レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
1.血の文字
ルジェナ城は高台の上に位置している。その高さを生かし、回廊の右側はバルコニーのように開けた空間になっていて、そこからルジェナの町を眼下に見ることができる。マクヴァルは、その回廊突きあたり左にある、神官一人が警備のように立っている重厚なドアを目指して歩いていた。
ライザナルで信仰されているシェイド神の宗教は暗唱で伝わる。教義を説くにも習得するにも、すべてに文字は使わない。当然、マクヴァルも教義は口頭で伝えられ暗記した。だが人と違ったのは、まるで生まれた時から知っていたかのように、三つになるかならないかで、すべての暗唱ができていたことだ。そのことによって誰からも、なんの疑いもなく神の申し子と目され、当然のように神官長へと上り詰めた。だが、ローブに隠れたマクヴァルの手には、今、一冊の本が抱えられている。
部屋の前までたどり着くと、マクヴァルは神官が開けた扉の中へと入った。扉を閉めた音が部屋に反響する。
四方から天井に至るまで起伏の激しい岩でできているこの空間は、人の手によって作られた場所なのだが、まるで天然の洞窟のようだ。岩のへこんだ部分に、いくつかの明かりがともされ、淡い光が壁面を包んでいる。その薄暗い空間の奥にはシェイド神の像が据えられ、その像が見下ろす場所に祭壇が置かれていた。祭壇には炎をかかげた三本のロウソクが立ててあり、黒曜石でできた鏡がロウソクの光を受けて散光を放っている。
マクヴァルはその祭壇、鏡の正面まで早足で歩き、ローブの陰から本を取り出して鏡の横に置いた。その本に挟んであった羊皮紙を手にし、鏡の前にある燭台の間に広げる。そして鏡の陰から光沢のある生地で作られた手のひら大の袋を取り出し、中に入っていた黒曜石のカケラを、三本のロウソクを結ぶように羊皮紙の上へ並べていく。そのカケラには所々に光を反射しない黒っぽいシミがこびり付いていた。
石の黒い輝きで作られた直線が三本できあがった時、結ばれたロウソクの炎が倍ほどに大きさを増した。それと同時に、鏡面にボウッと老人の顔が現れてくる。その顔がハッとしたように目で周りを見回し、すぐ前にある石のカケラに目をとめた。こびり付いた古い血の跡が、老人の身体に死を与えた短剣のカケラだと物語っている。老人は絶望に沈んだ瞳、身体があった頃は深い紺色をしていたその瞳をマクヴァルに向けた。
「色々と教えていただくよ。神の守護者殿」
マクヴァルは口元に冷たい笑みを浮かべると、横に置いてあった本を手にし、ページを繰っていく。一度大きく息をつくと、マクヴァルはブツブツと口の中で音読を始めた。
マクヴァルがひたすら文面を追う中、並べられた石にこびり付いていた血がはうように動き、羊皮紙の上に次々と文字を形取っていく。鏡面の向こう側から見ている老人は、その文字を見て心痛に顔をしかめた。
短剣で刺された時は、ただ死んでいくのだと思っていた。ところが鏡の中に魂なのか意識なのか封印されてしまい、思うように自らの記憶を引き出されている。しかもその記憶は、誰よりも教えたくない人間の目に触れているのだ。一番教えたい人間には、マクヴァルに知れてしまったことさえも伝えることができないというのに。
マクヴァルの口から言葉が消えた。本を置くと、羊皮紙の文字に目を落とす。
神の守護者と族外の者にもうけられし子は武器を持つ。その者、神との契約により媒体を身に着け戦士となる。媒体ある限り神の力はその者に対して無効となる。
最後の方の文字はきわめて薄かったが、なんとか読むことができた。
「もっと血を付着させておけばよかったか」
マクヴァルは、その血の持ち主であった老人に笑みで細くした目を向けた。文字をこぼさぬように羊皮紙の両端を持ち上げ、黒曜石のカケラごと慎重に袋の中へと戻す。それと共に鏡面に現れていた老人は沈痛な面持ちのまま鏡の奥へと消えていった。大きくなっていたロウソクの炎が、元の大きさへと収まっていく。
マクヴァルは手にしていた石の袋に笑みを向けると、元のように鏡の陰に置き、羊皮紙に浮かんだ文字をつぶやくように復誦した。
マクヴァルの脳裏に、老人と対話した石の部屋での出来事が蘇ってくる。鏡に封じた神の守護者である老人は、一族の者は武器の代わりに神の力を借りて攻撃を行うと言っていた。老人がシェイド神の力を使うことができなかったということは、種族の他の人間にも神の力を引き出すことはできないであろう。既に一族の者を畏怖する必要は何もない。それどころか、もし一族の人間が現れることがあれば、老人と同じように封印し、新たな知識を手に入れることができるだろう。
そして今しがた老人の血が形作った言葉を思い出す。一族外の人間との間にできた者が戦士ならば、それはそのままレイクスを指すではないか。とすれば注意を払わなければならないのはレイクスだけだ。いや、わざわざ見張り続ける必要もない。シェイド神と契約させるか、それができなければ何らかの形で亡き者にしてしまえばいいのだ。
ドアの向こう側でガタッと大きな音が立ち、失礼いたしました、と声が響く。マクヴァルは本を手にし、祭壇の下に隠した。回りに目を配ると袖をパンと払う。
「皇帝陛下がお越しにございます」
ドアの向こう側から見張りの神官が声をかける。マクヴァルはそれを聞いてからゆっくりとドアに向かった。
マクヴァルはドアを開け、うやうやしく頭を下げて皇帝クロフォードを迎え入れた。クロフォードは、まっすぐシェイド神の像の元へと足を進め、ひざまずいて祈りの姿勢をとる。マクヴァルは祭壇の横に立ち、クロフォードが顔を上げるのを待った。
「シェイド神の戦、一年の間停戦させていただく」
立ち上がってマクヴァルと向き合い、クロフォードは淡々と言った。その言葉にマクヴァルは眉を寄せる。
「どういうことです?」
「レイクスを安全に取り返すためだ。神の血を王家にというシェイド神の教えにも、これで沿うことができる」
クロフォードはシェイド神の像を見上げた。マクヴァルは、クロフォードに気取られないように長く息を吐き出す。
「しかし、メナウルの巫女はどうやって手に入れるおつもりです? 停戦の前に手を打ってはいただけないでしょうか」
「そこまで急く必要はあるまい。せっかくの神の血、失うわけにはいかん。まずはレイクスだ」
クロフォードの言葉は、どこまでも穏やかで、マクヴァルはそれをひどく苦々しく思う。クロフォードがエレンというシアネルの巫女に執心していることは理解していた。だが、エレンが居ないと分かった今、その執着はレイクスに向いているのだ。その思いは間違いなく邪魔になるだろう。
「では、レイクス様の代でシャイア神の血を王家に。メナウルは豊饒な土地を持っています。国のためにも早い時期の対処を」
クロフォードはマクヴァルにうなずいてみせる。
「そうだな。停戦は一年だ。その後はレイクスにも逆らうことは許さん」
その言葉に、マクヴァルは密かに愉悦した。メナウルの騎士だというレイクスが、抵抗しないわけはないだろう。それはメナウルの巫女のことも、レイクスが戦士であることにもいい方向に働くに違いない。クロフォードは、そんなマクヴァルの思いに気付かないまま言葉をつないだ。
「エレンの棺も見つかったそうだ。これから私はドナへ向かう」
「では、私めもご一緒いたします。葬儀の準備など、お任せください」
「よろしく頼む」
クロフォードは身を翻すとドアへと向かった。マクヴァルはクロフォードに背を向けて、祭壇と向き合う。後ろにドアの開閉の音を聞き、マクヴァルは大きくため息をついた。
神の血など、本当はどうでもいいのだ。もしも神の血などというモノがあったとして、それを王家に取り入れることが、いったい何の足しになるというのだろう。
そんなことよりもメナウルの巫女が、シャイア神が欲しいのだ。シアネルのアネシス神のように、シェイド神の中に取り込んでしまいたい。そうすることで、また一歩、神がこの地を離れることを阻止することができるのだ。決してこの世界を神不在のモノにしてはならない。
身体の中でシェイド神が降臨を解こうと抵抗しているのが分かる。マクヴァルはシェイド神の像を見上げた。
シェイド神よ。残念ながら、あなたはあなたの意志で私の魂から抜け出すことはできない。私の身体が朽ち、何度生まれ変わろうともだ。心配なさらずとも、私自身が神の代わりとなり、この地を統べて見せよう。
洞窟のような空間に反響して、マクヴァルの忍び笑いが低く響いた。