レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     2.女神の開戦

 草木が生い茂った中に、かろうじて細い坂道が残っている。木々の枝が覆うその坂を、フォースはリディアの手を取って登っていた。後ろから自分の隊の兵士が二人、なにやら話をしながら付いてくる。
 長身の方がブラッドだ。細めの印象があるが、腰に下げた剣は剣身の幅が広く、ある程度力がないと使いこなせそうにない。時々空を気にかけ、薄茶色の髪を揺らして木々の葉を透かすように目を配っている。
 その横に並ぶのは、中肉中背、大きな剣を背負ったアジルという兵だ。道に伸びた枝が、黒に近い濃茶の髪に当たるのを気にもとめず、キョロキョロとあたりに気を配りながら歩を進めている。
 とぎれとぎれに聞こえる兵士二人の会話に、たまにフォースの悪口が混ざる。リディアはフォースが怒り出すのではないかと内心ドキドキしていたが、一向にその気配はない。リディアが振り返って見ると、兵士はニヤニヤとこちらに手を振って見せた。気をとられてバランスを崩したリディアを、フォースは横からヒョイと支える。
「リディア、ちゃんと足元を見ていないと危ないよ」
「ごめんなさい、だって……」
 リディアがもう一度後ろを向くと、兵士は知らん振りで、お互いにそっぽを向いた。フォースはつられるように兵士を振り返り、それからリディアに微苦笑を向けた。
「ああ、いいんだ、あれで。うるさくしていた方が、凶暴な動物も警戒するから出てこないだろう?」
 フォースの言葉に、リディアは身体をすくめてフォースの腕を取り、兵士二人はビクッとして辺りを見回した。リディアを安心させるように、行こうと微笑んでから歩き出したフォースの腕が震えているのに気付き、リディアはフォースを見上げた。笑いをこらえているフォースの顔が目に入る。
「んもう! 嘘ついたのね?」
「嘘じゃないよ。この辺に凶暴なのはいないってだけで」
 リディアは想わずフォースの鎧を叩いたが、痛いのは当然リディアの方で、フォースは笑い声を立てた。
 ガンッと、いきなりフォースに女神の意志が響いた。先を急がすその思念に、フォースは顔を歪める。リディアが心配げにフォースを見上げた。
「行こう」
 低い声で言うと、フォースはリディアを抱えるように支えて、サッサと歩き出した。本来、巫女にしか聞こえないはずの女神の声が、フォースにも届いているのだ。この声を聞くと降臨を思い出すのか、頭に衝撃があるからか、フォースは少し不機嫌になった。だがその声に逆らってもリディアが困るだけなのを分かっていて、直接返事をするわけでもなく従っている。
 女神の思念を理解できることは、フォースには迷惑なだけかもしれないが、リディアにとってはありがたかった。説明の必要がないので、細かい指示にわずらわされなくて済むからだ。女神が指示した場所には、フォースが連れて行ってくれる。その場所で女神の言うとおりにだけしていればいい。リディアはそう思っていた。
 前方の木漏れ日が増してくる。フォースが最後の枝を手で払い、周りをうかがいながら一歩踏み出すと、そこには森の中では感じられなかった早朝の鋭い光が満ちていた。崖のへりまで木がなく、一見草原のような空間が広がっている。まるで手入れしたような短い草が生えそろっているが、よく見ると草は荒い砂の間に根付いていた。崖の方へ少し進むと、右手にヴァレスの街が一望できる。リディアもその空間に足を踏み入れた。リディアは景色に引き寄せられるように、二、三歩フォースの前に出る。
「あれがヴァレスなのね」
 振り返って言ったリディアに、フォースはうなずいて見せ、崖の下前方に広がる防壁に囲まれた街に目をやった。ヴァレスでは、母を亡くしたすぐあと、五歳から八歳までの三年間を過ごしている。フォースの胸に、郷愁が広がった。
 少し離れた木々の中から、木や葉の音を微塵もさせることなく、子供の姿のティオが駆け出してきた。坂道から抜け出てきたブラッドの側へ行って一緒に空を見上げ、粒ほどの小さな鳥を指さす。
「あそこ! ファル! こっち!」
「でかい声だな」
 ブラッドがティオを見下ろして呆れたように肩をすくめる。ティオは口を尖らせた。
「だって、この近くには誰もいないよ。木がそう言ってる」
「木がねぇ」
 ブラッドが振り返ると、道にとどまっていたアジルが、ちょうど木々の間から出てきた。アジルはフォースのすぐ横に立って、深呼吸のように大きく息をつく。
「ココがまだメナウルの土地でよかったですね。もし見つかっても、大勢で押し寄せられる場所じゃないですし」
 そうだなと返事をして街から目を離し、フォースはリディアに視線を向けた。リディアは目を細めてヴァレスをジッと見ている。
 フォースの前に、ファルと呼ばれたハヤブサが舞い降りてきた。ティオがファルをのぞき込む。ただ見つめ合っているだけのようだが、ティオの表情には感情の変化が見える。
「このあたりには誰もいないって。ほら、言っただろ?」
 ティオは得意そうな顔をブラッドに向けた。
「言っただろ、なんて言われても、ファルの言葉も木の言葉も分からないよ」
 ブラッドの微苦笑に、ティオは不機嫌に口を歪めた。
「不便だね」
 ティオは残念そうに肩をすくめた。ブラッドは真顔でティオと向き合う。
「でも、お互いが無関心でいられるから、なんにも気にしなくていいんだぞ?」
 ブラッドの言葉に、ティオはケラケラと笑い出した。ブラッドが何が可笑しいのかとムッとした顔を向けると、ティオはおどけた表情になる。
「そういう付き合いばっかりしているから、恋人ができないんだよ」
「そういうのには感心がないワケじゃないの!」
 ブラッドの反論に、今度はアジルが吹き出した。
 あ、とリディアが小さく声を立てた。フォースと視線を合わせ、胸に手を当てる。
「分かるわ。シャイア様が、ここに」
 リディアの指の間から、少しずつ虹のような光が溢れてくる。
 フォースと兵士二人は互いに顔を見合わせてうなずき合うと、警戒のためにそれぞれ間を開けた位置に立った。ティオとファルが遠目に見守る中、リディアはをつき、胸の前で祈るように手を組む。
 瞳を閉じたリディアの身体から、一気に光があふれ出して広がっていく。辺り一帯を包み込むように大きく広がると、その光は細い筋となって空に突き上がった。同時にヴァレス上空に異変が表れ、雲が低い位置に生み出されていく。その下で雷光や風雨が乱舞を始めた。一瞬の間を空けて、雷鳴も聞こえてくる。
 少しずつだが、ライザナルの兵士達が後退しているらしい。この場所からだと、雷の位置が少しずつズレていくのが見えた。
 実際それは、ヴァレスに巣くっていたライザナルの兵士を、じわじわと追いやっていた。雷光がライザナルの兵の足もとを叩き、風雨が後押しをする。土地を潤すその自然現象が、シャイア神の持つ最大の力なのだ。
 やがて、防壁の外に追い出されたライザナルの兵だろう、大地に描かれた小さな模様が撤退を始めた。それまでの間、リディアは微塵も動かずに、シャイア神に対する祈りの姿勢を続けていた。
 だんだんリディアから溢れる光が落ち着き、低く垂れ込めていた雲が四方に散っていく。既に高くなった陽が、雨に濡れたヴァレスを照らした。屋根がキラキラと陽光に輝いている。
 リディアが胸の前で合わせていた手を下ろし、その場にペタンと座り込んだ。フォースはリディアに駆け寄った。
「大丈夫か?」
 声をかけたフォースに、リディアはうつろな視線を向けた。その瞳が普段よりもずっと緑色がかって見え、フォースはひざまずいてリディアの瞳を確かめるようにのぞき込んだ。リディアの手がフォースの頬に伸びる。
 ――戦士よ――
 驚愕にフォースは凍り付いた。声ではない、いつも感じる女神の思念だ。息を継ぐのも忘れて見入ったリディアの瞳に、少しずつ見慣れた愛しい色が戻ってくる。フォースの頬に触れていた手を、リディアはハッとしたように引っ込めた。
「フォース?」
 心配げなリディアの声で、フォースは我に返った。リディアは頬に触れていた手を抱くように胸を押さえている。
「大丈夫か?」
 フォースは、リディアにかけたつもりだった言葉を、もう一度繰り返した。いくらか疲れてはいるようだが、リディアはいつも通りの微笑みを浮かべてうなずく。フォースはなんとか笑みを返し、立ち上がってリディアの手を取りそっと引いた。リディアは服の砂を払って、日差しを反射して輝きを放つヴァレスに視線を向ける。
「キレイ。雨が降ったのね」
 その言葉でフォースは、雷鳴もリディアには届いていなかったことを悟った。やはり、フォースを戦士と呼び、手を伸ばして頬に触れたのは、間違いなくシャイア神だったのだ。
「どうしたの?」
 リディアの心配げな顔がフォースの視界に入ってくる。フォースは思わず女神がそうしたようにリディアの頬に触れた。リディアの口元に、はにかんだ笑みが浮かぶ。今のリディアに女神の影が見えないことに、フォースは安堵した。
「無事で、よかった」
 フォースが長く吐き出した息に、リディアはくすぐったいような幸せを感じた。
「ヴァレスに行こう」
 フォースのその声で、アジルとブラッドがフォースに半端な敬礼を向けて元来た坂道へと足を踏み入れた。ファルが翼を広げて大空へと舞い上がっていく。歩き出したフォースとリディアに手を振って、ティオが草木の茂った中に音を立てずに駆け込んでいった。
 フォースは、坂道をリディアと降りている間も、緑の瞳でフォースを戦士と呼んだ女神に対する畏怖を、振り払うことができなかった。