レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     4.螺旋

 ティオをごまかしながら、フォースはたっぷり時間をかけて神殿に戻った。本当に戦をやめさせることができるなら、ライザナルに行くのは無駄にならないと思う。それは自分が皇帝を継げば、もっと現実味を増す。レクタードが反戦運動をしようとしていることも、心強い。
 レクタードが最後に言った、ここにいるのは間違いだという言葉を、フォースは否定できずにいた。母と自分がメナウルに来たことで、クロフォードのメナウルに対する敵意が強まったのだとしたら。ライザナルにいた方が両国共に憎悪の念をつのらせるようなことはなかったに違いない。むしろ自分のやっている反戦運動は、立場だけを考えてもクロフォードの持つ怒りと比べ形ばかりのモノに過ぎないだろう。しかもライザナルにいたとしたら、ドナの毒殺事件も起きずに済んだかもしれない。母が斬られてしまうことも、なかったかもしれないのだ。でも、それでもここにいるのは間違いだとは認めたくなかった。認めてしまえばメナウルでのすべて、自分自身の存在さえも失ってしまう気がする。
 神殿に着いたフォースは、夜の闇に高くそびえ立ち、月の青い明かりに浮かぶ鐘塔を見上げた。少し先を行くティオがフォースを振り返って待っている。
(自分の国に帰ったらどうだ? そこでなら神に忠誠を尽くす良い騎士になれるぞ)
 クエイドがイヤミで言った言葉も、情景ごとってきた。それを振り払うかのように、フォースは神殿正面の入り口へと足を向ける。ティオはいつも出入りする応接室兼食堂への扉を少し気にしながらも、黙ってフォースに続いた。
「遅いっ」
 神殿裏の見張りだと思っていた人影が、走り寄ってきた。バックスだ。
「心配してたんだぞ。何かあったのか?」
 のぞき込んでくるバックスに、フォースはただ微苦笑を向けた。バックスはしげに神殿正面の入り口に目をやる。
「しかもフォースが神殿に表から入ろうだなんて、珍しいもいいとこ……、あ、リディアさんがいるの知ってるのか?」
 フォースはリディアの名前を聞いて息を飲んだ。その驚きようにバックスが疑問の目を向ける。
「どうしたんだ?」
「ゴメン」
 フォースはそれだけ言うと、バックスに軽く手を挙げるだけの挨拶をして、神殿の正面入り口に急いだ。
 見張りの兵の敬礼に、返礼するのももどかしく、フォースは神殿の大きな扉を開けた。祭壇の前にひざまずいて祈りを捧げている琥珀色の髪の後ろ姿が目に入ってくる。扉の音で身体をビクッと揺らすと、それからゆっくりフォースの方を振り向き、驚いたように立ち上がった。リディアだ。リディアの瞳から涙がこぼれ落ちたのを見て、フォースはリディアに駆け寄り、その身体を抱きしめた。
「スティアが……」
「聞いたのか」
 腕の力を緩めたフォースは、リディアが力無くうなずくのを見た。
「もう帰ってこないかと思っ……」
 リディアは声を詰まらせてうつむき、手で口を覆う。フォースはその手をとってリディアに口づけた。
 もしライザナルに行くとしたら。サーディやグレイとなら、どんな立場だろうと、どんなに時が経っていようと、再会したら今と変わらず笑い合い、話をすることができると思う。でも、リディアとは違う、そうはいかないだろう。だが、戻れるかも分からない自分を、ただ待っていろとは言えない。だからといって今まで敵だったその中に連れて行き、守り通せるとも思えない。しかも今のリディアはシャイア神を有する巫女なのだ。メナウルにいてさえ危険な目にうのに、ライザナルへ入って無事でいられるわけがない。
 逆にライザナルに行かなかったとしたら。ただでさえ嫌とは言えない条件を持って正式な連絡を入れるとまで言っていたのだ、逃げれば間違いなく追われる身になる。そのせいで戦が激しくなったりしたら、メナウルの中にも敵ができてしまうだろう。もしレクタードが皇帝を継いだとしても、今度はレクタードに命を狙われることになる可能性もある。どちらにしても、一緒にいるだけでリディアに被害が及ぶかもしれない。
 唇を離し、フォースはもう一度ありったけの力を込めてリディアを抱きしめた。
 ライザナルへ行き、戦をやめさせることができたとしても、その時には帰る場所は無いかもしれない。帰りたい場所は国などではなく、リディアそのもの、ここなのだ。それではライザナルに行く意味がない。しかし、メナウルで逃げ回り、失うことにおびえて暮らしても、そこには安らげる幸せなどカケラもないだろう。リディアを不幸にするだけだと思う。
 ただ一緒にいたい、それだけのことなのに、フォースはその手段を見つけることができずにいた。
「サーディ様とスティアとルーフィス様が応接室にいるの。行かなきゃ」
 何も言えずにいるフォースに、リディアは腕の中からうつむいたままつぶやくように言う。フォースはうなずくと、リディアをして後から続いた。何を考えていたのか、押し黙って椅子に座り、足をブラブラさせていたティオが、リディアを追い抜いて廊下に駆け込んでいく。
 思いを巡らせてみて、フォースはハッキリと理解したことがあった。もしもそのままライザナルにいて母が生きていられたとしたら、自分から剣を手にすることはなかっただろう。人の命や立場と、これほど接することはできなかっただろう。なにより、リディアと会うことすら無かったのだ。いくら間違いと言われても、メナウルが今の自分を作り上げていることには違いない。そして、今のままの自分でいるためには、リディアがどうしても必要なのだということも身にしみて感じる。
 たくさんの明かりが灯る応接室が、廊下から明るく見えてきた。そこにティオが駆け込んでいく。
「フォースは?」
 サーディの声が廊下にまで響いた。ティオは返事をしたのかしなかったのか、いつものようにドサッとソファーに寝転がる音だけが聞こえてくる。
 フォースがリディアと部屋へ入ると、サーディ、スティア、グレイ、ルーフィスが一斉に視線を向けてきた。フォースはその視線の中で、廊下脇にいた神殿周辺警備であるゼインの敬礼に返礼する。サーディがフォースに駆け寄った。
「よかった、戻ってくれて。ついさっき、スティアに話を聞いたんだ。お前のことだから、戦をやめさせるとかってサッサと行っちまうんじゃないかって、……、あ」
 フォースと目を合わせたまま、サーディは口をつぐんだ。フォースが訝しげに眉を寄せると、サーディは目で笑わない苦笑をする。
「お前、じゃマズイか?」
 その言葉で、フォースは身体の力がすべて抜けるようなため息をついた。サーディの後ろで、グレイがえきれずに笑い出す。
「じゃあ、なんて呼ぶんだよ」
「そりゃ、ええと、なんだ……、どうしよう」
 言いよどんでいるサーディに、フォースは迷惑そうに首を振った。
「そのままでいいって。いきなり態度を変えられたら、免職でもされた気分になっちまう」
「クビにはしないけど。って、そういう問題じゃないだろうが。どうするつもりだ?」
 顔を突き合わせてくるサーディの胸を、フォースは両手で押し返す。
「どうもこうも。少しは考える時間をくれよ」
 フォースの返事に、お茶を手にし、食堂の椅子に座ったままのスティアが大きく息を吐き出した。
「考えるだなんて信じられない。次期皇帝だなんて滅多にない幸運でしょう? メナウルにいたって、クエイドみたいな人に捕虜にされかねないわよ」
 捕虜という言葉に、サーディは目を丸くして顔色を変える。
「スティアお前、何言ってんだ。メナウルにいる限り、フォースは二位の騎士なんだぞ? まさか、ベラベラと話し歩いてるんじゃないだろうな」
「ひどいわ。さっきココで言ったのが初めて。私だってフォースがそんなことになったら困るのよ」
 スティアは机のお茶に手を伸ばした。少しだけ口に含んだぬるくなったお茶を、こみ上げてくるりや悲しみといった感情と一緒に飲み込む。戦がなくならないと、恋人であるレクタードに会うこともわないのだ。スティアは、フォースがまだココにいることさえ、辛く感じていた。
「捕虜か。クエイド殿なら、言いそうだよな」
 フォースはため息のようにボソッとつぶやいた。
「そんなこと、させるかよ」
 サーディは吐き捨てるように言うと、フォースと向き合う。
「逃げるなら今だぞ」
 サーディの言葉に、フォースは眉を寄せて唇をんだ。サーディはフォースの肩に手を乗せる。
「城都の城にかくまうこともできるし、南に逃げてしまえばもっと安全だ」
 そうサーディは言い切ったが、フォースは首を横に振った。メナウルの中にも敵はできてしまうのだ。やはり、今自分にとって安全な場所など、どこにもないと思う。
「かくまうってのが、ライザナルにとっては捕虜なんだ」
 フォースはサーディの手をそっと払い、苦笑を向ける。
「それに、……、逃げるのは嫌だ」
 サーディは何も言えず、フォースから顔を背けた。
「行ってくれるの?」
 スティアの声のトーンが幾分高くなり、その言葉を聞いたリディアが視線を落とした。フォースは、リディアに伸ばしたい手を握りしめ、気持ちをえる。
「近いうちに交換条件を提示してくる。話はそれからだ」
 スティアは、そう、とだけ答え、机のお茶に目をやった。両手で包んだカップの内側で、お茶が細かな波を立てている。スティアは、自分が持っている辛い気持ちと同じモノを、リディアとフォースに強いている自分が嫌だった。でも、最後に別れた時のレクタードの悲しげな笑顔が胸から離れないのだ。フォースがライザナルに行ってくれなければ話が進まないと思う気持ちが、どうしても先に立ってしまう。きっとリディアにも嫌われるだろう、そう思うと、自分への嫌悪感がまたトゲになって突き出てくる。それでも、レクタードを知らなかった自分には、もう戻れそうにない。
 神殿裏の扉をノックする音が、重々しい沈黙を破った。
「バックスです」
 その声に、壁を背にして動かなかったルーフィスが扉を開けた。失礼しますと敬礼をして入ってきたバックスは、思わず部屋の沈んだ雰囲気を見回す。そのなかでフォースとだけ目が合った。フォースはバックスに苦笑を向ける。
「あぁ、そうか。もう遅いもんな」
 フォースはひとりごとのように言うと、リディアの背に手を当て、顔をのぞき込んだ。リディアも何も言わずにうなずく。状況にうろたえながらも、バックスはルーフィスに敬礼を向けた。
「夜間の警備に入ります」
 ルーフィスの返礼を受け、バックスはフォースを促した。フォースはサーディとスティアに敬礼を向け、リディアをエスコートして階段を二階へと向かう。階段下に目をやらずに二階の廊下に入ったフォースを、バックスは後ろについて歩きながら、黙って見ていた。ドアを開け、フォースは部屋の中を確認して戻ってくる。
「じゃあ、おやすみ」
 フォースは、リディアに普段とまったく同じに声をかけた。だが、いつもなら手を振ってドアを閉めるリディアが、フォースと向き合ったままその瞳を見つめ、何度か口を開きかけて何か言い淀む。
 邪魔にはなりたくない、そうリディアは思っていた。できることなら、行かないでと泣いて、すがってしまいたいと思う。でもその都度、逃げるのは嫌だと言ったフォースの言葉が頭をよぎった。
「リディア?」
 フォースは、悲しげにうつむいたリディアの顔をのぞき込んだ。リディアは、少し近づいたフォースの唇にキスをする。
「おやすみなさい」
 震える声で言うと、リディアは部屋へと入ってドアを閉めた。その行動で、フォースはリディアがどうしたいのか、その気持ちを少しも聞いていないことに気付いた。話を聞けるだけの余裕も持てない自分を苛立たしく思う。神殿に戻って最初に見た、祈りを捧げていた悲しげなリディアの姿が目に浮かんできた。
 肩を落としてドアノブに移したフォースの視線の中に、バックスの足元が見えてくる。ハッとして顔を見上げると、バックスが難しい顔でフォースを見ていた。
「まさか、何もなかっただなんて言わないよな?」
 バックスはまっすぐフォースを見据えている。フォースは嘲笑を浮かべた。
「実の父親が分かったんだ」
「そうなのか?! そりゃ、良かっ……? 良かったんだと、思うぞ?」
 バックスの迷ったような言葉に、フォースは苦笑した。
「それが、クロフォードなんだ」
「クロフォード? って、どこかで……、え? まさかライザナルの皇帝?! い、いや、あの、ええっ?」
 パニックを起こしているバックスをおいて、フォースは自分の部屋のドアを開け、止めようとしたバックスに手を振ってドアを閉めた。
 窓のない部屋に、小さな明かりが一つされている。フォースは着けていた軽い乗馬用のを外し、大きくため息をついた。部屋の隅に置いてあった鎧が目に入ってくる。メナウルの正式な騎士が着ける鎧だ。いつもよりずっと重たく感じるそれを手にし、内側からサーペントエッグと呼ばれていたライザナルのお守りを外す。
 明かりに近いベッドの隅に腰掛け、フォースはエッグをじっくりめた。球形をした細工に目立たぬよう隠された蝶番を見つけ、反対側の細工に爪をかけて軽く力を入れる。パチっと音がして、エッグは簡単に開いた。その内側には、懐かしい母の顔が細密に描かれ、隣にはレクタードの持っていたエッグの肖像と服装が違うだけのクロフォードがいる。その左には、何度か見たことのあるライザナル王家の紋章が、金の荘厳な光をまとって浮き彫りになっていた。
 ドアにノックの音がした。フォースは慌ててエッグを閉じて立ち上がり、どうぞ、と声をかけた。ルーフィスが入ってくる。
「お二人にはお待ちいただいている」
 ルーフィスのまっすぐな視線に、フォースは、そう、と息を吐き出した。フォースがエッグをもう一度開けてルーフィスに差し出すと、ルーフィスは一瞬迷ったように手を止めてから受け取り、その小さな肖像画に見入った。
「間違いじゃないみたいなんだ」
 フォースはベッドに座り直し、エッグを見つめたままのルーフィスを見上げた。ルーフィスは眉を寄せ、目を細める。
「会ってすぐに聞いていたら、対処も違っていただろうが……。過ぎたことだな」
 ルーフィスはエッグを閉じると、フォースに手渡した。
反目の岩は知っているか?」
 ルーフィスはフォースに質問を投げながら隣に腰を下ろした。フォースはすぐ側の顔を振り返る。
「本来の国境の真上にある、真っ二つに割れたデカい岩だろ? 対立の象徴とかって言われてる」
「そう、エレンとは、そこで会ったんだ」
 その言葉に、フォースは思わずエッグを握り締め、そのこぶしを見つめた。ルーフィスは、フォースの横顔を見ながら口を開く。
「ちょうどその岩の場所に通りかかった時、まだ小さなお前を抱いたエレンがそこにいた。ガタガタと震えていて、ココはどこかと聞かれたが、答える間もなくライザナルの鎧をつけた兵が四人現れた。エレンを斬ろうとするそいつらかられ、ドナに連れ帰った」
「ライザナルの鎧をつけた兵……?」
 フォースはエッグを見つめたまま繰り返した。ルーフィスはうなずく。
「メナウルの顔見知りではなかった。だからといって、ハッキリとライザナルの人間だとも言い切れんが。エレンも、自分から逃げてきたのか、誰かに逃がされたのか分からんが、アテはないがメナウルに住みたいのだと、何度も言っていた。見たことのない目の色だ、ライザナルかシアネルかパドヴァルか、とにかくメナウルの人間ではないと思った」
 メナウルの人間ではない。ルーフィスもそう思っていたのかと思うと、フォースは可笑しかった。生まれなど、どこだろうと変わりはないと思っていた。ライザナルで産まれたのではないかと、何度も考えたことがある。それ自体はくもなんともなかったのだが。
「まさかここまで位の高い人間だったとは、思いもしなかった」
 ルーフィスの続けた言葉に、フォースは苦笑をらした。
「誰だって、あんなところにそんな人がいるとは思わないよ」
「行ったことがあるのか?」
 聞き返されて、フォースは慌てて口をつぐんだ。
「いつの話だ、まだそんな無茶を」
「随分前だよ、騎士に成り立ての頃だからまだ近かったし。今はもう、そんなことはしてないって」
「当たり前だ! まだそんなことの判断もつけられないようじゃ」
「だからもう昔の話だってば。ごめんって」
 まだ疑わしげなルーフィスに、フォースは頭を下げた。
「まったくお前という奴は……」
 フォースの耳に、ブツブツと文句を言う声が聞こえてくる。
「今回のこともそうだ。捕虜というと響きはよくないが、いくらでも取引はできる。もし自分が犠牲になりさえすればいいなどと思っているなら、ライザナルになど行かせんぞ」
 犠牲と言われ、自分でそう思っているかもしれないとフォースは気付いた。そして、行かせんという言葉にホッとする。だが、均衡を保っていくには、ひどく微妙な駆け引きを必要とするだろう。半端ではなく大変なことだと思う。
「それ、難しいだろ」
「お前は考えなくていい」
 そのルーフィスの言葉に、フォースは吹き出した。
「なんだよそれ」
「今まで通りでいてかまわん」
 ルーフィスの真剣な目と向き合い、冗談で考えなくていいと言ったのではないのかと、フォースはちょっとムッとした。今まで通り、何も変わらずにいられたらとは思う。だが、もしも自分が変わらずにいられたとしても、きっとまわりは違うだろう。ライザナルの人間だと聞いただけで、自分さええてしまうのだ。
「でも、今までと同じように過ごすなんてのは、きっともう夢でしかない……」
「いや、お前は今まで夢を見ていたわけじゃない。一つずつ積み重ねてここまで来たんだ。それは簡単にれるモノじゃない」
 ルーフィスの言葉に、フォースは苦笑した。父がこんな気休めを言うのは、コレがそれほど大きな事態だからなのだろうと思う。
「そうだったらいい。だけど、土台が無くなってしまったみたいで、足元が覚束ないんだ。どうしていいか分からない」
 視線を落としたフォースの頭に、ルーフィスはポンと手を乗せ立ち上がった。
「まあ、交換条件の提示とやらがあるまで、少し時間もあるだろう。ゆっくり考えてみるといい」
 うつむき加減のままうなずいたフォースが気になり、ルーフィスはドアに向けかけた足を止めて振り返った。
「そういえば、エレンはお前が乳飲み子のうちから、お前は必ず剣を取るようになると言っていたな」
「必ず?」
 顔を上げて聞き返したフォースに、ルーフィスがうなずく。
「そう、必ず、だ。何を根拠にそう言ったのかは分からんが、エレンがあんなことになって予言が当たった時には、まだ五歳だっただろう。やめさせるべきか否か随分迷ったものだ。今となっては、よかったのかもしれん」
 ルーフィスはフォースに微笑を向けると、部屋を出て行った。
 フォースは大きく息をついた。何か自分の気持ちにかかったが気になって仕方がない。フォースは立ち上がると、エッグをベッドの上に放って部屋を出た。リディアの部屋の前にいるバックスと目が合う。
「どうした?」
「いや、風に当たりたくて」
 そうすれば、いくらかでも気が晴れるだろうかとフォースは思った。まだ自分を見ているバックスに手を振り、フォースは左奥にあるドアを通って鐘塔へと続く石の階段を登り始めた。小さな明かり取りの隙間から、青い月の光が差し込んではいるが、ほとんど真っ暗だ。それでも何度も登って慣れている階段なので苦にはならない。
 母が何かにつけて強くなりなさいと言っていたのは、父に聞いた母の予言らしきモノと何か関係があるのだろうか。母は何を思い、何を考えていたのだろう。剣を取るようになると言っていたことと、強くなれと言われていたことは、やはりつながりがありそうな気がする。
 気になるのはレクタードが口にした、紺色の瞳を持つ者は神と対話ができると言われているという言葉だ。もっと詳しく聞きたかったのだが、ジェイストークに止められてしまった。母も紺色の目をしていた。というか、母が紺色だから自分も紺色なのだが。母がそうだったとしても、その能力は自分にも受け継がれているのか。神と対話をして、戦をやめさせるなんてことは、本当に可能なのだろうか。
 そして、自分の存在とは、いったい何なのか。
 石の階段を登り切ると、鐘がされた四角い場所に出た。四方の石壁には、角柱をアーチで結んだ背の高い窓のような空間が並んでいる。その一つ一つの空間から等間隔に月明かりが差し込み、あたりを青く照らす。右側には触れるほど近く鐘があり、今はただ静かに金属の肌を、時折吹くひんやりとした夜風にさらしていた。
 フォースは北側の壁に近づき、遠くの景色に目をやった。月明かりのせいでドナへの道が見える。レクタードとジェイストークは、もうにドナに着いているだろう。母の墓のある村だ。
 知りたいことが山のようだ。その答えはライザナルの中にある。父が言っていた取引で、その答えを得ることは難しい。すべてを知るため、戦を止めるためには、やはりライザナルに行かなければならないと思う。だが、理屈では分かっていても、感情が言うことを聞こうとしなかった。
 自分に必要なのは考えることではなく、メナウルを、そしてリディアを、あきらめるための時間なのだろうか。いや、いくら時間をかけても、あきらめるなんてできない。リディアに悲しい思いはさせたくないし、自分にもリディアは必要なのだ。だとしたら、全部を手に入れるためにはどうすればいいのか、それを考えるしかない。
 気持ちが空回りしている。このまま悩み続けても、打開策は見つからないだろう。交換条件の提示があれば、何か道が見つかるだろうか。せめてそれまでは今までと同じに過ごしていたい。
 フォースは喉元のペンタグラムにれた。リディアを自分の手で幸せにするには、どうしたらいいのだろう。ライザナルに行っても行かなくても、一緒にいるだけで被害が及ぶとしたら。ライザナルへ行き、戦を止め、皇位を継がずにメナウルに戻るしか手はない。だが、固執していると言われる皇帝を相手に、どれだけの時間がかかることか。
「フォース……?」
 背中からかけられたリディアの声に息を飲み、フォースは振り返った。ロウソクの小さな炎がリディアを暖かな色に照らしている。フォースの胸にリディアへの想いが痛いほどわき上がってくる。
「どうしてここに」
「バックスさんが気になるから行けって。ここを教えてくれて」
 リディアが階段への入り口から鐘の側にほんの少し足を踏み出した途端、少し強い風がリディアの手から明かり取りの炎を奪っていった。足を止めてなびく髪を押さえ、風が通りすぎるのを待つ。フォースはリディアの側まで行くと、ロウソクを受け取って足下に置いた。
「ごめんなさい。邪魔になると思ったんだけど、でも……」
 その不安げな声に、フォースは苦笑した。
「邪魔になんかならないよ。いつでも側にいて欲しいと思っているのに」
 フォースはリディアを胸に抱き寄せた。鎧を着けていない身体に、リディアの柔らかな温もりが伝わってくる。どんなことがあっても、リディアを失いたくない。でも、どうしたらそれが叶うのかが分からないままだ。いっそのこと、このまま石になれたらとも思う。でも、こんな不安な気持ちを抱いたままでは、やはり幸せとは言えないだろう。
 フォースの顔をうかがおうと、リディアはゆっくりと顔を上げた。リディアに微笑みを残して、フォースは北の景色に視線を移す。
「ここに来たことはある?」
 フォースの問いに、リディアは首を横に振った。フォースはリディアの背中を支え、一緒に北側の壁に戻る。
「綺麗……」
 リディアは月明かりで照らされた青い風景を見つめた。ヴァレスの街が足元に広がり、その向こうにドナへの道が見える。そしてその向こうはライザナルだ。ハッとして隣に立つフォースを見上げると、その瞳はリディアを映していた。フォースは景色を見ているのだと思っていたリディアは、驚きに目をそらしてうつむく。スティアと交わしていた会話が、イヤでもリディアの脳裏に甦ってきた。
「行って、しまうの……?」
 消え入るような声がフォースに届く。
「分からない。逃げたり、かくまってもらったりじゃ、死ぬまで状況が変わらないのは分かっているんだけど」
 うつむいたままリディアは、そうね、とつぶやいた。フォースは顔をしかめると、大きく上に向かって息を吐き出す。
「きっと、ラッキーなことなんだ、戦をやめさせる努力が直接できるだなんて。でもそれがリディアと引き替えなら俺は……。一体なんのために行くのか……」
 眉を寄せて、フォースはライザナルのある北をみつけるように見た。リディアはゆっくりと顔を上げ、しい表情の横顔を見つめる。
「もし、もしも、行ってしまうことになったらその時は……」
「もしもって、他にも方法があるかもしれない。もっと、できる限りのことを考えて」
 フォースの言葉をって、リディアは首を横に振る。
「その時は、待たせて」
 その言葉に驚き、フォースはリディアと向き合った。
「待つって、だけど、それがいつまでか、戻れるかどうかすら分からないんだ。約束もできないのに」
「約束はいらない。無理だったら、その時は忘れてくれて構わないの。それなら邪魔にならないでいられるでしょう? だから」
 約束はいらない? 忘れて構わない? 邪魔にならない? 口にするのは辛かっただろう聞き返したい言葉を、フォースは飲み込んだ。見つめ合うリディアの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「お願い、待たせて」
 フォースはリディアを思い切り抱きすくめた。こんなふうに言ってくれる気持ちを思うと、ひどく胸が痛む。できることなら必ず戻ると言葉を返したい。だがこんな不確実なことはないのだ。約束をしてしまったら、帰ることができなかった時、なおさらリディアを苦しめることになってしまう。でも、もしライザナルに行くことになっても、この言葉がある限り、帰る努力を決して止めることはないだろう。
「待たせて」
 何度も繰り返されるその大切な言葉をすくい取るように、フォースはリディアに口づけた。