レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
2 女神の詩
「ここまでどうして急かされたんだかな」
フォースは椅子の背にもたれかかり、天井に向かってため息をついた。リディアは、ソファーで跳ねて遊んでいるティオを気にしながら、そうよね、と小さく答える。
「ここって、シャイア様にとってそんなに大きな存在なのかしら」
二人は食堂と応接室を兼ねた広い部屋、大きなテーブルの角をはさんで座っていた。階段から見下ろすと右奥になる場所だ。
「何かあるのかもな。ヴァレスに」
フォースは天井を見上げたままつぶやいた。リディアは不安げに部屋を見回す。
「神殿、に?」
え? と身体を起こし、フォースも思わず部屋を見渡した。ティオがソファーに横になって足をばたつかせているのが目に入ったが、何も変わったところはなく、照れたように笑う。
「いや、理由があるとしたら、それが一番自然なんだろうと思って。探検するような場所はないけど」
フォースの言葉に、リディアはほんの少しの苦笑を浮かべる。
「国境を元に戻すまでって気合いを入れてたのに、こんなにすることがないんじゃ気が抜けちゃう」
国境を元に戻すまで。フォースは両腕をテーブルに乗せ、リディアの言葉を頭の中で繰り返した。抱えていた思いが口をつく。
「国境を元に戻したら、リディアはどうしたい?」
「どうって……」
リディアは、見つめていた濃紺の瞳から視線をそらす。
「今みたいに一緒に、できれば普通に暮らしたいけど、でも……。シャイア様がいるうちは、フォースは前線で戦わなくてもすむのよね」
「え? あ……」
いつの間にか参戦が普通になっていたことに、フォースはショックを受けた。自分のことだけではない、女神が居る間は兵同士の接触すら、ほとんど起こらずにすむのだ。リディアがこのまま降臨を受けているうちは、女神の力のおかげで、まるで戦をしていることが嘘のように平和な時が流れる。それは戦が終わったわけではなく、偽り、見せかけだけの幸せには違いないのだが。いくら見せかけだけだとしても、リディアがそれを望まないはずはない。
「ゴメン、そうだよな」
フォースは視線を落とすと、小さくため息をついた。いっそのこと、リディアを連れて逃げることができたらと思う。だが、どこに逃げても戦の影はついてくる。しかも、ドナの事件で毒を飲んで生き残った母と同じように、降臨を解くことで非難を浴びる対象にもなりかねないのだ。フォースは、どうしてもそれだけは避けたいと思った。
リディアを女神から取り返すためには、戦自体を排除しなければならない。リディアが降臨を受けている今だからこそ、できることはある。スティアが持ってきた話も、間違いなくその中の一つだ。それだけのことで、何をどこまでできるか分からないが、とにかく少しでも前進したいと思う。
ティオの寝息が聞こえてきた。リディアはのぞき込んでティオが眠っているのを確かめると、考え込んでしまったフォースの腕に、そっと手を添えた。
「フォース?」
その声で視線を合わせたフォースに、リディアは一息ついてから話を切り出す。
「ソリスト、辞めようと思うの」
驚いて目を丸くしたフォースに苦笑を向けると、リディアは気持ちを確かめるように胸を押さえた。
「もうシャイア様が一番だなんて、自分をごまかせなくて。それに……」
リディアは、見つめてくる目に耐えられなくなったように視線をそらす。
「いけないことだって、よく分かったから」
リディアはため息をついて肩を落とした。フォースはうつむいてしまったリディアの頬にそっと触れた。
「リディアがソリストなのは、いけないことじゃないよ。リディアが歌うことで心を癒された人がたくさんいるだろうし」
「ホントに? そう思ってくれるの?」
顔を上げて見つめてくるリディアに、フォースは微笑んで見せた。
「でも、辞めるって言ってくれるのは、凄く嬉しい」
その言葉で、リディアの表情がパッと明るくなる。
「よかった。やっと気付いたのかとか、辞めなくていいとか言われちゃったらどうしようって不安だったの」
フォースはそれを聞いて、罰が悪そうに苦笑した。
「どっちかって言ったら、そんなことで不安がられる方が心外なんだけど」
ハッとしたように口を押さえ、ごめんなさいと謝るリディアを見て、フォースは怒ってないよと喉の奥で笑った。
廊下からのコンコンというノックの音に、フォースとリディアは目を向けた。グレイが立っているのを見て、フォースは苦笑する。
「黙って入って来いよ。ドアもないのにノックなんて」
フォースに声をかけられ、グレイはアハハと声に出して笑った。
「いやぁ、気付かれないで別世界にいられちゃ困るし。それにそんな隅っこにいられたら、こっちは疎外されてるみたいで」
「ここなら、どこから人が入ってきても見えるんだ。用心するにこしたことないだろ」
フォースの言葉に、グレイは部屋を見回した。ティオが眠っていることに気付き、グレイは声のトーンを落とす。
「そうか。キスでもしている最中に入ってこられたら困るもんな」
「そうじゃないけど。それもそうかも」
表情を変えずに答えたフォースと、上気した頬を両手で隠したリディアを見て、グレイはもう一度朗笑した。
「で、なに? 用事?」
フォースは、笑っているグレイに真面目な顔を向ける。グレイはポンと手を叩いた。
「そうそう、サーディがもうすぐ来るって」
グレイの言葉が終わるや否や、裏口の戸がコンコンとノックされ、サーディ様のお着きですとゼインの声がした。グレイはごまかし笑いをし、フォースは笑いをこらえながら立ち上がって扉に向かった。
「今日一日警備を仰せつかっております」
ゼインの声を聞いてフォースは扉を開け、敬礼の体勢でいたゼインに返礼を向けた。フォースはまず後ろにいたサーディとスティアを部屋に通し、ゼインも中に入れる。ゼインは扉の側で部屋の内側を向いて立った。
「フォース、ちょっと」
サーディはフォースを引っ張って階段下まで連れて行き、フォースの頭が階段の裏側にぶつかりそうなほど端に寄る。
「時間と場所、決めてきたよ。スティアには場所も時間も知らせていないんだ。スティアもそれでいいって言うから」
サーディが小声で口にする言葉に、やはりスティアがいない方が話を進めやすいだろうと思い、フォースはうなずいた。スティアはサッサとフォースが座っていた椅子に座り、グレイも加えてリディアと何事か話し込んでいる。サーディからメモを渡され、フォースはそれに目を通し、時間と場所を確認した。サーディは小声での話を続ける。
「反戦の気持ちは持っている。地位も結構なモノで、お付きの人間はいるわ、こっちに亡命でもしたら戦が激化するかもしれない程らしいんだ。でも、ライザナルは皇帝の力がものすごく強いから、彼だけではどうにもできないって」
「間違いなく反戦の意思はあるんだろうな」
「それは大丈夫だ。会ってみて驚いたよ。ホントにスティアと本気なんだから」
「驚く方向間違えてないか?」
サーディは苦笑でフォースに答え、すぐに口を開く。
「とにかく、反戦の意志を持つ騎士の名前を教えて欲しいらしい。で、できるなら行動に移」
「お茶をお持ちしました」
ユリアの声のすぐあとに、ゴンッと音がした。声に驚いたサーディが思わず身を引き、それを避けようとしたフォースが階段の裏側に頭をぶつけたのだ。
「ご、ごめん」
サーディは、かがみ込んだフォースに慌てて謝った。
「なんてことっ」
お茶の乗ったトレイを持ったままうろたえているユリアにも、サーディはゴメンと謝っている。頭を抱えてジッとしたままのフォースを、側まで来たリディアが心配げにのぞき込んだ。
「大丈夫?」
「リディア、あったよ、こんなところに」
頭を抱えたまま笑い出したフォースに、リディアはなおさら不安げな顔をした。フォースはそんなリディアに苦笑を向け、左手で頭を押さえたまま右手で短剣を引き抜き、ドンと床に突き立てる。
「あ、こら、何すんだ!」
駆け寄ったグレイの目の前で、フォースは突き立った短剣の柄をガタガタと動かすと、その短剣を床の木片ごとまっすぐ引っ張り上げた。
「グレイ、この下に何があるか知ってるか?」
訝しげなグレイに問いかけると、フォースは床の穴に手をかける。
「何がって。何かあるのか?」
グレイは、その穴をのぞき込もうとフォースの向かい側まで行った。
「グレイ、そこにいちゃ開かないよ」
グレイが三歩下がると、フォースは穴のまわりをぐるっと指さした。
「ここだけ四角く一直線に切れ目があるだろ。手をかける場所だってあるんだから開くはず」
フォースは腕に力を込めたが、なかなか持ち上がってこない。一度力を抜くと、改めてもう一度引っ張った。いつの間に起きていたのか、ティオがフォースに走り寄る。
「開けるの?」
「ああ。できるか?」
「まかせて」
ティオはフォースがどけた場所に座り込むと、子供の大きさから巨大な緑色の身体へと変化する。床に開いた穴に三本の指をかけて力を入れると、ガタッと音がして、床がずれた。
「な、なんで? こんな記録どこにも……」
驚いたグレイに、フォースは笑みを向けた。
「ただの床下だったら大笑いなんだけど。明かり持ってきてくれる?」
声をかけられたユリアは、お茶を持ったまま廊下に姿を消した。フォースはティオの持ち上げた床板に手をかけ、ティオと一緒に起こしにかかる。
「階段だ。結構深そう」
横で見ていたサーディが、穴の奥をのぞき込む。フォースとティオは、その板を階段の裏側に立て掛けた。フォースのありがとうという言葉に、ティオは喜んで胸を張る。
「すげぇ、ただの床下じゃない。こりゃ何かあるぞ」
グレイは楽しそうに言いながら、フォースの袖を引っ張った。
「なぁなぁ、入らないの?」
「自分で入ろうとは思わないんだな」
サーディが可笑しそうにケラケラと笑いだす。
――中へ――
呆れ顔をしていたフォースの表情が、頭に響く声で急に引き締まり、側にいたリディアがフォースの腕に寄り添うように触れた。ティオがおびえたように子供の姿に変化する。
「これが理由か」
そう言うとフォースはリディアと顔を合わせ、お互いうなずき合った。グレイが二人に訝しげな視線を向ける。
「女神の声が聞こえたのか?」
「ああ。中に何かあるのは確からしい」
駆け寄ってきたユリアから、フォースは明かりを受け取ると、リディアに向き直った。
「大丈夫か?」
リディアは深呼吸をし、フォースと目を合わせてうなずいた。フォースはリディアの身体に腕を回して支える。
「じゃ、行こう。足元、気を付けて」
フォースはリディアを連れて、ゆっくりと階段を降りていく。
「付いてってもいいか?」
グレイの声に、いいよとフォースのくぐもった返事が聞こえ、グレイも階段を下り始めた。
二階への階段と同じくらいの長さを下りきると、ドアのない小さな部屋に出た。部屋の真ん中に、机と椅子が一つずつ置いてある。フォースが手にした明かりをかざすと、壁一面の本が目に入ってきた。
「書庫、か?」
フォースの声に、リディアはただうなずいて、壁を上から下までながめている。
「うわっ、すげぇ! フォース、お前大好きだぁ!」
グレイは物凄い数の本を目にして驚喜し、後ろからフォースに抱きついた。
「やめろって。頼むからそういうのは」
「感謝の気持ちくらい受け取れ」
そんなモノいらないと文句を言うフォースからサッサと離れると、本を見せてとグレイは明かりを受け取った。
突然、フォースの腕をリディアがつかんだ。その途端、リディアの身体から虹色の光があふれ出してくる。フォースは思わずリディアを引き留めるように抱きしめた。しかし全身が光に包まれていき、フォースを見上げたその瞳は、緑色の輝きを放っていた。
「てめぇ……」
フォースが緩めた腕から抜け出し、女神は本の壁に近づいた。女神が手を高く伸ばすと、その先にある手の届いていない場所の本が一冊だけ棚から出てきて空に浮かび、ゆっくりと降りてくる。その本を手にして机の上に置くと、女神はフォースと向き合った。ジッと見つめてくる緑色の輝きを、フォースは険しい表情で見下ろす。
「俺はあんたからリディアを取り返す。絶対にだ!」
フォースの言葉に、女神は妖艶な笑みを浮かべて首に手を回し、眉を寄せたフォースに口づけた。フォースが睨め付けている目に映る、微笑んだような瞳から緑の光が失われていくと共に、ゆっくりとまぶたが閉じられていく。フッと力の抜けたリディアの身体を、フォースは抱きしめて支えた。
「リディア、おい、リディア?」
フゥッと吐き出す息の音が聞こえ、リディアはうっすらと目を開いた。ハッとしたようにフォースの両腕を支えにして立つ。
「フォース? 今、急にシャイア様が……」
「そんなことより、大丈夫か?」
心配そうにのぞき込んだフォースに、リディアは微苦笑した。
「平気、驚いただけ」
フォースは、明らかにダメージを受けているように見えるリディアの髪を、ガラス細工を扱うようにそっとなでた。グレイは女神が机に置いた厚い本をめくり始める。しおりのようにはさまれた白い羽根ペンに気付き、小さな明かりを頼りにしてそのページに目を通し出した。
「おい、出てから読めよ」
フォースは不機嫌に言い放った。グレイは肩をすくめる。
「だってこんなにある本、全部持って行けないよ」
「いきなり全部読める訳じゃないだろ」
フォースに声だけ、そうだけど、と答えたが、グレイの視線は相変わらず本のページに向けられていた。ブツブツと詩を口にする。
火に地の報謝落つ
風に地の命届かず
地の青き剣水に落つ
水に火の粉飛び
火に風の影落つ
風の意志 剣形成し
青き光放たん
その意志を以て
風の影裂かん
「なぁ、この詩なんだと思う?」
「知らねぇよ、そんなもの」
女神に対して憤慨している投げやりなフォースに、グレイはため息をついた。
「だけど、さっきの様子だと、女神はこれを見せたかったんだと思うけど」
「意味が分からなきゃ、どうしようもないだろ。話せるんなら口で言えってんだ。あの野郎、リディアを好き勝手にしやがって」
フォースの言いように、リディアが驚いて目を丸くする。
「あの野郎って、シャイア様に」
「けしかけられているみたいで嫌なんだ。あんな……」
キスのことを口にできずに、フォースは唇を噛んだ。グレイは苦笑する。
「降臨の時に無事だったこともあるし、フォースにも何かあるのかもしれないな。あれは俺にはフォースへの期待に見えたよ」
「期待? 冗談。宣戦布告でもされた気分だ」
「お前なぁ……。いや、腹が立つのも分からない訳じゃないけどさ」
グレイの言葉に短く息を吐き出すと、フォースは部屋を出ようと階段に足を向ける。
「もういい。ここを出よう」
「まぁ待て待て」
グレイは、リディアと階段に向かいかけたフォースの鎧をつかみ、引き留めた。面倒そうに振り向いたフォースに本を手渡し、その上にもどんどん積み上げる。本が顔の高さまでくるとフォースはグレイに背を向け、リディアを促して階段を上り初めた。
「あ、フォース!」
「あとは自分で運べ」
フォースはすぐに見えなくなり、慌てたグレイは本を数冊だけ手にして後を追った。
部屋では照れくさそうなサーディの苦笑が、フォースとリディアを出迎えた。全部聞こえていたことを知らないフォースは、その苦笑をいぶかしく思いつつ、抱えてきた本を机の端に乗せる。あとから来たグレイが、その横に何冊かの本を置いたのを見て、フォースはムッとした顔をグレイに向けた。
「それだけか? 本」
「だって、サッサと行っちゃうから」
グレイは照れ隠しのように笑った。フォースとリディアの様子を見ていたティオが駆け寄ってきて、リディアと手をつなぐ。フォースは、控えめに笑っているリディアの顔色が悪いことに気付き、その顔をのぞき込んだ。
「少し休んだ方がよくないか?」
「でも……」
リディアはサーディとスティアに視線を走らせた。サーディは両手のひらをリディアに向けて振る。
「あ、いいよ、いい。気にしないで休んで。フォースに用事も済んでるし」
「じゃ、コトが済んだら連絡する」
フォースはサーディにそう言うと、リディアの背に腕を回した。
「行こう」
「お茶をお持ちしました」
改めてお茶を運んできたユリアが、階段へ向かう二人を見て目を伏せた。フォースはそれに気付いたが、素知らぬふりで二階へと向かう。ティオもその後をチョコチョコと付いていった。スティアはユリアにあからさまに嫌な顔を向けると、グレイを部屋の隅に引っ張っていき、話を始める。
ユリアは食卓テーブルの隅に落ち着いたスティアとグレイの前にお茶を置き、離れて立っていたサーディの前にも置いた。
「ちょっと、いいかな」
お辞儀をしたユリアを、サーディが引き留めた。ユリアは表情を硬くして息をのんだが、お茶が二つ残ったトレイをテーブルに置き、サーディがどうぞと言って引いた椅子に腰掛ける。
「もったいないから、君も飲んだら?」
ユリアの隣に座ったサーディは、そのトレイからお茶を一つテーブルに移した。お茶が目の前に置かれてコトッという音を立て、ユリアはハッと我に返る。
「申し訳ありませんっ、サーディ様にこんな……」
サーディはかまわないよと苦笑した。ユリアはサーディの笑みを見て、疑わしげに視線を合わせる。
「あの、私がフォースさんに言ったこと……」
「あぁ、グレイからね。フォースは昔からそういう話題を面倒がる奴だから」
目を伏せたユリアを見て、サーディは小さくため息をついた。
「気持ちは分からない訳じゃないんだけど、あんな脅すような言い方はよくないよ。考えるどころか、逆に嫌がられてるって分かるだろう?」
サーディの言葉を聞いているのか、ユリアはうつむいたまま口を閉ざしている。サーディは話すのを少し迷い、思い切るように言葉をつないだ。
「俺は当人じゃないから関係ないって思うだろうけど、なんか嫌なんだよね、君の、その困らせて喜んでるみたいな雰囲気がさ」
顔を上げたユリアと視線が合い、サーディは口をつぐんだ。ユリアは悲しげに、それでもほんの少しだけ笑みを見せる。
「困っていますか? フォースさん。ホントに?」
「いや、だから、それで喜ばれるのは……」
「ごめんなさい、でも、嬉しいです」
ユリアは両手で顔を覆った。指の隙間から、チラッと涙が光って見える。その涙をぬぐってユリアは顔を上げた。
「覚えていてくれなかったのが悲しくて、巫女様にかないそうにないのも悲しくて。でも、どうせかなわないなら、せめて思い出してもらえるような存在になりたかったんです。あんな馬鹿もいたなって、それでもいいから……」
泣くのをこらえているようなユリアの表情を、サーディは呆気にとられて見ていた。思いも寄らなかった考え方に、気持ちが引っ張られている。ユリアは小さく息をつくと、再び口を開いた。
「私、最初からシスターになるつもりでいました。でも、いけないことですよね。もし必要だと思われたなら、このことをフォースさんに伝えてくださっても……。失礼します」
ユリアは立ち上がり、飲まなかったお茶をトレイに乗せようと手を伸ばした。その腕をサーディがつかむ。
「ちょっと待って」
ユリアのハッとした様子に、サーディはつかんだ手を慌てて引っ込めた。
「あ、ご、ゴメン」
「いえ……。まだ、何か」
「いや、もし君がフォースに嫌な奴だって思い出されたら、痛くないか? 嬉しいんじゃなくて、痛いんじゃ……、え?」
ユリアの瞳からボロボロと涙がこぼれてきて、サーディは言葉に詰まった。かける言葉を見つけられないうちに、ユリアは廊下に駆け込んでいき、サーディはユリアの後ろ姿を茫然と見送る。
「泣ぁかした」
スティアがボソッとつぶやいた。
「泣ぁかした」
スティアを振り返ったサーディに向かって、グレイはスティアの声色を真似て言い、苦笑して肩をすくめる。
「お前ら!」
サーディをチラチラと見ながら、スティアとグレイは顔を見合わせ、声を殺して笑った。サーディがイライラをつのらせる。
「やかましいっ!」
大声で怒鳴って、サーディは二階への階段に向かった。登り始めようとすると、グレイがオーイと声をかけて引き留める。
「伝えるのか?」
「そんなの……、わからねぇ!」
ムッとした顔で言い返すと、サーディは二階へ向かった。
二階へ上がり廊下を見ると、バックスとアリシアがリディアの部屋の前で、心配げになにやら話をしていた。サーディに気付いたバックスが敬礼を向ける。
「サーディ様」
「え? サーディ様?」
驚いたアリシアがサーディと向き合って深々と頭を下げた。バックスはアリシアだと紹介し、サーディは同じように頭を下げて挨拶を返す。
「始めまして。何度かフォースに聞いたことがあります。四歳上の姉みたいな人だって」
「あ、そ、そうですか」
アリシアは引きつったように笑うと、どうして歳まで言うかなとつぶやき、こぶしを握った。サーディは慌てて、そうは見えませんよと言葉を継ぎ足す。バックスは作り笑いを浮かべると、サーディをのぞき込んだ。
「フォース、ですか?」
「そうだけど。どうかした?」
不思議そうに見上げたサーディに、バックスは困惑した顔を向けた。
「いえ、ちょっとからかったら、リディアちゃんの部屋に立てこもっちゃったんですよね。ティオも一緒だから大丈夫だと思うのですが」
「からかった?」
疑わしげなサーディに、アリシアはごまかすように笑う。
「ええ、ちょっとだけ」
「た、立てこもったって、一体……」
「リディアちゃんと部屋に入って、カギをかけちゃったんです」
アリシアは苦笑したが、心配なのだろう、目は笑っていない。どんなからかい方をしたんだろうと思いながら、サーディは肩をすくめた。
「護衛はフォースが仕事でやっていることですから、心配しなくても大丈夫ですよ」
そう言いながらサーディは、俺はあんたからリディアを取り返す、という地下から聞こえてきたフォースが女神に向けたのだろう言葉を思い出していた。どちらかと言えば、フォースの行動よりも女神の降臨の方が、ずっと不徳に近いと思う。フォースにせめて思い出してもらえるほどの小さな存在になることさえ、ユリアには遠く思えても仕方がないのかもしれない。可哀想だが、ユリアの気持ちを自分が口にすることは、やはり間違いなのだろう。ユリアの涙が脳裏をよぎり、サーディは大きくため息をついた。