新緑の枯樹
     ― 7 ―

 城都は朝早くに発った。 ゴートは前線と反対の方向なので、郊外に出てしまうと木々の緑が奥深くなり、のどかで静かな雰囲気が続く。 俺はリディアを後ろに乗せ、ブラッドと一緒に馬をゆっくり進めていた。
 昨日はシェダ様にゴート行きの許可をいただいたり、グラントさんやアジルにウィンの疑惑を話したりと忙しかった。 おかげで寝る時になってからドアがない現実をいきなり突きつけられて、なかなか寝付けなかった。 しかも寝入ったはいいが、何度も繰り返し見ているイヤな夢を見た。 母が殺された時の夢だ。
 五歳の時だ。 当時住んでいたドナという村の井戸に何者かが毒を入れた。 どういう訳かその毒は、母と俺には効かなかった。 紺色の目を持っているから、そういう血だから毒が効かなかったのだろうか。 それで疑惑を持たれたらしく、お前らのせいだと言われ、村民の一人に母は斬られてしまったのだ。
 何度も夢の中で止めようとしたが、どうやっても結果は同じになってしまう。 実際そうなってしまったことを、夢の中でどうにかできたからといって、何も変わらないことは充分理解している。 でも止めたいのだ。 どうしても止めたいのだ。
 結局その夢で残るのは、母を守れなかったやりきれなさと罪悪感、村人や母が言った虚しい言葉だけだ。 お前らのせいだ、誰も恨んではいけない、強くなりなさい……。
「どうしたの?」
 その声に振り返ると、リディアが肩口から半分顔を出してこっちを見ていた。 堅くこごっていた気持ちがほぐされていく。 今朝もそうだった。 リディアが起こしてくれたので、あの夢で残るイヤな感覚もそんなになく、今までにないくらいキッパリ起きることができた。
「ありがとう」
「え?」
 リディアは不思議そうに見つめてくる。 当然何も知らないリディアには、お礼の言葉が帰ってくることの訳を、理解できるはずがない。 俺はごまかすように苦笑して前を向いた。
 そう、昔のことを振り返っている余裕はない。 今どうしても守りたいのはリディアなのだから。 こればかりは後から後悔するようなことには絶対にしたくない。
 右側、木々の緑の隙間から、陽光を乱反射する水面が見えてきた。 森でできた扉を開いたかのように湖が姿を現す。 ヴォルタという湖だ。このまま湖の畔に沿った道を進んでいくと、対岸に位置するゴートにたどり着く。
「キレイね……」
 つぶやくようにリディアが言った。 それが妙に寂しげに聞こえ、俺は振り返って様子をうかがった。 リディアは目を伏せ、景色と言うよりは水面に瞳を向けていた。 光を含んだ髪が緩やかな風でなびき、うつむき加減の頬を撫でている。 こんな表情を見ていると、リディアは今、幸せだと思っているのだろうかという疑問がわいてくる。
 シャイア神が好きで、ずっと歌っていたくて、それでソリストならまだいい。 もしも絶望、諦めなどの後ろ向きな気持ちからなら、必ず後悔すると思う。 俺にとっては、それがどっちだろうと、リディアがソリストになることを止めたい気持ちは変わらない。 だが、そのためには、なにか理由が必要だと思う。 俺がリディアを好きだと思う気持ちだけでは、やはり足りないだろうか。
「なぁに?」
 俺がリディアの様子を気にしていることに気付いたのか、リディアは寂しげな顔をそのままこちらへ向けてから、口元に少しだけ笑みを浮かべた。
「どうして、ソリストに?」
 俺は思わずそのまま疑問を返してしまった。 リディアの口元から笑みが消えたような気がして、言ってしまったことを後悔した。 だがもう遅い。 手綱が気になるふりをして、目をそらすために前を向いた。 自分で質問したくせに、答えを聞きくことを気持ちが拒否している。
「やってみないかって話しは前からあったの。 どうしようか悩んでいた頃に、タイミングよく大好きな人にフラれちゃって」
 フラれた? その相手が気になって振り返った俺の背中に、リディアは顔を隠すように額を付けた。
「こっち見ちゃ駄目、その人のこと聞くのも禁止」
 リディアの訴えに、仕方なく前を向こうとしたところで、ブラッドと目があった。 ブラッドは肩をすくめて馬の位置を下げる。 これじゃあブラッドには丸見えだ。 ブラッドに文句を言おうとした時、リディアが俺を掴んでいる手に、少しだけ力がこもった。
「前、見ててね」
 この際ブラッドに文句を言うよりも、リディアの話しを聞く方が先決だ。 俺は黙って前を向いた。 背中が真っ直ぐになって安心したのか、リディアはフッと小さく息を吐いた。
「その人、とてもこの国を大切にする人なの。 いつもみんなの幸せを考えているような人。 もしかしたらソリストになることで、少しでもその人のお手伝いができるかもって思って」
 ふとグレイの顔が頭に浮かんだ。 リディアはなんでもグレイに話していたようだし、グレイは人の世話を焼きたくて神官になったような奴だ。 リディアのその人とは、きっとグレイのことだろう。 でもソリストになることがグレイの手伝いだったとしたら、やっぱり間違いだと思う。
「それは、リディアがやりたいからやってるんじゃないってことか?」
 背中に当たっているリディアの頭が振れる。
「最初はそうだったかもしれない。 でもね、私が歌うことで、喜んでくれる人もいるって分かった時、とても嬉しかったわ。 ずっと歌っていてもいいかなって」
「それで、いいのか?」
「喜んでもらえること、幸せだと思うわ。 私でもそんな風に人を癒すことができる……。 いいのよ、それで。いいの」
 その言葉がリディア自身にも言い聞かせているように聞こえるのは、俺の考え過ぎだろうか。 それとも単に俺がそう思いたいだけか。
「なんだか不思議だわ。 神殿の外に出るなんて、もう二度と無いかもしれないって思っていたの。 こんな風に……」
 もう二度と、か。 もう何を言っても無駄なほど、リディアの気持ちは固まっているのだろうか。
 俺はどうしたらいいんだろう。 この気持ちを伝えないと、きっと後悔が残る。 でも好きだなんて言ってしまったら、リディアに余計な苦しみを与えてしまうかもしれない。 俺はグレイではないのだから。 それに守りたいのがリディアのすべてなら、リディアが幸せに思うソリストとしての時間も、大切にしなければならないのだろう。
 最初から俺の仕事はソリストの護衛だ。 やり遂げないと、やはり後悔は残る。 どっちにしても後悔が残るなら、リディアが苦しまない方を選びたい。 どうしても、俺はリディアを傷つけたくはないのだから。
「見えてきましたね」
 ブラッドが馬を並べてきて、湖の対岸、道のずっと先を指さした。 見ると何軒かの家の屋根が、低木の間から顔を出している。 ブラッドは、いかにも木々が邪魔だといった風に、首を左右に動かして家々に見入っている。
「ゴートには退役した騎士の邸宅が多いって聞きましたけど、派手な豪邸は少ないですね」
「派手好きなら城都に住むだろ。 それに騎士は移動が多いから、普段は質素なもんだ。 退役したからって、いきなり豪邸じゃ落ち着かないよ」
「そんなモンですかねぇ。 じゃあ、フォースさんも退役したらここに住むんですか?」
 今日これからのことも分からないのに、退役だなんて、あまり遠い先の話しだ。 いくらなんでも住むところまで考えが及ばない。
「さぁな。 生きて退役できれば、そうするのかもしれないな」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
 ブラッドは明らかに不快そうな声を出した。
「ゴメン。 ずっと限界いっぱいで仕事をしてきたから、先のことを考える余裕がなくて」
「余裕があれば先のことも考えますか? それが本当なら、別にかまわないんですけどね」
 妙に突っかかると思い、俺はブラッドを振り返った。 一瞬目が合ったが、ブラッドは視線をそらしてヴォルタ湖の方を向き、馬を前に出した。
 余裕の問題ではない、ブラッドの態度はそう言っている。 俺に余裕があっても、先のことは考えないと思っているらしい。
 これから先か。 今やらなければならないのはリディアの護衛、リディアを狙っている奴らの排除だ。 それと式典でのソリストの護衛。 それが済んだら、まず間違いなく前線に戻るだろう。 それから? 衝突、会議、剣の練習、ほんの少しの休息。 思いつくのは戦に関することばかりだ。 他に何がある?
 俺は人々の生活を守っていければ、それでいい。 どれだけ厳しい戦でも、その後ろにいる人たちには戦が別世界の物であって欲しい。 できることならメナウルとライザナルを結ぶ糸をたくさん作って、いつか引き寄せるだけの力を込められる物にしたい。 そして城都に戻った時、サーディやグレイの笑顔を見ることができて、そう、リディアの歌が聴ければ。 それでも胸が痛いのは、リディアが遠い人になってしまうからだろうか。
 それにしても、この気持ちの空白は、いったいなんだろう。 どうすれば埋めていけるのだろうか。 今の俺には探し出せない自分が、そこにいる気がする。
 控えめなため息が聞こえ、俺はリディアをもう一度振り返った。 その頬に涙がつたう。
「リディア?」
 俺に気付かれたことに驚いたように、リディアは顔を背けて涙を隠した。
「ごめんなさい、気にしないで」
 気にするなと言われても、気にならないはずはない。 でもその言葉は、もう何も聞くなということなのだろう。 これ以上、俺がリディアに立ち入ることは許されない。
「風が、やんじゃったわね」
 涙を拭ったばかりで、リディアは笑顔を浮かべて見せた。 俺はそんなリディアを見ているのが辛くて目をそらした。
「無理に笑うな。 頼むから」
 俺は前を見たまま言葉を投げた。 リディアが背中に寄り添うのを感じる。
「風が欲しいなら、ゴートまで走ろうか」
 リディアが俺を掴む力が強くなる。 俺はかかとで軽く馬の脇腹を蹴った。