レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     2.記憶

 普段は食卓に使う大きな机に、何冊かの年代物の本を積み重ね、その横でグレイは厚い本を開いていた。同じ机の左斜め向かいで、リディアはサーペントエッグを持った両手をテーブルに乗せ、うつむくようにその手を見ている。そのエッグを包んでいる白く細い指の間から入り込んだ光が、壁に跳ね返され揺れ動く。表面の細かい細工がよくかれているからだろう。
 扉のところから、中位でヴァレス周辺警備の騎士が、難しげな顔をしてリディアに三、四歩近寄った。ゼインだ。ゼインは城都で神殿警備に就いていたので、リディアとはいくらか会話を交わした程度の馴染みがある。ゼインは、リディアの手元をのぞき込んで笑顔を作った。
「それ、綺麗だね」
 ゼインの声にリディアはハッとしたように振り返り、ゼインの視線の先にあるエッグを手に包み込んで苦笑した。ソファーに寝ていたティオが、起きあがってゼインの様子をうかがう。ゼインはそれを気にしながらも口を開いた。
「それって、何? に付ける金具がついているみたいだけど」
「え? ええ……」
 リディアはもう一度苦笑すると、机に身体を戻した。ゼインはリディアの肩越しに、その手元を気にしている。
「なにかの宝飾品? いかにもフォースが嫌いそうな代物だね」
 ゼインの言葉に、リディアは表情をこわばらせた。リディアはエッグを見せてっただけのつもりでいたが、返そうとしてもフォースが受け取ろうとしないのだ。ゼインはリディアの横に回って、その浮かない顔をのぞき込む。
「あれ? もしかしてプレゼントしようとでも思ってた? リディアさんからのプレゼントなら受け取るだろうけど、捨てられちまうかもしれないよ?」
「それは俺のだ」
 その声にゼインが振り向いた。神殿へと続く廊下から、フォースが部屋に入ってくる。フォースの顔を見ると、ティオはソファーにコロンと寝転がり、リディアはホッとしたように小さなため息をついた。
「あ、早かったな。神殿の中にいる時は、ベッタリ一緒にいなくたっていいんだぞ?」
 ゼインは張り付いたような笑顔で、後退るように扉へと戻っていく。チラッと視線を投げただけで、ほとんど無視して前を通ったフォースに、ゼインは苦笑を向けた。
「ヤな顔だな。嫉妬か?」
「必要ないだろ」
 フォースは振り返り、うつうつとした声でゼインに文句を言った。ゼインはフォースに苦笑を向けながら見張りの体制に戻り、明らかにリディアを気にして口を開く。
「フォースって普段はてんでガキだよな」
「ゼインも俺より四つも上だとは思えないよな」
 フォースは速攻で言い返すと、ムッとした顔のゼインにクルッと背を向け、リディアの横に歩を進めた。不安げに見上げてくるリディアと視線を合わせ、フォースは照れたように苦笑する。その笑みを見て、リディアはサーペントエッグをフォースに差し出した。フォースは、持っていて、と、リディアの手を押し返す。何度か繰り返されたその行動に、リディアは眉を寄せた。
「でも、もしも何かあった時、……、目印になるんでしょう?」
 身分証明などと言ってしまったら、ゼインがどう思うか分からない。そう思ってリディアは言葉を変えた。フォースは、どうだろうと肩をすくめてみせる。
「そうかもしれないけど、結局半分は敵かもしれないんだし」
 このエッグを持っていれば、フォースが皇帝クロフォードの息子であるレイクスなのだと、ライザナルの人間なら分かるのかもしれない。だが、その相手がレイクスにとっての敵か味方かまでは分からないのだ。どちらでも同じことなら、象徴でしかないモノを持っていたくはないとフォースは思っていた。
食い入るように本を見ていたグレイが、フォースに向かって手招きをする。
「ちょっと、こっち」
 グレイは自分の右前の椅子を示し、読んでいた本を押しやった。フォースは、リディアとの話を中断し、その席、リディアの左前まで行くと、椅子の後ろに立ったままでグレイが指し示した部分に目を落とす。そこには地下の書庫で見せられた詩の文字が並んでいた。
「これ、あの時の」
「調べてみようとは思っているけど、とりあえず覚えろ。わざわざシャイア様が出してきたんだ、やっぱり意味があるんだと思う」
 グレイは、立ったまま眉を寄せて文面に目を落としているフォースの顔を見上げた。
「面倒とか言うなよ。もし何かあったら、?」
 グレイの真剣な瞳と視線を合わせ、フォースは目の前の本をバタッと閉じた。
「お、おいっ、フォース?!」
 しおりとして本にんであった白い羽根ペンを手にし、グレイはあわてて元のページを探し始める。フォースは心配げに見ていたリディアに苦笑を向けて口を開いた。
「火に地の報謝つ、風に地の命届かず、地の青き剣水に落つ、水に火の粉飛び、火に風の影落つ、風の意志剣形成し、青き光放たん、その意志を以て、風の影裂かん」
 グレイは、ページをめくる手を止めて唖然としている。リディアはそんなグレイを見てから、不思議そうにフォースに視線を戻した。
「覚えてるの?」
 肩をすくめてうなずいたフォースに、グレイはホッとため息をついた。
「いつの間に」
「いつって、ずいぶん昔に聞いた気がするんだ」
 フォースの言葉に、グレイは難しい顔をして再びページをめくり始める。
「ずいぶん昔? エレンさんからか?」
「母はいたけど、母じゃないと思う。男の声だったような……。でも、変だよな」
 考え込んでいるフォースを見上げ、グレイは苦笑した。
「そりゃ変だよフォース。こんな詩を知っている男がメナウルのどこにいたってんだ? しかも、五歳より前に聞いた詩を、きちんと覚えているなんて」
「でも、確かに聞いたから覚えて……。いや、それより、続きが気になって」
 詩のページに行き当たったグレイは、しおりにしていた羽根ペンで、詩の後の文を追った。
「続きなんてこと、なにも書いてないけどなぁ。ほんとにあるのか? 何か古い本と混同してるとか」
「古い本なんて、……、創世の書くらいしか読んだ覚えがないんだけど」
 フォースの言葉に、グレイは苦笑を浮かべる。
教義か。混同しようがないだろ」
「でも、何か引っかかるんだ」
 フォースにいいかと声をかけ、グレイは口を開いた。
「ディーヴァに大いなる神ありき。神、世を7つの分身に与えし。の大地、海洋を有命の地とし5人に与え、異空、落命の地を創世し2人に授けん。……って、出だしの部分とは限らないか。いくらなんでも、そのままじゃないだろうしな」
 暗唱をやめて頭をかいたグレイの言葉に、フォースは左手で口をって考え込む。
「けど、完璧に別物でもない気が……」
「なぁ、そんな小さな頃に覚えてしまうほど教え込まれたってことは、それだけ大事だと思ってた奴が、女神以外にも居たってことだろ?」
 グレイは真剣な視線をフォースに向けた。その視線を受け止めて、フォースはますます眉を寄せ、頭を抱え込む。
「そうなのかもしれない。あれは、あの声……。いつだ? どこでだったろう?」
「ルーフィス様は? もしかしたら覚えていらっしゃらないかしら」
 リディアは、本の詩に目を落としたまま考え込んでしまったフォースの腕にそっと手を添えた。
「お茶ですよー」
 部屋に響く声に驚き、リディアは手を引っ込めフォースは顔を上げた。手ぶらのアリシアが、お茶を乗せたトレイを持ったユリアの前に立ち、神殿に続く廊下から入ってくる。
先導しているだけで、でかい態度だな」
 ため息をつくようにつぶやいたフォースのところへ行き、アリシアは顔をつきあわせた。
「何ですって? 態度なら私よりあんたの方がでかいでしょ。そうよね? そこの騎士さんっ」
 話を振られ、思わずハイと答えて口を押さえたゼインをチラッと見やり、フォースはアリシアに視線を戻す。
「立場が違うだろうが。ゼインは一応直属の部下なんだから」
「だいたいその歳で二位だなんて生意気よ」
「そういう文句なら陛下に言えよ」
 二人の言い合いを尻目に、ユリアはトレイをテーブルに置いてお茶を配り始め、リディアはそれに手を貸した。
 ノックの音が響き、ゼインがハイと返事をして扉を薄く開ける。それから改めて扉を大きく開き、敬礼をした。
「ルーフィス殿です」
 その名前に、グレイ、リディアも扉に目をやった。フォースは扉まで行き敬礼で迎え入れる。ルーフィスは入室すると、簡単に返礼をしてフォースと向き合った。
「ドナにライザナルの軍が集結している」
「集結? ドナに?」
 フォースは状況を飲み込むために言葉を繰り返した。ルーフィスのフォースを見る目が細くしくなる。
「女神が降臨していることを知っていて、それでもなお、この行動だ。一時しのぎと分かっていてのことだろう。レクタードとジェイストークだったか? 彼らに何を言った?」
 その言葉にハッとしてルーフィスから視線をそらし、フォースは二人と交わした会話を振り返った。ドナについて話したことは限られている。ドナで起こった毒殺事件のこと、そして母の。思わず息をのみ、それからフォースは口を開いた。
「母の墓が、あると……」
「それだな」
 ルーフィスは軽くため息をつく。
「集結しているわりには士気が少しも感じられないとの報告もうなずける。クロフォードが来るのかもしれないな。埋葬のし直しと言ったところか」
 フォースは愕然としてルーフィスの目に釘付けになった。なにか言わなくてはと思うものの、思考が言葉にならない。ただを埋めた時の光景が、脳裏に広がる。
「村の人間もいることだし、遅かれ早かれ知られることだ」
 ルーフィスはつぶやくように言うと、フォースの横を通ってリディアの方に向かった。
「シャイア様はドナのことについて何かおっしゃっているかい?」
 立ち上がって迎えたリディアは、首を横に振る。
「いいえ、何も」
「それはよかった。こんな状況で攻防戦は避けたいからね」
 ルーフィスはリディアに微笑んで見せ、うつむいて渋面のフォースに向き直った。フォースは下に向けていた頭をさらに低くする。
「すみません」
「謝ることなど何もない。ライザナル側もシャイア様が降臨されていることを知っているのだ。いくら兵を集めても攻めてきはしないだろう」
 フォースは顔を上げてルーフィスと視線を合わせた。
「それは、そう思います。でも、母の墓が……」
「墓、か」
 ルーフィスもその風景を思い浮かべたのか、視線が一時をさまよう。
「知られるより先にドナを取り返していれば無事だったかとも思うが、どちらにしても要求はされる。それだけの地位にいる人間だったのだから仕方がない」
 それだけの地位、その一言が、フォースの中にこだましていた。それは間違いなく自分の身にも言えることだ。ルーフィスは言葉を続ける。
「メナウルのやり方で埋葬されたままだと納得できないのだろうな。私たちがライザナルのやり方を嫌うのと同じことだ。もしも掘り返されるとしたら不本意だが、それだけ丁重に埋葬するだろう。そう気にすることではない」
 ルーフィスは、口をつぐんだフォースの肩をポンポンと二度叩いた。ハイと答えながら、フォースはルーフィスの言葉で受けたショックを隠そうと努めていた。
 やり方を嫌うのは埋葬のことだけではない。わずかに伝わってくる軍や国家の体制など、何に対しても言えることで、フォース自身もそうなのだ。このままライザナルへ行ったとしても反発しか感じられない中で、いったい何ができるというのだろう。何から何まで反抗していては、ただのわがままにしかならない。これが杞憂であればなんの問題もないが、追従していけないことの方が多いだろうことは簡単に予測がつく。フォースは、考えれば考えるだけ問題が増え、気持ちが沈む気がした。
「すみません、もういいですか?」
 アリシアが、フォースと話す時より一オクターブほど高い声で、ルーフィスにいを立てる。ルーフィスがうなずくが早いか、アリシアはフォースの腕を取った。
「あ? え?」
「いいから来て。ちょっと話があるの。なかなか時間が合わないから」
 アリシアは声をすっかり元のトーンに戻し、フォースの腕を引いて神殿に続く廊下へと向かう。
「あ、おい、俺はまだグレイともリディアとも話が半端なんだって」
「そうなの? その方が都合がいいわ」
「はぁ? なんでだよ」
 アリシアは、フォースの後ろに回り込む。
「だってあんた、一つのことしか考えられないでしょ」
 アリシアは呆気にとられているフォースの背中を押して廊下に押し込んだ。
「そんなにかからないから」
 アリシアは部屋にそれだけの言葉を残すと、自分も廊下に入った。そこで不機嫌な顔のフォースと鉢合わせになる。
「なんだよ。失礼な奴だな」
「お願いだから黙って一緒に神殿まで行って」
「お願い? 薄気味悪いな」
 含み笑いをしたフォースに、アリシアは真剣な瞳を向ける。
「お願い」
 いつもとはまるで違うアリシアの態度に、フォースはあっけにとられた。返す言葉をなくしてアリシアに背中を向け、神殿へと歩き出す。アリシアが何も言わずに付いてくるのを不気味に思いながらも、フォースは神殿に出、祭壇の真ん前まで行った。そこでため息をついて振り返り、すぐ前にいるアリシアと向き合う。
「で? なんだよ」
 アリシアはいくらかうつむき加減のまま大きめな呼吸を繰り返し、何度か目の息を吐き出した時、意を決したように顔を上げた。
「ごめんね」
 わけが分からずフォースが眉を寄せると、アリシアはまたうつむいてしまう。
「フォースのドナやここでのこと、ジェイに話したのは私なの。ごめんなさい」
 アリシアが下げた頭を見下ろし、フォースは気が抜けたようにため息をついた。
「何かと思ったら。なんだ、そんなことか」
 アリシアは頭を上げてフォースと視線を合わせる。
「でも、私が言わなければ、」
「他の誰かに聞いただろ」
 フォースは割り込むように言葉をかぶせると、肩をすくめてアリシアに苦笑を向けた。
「実際、一人から聞き出したような口ぶりじゃなかったしな。それに俺だって母の墓のこと言っちまったんだ、もし責めたくったって責められねぇだろ」
 アリシアは、それに気付いてアッと声に出し、慌てて口を押さえる。
「そんなことより、ジェイって、ジェイストークのことか?」
 フォースが口にした名前にビクッと肩を震わせて、アリシアは視線をそらした。フォースは胸騒ぎをそのまま口にする。
「まさか、何かされたのか?」
、何もないわ、私が勝手に信じただけ、それだけだから」
 目を合わせずに答えたアリシアを見て、フォースは顔をゆがめる。
「ごめん」
「ちょっと、やだ、何言ってんのよ、ホントに何もなかったわよ。もし何かあったって、それこそフォースのせいなんかじゃないわ、冗談はやめて」
 食ってかかるアリシアの態度に、フォースはやはり何かあったのだろうと思いつつ両手の平を向け、分かったと繰り返した。アリシアはフゥッと息をつくと、フォースの目をしっかり見据える。
「行く、つもりなの?」
「ちょっと前まで迷っていたんだけど。今は行かなきゃならないと思ってる」
 自分の気持ちを確かめたかのようなフォースの言い様に、アリシアは視線を落とした。フォースは側にあるシャイア神の像を見上げる。
「母の墓一つのことでドナに軍を集めてしまう人から逃げるなんて容易じゃないよな。メナウルにしても迷惑どころの話じゃない。クロフォードが来るかもしれないってことは、交換条件の提示も近いだろうし、今はそいつをサッサと聞きたいくらいだ」
「行かないで」
 意外な反応に耳を疑いフォースが目を向けると、アリシアは変わらずに、うつむいたままそこにいた。
「それが駄目なら、帰ってくるって約束して」
 その言葉を聞き、フォースはライザナルに行こうという決心をアリシアに話してしまったことを後悔した。フォース自身、母の墓の場所を明かしてしまった後悔を持つのと同じように、アリシアがジェイストークに話してしまったことへの罪悪感が抜けていないのだと思う。余分に辛い思いをさせてしまっているのだろうと眉を寄せたフォースの両腕を、アリシアがんだ。
「お願い、約束すれば、あんたなら必ず」
 ドンと神殿入り口の扉が鳴り、それから大きく開かれた。バックスだ。
「バックス、どうした?」
 フォースはキョトンとした顔でバックスにたずねる。
「いや、何かゴソゴソ聞こえるって言われてな」
「話をしてただけだよ」
 フォースはバックスに向けてそう言うと、アリシアと再び向き合う。
「だから、今回のことはアリシアのせいじゃないって言ってるだろ。そんなに罪悪感を持たれても困るんだ。気にするなよ」
 そう言って苦笑したフォースを、アリシアは何も言えず、ただ呆気にとられて見ていた。
「じゃあ俺、戻るから」
 フォースはアリシアとバックスに手を振って、元来た廊下へと入っていった。
 フォースの姿が見えなくなってから、バックスは神殿に入って扉を閉めた。アリシアは緊張が解けたようにため息をつく。
「聞いてたんでしょ。じゃなきゃ、音を立てた後に扉を開くなんてことしないわよね」
「ご明察。悪い、邪魔した」
 言い捨てたようなぶっきらぼうな言葉に、アリシアは含み笑いをして首を横に振る。
「ありがとう、助かったわ」
「助かった?」
「ええ。きっともの凄い誤解してるでしょうね」
 アリシアはバックスに苦笑を向けた。バックスは眉を寄せてその苦笑に視線を向ける。
「告白して逃げられたってのは誤解か? と言っても、フォースは全然分かってないみたいだったが」
 しげなバックスの顔を見て、アリシアは吹き出すように笑った。
「そう、それ。ムキになっちゃったわ。私が冷静でなくちゃ、あんなボケに微妙な話を理解させられるわけがないのに」
 笑ってはいるが寂しげな瞳をしたアリシアを、バックスは横目で見ている。
「フォースが騎士に成り立ての頃にね、私も職場で軽傷の騎士にからまれているのを助けられたことがあるのよ。お礼、身体で払おうと思って」
 ブッとバックスは思い切り吹き出した。思わず目を丸くしてアリシアの顔をしみじみ見つめる。
「やぁね、したのはキスだけよ」
「それを先に言え……」
 バックスは、言いよどんで片手で口をった。
「だから思ったって言ったでしょ。キスしたら物凄い驚かれちゃって。助けてくれたのは守ろうとかそんなんじゃなくて、単純に正義感だったんだって気付いたわ。でも、それ以来どんな兵士でもフォースの姉だって言えば……」
 アリシアは大きくため息をつく。
「私、ずっと甘えていたのよ。重荷だったと思うわ。謝りたくて」
 バックスはホッとしたように肩を落とし、アリシアに微笑んだ。
「そんなこと気にする必要はないだろ。ルーフィス様もそうだが、フォースの名前も半分呪文みたいなモノだ。彼らが笑っているうちは大丈夫だって軍でも言うからな。君一人くらいフォースはへとも思ってないだろ」
 言いながらバックスは吹き出しそうになるのをえている。それに気付いたアリシアは、眉を寄せて目を細めた。
「んもう、ちょっとっ。なによ」
「いや、そんなことよりキスの方がよっぽど」
 含み笑いのバックスに、アリシアの声が大きくなる。
「笑わないでよ。その時は私だって一応真剣だったんだから」
「悪い、いや、フォースが十四の時だろ? とある店に誘ったら、自分が脱ぐのは嫌だって断られたんだよね」
 バックスの言葉に、アリシアは目を見開き、呆れたように両腕を広げる。
「なにそれ。てんで子供じゃない。って、それじゃ私、まるでったみたいじゃない」
「真実の愛や安心感は恐怖のないところにあるって言うからな」
 そう言うと、バックスは自分で三度うなずいた。
「ちょっとっ。私が恐怖だっていうの?」
 食ってかかったアリシアに、バックスは思わず朗笑する。
「あはは、違うって。フォースが騎士に成り立ての頃は、戦に出てるか、不信感満載の兵士たちの中にいたからな。恋愛感情を持つような余裕なんて無かっただろうよ」
 アリシアは昔に思いを巡らせた。その言葉と、アリシアの中に浮かんだ当時の状況が結びつく。
「そうか。そうね」
「リディアさんとのことも、出会ってから一体何年かけてるんだか」
 そう、一番始めにリディアの存在を聞いたのは、騎士になってすぐの頃だった。
「そうね」
「やっと少し余裕が出来てきたのかな、なんて思ってたらこれだ」
 少しずつ笑うようになり、元のようにケンカもするようになり、ほんの数ヶ月前にはこれが本来の人格なんだろうと思うほど、フォースは安定した生活をしていた。
「そうね」
 それなのに。ヴァレスに戻ってすぐはまだよかった。出生のことが分かってからはその笑顔すらく見える。
「で、やっぱり好きだったんじゃないか」
 バックスの言葉に生返事を繰り返していたアリシアは、をつかれてビクッと身体を震わせ苦笑した。
「そう、昔は、ね。今はちゃんと弟よ。でも、取られちゃったみたいで、なんだか寂しかった」
「分かるよ」
 バックスの笑みを、アリシアは不安げに見上げる。
「でも、弟なのよ?」
「ああ、分かるよ」
 うなずいて、なお変わらぬ笑みにホッとして、アリシアはため息をついた。
「これ以上、困らせちゃいけないわよね」
「あれでも分かってると思うぞ。少しくらいは」
 バックスは自分の願望を察して、そう言ってくれたのかもしれないとアリシアは思った。でも、この人が心からフォースの理解者であることには間違いない。少しくらいはという言葉に妙に現実感があって、欠片くらいは本当に分かってくれているかもしれないと思う。
「ありがと」
 わだかまっていたアリシアの気持ちが、微笑みとともに、ゆっくりこぼれ落ちていった。

   ***

 部屋に戻ったフォースの目に、笑顔のリディアと向かい合うナシュアの姿が入ってきた。城都で女神付きのシスターだった人だ。目が合い、フォースは慌てて頭を下げる。ユリアは、微笑んだナシュアの視線をたどってフォースが戻ったのを見つけると、その前に立った。
「私には任せられないってことですか?」
「任せ……、って何を?」
 フォースはわけが分からずユリアに疑問を返した。リディアは手にしたサーペントエッグを胸に抱いてうつむく。
「リディアさんですっ。わざわざ城都からナシュアさんを呼んだりして」
「え? 俺は何も」
 ユリアの剣幕に、ナシュアが苦笑する。
「私はシェダ様のお言い付けでヴァレスに配属になったのですよ?」
「本当ですか?」
 ユリアは疑わしげにナシュアを見やった。ええ、とうなずくと、ナシュアはフォースとユリアを交互に見て心配げに首をかしげる。
「それより、何かあったのですか?」
 ユリアは驚いたように目を見開き、それから首を横に振った。
「な、なんでもありませんっ!」
 ユリアは廊下に駆け込み、ナシュアとフォースは茫然と見送る。部屋の隅にいたグレイが乾いた笑い声をたてた。
「そうは見えませんよねぇ」
「ええ。ご迷惑をおかけしているのなら、話して聞かせないといけませんね」
 ナシュアはグレイに答えると、リディアの背に手を回し、部屋の隅へと場所を移す。割って入るわけにもいかず、フォースはグレイのところへ行った。開かれたままの本や何冊か重ねて伏せた本の手前に置いてある、女神の示した古い本が目に入ってくる。
「あ、そうか」
 ボソッとつぶやいたフォースに、グレイはパッと明るい顔をした。
「思い出したのか? 詩の続きか? それとも誰に聞いたかか?」
 フォースは、すまなそうにため息で笑い、本を指さす。
「いや、それの話しをしてたんだっけって」
「おいおい……」
 グレイは両手で顔を覆い、大きなため息をついた。フォースはテーブルの角をんだ椅子に腰掛ける。
「思い出す努力はするよ」
「ああ。俺はこの詩にどんな意味があるのか調べてみる」
 グレイが親指を立てて言った言葉に、フォースは微笑んだ。
「ありがとう。そういえば父さんは?」
「戻るって。あの詩のことを聞いてみたけど、知らないみたいだったよ。それと、ゼインはルーフィス殿に怒られて扉の外っ側」
 グレイは、その情景を思い出したのか、ククッと笑い声をらした。
「ゼインが怒られたってことは、監督不行届きとかって後から俺も怒られるんだよな」
 フォースは力無く苦笑する。落ち込んで見えるその様子に、グレイはフォースをのぞき込んだ。
「気が抜けてるなぁ。アリシアさんと、何か重大な話でもしてきたのか?」
「いや、全然。父さんが持ってきた話で、クロフォードがどれだけ力を持っているか誇示された気がして。気が重いだけ」
 フォースは笑みを浮かべようと努力はしたが、すぐにあきらめて言葉をつなぐ。
「まぁ、今は何を考えても意味が無いよな」
 そう言うと、フォースは様々な思いを振り払うかのように両腕を上げてノビをした。そして、いつの間にかすぐ後ろにいたリディアに気付く。立ち上がろうとするフォースの肩に、リディアは両手を置いた。
「座ってて」
 リディアはフォースの肩口から顔を出すと、サーペントエッグを持った手を鎧の内側に差し入れた。フォースはその手を意識して身動きできなくなる。
「ちゃんと持っていて。フォースのお母様のことでそれだけの兵を動かせる人だもの、半分が敵だなんてこと、きっとないわ」
 柔らかな声がフォースの頬や首をでていく。パチッと金具が掛かる音に心臓がはねた。リディアは空になった手をもう一度肩に置くと、反応も返事もないフォースの顔をのぞき込む。
「フォース?」
硬直してる? 息のしかた覚えてるか?」
 グレイは笑いをこらえながら、フォースの目の前で指をちらつかせ、リディアに視線を向けた。
「ね? 言った通り文句なしに受け取っただろ? ちょっとエッチだけど」
 フォースはギョッとしたようにグレイに目をやり、リディアは上気した頬そのままに、慌ててフォースに頭を下げる。
「ご、ごめんなさいっ」
「い、いいんだ、いいんだけど、もう二度とこいつの言うことは、はなっから信じちゃ駄目っ」
 フォースに指を刺され、グレイは思い切り吹き出すと、腹を抱えて笑い出した。
「グレイ、てめぇ……」
 フォースはゆっくりとグレイを振り向いてみつける。
「だって持ってなきゃ駄目だろ、それ」
「そうじゃなくてっ」
 食ってかかったフォースに、グレイは必死に笑いをこらえて口を開く。
始終一緒にいるのに慣れない奴だな。どうどう。仕事仕事」
 本など読めそうにないほど大笑いしながらグレイは一冊の本を手に取った。フォースはガタッと椅子から立ち上がり、開いてあった本を全部バタバタと閉じ始める。
「うわっ、なにすんだフォース!」
 全部の本を閉じてしまうと、フォースはを机に押しつけた。
「ちっともスッキリしない」
 顔をしかめたフォースの言葉に、グレイは苦笑を向ける。
「欲求不満か? それとも、詩を調べてるっての分かってやってる?」
「分かってる。だけどその詩も女神のことも何もかも、全部意味がない気がして」
 フォースはさらに眉を寄せて唇をかんだ。グレイはフォースから視線をそらし、顔をゆがめる。
「行くって決めたのか」
「ああ。決めた」
 そう返事をして、フォースは後ろでリディアがうつむいたのを気配でった。