レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
1.覚めない悪夢
サーディが二階に上がると、女神の部屋のドアを直しているブラッドが目に入った。立ち上がって向けてくる敬礼に手をあげて答え、通り過ぎる。ブラッドの表情の暗さから、リディアの様子に何ら変わりがないことが伝わってきた。しかも、一晩経った今でも、ドナへ連れて行かれたフォースの安否は分からないままだ。
リディアはフォースが使っていた部屋を使っている。窓がないので幾らかでも安全性が高いだろうと思ってのことだ。
その部屋の前には、ルーフィスが見張りに立っていた。敬礼を向けた顔に疲労が見える。ルーフィスにとってフォースは今まで育ててきた息子なのだ。しかもリディアまでが、毒の影響で倒れてしまっている。無理もないとサーディは思った。この状況で、休めと言っていいものかも判断がつかない。
結局、何も言えずに挨拶だけして部屋へと入った。中にいたユリアと目が合う。ユリアはサーディに向き直った。
「薬は? まだなんですか?」
「バックスから半日ほどでと連絡があったのが昨日の晩だから、もう少しでできるはずだよ」
サーディは、心配しているような素振りのユリアを見て微笑した。
「やっぱり心配、してるんだ」
サーディの言葉に、ユリアは不機嫌に眉を寄せる。
「嫌味なんですよね、あんなふうに倒れられるのって。まるで私のせいみたいじゃないですか」
「そうは思わないよ。毒のせいだ」
「私がそう思うんです」
ユリアはツンと視線を逸らすと、面倒ばっかり、などとつぶやきながら、リディアの額にうっすらと浮かんだ汗を、手にしていたタオルでそっとぬぐった。サーディが不安そうにその手元をじっと見ていることに気付いたユリアは、短くため息をつく。
「疑っているんですね。私が何かすると思って」
「いや、そんなことは」
「何もしないわ。こんなことのために国まで裏切ろうなんて思いません」
ユリアの言葉にホッとしたことで、幾らかの不安を持っていたことに気付き、サーディは苦笑を漏らした。ユリアは、ベッドの横にある台の上でタオルを水に浸しながら、サーディの表情をうかがう。
「サーディ様も、この娘が好きなんですね」
「え? 好きだなんて……、いや、そうかも。あ、でも、愛してるとかそんなんじゃ」
サーディの慌てた様子を見て、ユリアは苦笑した。タオルを絞る手に力を込める。
「そのくらいっ、分かります」
「ホントに? でも君は」
サーディは思わず聞き返し、口をつぐんだ。フォースとリディアの間に入っていけるとユリアが思っているのなら、それは確かに間違いなのだ。分かりやすいと思う彼らの気持ちさえ分からないのに、人の気持ちが理解できるはずはないと思う。そんなサーディの気持ちに気付いたのか、ユリアは大きくため息をついた。
「この娘とフォースさんのことですよね。私があんな態度を取るからですか? あれは二人の関係を疑っているわけではなくて、無視していたんです」
その言葉で、サーディはユリアを問いつめた時のことを思い出した。
「分かっていて見ないふりか? 自分が無視されるのだって辛かったんだろ? それに、フォースはもう、ここにはいないんだ。記憶に残ろうだなんて何をしても意味はないよ」
「この娘に罵って欲しかったんです。二人の間に存在できたって気分になれるでしょう? でも、あれだけ言っても、あの程度。この娘が心配しているのは、私に取られるかもではなくて、フォースさんが傷つくかも、だなんて」
そう言うと、ユリアは自嘲するように笑った。何も言えずに頭をかいたサーディに、ユリアは苦笑を向ける。
「倒れてしまうほど身体が変で、なのに毒を吸い出したことを後悔もしていない。口を開けばフォースフォースって。これが愛情なんてモノなら、もう、ついていけない。結局、私は自分が一番なんだわ」
「普通はそうだと思うよ。リディアさんも、フォースもね。きっと自分と同じだけ大切な人が、他にもう一人いるってことなんだ」
ユリアは、きっと? と言葉を拾って息で笑った。サーディが肩をすくめて苦笑を向けると、ユリアは微笑みを返してリディアの顔に見入る。
「他人に自分の半分を任せて、他人を半分背負う。……、怖いわ」
ユリアの言葉に、サーディはうなずいたが、ユリアの視線はリディアに向いていて、同意したことが伝わったかは分からなかった。
ドアの向こう側から、なにやら会話が聞こえてきた。ノックの音ももどかしく、外側からドアが開けられる。
「薬をご持参いただきました」
ルーフィスの声にサーディは、ドアの前に立っていたタスリルに頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「タスリルさん、こっち」
タスリルはティオに手を引かれ、サーディの横を、分かったよ、と声をかけて通り過ぎ、ユリアがどけた場所、ベッドの側に立った。
タスリルは、黒いローブの下から細い小瓶を探り出し、ポンという音を立てて蓋を開けた。色を失っている唇の間に、小瓶の中の液体をゆっくりと注ぎ込み、首に手を差し入れて撫でるように動かす。
「さぁ、戻っておいで」
しわがれた、しかし優しい声で、タスリルはリディアに声をかけた。その隣で、ティオが神妙な顔つきをしてリディアをのぞき込んでいる。
「助かるでしょうか。でないと、フォースになんて言えばいいのか」
心配そうなサーディに、タスリルはシワを歪めた笑みを向けた。
「大丈夫だよ」
「リディアの気持ちが近づいてきてる。もう安心していいよ」
ティオは嬉しそうにそう付け足したが、サーディは不安を拭いきれずに眉を寄せる。振り返ってそれを見たティオは、サーディに無邪気な笑顔を見せた。
リディアの顔色が、だんだんよくなっていく。青白かった頬に血の気が通い、唇に暖かな色が戻ってくる。サーディはまるで手品でも見ているように、タスリルの横顔とリディアの様子に見入った。
リディアの眉がほんの少し寄り、口から小さくため息のような息をつく。それを待っていたかのように、ティオがリディアに顔を寄せた。
「リディアぁ」
「これ、静かにおし」
タスリルに諭されて、ティオは渋々顔を引っ込める。
「んぅ……」
息をするのにも力が戻ったように、リディアの唇からうめき声が漏れた。ゆっくりと瞳が開かれる。さまよっていた視線が、タスリルを捉えた。
「私……?」
「苦しかっただろう? ちゃんと治してあげるからね」
タスリルは小さな子供にするように、リディアの頭を撫でた。リディアはハッとしたようにティオに視線を移す。
「フォースは? 知らせは?」
「まだなんだ」
ティオの返事に、リディアは悲しげに顔を歪め、瞳を閉じた。タスリルはほんの少しだけ語気を強める。
「とにかく、まずお前さんが元気にならないことにはね」
リディアの閉じた瞼に力がこもった。フォースが無事でいることこそが、リディアにとっては生きたいと思う気持ちそのものなのだろう。そう思うとサーディは、リディアにかける言葉を探すことすら、できそうになかった。
「同じ毒で逝けなくて残念だったわね」
不意に、タスリルの後ろにいたユリアが、冷笑を浮かべてリディアに声をかけた。
「あ、おい、待てって。君は」
止めようとしたサーディを睨むように見ると、ユリアはリディアに視線を戻す。
「フォースさんは死んだの? 生きられる可能性のある道を選んだんじゃなかったの? だったらあなたが死んでどうするのよ。生きてるか死んでるかの知らせくらい、生きたまま聞きなさいよ」
リディアは驚いた顔でユリアを見つめると、力が抜けたように頬を緩ませた。
「……ありがとう」
弱々しい声の、その返事が思いがけないモノだったのか、ユリアは慌てたように視線を泳がせる。
「何言ってるのよ。みんなが迷惑を被っているの、そんな気安い返事をしてるんじゃないわよっ」
「ごめんなさい。でも、ありがとう」
リディアが呼吸の合間にゆっくりと繰り返した言葉に、ユリアは眉を寄せてそっぽを向いた。それを見てタスリルは微笑みに目を細め、リディアに向き直って頬を撫でる。
「身体が疲れてるだろ。まず眠りなさい。もう一度薬を作ってくるからね。そうしたら、しばらく側にいてあげよう」
タスリルの言葉にリディアは、お願いします、とかすれる声でつぶやき頭を下げた。タスリルは何度か軽くうなずく。
「きちんと眠るんだよ?」
リディアがうなずいたのを見て、タスリルはティオを促し、ドアへと向かった。途中、ハタと歩みを止め、ユリアに向き直る。
「もう大丈夫だから一人にしておあげ」
「でも」
「お前さんも休憩が必要みたいだ」
タスリルは、眉を上げてユリアの顔をのぞき込んだ。ユリアが渋々うなずくのを見て笑みを浮かべると、廊下へと出る。ルーフィス、アリシアの間を通り、バックスにもう一度行ってくるよと声をかけると、タスリルはティオを連れて階段を降りていった。リディアは見えなくなった二人を、寂しげな瞳で見送っている。サーディはその視線を遮るようにベッドの側に立った。
「連絡が来たら、すぐに知らせに来るよ」
リディアは、一度噛みしめるように瞳を閉じてから、サーディに視線を合わせる。
「お願いします」
弱々しいがハッキリとした返事に、サーディはうなずいて見せた。
サーディは、ユリアを促して部屋から出、ドアを閉めた。見張りのルーフィスはもちろんだが、そこにはバックス、アリシアも留まっている。リディアの意識が戻ったことで一様に幾らかホッとしたような表情なのだが、フォースの状態が分からないので、どうしても手放しで喜ぶことができない。それぞれが定まらない視線を交わした。
「これで、向こうから連絡が来ればいいんだけど……」
サーディは眉を寄せてため息をついた。
リディアが口にした毒は、それほどの量とは思えないのにこの状態だ。だからこそ、じかに毒を受けてしまったフォースが、どれだけ危険な状態にあるのか容易に想像がつく。普段なら、毒が毒として作用しない普通とは違うフォースの体質が苛立たしいのだが、今はどちらにも毒として作用したという事実が重たかった。
「毒を吸い出す手当をしただけで、これだけの影響が出るなんて、フォースは……」
アリシアはうつむいて眉を寄せたまま小さくつぶやいた。バックスはアリシアの背に手を回し、その表情をのぞき込む。
「でも、ドナに解毒剤があると言っていた。すぐに手当をすれば」
「本当? 死体でもいいから連れて帰るなんて口実じゃなく?」
アリシアは、顔を歪めてバックスを見上げた。何も言わないが、それぞれが向ける不安な視線も、バックスには痛いほど伝わっているだろう。
「……大丈夫だ。助けようという意志は、俺にもしっかり感じられた」
その言葉に、サーディはいくらかホッとしたような気がした。実際見てきたバックスが無事を否定してしまったら、気持ちが絶望に向かってしまうだろう。だが、本当はバックスにも、どうなっているのかなど分かるはずがない。
「フォースを狙ったのか、リディアさんをなのか、それとも両方なのか。剣に毒を塗ったのは誰なのか。何もできないのは何とも歯痒い」
バックスは、ため息をつくように、そう口にした。つられるようにサーディも、思わず不安をはき出す。
「やっぱり敵も多いんだろうな。毒を仕掛ける奴が存在しているのは間違いないんだ」
自分の皇太子という立場も、フォースのそれと変わりはないはずなのだ。だがフォースの場合、兄弟がいること、メナウルでの立場、ライザナルへ行く時期、そういった他の要因が何もかも悪い方へと働いているように感じてしまう。
「しかし今になって思えば、反戦運動をしていてよかったのでしょうね」
ルーフィスは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。他のことに比べたら小さなことかもしれないが、良い方向へと考えられる唯一の後天的な要因かもしれない。サーディは、戦について話す時にフォースがよくする苦々しげな表情を、思い出していた。
不意に、視界に入っていたユリアの身体がフラッと傾く。
「ユリアさんっ?」
思わず支えたサーディの腕から、ユリアは逃げるように身を起こした。
「す、すみません」
「休んだ方がいいみたいね」
アリシアが、ユリアの身体に腕を回して支える。
「本当は、みんなが休んだ方がいいと思うんだけど」
アリシアが付け足すように言った言葉に、サーディはルーフィスとバックスに目を向けた。
「確かに、少しでも休んだ方がいい」
「サーディ様もお休みになってください。私も交代要員が確保できましたら休ませていただきます」
そう言うとルーフィスは、幾分顔色が悪く見えるサーディを心配げに見ている。それに気付いたサーディは、肩をすくめてため息をついた。
「結局、俺が出来ることと言ったら、それくらいか」
「はい。でも、変わらずに居てやることが、あれには一番ですから」
今フォースがここにいないことに参っているのは、ルーフィスも変わらないだろうとサーディは思った。いや、フォースとは親子として暮らしていたのだ、もっとダメージは大きいだろう。そして今までと変わらず、ルーフィスがフォースにとって一番の理解者なのは間違いない。
「では、休ませていただきます」
サーディは、バックス、アリシア、ユリアを促し、先に立って一階へと向かった。
今までは、たいていサーディは城都にいて、フォースは前線にいた。命の危険はいつでもついて回っていたのだが、待つという意識を持たずに、また会えることを疑いもしなかった。フォースがライザナルへ行くと言った時も、今までと同じように苦もなく待っていられると思っていた。
できることなら、ルーフィスが言ったように変わらずにいたいと思う。いや、フォースが戻ったなら、今までと変わりなく迎え入れることは難しくないだろう。でも。
「拘束してしまえばよかった。だいたい、なんでフォース一人が反戦のために」
サーディが眉をしかめると、あとから降りてきたバックスは苦笑を浮かべた。それを目にしたサーディは、訝しげな視線をバックスに投げる。
「違うのか?」
「いえ、反戦のことも、まったく無いってわけじゃないでしょうけど」
表情を変えないサーディを見て、バックスは困ったように頭をかいた。
「ドナの事件、覚えてます?」
バックスの問いに、サーディはうなずいた。村の井戸に毒が入れられて村人の半分が死んだ事件だ。その時、特異な色の瞳を持つフォースの母が、村に居たせいだという疑念をかけられ、村人に斬られて死んだのだ。その事件があったことで、騎士になることを決心したのだと、サーディはフォース本人の口から聞いたことがあった。バックスは言葉をつなぐ。
「もしかしたら本当に、エレンさんとフォースがそこにいたから起きた事件だったのかもしれない。フォースにとっては今でも消えない大きな出来事なんです。事実を知りたいでしょうし」
「そりゃあ、そうだろうけど。そんな過去のことなら無理に」
バックスは真剣な顔をサーディに向けた。
「いえ。過去ではないんです。今の状況がそっくりですから。もしメナウルに残って、リディアさんと暮らすことが出来ても、フォース本人はライザナルの皇太子だし、リディアさんは人為的に降臨を解くことになるわけでしょう? ただでさえ指差される要因が揃っているんです。そんな時に、もし何かが起きてしまったら。まだ戦があるんです。ドナの時と同じように。敵はメナウルにもいるんです」
確かに、母親を亡くし、今度はリディアを亡くしてしまうかもしれないなどと、フォースがそんな状況をそのまま受け入れるとは思えない。
「今のままじゃあ戦をしている限り、フォースの敵はライザナルだけじゃ……。いや、拘束してしまったら、俺も……」
サーディが言葉を失って出来た静寂に、アリシアのため息が横切る。
「何も起きなくても、そんな風に特異な状態で居ることがどれだけ辛いか、フォースは知ってるわ」
その言葉に、バックスは納得したようにうなずいた。
「そんな所にリディアさんを置きたくないってのが、きっと一番の理由なんだろうな。じれったいくらい大切で大切で、もう、どうとでもしちまえって気になっ」
ユリアの座った視線に気付き、バックスは言葉を切った。ユリアが呆れたように息を吐き出す。
「分かってどうするんです。そんなことをしたらシャイア様が」
サーディは力の抜けた笑いを浮かべた。いつもフォースとリディアがいた席に、無意識に視線が向く。
「でも、分かるよ、それ。フォースにとっては、シャイア様よりリディアさんの方が、よっぽど女神様なんだよな」
「分かるけど」
アリシアは寂しげに顔を歪める。
「だったらもう少しリディアさんの気持ちを考えてあげてもいいじゃない。せめて帰ってくるって約束くらい」
「してたよ」
その言葉に、アリシアは目を丸くしてバックスを見た。
「本当? いつ?」
「ここを出る時に、リディアさんに必ず戻るって、確かに」
バックスの答えに、アリシアは乾いた笑い声をたてる。
「だったら、どんなになったって戻ってくるわ。そういうことじゃあ嘘をついたこと無いもの。リディアちゃんとの約束なら、なおさら……」
その言葉とは裏腹に、アリシアは寂しげな表情を変えず、気持ちを押し込めるように口をつぐんだ。バックスは片腕で、アリシアを包み込むように抱き寄せる。アリシアが顔を覆った指の隙間から、涙が光るのが見えた。