レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜

第3章 抱卵の真実

    1.漆黒の鏡

 石造りの窓のない壁面に、いくつかの明かりが揺れている。明かりは少ないが、石壁が白っぽいため、狭い室内にかろうじて光が行き届いていた。その隅には椅子が二脚と、腰の高さほどの石台があり、石台の上には黒曜石で作られた鏡が立て掛けてある。よくかれた鏡面は、まわりの弱い明かりを不思議なほどクッキリと映し出していた。
 重量のある石の扉がズズッと地面をりながら、ゆっくりと部屋の内側にずれ始める。ようやく一人通れるくらいに開いて、その扉は動きを止めた。
 そこに、長い白髪と白いヒゲをえ、古びた長いローブ姿の老人が通された。マクラーン城を出発したクロフォードと入れ違いに、城にやってきた老人だ。その後から漆黒の髪に黒い神官服のマクヴァルが、続いて入ってくる。
「あまり居心地のいい場所ではないですが、こちらでしたら外に声がれることもありません」
 穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、マクヴァルは左手のひらで石の扉に触れた。その重たげな扉は壁の空間をいでいき、もともと扉など無かったかのように石壁にピッタリと収まる。老人は一度だけ深くうなずいた。
「確かに、あなたはシェイド神の降臨を受けられている方のようだ」
「では、聞かせていただけますな?」
 マクヴァルは、鏡の置かれた台の前にある木で作られた椅子をめ、向かい合わせに自分が座るための椅子を移動させた。老人は椅子に座り、マクヴァルの視線と差し向かう。
「何をお知りになりたいと?」
 老人のゆっくりとした口調に合わせるよう、マクヴァルは悠然と姿勢を正した。
「我がシェイド神の宗教は、暗唱のみにより伝えられております。守護者たる種族の事柄が、いつからか絶えてしまっておりますゆえ」
 マクヴァルの低い声が、ドアのない部屋でかに反響する。老人は黒く見える瞳を閉じ、ゆっくりとその口を開いた。

  火に地の報謝落つ
  風に地の命届かず
  地の青き剣水に落つ
  水に火の粉飛び
  火に風の影落つ

 老人は暗唱した詩をたどるように、歌の一節を言葉にし、マクヴァルに視線を向ける。
「これのことですかな」
「ええ、まさにそれです。その先を……」
 マクヴァルの言葉を、老人は手のひらを向けて制すると、肩が上下するほどの大きな息をついた。
「守護者たる種族は、呼び名の通り、神々をお守りする立場にあります」
 老人が話し始めたその内容に、マクヴァルは一瞬眉を寄せた。った表情に老人が視線を合わせる。
「一口にお守りすると言っても、いろいろな状況があるわけですが。この歌は私の種族では手の出しようのない事態を表しているのです」
「ほう、手の出しようのない、ですか」
 驚いて見せたマクヴァルに、老人はうなずいた。
「守護者たる種族は、武器と呼ばれるモノを一切手にすることはありません。それはなぜだか、お分かりになりますか?」
 老人が口にした問いに、マクヴァルは疑惑を持って目を細めた。その目を、老人は険しい表情で見つめる。
「武器の代わりに神のお力を拝借するからです。その能力を私の種族は持っている。だが、そなたの中にいるシェイド神はお力を使えない状況にある。それは、あなたが影そのものだからだ。だからこそ、あなたにこの歌は伝わらなかった」
 老人の達観した表情と対照的に、マクヴァルに硬い冷ややかな笑みが浮かんだ。
「教えるつもりはないと?」
「この歌には確かに続きがある。しかし、影たるあなたにわざわざ神々が伝えるわけがないし、私が伝えることもできん」
 老人は、マクヴァルを見据えたままその場に立ち上がった。マクヴァルも、大きく息をついて立ち上がる。
「伝えられないとおっしゃるなら、それはそれで仕方がないことです」
 マクヴァルの手の中で、黒曜石でできた短剣が黒く鋭い光を発した。
 老人は短剣を目にしても、ただ黙然と立ちつくしていた。その胸元に切っ先が深く潜り込んでいく。
 いろいろな思いが老人の脳裏を駆け抜ける。まさか、長い年月歌われてきたあの歌が、自分の身に起こることだとは。ならば、種族の剣であるまだ見ぬ戦士も、この世界に存在しているのかもしれない。願わくば歌の通り、その意思でこの影を払拭してほしい。
「戦士よ……」
 瞳を閉じ、息のような微かな声の言葉を残して、老人の身体は崩れ落ちた。
 マクヴァルは、冷酷な表情で老人の亡骸を見下ろした。赤い血だまりが石の隙間に落ち込みながら、少しずつ床に広がっていく。マクヴァルは鏡を振り返った。手にした血で染まっている同じ黒曜石の短剣を、鏡の前に置く。
「戦士だと?」
 マクヴァルは短剣の血で、鏡面になにやら角張った文字を書き出した。鏡はその血を余すことなく吸い込むと、何事もなかったかのようにまた元のような輝きを取り戻す。マクヴァルは短剣を手にし、思い切り床に叩きつけた。短剣はビシッと音を立てて砕け散り、漆黒の光をまき散らす。マクヴァルは冷笑を浮かべると、鏡面をノックするようにコンコンと叩いた。
 老人は、その音で目を開けた、と、そう思った。だが、そこには自らの身体はなかった。自分という意識の前にはただ黒い鏡面があり、その向こうに床に這いつくばった自分の亡骸が見える。
「なにが戦士だ」
 冷ややかなマクヴァルの声が、鏡面の内側にも届いた。実際血はないのだが、血の気がひくような思いが老人の意識を貫く。
「いつか私がその戦士と会うことがあれば、あなたにもその鏡の中で会わせてさしあげましょう」
 マクヴァルはあざけるように笑いながら部屋を出ていった。その低い笑い声は、老人の意識に刻み込まれ、かせのようにズッシリと重たくのしかかった。