レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     3.約束

「仕事じゃなかったのか」
 階段の上から冷ややかな声が響いた。テーブルの隅に落ち着いて話をしていたサーディ、グレイ、スティア、アリシアの四人が階段を見上げる。そこにフォースを見つけ、アリシアは平たい笑い声を立てた。
「勘違いだったみたい」
 フォースは階段の途中で一度だけアリシアと視線を合わせ、後は知らん振りで下まで降りる。アリシアは、部屋の中央でフォースと向き合った。
「リディアちゃん、何か言ってた?」
「いや、別に」
 フォースの返事に、アリシアはしげな顔をする。その表情を見て、フォースは視線をそらして苦笑した。
「ありがとう」
「えっ? 何? 何がありがとうなのよっ」
 アリシアは、慌ててフォースと顔をつきあわせる。
「何って。そんなのどうでも」
「よくないわよっ! 何も言われていないのにありがとうって、あんたリディアちゃんに何かしたんじゃないでしょうね?!」
 アリシアの大きな声の後に、ノックの音が聞こえた。フォースはアリシアの横を通り過ぎて、外へ続く扉へと向かう。
「ちょっとっ」
「客」
 一言だけ答えると、フォースは笑いをえながら扉まで行った。かにルーフィスの声が向こう側から聞こえ、少しもためらうことなく扉を開ける。ルーフィスの向こう側に立っている大柄な人間が視界に飛び込んできて、フォースは目を見張った。
「ナルエス?!」
 こそ身に着けてはいないが、短く切りそろえたダークブラウンの髪と緑色の瞳に、フォースは見覚えがあった。反戦の意志を持つライザナルの騎士で、ナルエスという男に間違いない。ナルエスはフォースを見るが早いか、その場にひざまずいた。フォースの様子をうかがっていたルーフィスは、納得したようにうなずいた。
「知人か。説明は要らんな」
 その言葉に視線を合わせ、フォースは自分を落ち着けるように低く息を吐き出した。ナルエスが何をしに来たのか、容易に想像はつく。
「レイクス様、陛下からの親書をお持ちいたしました」
 ナルエスは一通の封書をうやうやしくフォースに差し出した。その声に部屋の隅で話をしていたサーディが立ち上がり、椅子がガタッと音を立てる。
「お受け取りください」
 ナルエスが差し出した手から、フォースは封書を受け取った。
「わざわざここまで……」
「親書です。直接お渡しできなければ意味がありません。もとより命に替えてもお届けする覚悟でしたので、お気になさらず」
 頭を低くしたナルエスに、フォースは困惑したように顔をしかめた。
「こんなモノ、人づてになろうが中身には変わりないだろう。そんなことより、向こうでの知り合いが減る方が俺には痛いんだ、命に替えてもだなんて無茶はしないで欲しい」
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
 ナルエスが発した言葉の違和感に、フォースはため息をついた。気持ちが悪いほど丁寧に聞こえる。
「ライザナルに、戻っていただけるんですね」
 安心したように言ったナルエスに、フォースは苦笑した。
「行くよ。明日」
「フォース?! お前、そんないきなり!」
 思わず大声を出したサーディの腕を、スティアがえるようにして止める。フォースはサーディに親書をヒラヒラと振って見せた。
「こいつが来たら、行こうと思っていたんだ。どうせ期限切ってあるだろうし、数日延ばしたところで意味はないしな」
 フォースの言葉に、ナルエスは嬉しそうな微笑を浮かべると、服の内側からもう一通の手紙を引っ張り出した。
「もう一つ、ジェイストークからこれを言付かっております。明日なのですが」
「じゃあ、それに合わせて出るよ。合流してライザナルに入る」
「私の警衛をお許し願えますでしょうか」
 ナルエスの言葉に、フォースは心配げに眉を寄せた。
「だけど、今すぐ向こうに戻った方が安全じゃないか?」
「してもらえ」
 言葉をったルーフィスを、フォースは驚いた目で見つめた。
「お前が彼を信頼できるのなら、護衛を頼むといい。何が起こるか分からんからな。逆に彼が無事にライザナルまで戻るためにも、その方がいいだろう」
 その言葉に納得し、フォースは素直にハイとうなずいた。ルーフィスはナルエスに向き直る。
「ただ、出歩かれては困ります。出発まで部屋に監禁させていただきたい。それでもよろしいか?」
 ナルエスは、笑顔を見せて頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「では、こちらへ」
 ルーフィスは神殿の中にナルエスを通し、二階へと続く階段を上がりかけて振り返る。
「鍵はどこだ?」
「棚の一番上」
 扉を閉めながらフォースはそう返事をして、二人が二階の廊下へ消えるのを見送った。
「俺の部屋か」
 そう言うとフォースはノドの奥で笑い声を立て、固まったままのサーディとアリシアに見つめられていることに気付いて苦笑した。
 誰もが押し黙っている中、手にしていた親書を開封した紙の音が、フォースには妙に大きく響いてくる。
「本当に明日、行くつもりなのか?」
 無言で親書に見入っているフォースに、サーディが声をかけた。フォースは一呼吸の間だけサーディに視線を投げ、もう一度親書に目を落とす。
「俺が今日から五日以内にドナまで行けば、その日から十日以内にドナから撤退、一年間の休戦」
 サーディが眉を寄せ、不機嫌に顔をめる。
「それ、リディアちゃんが降臨を受けているうちは一緒じゃないか。そんなモノは交換条件でもなんでもない。女神がいればドナは取り返せるし、ライザナルだって女神がいる間は無理に攻めてはこない。今の状況とどこが……、違うじゃねぇか!」
 サーディの声がだんだん大きくなるのを黙って聞いていたフォースは、サーディが最後に言い切った違うという言葉を聞いて、肩が落ちるほどのため息をついた。休戦はライザナルの人間とコンタクトをとるのには絶好の期間なのだと、サーディは気付いてしまったのだろう。
 サーディはフォースの前まで行き、疑わしげな目を向ける。
「お前、だから俺の反戦運動に反対したのか?」
「約束してくれ、サーディ。決して無茶はしないで欲しいんだ」
 危険度は格段に低くなるが、それでも危険には変わりない。フォースの真剣な瞳に、サーディは顔をしかめると舌打ちした。
「お前が一番無茶やってんだろうが」
「俺をメナウルにおいておこうなんて方が無謀だろ」
「無謀? その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
 サーディの投げやりな言い方に、フォースはムッとして眉根を寄せる。
「俺が残ったら、ライザナルとの関係は間違いなく悪化するんだぞ? サーディの立場で国のために人一人切り捨てられなくてどうするんだ」
「お前はそうやってライザナルの冷徹な皇帝にでもなればいいさ。まったく始めて話した時みたいな冷たい面しやがってっ」
 サーディがそっぽを向いて言った言葉に、フォースは、さも面倒臭そうにため息をついて見せる。
「何言ってる。いきなり絡んでくるような奴に、どうやって友好的な顔をしろってんだよ」
「普通、騎学にも行ってるって説明も無しに毎度学校を抜け出されたら、絡みたくもなるだろっ」
「おい」
 黙って聞いていたグレイが、低い声を出した。口をつぐんだフォースとサーディに冷たい視線を向ける。
「あのさ。恥ずかしいから、やめろ」
 ええ? とサーディがグレイに向き直る。
「だって俺、こんなバカな言い合いを本気でできる相手って、こいつくらいしかいないんだぞ?」
「悪かったな!」
 サーディに指を指され、フォースは吐き捨てるように言った。グレイは机をでドンと叩く。
「だから、やめろって。まったく、これでどっちも皇帝継ぐのか? どうせやるなら継いでからやってくれよ」
 グレイの言葉に、スティアが吹き出して笑い出し、アリシアは大きなため息をついた。
 ため息にノックの音がかぶった。
「アジルです」
 その声にフォースは扉を開けた。アジルは背は低いがガッシリとして、ロングソードを背負ったフォースの隊の兵士だ。
「どうした?」
「一応回りを見回ったのですが。路地を挟んで向こう側の家にあった長いハシゴが無くなっているという兵士がいるんです」
「ハシゴ?」
 アジルに聞き返し、フォースは自分ならそのハシゴをどう使うかと思い、天井を見上げた。もしもそのハシゴごと誰かが屋根の上にみ、日が落ちるのを待っていたのだとしたら。フォースは身をすと、二階への階段を駆け上がりながら叫んだ。
「バックス! 部屋に入れ!」
 その声でバックスはドアを開けた。とたんに窓がられる盛大な音がして、バックスの足元で何かがはじけ、部屋の空気が一瞬にして白くる。
「部屋の外に出ろ。出ないと巫女を刺し殺すぞ!」
 白いもやのようなモノが薄れはじめ、ベッドの下から半分出てきたまま倒れてしまったティオが見えた。そしてベッドの上にをついた人の形が浮かび上がってくる。
「早く出ろ!」
 その影はリディアの首に手を回して立たせ、胸に短剣を突きつけた。
「まさか、ゼイン?」
 顔を確認して、バックスはゆっくりと後退り、廊下まで出た。フォースの部屋にナルエスを閉じこめ鍵をかけたルーフィスが異様な様子に振り向くのと同時に、フォースが部屋の前にくる。
「ゼイン、お前っ?!」
「来るなよ、フォース。バックス、ドアを閉めな。今度少しでもドアの音を立てたら、降臨をく前に刺し殺す。いいな?」
 ドアに手をかけるのをためらったバックスを見て、ゼインはリディアの胸に短剣を押しつけた。
「ま、待て、わかった、落ち着け。今閉める」
 バックスは、ゼインをみつけているフォースをチラッとだけ見やり、ドアを閉めた。内側から鍵をかけた音が聞こえてくる。
「引き付けろ。窓から入る」
 フォースはバックスの耳元にそれだけ言うと、の音を立てないように部屋から少し離れ、それから走り出した。階段の手すりをって途中で外側へ飛び降りる。
「どうしたの? さっきの音は?」
「ここにいろ」
 心配げなアリシアにそう言いつつ、フォースは鎧のパーツを外せるだけ外しながら外に飛び出した。アジルが併走してくる。
「どうします?」
「窓から入る」
「でも、どうやって?」
雨樋登る」
「へ? あ、では兵を数人集めますっ」
 アジルはそう言うと、逆方向に走り出した。
 フォースは雨樋に手をかけ、登りはじめる。鎧が無い分だけ身体が軽い。しかも壁に固定してある部分が足がかりになるので、思っていたよりも登りやすい。だが、ひどく時間が掛かっている気がして気持ちが焦る。部屋の中から布が裂ける音とリディアの悲鳴が聞こえた。足を滑らせて息をのむ。
「手を離してっ」
「そう、もっとフォースに聞かせてやれよ、その声」
 フォースの腕に怒りで力がこもる。もう少しで窓の高さだ。
「ゼインさん、どうして?」
 バックスがわめいている中で、リディアの声がする。
「あいつを見張るはずが、まるきりついていけねぇ。焦れば焦るだけ無能扱い、もうウンザリだ」
「なんの話を……?」
「いいから来いっ」
「イヤッ」
 フォースはその会話から、部屋のどこにいるかだけを読み取ろうと努力した。だが集中などできそうにない。窓よりほんの少し高く登った時、すぐ側の壁がガタッと音を立てた。
 フォースは窓枠に手をかけ、引き寄せるように力をこめた。窓の中に身体を入れると、窓枠の右側をって音の方向にり出る。その勢いのまま短剣を持つゼインの手をみ、身体をぶつけた。そのままもつれ合ってひっくり返り、顔をつきあわせる格好になる。
「フォース?!」
 ゼインは叫ぶように名を呼ぶと、短剣をフォースに向けた。フォースは振り下ろされてくるその手首をつかむ。
 茫然と壁にもたれ、無意識に破れた服を胸元でかき合わせていたリディアは、ハッとしたようにベッドを回り込んでドアに駆け寄り、ドンドンとで叩いた。
「バックスさん、開けてっ、鍵がないの!」
「わかった、どけてろ」
 リディアが離れるか離れないかのうちに、ドアに体当たりの音が響き出す。リディアの位置からだと、フォースとゼインはベッドの陰、死角になっている。リディアは不安に思いながら、ベッドの下から身体を半分だけ出して倒れているティオの背中を揺すった。
「お願い、起きてっ」
 ティオはうめき声を上げてゆっくりと目を開き、ボーっとしたまま立ち上がる。
「あれ? 俺……、ねむ……」
 ティオがベッドに倒れ込んだ時、ベッドの向こうで、何かがぶつかるような鈍い音が二度聞こえた。ゼインが立ち上がり、目を細めた視線をリディアに向けると、窓から飛び降りていく。リディアの顔から一気に血の気が引いた。
 リディアが慌ててベッドの向こう側に行くと、フォースが倒れ込んだまま頭を抱えているのが目に入った。
「フォース?!」
 リディアが駆け寄ると同時に、バンッとドアが開き、バックスとルーフィスが雪崩れ込んできた。ルーフィスはまっすぐ窓まで行き、逃げていくゼインとそれを追う数人の兵士を見定める。バックスは、起きあがろうとするフォースに手を貸しているリディアの側まで行った。
「リディアさん、大丈夫?」
「え? あ、私は。フォースが」
 リディアの声は、幾分震えている。
「いや、俺はベッドの角に頭をぶつけただけだから」
 フォースは頭を抱えたまま立ち上がった。バックスは苦笑するフォースの肩をポンと叩き、窓まで行ってルーフィスと共に外に目をやる。リディアは、フォースの横から不安そうにその背中に手を添えた。
「フォース?」
「心配いらないよ」
 フォースはリディアに微笑んでみせると、床に刺さっている短剣に手をかけて力任せに引き抜いた。その短剣の深さで、ゼインの力が普段より随分強かったように思い起こされる。フォースは側の棚の上に、抜き取った短剣を置いた。
「それより、リディアは大丈夫なのか?」
「服をかれて、手を引っ張られただけ。平気、平気よ……」
 だんだんと恐怖がり震えが増してくる声に、リディアは口を押さえた。
「ゴメン、怖い思いさせちまって」
 フォースは左手でリディアを抱くように引き寄せ、そっと背中をでた。リディアはフォースの肩口で、軽く首を横に振る。
「でも、顔色が良くない」
 心配げに顔をのぞき込んでくるフォースに、リディアは眉を寄せて見せた。
「頭が痛いの。これ、お酒のせい?」
 すっかり忘れていた事実に、フォースは冷めた笑い声を立てる。
「たぶんね。ここに来たの覚えてる?」
「廊下でフォースに会って、それから先が……」
「やっぱり」
 リディアはコクンとうなずく。フォースは苦笑して、リディアの髪をくようになでた。
「飲み過ぎ。ちゃんと休んだ方がいい」
 バックスと一緒に窓の外に首を出していたルーフィスが、フォースに目をとめて忍び笑いをらす。
雨樋を登ったのか」
「他に手っ取り早い手段が思いつかなかったんだ、仕方がないだろう?」
 ルーフィスのつぶやきに気付いて、むくれた顔で反論したフォースに、ルーフィスは微笑を向けた。フォースはその微笑みから目をそらし、一度大きく息をつく。
「あとのこと、頼みます」
 フォースの言葉にリディアは息をのみ、顔を隠すようにうつむいた。
「今回のことは、俺のせいも多分にありそうだし、ゼインの奴、まるで誰かに使われていたような口ぶりで。裏に何があるのか分からないまま放っていくのは心残りなんだけど」
「決心は変わらんか」
 ルーフィスのまっすぐな視線を受けて、フォースはハイとうなずき、頭を下げる。
「明日、行きます。よろしくお願いします」
「分かった。とりあえず事後処理だ。お前は明日まで護衛を頼む。バックスは屋根の上を片付けてくれ。私はとりあえず詰め所に行って兵の報告を待つ」
 ルーフィスの言葉に、フォースとバックスが敬礼をする。ルーフィスは返礼を向けてからフォースに歩み寄り、ナルエスを閉じこめている部屋の鍵を差し出した。
「いいか。向こうへ行ったら、お前はお前のことだけを考えて行動しろ。今回のことがハッキリするまで、しばらくは私がリディアさんの護衛をする。こっちのことは何も心配は要らん」
 言葉が出ずに、フォースはただ大きくうなずき、その鍵を受け取る。ルーフィスは、フォースの肩にポンと手を置いて、その手で頬に触れると、寂しさを隠した笑顔を残して部屋をあとにした。
 バックスはそれを見ていないふりでベッドに寝ているティオに近づき、オイと声をかけて揺すった。ティオはボーっとした目をバックスに向ける。
「バックスぅ、、眠たくな……」
 言葉の途中で眠ってしまうティオの言葉に、バックスはポンと手を叩く。
「もしかして、空気が白濁したのはティオを封じるための薬か何かだったのか?」
「下に移してくれるか? まだ部屋に残っているのかも知れない」
 気力は感じられなかったが、とにかく口を開いたフォースの声に、バックスはいくらか安堵した。おう、と返事をして、ティオを抱きかかえる。
「こいつを運んだら、外を片付けてくるよ」
 笑みを浮かべながらそう言うと、バックスは部屋を出ようとしたが、難しい顔で振り返った。
「ハシゴがないのに屋根の上にどうやって行けばいいんだ?」
 バックスの問いに、フォースはかに眉を寄せて考え込む。
鐘塔からロープで下りるってのは?」
「あんな高いところから?! 冗談だろ?」
 裏返りそうになるバックスの声に、フォースは苦笑した。
「そうか、そうだな。じゃあ、即席でハシゴを作るとか、他を探してみるとか」
「なぁ、もう一度雨樋登らないか?」
 顔をのぞき込んだバックスに、フォースは肩をすくめた。
「悪い。他、当たって。それから、下に行ったらナシュアさんかユリアさんか呼んで欲しいんだ。とにかくリディアの服をなんとかしないと、動きが取れない」
 バックスは、うつむいたままのリディアを見てうなずいた。
「了解」

   ***

 上に来たのはユリアだった。フォースは、リディアがいた部屋以外に置いてあった巫女の服を用意してもらい、リディアは空いている部屋でその服に着替えた。
 結局捕まえられなかったゼインの捜索などで警備が薄くなることを考えてか、サーディとスティアは一晩神殿にとどまることに決定した。とはいえ部屋数が少ないので、サーディとスティアに部屋を割り当てると、部屋が空かず、リディアはスティアの部屋で一緒に休むということに落ち着いた。
 半日交替だった巫女の警備も、バックスが戻れないことで通日になったが、フォースにはそれがありがたかった。目がえてしまって眠ることなど少しもできそうになかったし、今しか残っていないこの時間くらいは、少しでもリディアの側にいたいと思う。
 だが。日が昇ってしまったら、ここを発たねばならないのだ。義父であるルーフィスが、ナルエスを閉じこめてある部屋の鍵を自分に残していったのは、たぶん出発前にはもう会うことができないと考えたからだろう。
 きっと同じような挨拶を山ほどしなければならない。サーディやグレイ、バックス、アリシア、マルフィ、アジルやブラッドや他の兵たちの顔が頭をよぎる。ふと、このまま黙っていなくなった方が、気持ちは楽かもしれないと思う。
 暗かった廊下に、どこからともなく薄明りが差してくる。フォースはルーフィスに渡された鍵を取りだして見つめた。ナルエスを起こせば、今すぐにでも発てるだろう。だが、今身に着けているメナウルの鎧を、ライザナルに持ち込みたくはない。自前の鎧と着け替えなくてはならないが、それは今ナルエスがいる部屋の中なのだ。女神に対してどんな思想を持っているかは分からないが、ナルエスもライザナルの人間だ。鍵を開けて鎧を替えるには、どうしてもここに見張りが欲しいが、その見張りをできる人間が今はいない。
 大きくついたため息にかぶって、背中のドアが小さく鳴った。思わずドアに向き直って様子をうかがう。がカシャっと音を立てた。
「フォース?」
 ドアのすぐ向こうからリディアの声がした。ドアが薄く開き、リディアが隙間から見上げてくる。少し前まですぐにでも発ちたいと思っていた気持ちが、今はリディアと居たいと騒ぐ。ここのところ気が付けば気持ちが空回りして、そこから抜け出すことができなくなっている。
 リディアは、返事をせずにただ見つめてくるフォースに、不安げな瞳を向けた。
「フォース……?」
「あ、いや、もう起きたの? 頭痛、どう?」
 フォースはリディアの様子をうかがった。顔色はそんなに悪くは見えない。
「ほとんどいいの。ほんの少し痛いだけ」
 リディアは肩をすくめながら、控えめな微笑みを浮かべる。フォースは幾分安心して、つられるように苦笑した。
「風に当たりに行く?」
「行きたい。あ、でも外は」
 リディアは小さくため息をついた。神殿から出てはいけないと、警備の人間に言われている。フォースはそんなリディアの考えを察してか、微笑して上を指さした。
鐘塔の上なら平気だよ」
 その言葉に、リディアは頬をゆるめてうなずき、眠っているスティアをうかがうと、部屋を出てそっと扉を閉めた。
 二人で足音を立てないように廊下を進み、鐘塔への階段室へと入る。リディアはフォースの後ろから階段を上った。明かり取りの隙間からいくらかの光が入ってくるのと、先を行くフォースの後をたどっているので、ロウソクの光を頼りに上った時ほど苦にはならない。
 だが気持ちは重たかった。もうほんの少しの間しか、フォースと一緒に居ることができないのだ。探す必要もない程側にいてくれた、この甲冑に赤いマントの後ろ姿もしばらくは、いや、もしかしたらもう二度と見ることができなくなる。
 リディアは、フォースがライザナルへ行くのを止めた方がよかったかもしれないという迷いを抱えていた。でも、もしも自分のそんな我が儘を、フォースがくんでしまったら。そんなモノでフォースを縛り付けたくはない。でも。
 リディアのノドの奥で、行かないで、という言葉がいている。飲み込もうとしても飲み込めず、はき出そうとしてもはき出せない。何度も唇を開きかけ、声を出せずに口を結んだ。
 前方、鐘のある場所への出口から、光が差し込んでいる。フォースがその光に包まれ、見えなくなりそうな感覚に、リディアは足を速めた。
 まっすぐ北側へ向かったフォースの数歩後ろで、リディアは立ち止まった。二度と会えないかもしれない。忘れられてしまうかもしれない。変わってしまうかもしれない。そう思うとリディアには、そこにいるフォースとの距離が、とてつもなく遠く感じた。
 深呼吸なのかため息なのか、フォースが大きくついた息が聞こえてきた。隣に来ないリディアをしく思ったのか、フォースが少し後ろにいるリディアを振り返る。
「とにかく、行ってくるよ。ライザナルを全部見てくる」
 そう言うと、フォースは北に視線を戻した。日が昇ってきて、あたりがオレンジ色の光に包まれてくる。
「ジェイストークと会うのが、あの辺り、反目の岩って呼ばれているところで、ドナはその北西。城都、とは呼ばないか、一番でかい街がマクラーンっていって、ずっと北にあるらしいんだ」
 フォースの指が、どこか知らない場所を指さし、声が知らない名前をたどっている。
 今、止めなければ、きっと後悔するだろう。でも、止めてはいけないと反対側の自分が引き留める。声にならない声が浅い息になり、唇の薄い隙間から何度もはき出された。
 フォースはもう一度リディアを振り返った。微苦笑を浮かべたフォースから、リディアは目をそらすようにうつむく。その視界に、リディアに向き直ったフォースの足元が入ってきて、リディアは身体を硬くして瞳を閉じた。その身体を暖かな腕に包み込まれる。
「俺、帰ってくるよ。それが駄目なら迎えに来る」
 耳元でささやかれた声に、リディアは息をのんだ。フォースは嘘になるのを怖れているかのように、約束はできないと言っていた。でも。
「待っていて、必ずだ。もしもその時リディアに他の奴がいたら、戦争起こしてってでも連れて行くからな」
 その言葉に思わず目を丸くして、リディアはフォースを見上げた。
「本気だよ、俺」
 真剣な瞳がリディアの視線を迎え入れた。髪に指が差し入れられ唇が重ねられる。リディアのノドに張り付いていた言葉も不安も何もかもを、フォースは強引にすくい取っていく。
「覚悟しておいて」
 深いキスで閉じていた目を解放して、朝日を受けて紺色に輝く瞳を見上げ、リディアはしっかりとうなずいた。息ができなくなりそうなほど、フォースの腕に力がこもる。
「愛してるよ。愛してる」
 リディアはその息苦しさがひたすら嬉しく、そして離ればなれになるからこその、この約束が悲しかった。