レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜

第6章 届かない手

     1.傷

 朝が近づいているとはいえまだ暗い中、神殿に向かって踏み出す足を、レクタードはひどく重く感じていた。前にはアルトス、右横にはジェイストークが、同じように無言のまま神殿を目指している。ジェイストークは時折レクタードを気遣うように視線を向けているが、アルトスは後ろを振り向かず、ペースを乱すこともなく黙々と歩を進めていた。
 少し前、このドナの村にライザナル皇帝クロフォードと、シェイド神の神官であるマクヴァルが到着すると知らせが入った。彼らが到着する前に、エレンの遺体をシェイド神式のに移し替えてしまわなければならない。
 何度目かのレクタードのため息に、ジェイストークが苦笑した。
「見ているだけでいいんですよ」
「そうじゃなくて……」
 レクタードはジェイストークを一瞥すると、前に視線を戻す。
「勝手に移しちゃっても、いいのかなと思って」
「陛下の指示です」
 ジェイストークは、レクタードの言った勝手にという言葉は、フォースに何も言わずにという意味だと分かっていて即答した。どちらを尊重しなくてはならないかは明白だ。だが、レクタードの言うことも理解はできる。
「これくらいのことは納得していただかないと」
「これくらい、か」
 これがそんな言葉で済まされることなのかと思うと、レクタードはため息もつけなかった。確かにこれからフォースは数え切れないだけのことを強いられるだろう。そうと分かっていて、欲しいモノは全部手にしたように見える人が、すべてを捨ててまで本当にライザナルに来るのだろうか。
 自分は生まれてからずっと、実態のない兄という存在にまれてきた。ほんの一週間生まれるのが遅かっただけで、正妃である母を不幸のどん底にたたき落とし、第二王子と呼ばれ、補佐として育てられ学ばされ。
 ふと顔を上げると、低かった尖塔が、暗い空の半ばあたりまで高く見えるだけ、神殿入り口に近づいていた。レクタードには、その開け放たれた扉の中が、そのまま自分の胸に空いている穴のように見える。
 ヴァレスでフォースに会った時、殺してしまえばよかったのだ。どうしてそうしなかったのだろうかと、自分が不思議でたまらない。スティアがいい人だと言ったからか? 身命の騎士などという名の濃紺のカクテルのせいか? いや、違う。フォースが持っている希望も何もかもを奪い取って、自分と同じ思いを味わわせたいと思ったのだ。きっとそれが自分の感情に一番近いと思う。
 だったら、どうして棺を移すぐらいのことで、自分がこんなにまで嫌悪感を持たなくてはならないのか。自分は、フォースに対してすまないと思っているのだろうか。いや、それも違う。
 結局自分は、フォースを生かしておいてやるなどと虚勢を張ったつもりで、すべてをフォースにねてしまったのだ。スティアのことも戦のことも、自分の手をすことなく、全部他人に解決してもらうために。自分で決めて動ける、やろうと思えば何でも出来るその立場を、自分から放棄したのだ。
 そう、この嫌悪感はきっとそれだ。自分が逃げてしまったことを後悔しているのだ。ジェイストークにフォースを生かしておいていいのかと聞かれた時、行動に移すかどうかは別にしても、首を横に振っていれば、こんな思いを抱かなくても済んだかもしれない。
 目の前のアルトスが、扉の脇で礼をした神官二人に視線を向けることもなく神殿に入っていく。レクタードは、ジェイストークをうかがうように見てからアルトスに続いた。
 もしかしたら、フォースが来なければいいなどと思うのも、自分の甘えだろうか。フォースも自分と同じなのだと安心したいのかもしれない。
「ナルエスは戻ってないんだよね?」
 レクタードのつぶやくような声に、ジェイストークは微笑みを向けた。
「ええ、まだ。このあと予定がありますので、それに併せて戻るやもしれません」
「会うのか?」
 そう言ってしまってから、レクタードは慌てて口をつぐんだ。アルトスが立ち止まって振り返り、苦笑を浮かべたレクタードを一瞥すると、ジェイストークに視線を向ける。
「会いたいのか?」
 満面の笑みを返したジェイストークに、アルトスは不機嫌に眉を寄せた。ジェイストークは肩をすくめる。
「アルトスがいると、力ずくで連れ帰ろうとか、ろうとか、そんな風にぐられそうでな」
 その言葉にアルトスは一つ息をつくと、講堂へと入っていく。ジェイストークはレクタードと後に続きながら、その背中に声をかける。
「夜が明けたら出発する。陛下とは入れ違いになってしまうが。行くだろう?」
 アルトスの憮然とした視線に、ジェイストークはのどの奥で笑い声を立てた。レクタードはアルトスの反応だけで、ジェイストークに連いて行くのか行かないのかの判断はできなかった。だが、二人は納得したように話しをそこで切り上げる。
 神殿の講堂としてはあまり大きくない空間を、隅から隅まで使って祭壇が設置され、真っ黒な神官服を着た数人の男達によって、所狭しと並べられたロウソクに火がともされていく。その真ん中にくたびれた木棺と、装飾が華やかで真新しい棺が、並べて据え置かれていた。
 黒く長いローブの神官四人によって、新しい棺の蓋が開けられる。その蓋を、棺を乗せた台に立てかけるように置くと、古い木棺の蓋も躊躇することなく同じように開かれた。
 アルトスとジェイストークは、少しもすることなく古い木棺に歩み寄った。レクタードは二人の半歩後ろで足を止め、思わず目をそらしたが、その視線の先の神官が笑ったように目を細くしたのを見て、慌てて棺に向き直る。木棺では、その蓋を開けた神官が亡骸を移す作業を始めていた。レクタードは遺体が気にならないように、ジェイストークとアルトスの反応だけに集中した。
「斬られた痕跡が」
 ジェイストークの控えめな声に、アルトスは静かにうなずいた。それを見定めて、ジェイストークは言葉をつなげる。
「誰が斬ったかは、結局分からずじまいだ。その場に居たレイクス様しか知らないと、村の人間は口をえる」
「本人に聞けばいい」
 アルトスは、新しい棺の中に横たわる亡骸に目を落としたまま、つぶやくように言った。
 仕事だから見ているのではない。レクタードには、二人の雰囲気がそう見えた。常に飄々としているジェイストークの懐旧の情を感じ、いつもは表情を動かさないアルトスの怒りすら見える。当時のことは知らないが、この二人も父と同じように、エレンという人に心を寄せていたのは間違いないのだろう。レクタードは、どうやっても自分だけ関与できない疎外感を感じていた。
 空になった古い木棺が、四人の神官によって運ばれていく。神官達は扉付近で壁に寄り、深々と頭を下げた。その横を通り、皇帝クロフォードと神官マクヴァルが、講堂へと入ってくる。レクタードは、アルトスとジェイストークと一緒に、後ろに下がってひざまずいた。
 クロフォードは、まっすぐにエレンが横たわる棺の横まで進んだ。笑ったのかんだのか、マクヴァルは目を細めて棺の中を見ると、祭壇の前に立ち、教義の暗唱を始める。マクヴァルの声が朗々と流れる中、クロフォードが、棺の中にその手を差し入れた。
「何度そなたの夢を見たことか」
 かな声と震えた呼吸が空気を伝わり、レクタードの元にも届いてくる。レクタードは、クロフォードから目をそらすようにアルトスを見た。アルトスは黙って前方に視線を向けている。
「しかし、夢など見るごと辛くなるだけだ。この手は、もうどうやっても届かんのだな」
 マクヴァルの声が揺れ、一息置いてから朗誦を続ける。アルトスは気になったのかチラッとだけ視線を向けたが、クロフォードは気にする風もなく、ジェイストークを手で招き寄せた。
「親書は」
 ジェイストークはクロフォードの側まで進み、再びひざまずく。
「昨晩届けられているはずです。近いうちに返答があるかと」
 マクヴァルは教義の一節を終えると、祈りの姿勢のまま祭壇に深く礼をした。マクヴァルは、そのまま口の中で教義を小さく唱え続けている。
「遅くとも五日後には会えるのだな?」
「はい。間違いなく」
 ジェイストークの返答に、クロフォードは納得したようにゆっくりとうなずいた。どうしてそんなに確信を持って言えるのかと、レクタードはうつむき、まわりに気付かれないよう自嘲を苦笑に変える。
「レクタード」
 レクタードは顔を上げ、そこではじめてクロフォードに呼ばれたのだと気付いた。ひざまずいたままだったレクタードは、慌てて立ち上がり、クロフォードの前へと進む。
「戻りました」
 それだけ言うと、レクタードはジェイストークの横に再びひざまずこうとしたが、その腕を取り、クロフォードが引き留めた。
「無事で何よりだ」
 レクタードは、クロフォードの腕に包み込まれた。小さな子供の頃のように抱きしめられる。いくらかの安心感と、横たわる亡骸へのねたみのような感情が胸に広がった。だが、いつでも先にエレンとフォースがいるという立場を容認したのは自分自身なのだ。でも、それに逆らえば、この父を苦しめることになるのも間違いではない。
 クロフォードは腕を解き、レクタードと向き合う。
「リオーネとニーニアはラジェス城に滞在している。先に戻るか?」
 レクタードはクロフォードと視線を合わせ、首を横に振った。
「いえ、待ちます」
 その言葉にうなずくクロフォードを見て、レクタードは答えが受け入れられたことに安堵し、フォースのために残るのがいいと思ったからうなずいたのではないかと懸念を抱いた。
「私はしばらくここにいる。下がって良いぞ」
 クロフォードの言葉に、レクタードとジェイストークは礼をして扉へと向かった。そこで立ち止まり、講堂へ向かってもう一度礼をするとその場をあとにする。
 外に出ると、日が出始めていて、オレンジ色の光が真横から差し込んできた。まぶしさに顔を背けて視界が楽になったせいか気が緩み、レクタードは大きくため息をついた。ジェイストークが顔をのぞき込む。
「大丈夫ですか?」
「何が? 平気だよ。死体なんて、あまり見たくはなかったけど。ジェイもアルトスも父も、全然平気なんだな」
 エレンとフォースの存在を差してたずねた答えがこれだった。ジェイストークは気付かぬふりを通すことにする。
「それは、そうですね。慣れもありますし」
 ジェイストークは自分やクロフォード、アルトスが押さえている追慕の情をわざと感じられるような返事を口にし、微苦笑を浮かべた。レクタードは、ジェイストークが言葉にしなかった部分に、エレンに対しての気持ちがあることを察して顔をしかめる。
 レクタードは、彼らにとって自分がすべてに二番目だったとしても、それでもかまわないと思った。今は自分を一番に置いてくれる人がいるのだ。でも、こんな風にスティアを特別だなどと思いたくはない。一番とか二番とかそういう問題ではなく、愛しているのだ。自分にはスティアしかいないし、スティアには自分しかいないと信じたかった。
「スティアのことも、反戦のことも、とても言える雰囲気ではなかったな」
 レクタードがもう一度ついたため息に、ジェイストークは微笑する。
「クロフォード様のお気持ちが落ち着かれている時がよろしいでしょう。時期を見ていただけたことは嬉しかったですよ」
「時期なんて考えてない。ただ言えなかっただけで」
 ため息混じりに言い終えた時、扉の動く音がして、レクタードは振り返った。アルトスの後から出てきた神官が、抜き身の短剣をと揃えてアルトスに渡している。
 レクタードはジェイストークに向き直った。
「そういえば、アルトスは一緒に行くのか?」
「行くと言いましたでしょう」
 絶対言っていないと、よほど反論しようと思ったが、レクタードは言うだけ無駄な気がして肩をすくめるにとどめた。
「そろそろ出発しなければなりません。何かご伝言はありますか?」
 ジェイストークが向けてくる変わらない笑顔に、レクタードは目を細めて考え込んだ。
 スティアには、こっちへ戻る時にすべて伝えたはずだった。なのに、伝えたい気持ちは尽きることなく湧いてくる。もしかしたら、この腕で抱きしめて、ずっと言葉で伝え続けても、感情を残らず伝えることはできないのかもしれない。だったら。
「フォース、いやレイクスに。来なかったら殺してやると。メナウルだろうがどこだろうが地の果てまで追いかけて、そのを見るまでめはしないと」
「殺してこなくていいんですか?」
 真顔を向けたジェイストークに、レクタードは笑って見せた。
「試してるのか?」
「いえ。そんなつもりは」
 レクタードは、安心したように微笑んだジェイストークを責めようとは微塵も考えていなかった。むしろ、もう一度聞いてくれたことに感謝したいと思う。
「それもいいんだけど。フォースを殺してスティアを連れてきても、ただ無駄にスティアを苦しめてしまうだろう? それに、俺はやっぱり父を裏切ることができないみたいだ」
 そして、もしも殺さなければならなくなったら、その時は自分の手で事を起こそうとレクタードは思った。ジェイストークは、レクタードのそんな思いを知ってか知らずか、フォースではなくレイクス様ですと、口癖になったかのように同じ台詞を繰り返し、笑っている。
 扉の閉まる音がして振り向くと、神官との話しが終わったのだろう、アルトスが二人に近づいてきた。
「部屋までお送りします」
 アルトスの言葉に、レクタードは微笑を浮かべてうなずいた。

   ***

「では、私は奥へまいります。なにかございましたら、そこの神官にお申し付けください」
 マクヴァルのかけた声に、クロフォードは棺を見つめたままうなずいた。マクヴァルは丁寧に礼をすると、講堂の裏側へ通じる廊下へと入った。そこから脇にそれるように、新しく切り取られて設置されたばかりの石の階段を地下へと下りる。螺旋になったその石段を降りきり、突きあたりにある木の扉を開けて中へと入った。
 部屋には数本のロウソクが灯され、奥の石台には黒曜石で出来た鏡が設置されている。マクヴァルはその前まで進むと苦痛に歪めた自分の顔を眺めた。胸を撫で降ろすようにゆっくり手を動かしながら、口の中でブツブツと邪術の呪文を唱える。同時に呪文を最初に唱えた時の記憶が蘇ってきた。
 マクヴァルが、まだ死を経験する前のことだ。シェイド神の降臨を受け、それが最後の降臨だと神から聞いた事実は、神殿の人間に大きな衝撃を与えた。このままでは神は二度と降臨せず、この世に手を差し伸べることもなく、ただ漠然とした存在となってしまう。うろたえた彼らは、神を人間の魂に封じ込めるという一つの邪術を探し出し、その邪術を発動させたのだ。その行動は、神官以外の人間に知られることはなかった。そしてその魂は、神を抱えたまま一度死んだ。
 マクヴァルは、呪文で楽になった身体に安堵するように、大きく息を吐き出した。
 シェイド神は、生まれた時から既にこの魂の中にいた。邪術のことも、教義も、すべて魂が記憶として持っている。そんなマクヴァルが三歳ですべての教義を暗唱してみせることなど、難しくもなんともなかった。そして十歳の時、たった今降臨を受けたということにし、神を宿す人間として正式に神官となったのだ。その事実を目で見た者は、マクヴァル以外には一人も残っていない。そして今現在事実を知るものは、位の高い神官が数名のみとなっている。
 マクヴァルの記憶の中で、呪文が必要になるほどシェイド神が抵抗を見せたのはこれで二度目だった。一度目はシアネルの神アネシス、巫女だったエレンが側にいた時だ。一時期意識がもうろうとしてしまい、自分が何をしていたのか記憶がハッキリしないほどの大きな抵抗をシェイド神は示した。その間の出来事で思い出せたのは、シェイド神が繰り返していた、火に風の影落つ、という言葉の破片だけしかない。
 今、再びシェイド神が抵抗を見せるのは、シャイア神が近くにいるからなのだろう。シャイア神もシェイド神の存在に気付いているに違いないのだ、アネシス神の時のようなことのないよう、気を付けねばならない。そして。
「神の守護者と族外の者にもうけられし子は武器を持つ。その者、神との契約により媒体を身に着け戦士となる。媒体ある限り神の力はその者に対して無効となる」
 マクヴァルは、神の守護者である老人の持っていた知識から引き出した言葉を、一つ一つ噛みしめるように暗唱した。
 レイクスは戦士という神の道具なのだ。レイクスをシェイド神の戦士とすることができれば、どれほどの利用価値があることだろう。しかし、もしもシャイア神の物ならば、早いうちにり去らねばならない。だがレイクスは継承者争いのただ中にいるのだ。殺される理由もりようも、その気になれば腐るほどある。いつでも対処は出来るだろう。
「まずは、その戦士とやらに、お目通しさせていただくとするか」
 マクヴァルは鏡に向かい、ブツブツと呪文を唱えはじめる。黒く輝く鏡面に、ドナを離れていくアルトスとジェイストークが少しずつ浮かび上がってきた。