新緑の枯樹
     ― 11 ―

 気が付くと、あの木の側にいた。 あらためて見ると、木は大きく形を変えていた。 太い枝がいくつも折れ、幹も傷んでしまっている。 落ちた俺とリディアを受け止めてくれたからだ。
 それだけではなく、なんだかまわりの雰囲気も違う。 辺り一帯が、妙に暖かで美しい光に包まれている。 まるで草木の緑も、石の城壁も、空気ですら自らが虹色の光りを発し、互いに乱反射しているようだ。
 俺は上体を起こして、身体が異様に軽いことに気付いた。 何気なく手を見ると、いくらか透けている。 そうだ、イアンに刺されたんだっけ。 変な影みたいな奴が出てきて、それで俺は……、死んだのか?
「おい」
 その声に、俺は頭を上げた。 そこに膝があって、俺はもっとずっと上を見た。
「お前は、さっきの……」
 大きさは影と同じくらいだ。 ただ、ここにいるのは実体だ。 ずんぐりした体型に長い腕、目がギョロッとしていて、口は裂けたように大きく、耳が尖っている。 妖精か? だとしても、怪物に近い容貌をしている。
 そいつはゴツくて長い腕を伸ばし、いきなり俺の首を掴んだ。 その手が握るような力を込めてくる。 息苦しくなって初めて、透けていても俺は空気とは違うんだと気付いた。
「ティオ? 駄目よ」
 女性の弱々しい声と同時に、首にかかっていた力がゆるんだ。 ティオと呼ばれたでかい奴が、声のした方を振り返る。 そいつが木の根本に駆け寄ると、身体がみるみる小さくなっていき、子供ほどの大きさになった。 木の幹に身体を預けて座っている女性に声をかける。
「フレア。 でもあいつは」
「分かってね。 ゴメンね。 ティオを苦しめるつもりはなかったのだけれど」
 その人は、白い指でそいつの頬を撫でた。 細い腕、華奢な肩、そしてその顔を見て俺は息をのんだ。
「あの時の!」
 そこにいたのは、最初に襲われる前に、この木の下で俺にキスをした、その人だった。
 俺の声に、小さくなった奴が刺すような視線を向け、うなり声を出す。
「お前がフレアを!」
「ティオ、違うわ。 私がこの人を助けたかったの。 それだけなのよ」
 その人は、ゆっくりと答えた。 その言葉で、木の上に落ちた時に、俺の手を取ってくれた枝の存在を思い出した。
「あなたは、もしかしたら……」
 俺がつぶやくように言ったのが聞こえたのか、その人はこっちに手を伸ばしてきた。 俺は側まで行ってその手を取り、苦しげに浅い息を繰り返しているその身体を、抱きかかえてその場に寝かせた。 人間と同じような耳があらわになる。 妖精? いや、人間なのだろうか。
「お前、何も知らないんだな。 妖精なら耳が尖っているはずだなんて思ってるのか?」
 ティオと呼ばれた奴は、俺の疑問を察したのだろう、バカにするように言った。 どうせ俺は昔からひねたガキだったから、妖精になんてお目にかかったことはない。
「私はこの木に宿る妖精なの。 人間は私のことをドリアードと呼ぶわ。 本当は、あなたも私のモノにしたかったのに……」
 ドリアード? ってことは、あのキスはこの人の誘惑だったのだ。 俺の中に押し込めていた感情を、飲み尽くしたかったのだろう。 側に置き、俺のすべてを束縛するために。
「でも駄目だったわ。 私の力が弱くなってしまったのか、あなたの思いが強かったのかは分からないけれど」
 ドリアードは瞳を閉じた。 荒くなった呼吸を整えるように、肩まで使って息をしている。 黙って聞いていた怪物のような奴が、かわりとばかりに口を開く。
「お前をあの剣で貫けば、半端にかかった魔法は完全になるはずだった」
 あれが魔法? 痛いという感覚と違ったのはそのせいか。 といっても、あそこまで深く胸を刺されたことはないから、比べようもないが。
 いかにもイライラしているふうにそいつは言葉を続ける。
「それなのに、どういうわけかお前の感情はそのまま残っているし、しかも邪魔されて身体を持って来られなかったから、精神しかこっちに来ていないし」
 邪魔? もしかしてリディアがこいつの邪魔をしたのか?
「まさか、リディアになにか」
「手なんか出せるか! 人間のくせに俺が見えてるんだぞ? 見えてるのに恐がりもせずに。 信じられない」
 俺の言葉を遮って言うと、そいつは眉間に縦皺を寄せた。 ドリアードがフフッと笑う。
「見える人はいるわ。 いろいろなわけがあるのよ。 ティオはまだ百七十八歳だから」
 まだ百七十八だ? 俺の十倍生きてるじゃないか。
「うるさい、若いんだ、人間とは違う」
 そいつは俺と目があっただけで、そう言って返した。 それにしても、何も言わないうちからうるさいとは。 そいつは忌々しげにため息をつく。
「フレアは妖精だけどドリアードだから寿命があるんだ。 なのにお前が……」
「ティオ、分かってね。ゴメンね」
 ドリアードは、笑ったのか、ため息なのか、弱々しい息を一つ吐きだした。
「もう私は死ぬわ。 そうしたら、あなたもほかの騎士達も、魔法が解けて人の世界に戻るの。 あなたは身体が向こうにあるのだからダメージも少ないでしょう」
 もう? この人が、この木が? 俺を助けたせいで死ぬのか?
「いいのよ。 どちらにしても私の命はほとんど残っていなかったの。 ほんの少しの分で、あなたと……、あなたの大切な人を救えたのだから」
「でもそれじゃあ。 俺は、どうしたら」
 俺は、ただ見ている他に、何もできないのか?
「罪悪感? 私が死ぬのはあなたのせい? そうね、そう思っていて。 そうしたら私が確かにここにいたってこと、あなたはずっと覚えていてくれるわね」
 ひどく胸が痛んだ。そう、ドリアードに言われた通り、罪悪感のせいだ。 俺はどうしたらいい?
「ずるいって思う? でも、それは、あなたも……」
 何か続けようとしたのか、薄い唇が声もなく動いて微かに笑った。 その一瞬の後、俺に差し伸べようとした腕が地面に落ち、すべての力が抜けたのが分かった。 そして、指先が、胸が、髪が、頬が、だんだんと光の粒になってゆっくり上昇していき、空に溶けていく。
 無力感だけが俺を支配した。 ドリアードの存在のすべてが消え、何もない、形のなくなったそこに、鉛のような思いだけが残った。
 俺もずるい、のか? いや、きっとそうなのだろう。 死んでしまう方はいい。 命を投げ出してでも守れたという実感があるに違いない。 だけど、残された方の気持ちといったらどうだ。 失うことの悲しさ、罪悪感、何もできない辛さ。 俺はこんな思いをまわりに強いていたんだろうか。
 前線で父に叱られたのも、ゴートへの道でブラッドが機嫌を損ねたのも、リディアを泣かせたのも、これが原因だったのかもしれない。
 もしかしたら俺は、こんな風に死んでしまうことだけを前提として、生きていたのだろうか。 それだから俺のこれから先を思う時、戦のことしか浮かばなかったのか。 自分の将来まで考えられないのは、余裕がないせいではなくて、俺自身の将来自体が存在していなかったからかもしれない。 確かに俺は、死ぬまでに何をしなくてはいけないか、とは考えていたが、生きている間に何をしたいか、と思いを巡らせたことはなかった。
 気がつけば、まわりの景色がだんだん実体化しつつある。 木が木に、城壁が城壁に、風が透明に。 夜だ。 月の光があたりを青く照らしている。
 俺はすぐ側の木を見つめた。 傷ついた木がそこにあった。 芽吹いたばかりでこんなに綺麗な緑をしたこの葉も、もう枯れてしまっているのか。
 そしてミューアを含め五人の騎士達が倒れたままの格好で、おまけにティオまでが現れた。 元の巨大な体格に戻っている。 俺は、まだ透けたままだ。 なにか、まだ夢の途中にいるような気がする。
 剣を抜く音がした。 ハッとして見ると、ミューアが剣を手にしている。
「お前が、フレアを!」
 俺に斬りかかってくるミューアの前に、ティオが立ちはだかった。 ミューアが振り上げた剣をティオは短剣で受けた。 と同時にガシャッと鈍い鎧の音を立てて、ミューアが崩れた。 そう、崩れたのだ。 緩やかな風に乗って、身体だったのだろう粉末が、少しずつ流されていく。 一番の被害者は、人生のほとんどをドリアードと過ごしたミューアなのだろうと思った。
「これ返す」
 ティオは、今ミューアの攻撃を受けた短剣、最初に襲われた時になくした俺の短剣を差しだした。
「お前が投げてイアンがはじいたこれ、俺に刺さった。 痛くて逃げた」
 俺は思わずティオの身体を見回した。 ティオは右膝の上部を隠す。
「なんでもない、もう治った」
 隠したってことは、傷が残っているからだろう。 きっとまだ完治していないのだ。 もしかしたらティオは、見かけとは違って優しい妖精なのかもしれない。 俺はその短剣を受け取った。 ティオは悲しげに、大きく息を吐きだした。
「最近フレアは、死ぬのが怖くなったみたいだった。 だから騎士を選んで木の下に引き入れてた。 ミューアだけは違ったけど。 愛してるって何度も言ってた」
 それは魔法によるものだったのか。 それとも本当にドリアードを愛していたのか。 だとしたらミューアも本望だったのだろうか。
「君も彼女を?」
「俺はスプリガンって種族だって、フレアが言ってた。 宝物とか妖精を守るガーディアンなんだって。 でも守れなかった」
 ティオは、泣いているような震えた声を出す。
「お前はいい。 あの娘をちゃんと守ってる」
「いや。 俺も間違えてた。 リディアを守るために、すべてを投げ出してはいけなかったんだ」
 俺は自分の透けた手を見た。 きっとまた泣かしてしまったのだろうと思う。 リディアを悲しませたのは、俺が生きようとしなかったからだ。 ティオは、俺が握りしめた手をジッと見ている。
「俺、どうしたら守れるか、分からない」
「君が本当に守りたい人を守れば、きっと理解できるさ」
 そうだ。 俺が守ろうとしたのがリディアだったからこそ、いろいろ考えたり悩んだりしたのだ。 ティオにとっても、きっとそうに違いない。
「そうかな。 じゃあ俺、また主人を捜す」
「そうだね、それがいい」
「お前、もう戻れ」
 声をかける間もなく、ティオは俺の両肩をトンと後ろに押した。 いきなり夢の中で落下したような感覚があり、ハッとして目をあけた。 俺の身体はベッドに横になっているようだ。 すぐ側には父の姿があった。 俺が目を開いたことに気付いたのか、顔を覗き込んでくる。
「フォース?」
 俺は父が俺の名を呼ぶのを、ただボケっと眺めていた。 どうして父がいる?
「ここは……、前線?」
 寝ぼけたような声が出た。 父は心配げに俺を見下ろしている。
「城都だ」
 城都? ならどうして父がいるのだろう。 父は俺が疑問に思っていることを悟ったのか、苦笑した。
「お前が心配だったから戻った。 バルコニーから落ちただの、心臓をひと突きされただの、生きているとは思えない話しが聞こえてきてな」
 そう、生きているってことは、自分でも信じられないくらいに不思議だ。
「だが、眠っているように見えるとも聞いた。 ワケがわからん。 とりあえず顔を見ようと思ってな。 ウィンは確保したが、仲間のことも、お前の様子についても何も話さん」
 そりゃそうだ。 ウィン達とドリアードなんて、なんの関係もないのだ。
「お前が刺されたという日から、もう五日にもなる」
「五日?」
 ドリアードの領域には、ほんの数分いたという感覚しかない。 むこうで気が付くまで五日もあったのか? それともその数分が五日だった?
 俺は上半身をベッドの上に起こした。 身体は向こうに行く前とほとんど変わらずに動くようだ。 ふと、手にティオから渡された短剣を握っていたことに気付く。
「いつからこんなものを持っていたんだ?」
 父は不思議そうにその短剣を見つめた。 イアンがはじいた剣だ。
「そうだ、イアン!」
 父が訝しげな視線をこっちに向ける。 俺は父に身体を向けた。
「あの木のところに、行方不明になっていた騎士達がいるはずです」
「なんだって?」
 父の顔が緊張して引き締まった。 いったいどの時点から五日経ったのか。 急に彼らのことが心配になってくる。
「無事だろうか。 時間の経過が、よく分からなくて」
「ここにいろ」
 父は俺の肩をポンと叩くと、部屋を出て行った。
 俺は、ベッドを降りて立ち上がり、あたりを見回した。 シェダ様に借りた、女神付きの騎士の部屋だ。 五日前までは、この奥にリディアがいた。
 その方向に視線をやると、突然目があった。 まるでイアンを思い出させるような無表情なリディアに、一瞬ドキッとした。 そのリディアの氷のような表情が崩れ、瞳からいきなり涙があふれ出す。
「フォース……? フォース!」
 リディアは駆け寄ってきて俺に抱きついた。
「フォースなんて大嫌い! フォースに勇気なんて無かったらよかったのに!」
 残された者の気持ち。 たぶんそれを味わわせてしまったのだ。 俺はリディアをそっと抱いた。 こころもとないくらいやわらかな身体が震えている。
「なんにも考えられなくて、泣くこともできなくて、どうしたらいいかも分からなくて、私……」
 リディアのぬくもりが鎧のない身体に、じかに伝わってくる。
「ゴメン。 でも俺、どうしてもリディアを失いたくなかったんだ。 どうしても」
「命をかけるような事じゃないでしょう? そんなに仕事を大切にしなくたって」
 仕事じゃなくても俺は……。 って、え? 仕事?
「いや、リディアを助けたかったのは護衛をしているからじゃなくて、自分の気持ちに正直に従っただけで」
「嘘!」
 顔を上げて、リディアは涙で濡れた頬をふくらました。 これを嘘と言われると、いくらなんでもムッとする。
「嘘なんかついてない」
「嘘つき! 放して。 わからずや、偏屈、とうへんぼく、エッチ、スケベ、野蛮人!」
 リディアは俺から離れようと、俺の肩に手を当ててつっぱった。 俺は逃げられないように、リディアを抱えた腕に力を込める。
「イヤだ! これを嘘だなんて言ってるうちは放さない。 他のは全部合ってるかもしれないけど、嘘だけはついてない」
 リディアの抗う力がだんだん弱くなってくる。
「だって、嘘よ。 父が結婚しないかって言った時、さっさと断ったじゃない」
「神官になって結婚しないかってヤツだろ? どう考えたって俺が神官なんてできるわけが……。 え? もしかして、リディアをフッたのって、俺?」
 虚をついた質問だったのか、リディアは疑わしげに俺を見上げた。 泣いたせいもあるだろうか、顔が赤い。
「他に誰がいるのよ」
「グレイじゃなかったのか?」
 俺の即答に、リディアはひどく驚いた顔をした。 そしてあふれてきた涙を隠すためか、俺の胸に顔をうずめた。
「もう! バカ、ドジ、間抜け、意地悪、鈍感……」
 俺はリディアをしっかり抱きしめた。 一つも具体的に言い返せないのは虚しかったが、俺は単純に嬉しかった。
 でも。
 今のリディアはシャイアのモノなのだ。 十八歳になれば、見習いではなく本物のソリストになってしまう。 腕の中にリディアを感じながら、俺は俺自身のためにシャイアからリディアを取り返したいと、初めて本気で思った。