レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     4.涙の向こう側

 反目の岩から馬をいであった道まで出るあいだに、バックスは起こったことのすべてをボツボツと細切れに口にして、アジルとブラッドに伝えた。バックスは、何も言わないリディアに歩く速さを合わせていたために、その道程は来た時に比べて遠く感じるのだと思っていた。だが、肩にのしかかる空気も確実に重くなっていて、足が思うように進んでいないのも事実だった。
 馬の所まで来た時、アジルの背中にいたティオが、ようやく目をます。まわりを見回し、リディアの表情と感情を見て、ティオは起こったことを把握したようだ。じかに心の中が見えてしまうティオには、やはりショックだったのだろう、リディアにつられるように表情が暗くなった。それでもティオは虚勢を張って明るく振る舞い、フォースが乗ってきた馬と話をして、リディアと一緒に騎乗した。そして、バックスがナルエスを乗せてきた馬を引き、アジルとブラッドの馬を合わせた五頭で、ヴァレスの街まで戻った。
 五頭もの馬の数に巫女の姿まであれば、当然のように目立つ。街へ入ってからは、自然と人の視線が集まった。人々にとっては、巫女がいるのだがマントの赤がなく、何か物足りない情景に見えただけだったかもしれない。だがリディアにとって、その視線は胸を突き通されるように痛かった。
 リディアは、目に入ってくるすべてがわしく、何も見ない、聞かないつもりで、小さな子供の姿でいるティオの後頭部と馬の背中だけをボーッと見ていた。その視界に心配げなティオの顔が飛び込んでくる。
「リディア? 着いたよ?」
 ティオの顔と声で、リディアは我に返った。視線を上げると、見慣れたはずの神殿がそこにある。確かに同じ神殿なのだが、リディアの瞳には、幾分色あせて映った。
 馬をアジルとブラッドに任せ、リディアは、バックス、ティオと一緒に神殿の中へと向かった。門、庭の井戸、神殿裏の扉の向こう側。リディアはそこかしこにフォースの影を感じた。そのためフォースが居ないという事実だけで、行く場所すべてに裏切られているように感じてしまう。
 バックスが扉をノックした。内側から扉が開かれる。
「戻りました」
 バックスの言葉にうなずいて、ルーフィスは三人を部屋へと迎え入れた。それからユリアに飲み物を持ってくるようにと言い付ける。ユリアが廊下に消えると、ルーフィスはリディアの背に手を置いた。
「報告はバックスから受けるからね。何も心配はいらない」
 リディアは、ルーフィスの指し示した椅子に座り、大きく息をついた。そして思わずその部屋を見回す。テーブルの端の椅子、二階への階段の先、神殿に続く廊下の奥、一瞬だけ見えたような気がするその姿を追って視線を向けてみるのだが、やはりただ無機質な空間があるだけだ。
 いつもなら部屋に入ってすぐソファーに寝ころぶティオが、椅子の側に来てリディアの手を取った。リディアはできる限りの笑顔を作り、ティオに向ける。
 頭では分かっているつもりでも、身体中がフォースを探している。触れることができないのはなぜだと指が問い、姿が見えないのはどうしてだと目が不平を言う。声が聞こえないのは? 笑顔が見られないのは? ぬくもりを感じられないのは? 答えられない。涙も出てこない。何も考えたくない。でも、生きていて欲しいという願いや、会いたいという思いは、際限なく大きく膨張していく。
 ここに帰ってくれば、きっと少しは落ち着けると思っていたのに、そうなってはくれなかった。いや、そんなことは最初から分かっていたのかもしれない。もうここにはフォースが居ないのだから。
「あ、リディアさん。よかった、無事だったんですね」
 その声に階段を見上げると、サーディとグレイが下りてきていた。立ち上がって迎えたリディアの側にサーディが立つ。
「リディアさんに何かあったら、フォースに申し訳が立たないよ」
 サーディの苦笑に合わせるように、リディアは無理矢理微笑んで頭を下げた。微笑んだと言っても、顔が引きつったのが自分でも分かる。気持ちが重いだけではなく、できの悪いガラスを通してモノを見ているような、そんな違和感もある。頭を上げる気にはなれなかった。
「じゃあ、無事かどうか分からないんですか?!」
 グレイが叫ぶように言葉を口にする。サーディがグレイを見やった。
「分からない? なんの話だ?」
 グレイも、ルーフィスとバックスの二人も悲痛な面持ちで何も言えずにいる。
「私を助けるために、毒がられた剣で傷を受けてしまって、そのままドナに……」
 何を言われても仕方がないのだと意を決したリディアの言葉に、サーディは驚愕して目を見開いた。
「毒だって? なんでそんなことに」
解毒剤がドナにあるのだそうです。フォースの薬は、メナウルには無くて……」
「どうしてそんなに簡単にライザナルに渡せるの?」
 その声にリディアが顔を上げると、視界にユリアの姿が入ってきた。話を聞いていたのだろう、飲み物をのせたトレイを持ったまま、部屋の入り口に立っている。リディアはユリアに向き直った。
「フォースが死んでしまっても、行かせなければよかったって言うの?」
敵国なのよ? どっちにしろ殺されてしまうわ」
 ユリアの言葉に、リディアは口をつぐんだ。バックスがユリアの前に立つ。
「あの状態じゃあ、毒をなんとかしないとフォースは生きていられない。まずそれが先だ。状況も何も分からずに、口を出すな」
「そうね。どけてくださる?」
 ユリアはバックスをむように見ると、バックスをけて水をリディアの所に運んだ。
「どうぞ。毒は入ってないから安心して」
 眉を寄せたリディアに、ユリアは嘲笑を向けた。
「思うつぼなんじゃない? 結局、永遠に独り占めね」
 ユリアの言葉に目を見張り、リディアはガタッと椅子の音を立てて立ち上がった。サーディが二人の間に入る。
「君はまだそんなことを」
 サーディに言われた言葉に、ユリアは口をつぐんでリディアに背を向けた。リディアはサーディに首を横に振って見せると、ユリアの後ろ姿を見つめる。
「生きてさえいれば会えるかもしれない、もし会えなくても、フォースはライザナルで幸せに暮らせるかもしれないのよ? それも全部駄目にしろって言うの?」
 背を向けたままのユリアに歩み寄ろうとしたリディアを止めようと、ティオがリディアの手を引く。
「リディア、ねえ、リディアが遠いよ。休まないと駄目だよ」
 ティオの手が別世界にあるように思うのに、その力を大きく感じ、リディアは足を止めた。だが、頭の中にもやが広がっていくのにかまわず、言葉をつなぐ。
「そんなにフォースを自分のモノにしたいの? でももし、こんなやり方で願いがっても、あなたが得られるのは愛情じゃなくて支配したっていうただの優越感よ。辛いのは変わらないわ。だからもうやめて。フォースに虚しい、寂しい思いをさせないで。お願い……」
 ティオは、石になったように動かないでいるユリアに、不満げな目を向けた。ユリアはティオを見て、視線がうつろになっているリディアの様子に気付き、ハッとして歩み寄る。
「どうしたのよ?」
「同じ毒でけるなら、それで……」
 リディアが小さくつぶやいた言葉に、サーディは顔色を変えた。
「何言ってる!」
 サーディは、リディアの身体から力が抜けていくのを見て、横から支えとようと手を伸ばす。
「おい、しっかりしろ!」
 サーディの反対側で大きさを増すと、ティオはサーディが支えきれなくなったリディアを、そっと抱き上げた。
「フォース、そこにいたの……」
 リディアの小さなつぶやきが、ティオの耳に届いた。リディアの視線が階段の上に向く。ティオがリディアをのぞき込むと、確かにリディアの意識にはフォースが存在している。だが、驚いて階段を見上げたティオの目には、何も映らなかった。
 何事かと駆け寄ったグレイに、ティオは体勢を低くしてリディアを見せた。あとから駆けつけたバックスとルーフィスも、リディアをのぞき込む。グレイがリディアに呼びかけたが反応はなく、ただ浅く短い息を繰り返している。
「リディアは毒のせいだと思ってたよ」
 ティオの言葉に、グレイは眉を寄せた。
「まさか、今まで調子が悪いのを黙ってたのか?」
 グレイの横で、サーディは顔をめてリディアを見下ろす。
「でも、フォースに毒だったものがリディアさんにも毒って、そんな毒があるんだろうか」
「私たちが知らないだけなのでしょう。とにかく手当てを」
 ルーフィスは、ティオにリディアをソファーに寝かせるように指示した。ティオはそっとソファーにリディアを降ろす。
「奥に知らせてくる」
 サーディは神殿へと続く廊下へ駆け込んでいった。ユリアはすっかり青ざめた顔で、リディアを凝視している。
「どうしてこんな」
「リディアさんが応急処置をしたんだ。フォースは止めたんだが。引き離してでも止めればよかったのかもしれない。でも……」
 バックスの震えるを見て、ユリアは首を横に振った。ため息混じりの言葉がれる。
「いくら止めたって、この娘ならきっとやめないわ。あなたのせいじゃない」
「確かに」
 グレイは肩をすくめてそう言うと、それぞれの顔を見回した。
「そんなことより今は先のことを。と言ってもな……。何ができるんだろう」
 バックスは、ソファーの背に勢いよくを振り下ろす。
「クソッ、これから連絡を取っていたのでは遅すぎる。毒の名前くらいは聞いておくべきだった」
「いや、名前だけ聞いても、その薬に対して知識がなけりゃ。……、知識?」
 考え込んだグレイに期待するように、誰もが視線を寄せた。その視線の中で、グレイはポンと手を打つ。
「そうだよ。タスリルって人、ライザナルから来た薬屋だって言ってなかったか? もしかしたら」
 バックスはハッとして顔を上げると、身をす。
「ティオ、案内!」
「了解っ」
 バックスとティオは、勢いよく神殿を飛び出して行った。

   ***

「こっち。こっちだよ、バックス」
 ティオは元々の自分の大きさだろう巨大な姿で、術師街まで走り続けていた。後をついてくるバックスは息が上がっていて、ろくに言葉を発することもできず、ただウンウンとうなずきながら必死に後を追っている。
 毒のことも治す方法も分かって、しかも解決までできる確率は少ないかもしれないと、バックスは思う。だが今は、どんな小さな可能性でも、すがってみる以外に手はないのだ。まったく関係ないとは分かっていても、リディアが助かればフォースも助かるような気がする。国のためと、フォースのために。失うわけにはいかない人なのだ。
 ふと、ティオが走りながら身体を小さくしだす。もう近いのだろう、バックスがそう思った瞬間に、ティオは左手の階段を下りはじめた。ようやく着いたのかと幾分安心しながらバックスも後に続く。
ちゃん、大変なんだ!」
 扉を開けるのももどかしく部屋に飛び込んだティオの目の前で、ボンッと音がし、灰色の煙が丸く上がった。
「驚かすんじゃないよっ」
 その煙が薄れた向こう側に、顔をしかめたタスリルが見えてくる。
「うわ」
 ティオの後ろから入ってきたバックスが、子供向けの絵本に魔女としてっているような深いシワを持ったタスリルの顔を見て、思わず驚きの声を上げた。
「メナウルの騎士は、失礼だねぇ」
 そのシワを不機嫌にめ、タスリルは鎧姿のバックスに視線を投げる。
「すっ、すみませんっ」
 慌てたバックスは、敬礼したまま勢いよく頭を下げた。タスリルはそれをフッと空気で笑う。
「まぁいいが。ティオ? お前さんもだよ。私はお前さんより随分若いはずさね」
 タスリルの言葉にティオは、あ、そうか、と手をポンと叩く。
「お、さん?」
「……、いや、タスリルさんとお呼び。で? 何が大変なんだい?」
 タスリルの問いかけにハッとして、ティオはタスリルと顔を突き合わせた。
「リディアが毒を飲んじゃったかもしれないんだ」
「あの娘が、かい?」
 タスリルはしげに眉を寄せると、ため息をつく。
「そんなことをしそうな娘には見えなかったけどね」
 バックスはタスリルの勘違いにり、いいえ、と首を横に振った。
「フォースが毒を塗った剣で斬られて、リディアさんが手当てをした時に、口から毒が入ったのではと思うのですが」
「なんだって? そんなことが。それでレイクスは生きているのかい?」
 リディアが自殺しようとしたのではないと知り、タスリルの顔色が変わった。バックスは顔をしかめる。
「分かりません。解毒剤がドナにあるからとジェイストークとアルトスに連れて行かれてしまって。連絡を取ってみないことには」
「ねぇ、まだ生きてるんだ、リディアを助けてよ」
 泣き出しそうに顔を歪めたティオの肩に、タスリルはポンと手を置く。
「順番に聞くからね。黙っておいで」
 タスリルは、ティオがウンとうなずいたのを見て、バックスに視線を移した。
「それで? なんて毒だい?」
「それが……」
 言いんでいるバックスに、タスリルはため息をつく。
「いくらなんでも、毒の種類が分からないんじゃね。どんなことでもいい、思い出せないかい?」
 バックスは腕組みをして眉を寄せた。
「整備されていない道を歩いた割には、毒がまわるまで長かったことくらいで。あとは……」
「リディア、倒れてからフォースを見てた」
 ティオの言葉に、バックスはしげな視線を向けた。
「見てた? もういなかっただろうが」
「でも見てたよ。いないけど見えてたんだ」
 ティオはバックスのを引き、嘘じゃない、と抗議している。タスリルは、そうか、と思いついたように声を上げた。
幻覚だね? ……、待てよ? レイクスにも毒だったんだね?」
「はい、明らかに。結構即効性が、あって……」
 その時の様子が脳裏にり、バックスは歯噛みした。タスリルの表情が曇りを増す。
「そうか。間違いない。人にも神の守護者と呼ばれる種族にも毒で、幻覚作用があるのは一つだけなんだ。だから毒物の特定はできるんだが。解毒剤はここには無いんだよ」
「解毒剤以外に、何か手は」
 バックスが詰め寄ると、タスリルは大きく息を吐きながら首を横に振った。
「ディーヴァの山の中腹になら薬草が生えているんだが。今から私が出向いていたんじゃ間に合わん。リディアに与えられる形にするまで、生きてさえいてくれればいいんだが」
「俺が走ってってくる」
 じれたティオが、扉へ向かおうと身をす。
「待ちな。薬草の見分けがつかんだろう?」
「じゃあ、タスリルさん背負ってく」
 いきなり大きくなり始め、ティオがタスリルを抱えようと手を伸ばす。タスリルは慌ててティオの手を止めた。
「それはいい手だね。でも、そんなにでかかったら戸を通れないだろ」
「あ、そうか」
 答えるが否や、ティオは戸口まで駆け寄って振り返り、タスリルを待っている。今行くよ、とうなずいたタスリルに、バックスは手近な所にあるローブを取って渡した。ローブを受け取り、タスリルはバックスに部屋の隅のかまどを指差してみせる。
「湯を沸かしといておくれ」
 そう言い残すと、タスリルはティオの後から外に出て行った。