい」
 リディアは首を動かし、俺にささやきかける。
「半分? 嘘だろ?」
「少しだけ残ってる」
 リディアは、可笑しそうに耳元で小声で笑った。
「全然違うだろっ」
 苦しくて息が切れ、思わずうめき声がれる。ようやく腕をまっすぐにしたが、もう一度もできそうにない。
「キツいよ……、動かなくても、駄目そう」
「嫌、もう少し」
 いくらリディアに励まされても、もう限界だ。支えているだけで腕が震える。
「リディア……。くっ、もう、たない」
「なにやってんだっ!」
 いきなりでかい声を上げて、バックスが勢いよくドアを開けた。驚いて体勢を崩し、リディアを背中に乗せたまま床にへたばる。背中からキャアと悲鳴が聞こえた。バックスは、背中にいるリディアと俺を見て、呆気にとられている。
「バックス? どうしたんだ?」
「あ、あれ? 上下逆、ってか、悪いっ!」
 バックスはほとんど叫ぶように言うと、身体を引き、大きな音をたててドアを閉めた。リディアは俺の背中から降りる。
「上下逆?」
 バックスが言った、俺とリディアの上下を逆にした状態がどういう状況で、しかもリディアとの会話がどういうモノだったかに思い当たり、俺は思わずブッと吹き出して床に突っ伏した。
「って、バックス、それ、止めてももう遅いんじゃ……。越えちゃってるよ」
 リディアは、心配げに顔をのぞき込んでくる。
「大丈夫? どうしたの? 何が遅いの?」
「何って……。鼻血吹きそう」
 俺がすっかり上気してしまった顔を上げると、ちょうど砂時計の砂が落ちきったのが見えた。