レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     3.疑惑

 窓から斜めに差し込んでくる陽光に、フォースは薄く目を開けた。視線だけ窓に向けると、その窓の外側に、背を見せて立っているライザナルの騎士二人が見える。その景色にフォースの心臓が音を立てた。
 初めて意識が戻った時には気付かなかったが、ここはドナの村だ。あちこち変わってはいるが、見覚えのある神殿の一部がフォースの目に映っている。井戸に毒を入れられ、母親が斬られる五歳の時まで、フォースが住んでいた村だ。
 ベッドの側を通った人影が、まぶしさに慣れはじめた視界をゆっくり横切った。クロフォードだ。再び目に差し込んでくる日の光が、ひときわまぶしく感じる。
 この日差しは白く鋭い。朝の光だ。眠った時から、どのくらいの時間が経っているのか。少なくとも夜を越えたのは間違いない。今のフォースにとって時間の流れは、演劇の場面転換のように早く感じた。
 窓の前を行き来しているクロフォードが、フォースが目を開けていることに気付き、ベッドの側へと近づいてくる。
「具合はどうだ」
 その心配げな視線と目を合わせずに、フォースは眉を寄せた。身体は確実によくなってきているのが分かる。最初に気付いた時よりは、ずっと空気が軽く、呼吸も楽だ。
 だが、リディアの安否が分からない。すぐにでもヴァレスに帰りたいという思いに、気持ちの底の方を揺さぶられている。もしにリディアがこの世にいなかったら、そう考えると次の思考が出てこない。
(人にもキツい毒だ。解毒剤がなければ死んでいるだろう)
 眠る前に聞いた、目の前の人の言葉がってくる。なんの確信も持てぬまま、リディアの死を否定するのはひどく難しい。だがフォースには、リディアが無事にいると思える事実が一つだけあった。シャイア神だ。リディアが自分の腕から毒を吸い出している時、リディアも自分も、いつも見ている虹色の光に包まれていた。勝手なことしか考えないあのシャイア神が、媒体であるリディアを助けない訳がないと思う。
「レイクス」
 焦点の定まらない目で、天井の白を見ていたフォースに、クロフォードが声をかけた。フォースは視線だけ巡らせて、クロフォードを見遣る。
 初めて気付いた時、クロフォードに何を言っても、子供の我が儘にしかならなかった。フォースにとっては予想の範囲内ではあったが、やはり腹立たしいのには変わりない。
「護衛はアルトスに決めた」
 その言葉に驚き、フォースは目が覚めたようにクロフォードを見た。
「向こう一年、お前の護衛をすることになる」
 一年という任期に、次はリディアの拉致なのだろうという思いが頭を横切り、フォースは顔をしかめた。それを見たクロフォードは、小さくため息をつく。
「巫女とは、成婚の儀さえり行えば、婚姻関係を結んでいい規程となっている。そうするのがよかろう」
「成婚の儀……」
 クロフォードは、フォースの反応に一瞬置いてから、そうだ、とうなずく。
 そので、マクヴァルがシャイア神をシェイド神に捧げると言っていたのが、たぶん成婚の儀と呼ばれるモノなのだろうとフォースには見当がついた。
 捧げるなどと言葉をっても、結局は情交を結ばせるということだ。クロフォードはその成婚の儀を行って、フォースの母であるエレンと結婚している。クロフォードがそれをどう思っているのかは分からない。だがフォースは、それを問いただしたいとも思えなかった。自分の尺度だと、そんな乱暴な事実の上に幸せを築けるとは、到底考えられない。
「お前の場合は神の子として、ニーニアとも結婚してもらうが」
 成婚の儀の後は神の子だ。積み重ねられていく胡散臭い言葉に、フォースは気付かれないようにそっとため息をついた。嫌でもタスリルの言っていたことを思い出す。
 ライザナルでは、降臨を受けている者同士が情交を交わし、その巫女が産んだ子供を神の子と呼ぶ。そして、神の子は王家の人間と婚姻関係を結ぶ決まりになっている。その立場にいるのがレイクス、つまり自分のことだ。
 だが実際巫女だった母は、時を置かずに皇帝とも情交されられているので、自分はどちらの子かなんて分からない。ただ、城都でリディアを狙ったダールという奴が、瀕死の状態とはいえ、自分をクロフォードと間違えたくらいだから、たぶんクロフォードが実の父親なのだろうとフォースは思う。正確にいうと、自分は神の子とは違うのだ。そんな簡単なことを、クロフォードやマクヴァルが分かっていないはずはない。
 こじつけてでも神の子などという人間が必要なのは、どうしてなのだろう。それが宗教だとでも言いたいか。しかも王家の人間だというそのニーニアという子は、半分は同じ血が流れている妹だ。クロフォードも、娘を生けにされるような気持ちはあるだろう。
 シェイド神の教えと言われては、誰も疑問を持たないのかもしれない。でも、自分だけはそれを認めるわけにはいかないと思う。
「私はエレンの葬儀と公務があるので、すぐにでもマクラーンに戻らねばならない。マクヴァルと一緒だ。お前は回復を見て、ラジェスへ向かってくれ。リオーネ、ニーニアが待っている」
 クロフォードは淡々と用件を口にした。マクラーンはメナウルで言う城都のような意味合いの街だ。皇帝の巨大な居城があると聞いている。そのマクラーンだけはライザナルの騎士から幾らかは伝えられ知っていたが、フォースには耳慣れない名前が続いた。聞くところ、ラジェスは地名らしいが。
「リオーネ?」
「私の妻だ」
 クロフォードの答えに、フォースは改めてその存在を突きつけられた気がした。すっかり忘れていたが、レクタード、ニーニアが存在しているのだ、その母親がいないわけはない。レクタードに見せられたサーペントエッグの細密な肖像が脳裏に浮かぶ。そしてそのリオーネという人は、間違いなく自分の存在をましく感じているだろう。
「マクラーンに入るまで、レクタード、ジェイストークと共に行動してもらう。日程の詳細はアルトスに伝えてあるからそれに従え。いいな?」
 そう言うと、クロフォードはフォースの頬に手を伸ばしてくる。フォースは思わずその手を避けて顔を横に向け、硬く目を閉じた。
 空気が凍ったような一瞬の間の後、クロフォードはフォースの両肩を両手で押さえ付けてきた。ゆっくりを開くと、クロフォードの顔がフォースの目の前にある。
「いいか、お前は私のモノだ。もう二度と手放したりせん」
 肩に掛かる重さよりも、クロフォードの睨みつけるような、それでいてすがるような視線が、フォースには痛かった。
 このままずっとライザナルに居るなど、自分に耐えられないのは明白だ。成婚の儀を避けるために、フォース自身がリディアをメナウルまで迎えに行くことを納得してほしい。メナウルを敵だと思う気持ちも改めて欲しい。すべての理解が得られて初めて、自分の思いは叶うのだ。
 だが、理解を得ようというクロフォードに対する不信感も大きい。今さら何を言っているのか、母に何をしたのかと、すぐにでも問い詰めたい。
 でも、問い詰めたところで、クロフォードはどこまで知っているのだろう。いや、クロフォードだけではない、自分もだ。
 弟にあたるレクタードは、ライザナルがメナウルに対して正式に送った使者は殺害されたといい、メナウルに移った当時住んでいたドナの村に毒を仕込んだのもメナウルの人間だと言った。事実はまだ何も分からないままだ。
 今この状況で口論しても、解決になどならないのは理解している。むしろ、両方で反発しあってしまうだろうと思う。
「逃げない」
 フォースはそれだけを口に出し、自分の中に渦巻いている感情をすべて押さえ付けた。それでも、その膨張してくる思いにまれ、苦痛に顔が歪む。
「レイクス?」
 クロフォードの心配げな声が降ってきた。肩の重みが消える。
「エレンにも生きて会いたかった……」
 小さくつぶやかれた声に、フォースは視線を投げた。もしも生きてクロフォードに会ったら、母は何と言うだろう。何を思うだろう。クロフォードは力のない笑みをフォースに向ける。
「だが、お前だけでも無事でいてくれて良かった。その紺色の瞳にこうして会える日を、どれだけ待ち焦がれたか」
 数々の事件や問題が一つも解決できなかったからこそ、フォースはメナウルにいられた。今の自分があるのは、メナウルにいたからこそなのだ。もし何も起こらずライザナルで過ごしていたら、どんな自分になっていただろう。そして何より、リディアの存在も知らずに。
 クロフォードにとって後悔でしかない年月が、自分にとってのすべてなのだ。それをクロフォードは分かってくれるのだろうか。その答えに想像が付けられるほど、クロフォードのことも知らない。そう、何も分からない。フォースは思わず自嘲の笑みをらした。
「次に会えるのはマクラーンだ。待っている。だが、身体に無理はかけるな」
 クロフォードは、寂しげな笑みを浮かべて立ち上がり、背を向けた。ドアに向かう後ろ姿に向かって、思い切りため息をつきたくなる。だがクロフォードが開けたドアの向こうに見えたダークグレイの鎧に、フォースは緊張して息を飲んだ。思わず上半身を起こし、あるはずのない剣を手で探る。
「では」
 低い声が響き、入れ違いで入室してきたのはアルトスだ。向けられた丁寧な敬礼で、アルトスが護衛だったのだと、フォースはようやく思い出した。
 護衛なのだから、同室にいるのは当たり前といえば当たり前だ。だが、こんなに気の張ることはない。今度前線で顔を合わせたら、命はないかもしれないとまで思っていた敵だったのだ。アルトスを相手に剣を手にしていないのが、ひどく不安で不自然に思う。
「まさか本当に聞き入れられるなんて」
「陛下がどれだけお前のことを考えていると思う」
 当然のように言ったアルトスに、フォースは、フッ、と短く息で笑い、アルトスの存在を無視しようと、無理矢理目を窓の外に向けた。
 コイツはクロフォードが誰のことを考えていると言った? それは間違いなくレイクスのことではない、クロフォード自身のことだろうとフォースは思う。
 フォースの態度に、アルトスは冷笑を浮かべる。
「もしかしたら陛下に逆らうのではと思ったが、それが得策でないことくらいは分かっているらしいな」
 そう言われると、逆にサッサと喧嘩をふっかければ良かったかと、フォースは思った。どういう状況になれば、口論にならずに済むというのか。そこまで理解しあえるには、それこそ何度となく口論しなくてはならないだろう。
 目をそらしていても、アルトスにじっと見られていることが分かる。鬱陶しいだけではなく恐怖心もあることが、フォースには腹立たしかった。思わずむようにアルトスを見遣る。
「何を見てる」
「お前の向こう側だ」
 護衛の理論に反論の邪魔をされ、向こうへ行って見ろよという言葉を飲み込んで、フォースはアルトスから視線を逸らし、ため息をついた。
 アルトスは、実はフォースを見ていた。フォースがまっすぐ視線を返していなかったのでバレなかったのだ。ドアの外には騎士の見張りが二人、窓の向こうにもやはり二人の騎士がいる。何か事が起こらない限り、自分は必要なかった。
 取り返すことの出来なかったもう一人の面影が、フォースの瞳に重なり蘇ってくる。エレンだ。
 まだ十歳だったアルトスは、礼儀作法を習いながら小姓として仕えていたのだが、エレンの側は、マクラーン城の中で唯一ホッと出来る場所だった。そこではエレンの小姓というよりも、まるで自身の子供のように接してくれていた。小さな赤ん坊を抱いて歌う声も美しく、向けられる優しい微笑みや、頭を撫でてくれる細く白い指が、とても好きだった。
(この子をお願いね)
 そして、何度となくそう言われた。エレンを失ってしまった今、その子供であるフォースは自分が守るべきなのだと思っていた。
 なのに、傷つけてしまった。
 正確には二度目だ。一度目は一年ほど前だった。メナウルの上位騎士に、二十歳を超えたくらいの歳で、紺色の瞳を持った奴がいるという噂を聞き、ひどくわしく感じた。その時の赤ん坊ではない、ただの人間が、紺色の瞳を持つのは許せなかった。本物を探すためにも邪魔になる。だから、神の種族には効かないが、人間なら死ぬだろうという毒を仕込んだ剣で斬った。その人間が神の種族か分かり、もしも人間なら始末してしまえるという、剣で怪我を負わせれば一度に用事が済む唯一の手だてだった。
 だが今回は違う。毒を仕込んだ剣を渡した人間を、神官だからと頭から信じ、疑いもしなかった。そいつが、もしくはそいつに剣を渡した者が、フォースを狙ったのか巫女を狙ったのかは分からない。だが結局は、早々に対処できなければ命を落とすだろうというキツイ毒を仕込まれた剣で、自分がフォースを斬ってしまったのだ。
 愕然として何も考えられなかった時、確かに女神を見ていたような気がする。自分が毒を受けたかのように真っ青な顔をして、しかしなんの迷いもなく、その口で毒を吸い出していた。誰もが凍り付いている中、彼女のまわりだけは普通に時間が流れているようで、何故かボォッと自然色に見えた。
 その女神を、自分は殺してしまったのだろう。いや、最初からそのつもりだった、それで良かったのだと、アルトスは自分に言い聞かせていた。
「なぜ私を指名した」
 理由など聞かなくても、アルトスにはだいたいの想像はついていた。フォースはチラッとアルトスに視線を寄こし、それから窓の外に目を戻す。
「さぁ? なぜだろうな」
「巫女のためか」
 その言葉でフォースの肩が一瞬引きつるように動き、やはりそうかとアルトスは確信した。そしてそれは、きっと無意味だろうと思う。
「あの毒は人間にはキツイ。もう死んでいる」
「……信じない」
 窓の方を向いたままのフォースから、いくらか力のない答えが返ってきた。フォースが信じようと信じまいと、それは自分にとってどちらでもかまわない。
「メナウルに攻撃を仕掛けてみれば、生きているかどうか手っ取り早く分かるが」
「駄目だ!」
 今度の返事は、強硬な即答だった。紺色の瞳がアルトスを見据えている。
「約束は、守ってもらう」
 クロフォードがした約束を破ろうなどとは、アルトスは微塵も思っていなかった。では、どうして自分はどんな返事が返ってくるか分かっていてもなお、こんな提案をしたのだろうか。やはり自分は、幾らかでも後ろめたく思っているのだ。
「護衛はもう終わったろう」
 アルトスが振り切れない後悔を隠して言った言葉に何も答えず、フォースはいくらか目を細めただけで、また外に視線を戻した。
 廊下にこもった声が聞こえ、ドアにノックの音がした。その声に振り返ったフォースに、アルトスは軽く頭を下げる。
「レクタード様とジェイストークです。入室を許可してよろしいでしょうか」
 入室でさえも気を遣われることと、妙に丁寧な言葉遣いに驚いて少し目を見開き、フォースは、ああ、と簡単に返した。
 その返事でアルトスがドアを開ける。そこには、硬い顔をしたレクタード、その一歩後ろには控え目に笑みを浮かべたジェイストークが立っていた。アルトスがドアの横に立つと、二人は部屋へと入り、ベッドの側に来る。レクタードは相変わらず高貴な雰囲気で、フォースにはとても弟とは思えなかった。
「なんだか、とんでもないことになっちゃって……」
 レクタードの言葉を観察するように、フォースは思わず鋭い視線を向けた。
「起きていて大丈夫?」
 レクタードはフォースの顔色を見るように顔を近づけてくる。その心配げな顔に裏はないかと注視しながら、フォースが首を小さく縦に振ると、レクタードは表情をパッと明るくした。ホッとしたように小さくため息をつき、レクタードはもう一度、今度は遠慮がちにフォースの顔をのぞき込む。
「スティアは、……元気?」
 フォースは、ヴァレスを出る時に見たスティアの気丈な姿を思い浮かべ、ああ、と声と目でうなずいた。レクタードは微かに笑みを浮かべると、もう一度フォースに視線を向ける。
「父がマクラーンに向かったら、メナウルと連絡を取ってみようと思っているんだ」
 その言葉に、フォースは思わずアルトスを見た。アルトスはドアのところでいつの間にか背を向けていて、その表情までは分からない。
「あぁ、大丈夫。今回アルトスは文句を言わないから。たぶん気にしてるんだ、リディアさんのこと」
 レクタードの言葉にも、アルトスは黙って向こうを向いたままだ。
「父がいる間、表立って何もできないのは気が重いんだけど。ルートだけは確保しておかないと」
 そこまで言うと、レクタードは大きくため息をついた。
「やっぱり疑ってるんだ? 俺のこと」
「ああ。疑ってる」
 フォースは、レクタードに視線を合わせたまま答えた。フォースがした初めてのまともな返事に、レクタードは苦笑して肩をすくめる。
「俺だけ疑っている訳じゃないよね?」
「そりゃあ……。疑うってより、誰も信じられない」
 眉を寄せたフォースに、レクタードは屈託のない笑顔を向けた。
「そのくらい用心深い方がありがたいよ。俺が画策しなくても、時期皇帝に俺をす奴らが何かしないとも限らないし、謀反だって起こるかもしれないし。まぁ、今回のもそうなんだろうけど」
 その明るい言いように、フォースは閉口した。今回のも、ということは、常にこういうことが起こっているということだろうか。ジェイストークがノドの奥で笑い声をたて、力の抜けた笑みを浮かべる。
「でも、よかったです。毒を受けてしまった時は、どうしようかと思いましたよ。アルトスはけてるし」
 アルトスは、引きつらせた顔で、チラッとジェイストークを見遣った。ジェイストークは意に介せず言葉をつなぐ。
「だからまさか、アルトスを護衛に推してくださるなんて思いませんでしたよ。最高位の騎士でそれじゃあ、誰も信じられない、だなんて」
 その言葉で、意外だとばかりにアルトスがフォースに視線を向けた。フォースは、アルトスと目が合い、慌てて窓の外に目をそらす。
「あ、あれはっ。落とし穴に引っかかる単純な奴だから、分かりやすくていいと思ったんだっ」
 アルトスは、一瞬憤慨したような顔を見せると、フッと鼻で笑ってフォースに背を向ける。
「そんなモノを掘っているガキをすのは簡単だな」
 二人を交互に見て、ジェイストークは笑いをえている。レクタードは三人の様子に、訳が分からず苦笑を漏らした。
「知り合い、なんだっけ? 一応」
「いえ」
 アルトスが短く否定する。フォースは窓の外を眺めたまま、その返事が聞こえないふりをしていた。
 ふと、少し離れた木にファルらしき鳥がとまっているのがフォースの目に飛び込んできた。首を少し横に揺らしながら、部屋をうかがっているように見える。ファルだろうか。もしファルなら、リディアがどうしているか知っているかもしれない。だが、それをどうすれば聞き出せるというのだろう。ここにはティオもいないのだ。
 フォースの暗い表情に、ジェイストークは柔らかい笑顔を向けた。
「リディアさんのことは、連絡が取れましたら尋ねてみます」
 その言葉に、フォースは思わずジェイストークに視線を向けた。自分の手が勝手に、なくしてしまったペンタグラムを探っているのに気付き、決まり悪い思いに目をそらす。
「あ、そうそう、レイクス様、これを」
 ジェイストークは、上着の内側に手をやっると、ペンタグラムとリディアが手当をしたときの布を探り出した。フォースはそれを見て、息を飲む。
「申し訳ありませんが、このデザイン、鎖を長くしてあります。くれぐれも陛下やマクヴァル殿の、お目に入らないようにお願いします」
 アルトスが歩み寄ってきて、差しだしたペンタグラムと布地に、横から手を出した。ジェイストークは慌ててペンタグラムを持った手を引く。
「ジェイ、その青い石はシャイア神のお守りだ、ライザナルで身に着けていようなどと背徳行為だろう」
 アルトスの言葉に、ジェイストークは肩をすくめた。
「これはただのペンダントだ。最初からシャイア神の象徴ではない。そうですよね?」
 ジェイストークに向けられた確認に、フォースは目を丸くした。
「どうして、それを」
「喉元に触れるのがになってましたよね。少し前にもしていらしたでしょう。メナウルの兵から聞きました」
 その理由に、フォースは自分の行動と、噂好きな兵士たち、そしてそんなことまで調べ上げているジェイストークに呆れた。
「リディア様は、早く行ってください、必ず助けて。と、そうおっしゃって、レイクス様をライザナル側へ連れてくるのを阻止しようとしたバックスという騎士を止めてくださったんです」
 フォースには、自分を救おうと背中を押してくれたリディアの思い、とめようとしたバックスの気持ち、両方が嬉しかった。ただ、リディアがメナウルで責められてはいないかと、フォースの胸に不安が湧き上がってくる。ジェイストークは、フォースの気持ちを知ってか知らずか、笑顔のまま言葉をつなぐ。
「感謝しています。リディア様はレイクス様を救ってくださった恩人です。もし生きていらして、こちらへ来ていただく時、レイクス様がリディア様の残されたモノを何一つ持っていなかったでは気がとがめますし」
 来ていただくなどと丁寧な言葉だったが、拉致のことを言っているのだろう。ジェイストークは、相変わらず優しげな笑顔をフォースに向けている。
「しかし……」
 納得できないでいるアルトスにも、ジェイストークはそのままの笑顔を向けた。
「アルトスにとっても、恩人だろう。レイクス様が命を落としていたら、今頃は処刑だ。なんなら、アルトスが持つか?」
「は? だ、駄目だ、それは俺の」
 フォースは、ジェイストークの手から、ペンタグラムとリディアが手当てをした布切れを慌ててひったくった。ジェイストークはのどの奥で笑い声をたて、フォースの眉を寄せた視線から目をそらして咳払いをする。
「あと、その布なんですが。あなたが目を覚ます前に一度、光を発したんですよ」
「光? これが?」
 フォースは手にした布をまじまじと見つめた。リディアが着ていた巫女の服の一部、ただの布地だ。やはりシャイア神の光だろうか。
「その直後、あなたの容態が色々変化して気付かれましたので、もしかして何か関係があるのかと」
 ジェイストークの言葉に、フォースはうなずいて見せた。だが実は、どうしてこの白い布が光を発したのか、見当も付かなかった。
 ただ、シャイア神が降臨したままだというのなら、リディアはきっと生きているだろうと思う。そう考えるだけで、フォースの気持ちはかなり落ち着いた。でも、一体どんな状態なのだろうと思うと、不安は消えない。
 ジェイストークは、上着の内側からもう一つ、金色のサーペントエッグを取り出した。
「ついでに、これも持っていてくださいね」
 その気の重さに顔をしかめたフォースに、ジェイストークは頭を下げた。
「すみません。知らなかったんですね。見るつもりはなかったのですが」
 その言葉に、レクタードが不思議そうな顔をする。
「いつ、中を見るのがいけないことになったんだ?」
 レクタードの問いに、いえ、とはぐらかす返事をして、ジェイストークはフォースにエッグを差しだした。
 しさに眉を寄せて、フォースはエッグを受け取った。金の細工に爪をかけてエッグを開けると、中からキレイに畳まれた小さな紙切れが落ちる。それを指先で拾い上げ、そっと開いた。
(幸せでいて)
 そこにはリディアの字で、ただそれだけが書いてあった。
 記憶のない父親と死んでしまった母親の並んだ肖像が入っているサーペントエッグを自分で持っているのが嫌で、リディアに押しつけるように預けていた日があった。受け取るのを拒否していると、ちゃんと持っていて、と念を押し、後ろからの中へと手を入れて金具を留めてくれた。
 それからはエッグを外さなかった。だが、中も見ていなかった。この紙を入れたのは、その時だろう。まだ何も決めていない、先も分からない中で、リディアは自分の幸せを願ってくれていたのだ。
 自分が幸せでいるためには、リディアの存在はどうしても必要だ。もっと早くこの紙を見ていたら、もしかしたらライザナルへ来ない方を選んだかもしれない。でも、それを悔いるより、少しでも早く状況を掴んで、一刻も早く動きたいと思う。
 フォースはその紙を畳んで、エッグの中に元通りに仕舞い込んだ。それだけでこのライザナルのお守りが、意味のあるモノに思えてくる。そんなことを狙って紙を入れたわけではないのだろうが、フォースはエッグを抵抗無く持てることもリディアに感謝した。
「あの」
 その声にフォースが顔を上げると、そこにジェイストークの心配げな顔があった。リディアの話を持ち出されるのが嫌で、フォースはジェイストークより先に口を開く。
「マクヴァルは?」
「最高位の神官だ。きちんとマクヴァル殿とお呼びしろ」
 アルトスの難しい表情が、フォースに向けられている。
「最高位? あのヒヒジジイが」
 その言葉を聞いて、アルトスが怒気を帯びた顔でフォースに向き直った。
「お前はっ、」
「彼が降臨を受けているんだろう? それで巫女巫女って、頭の中それしかないんじゃないのか?」
 フォースはむ様な目でアルトスを見返す。アルトスはいかにも呆れたようにため息をついた。
「巫女ではない。シャイア神だ。シェイド神のために」
「変だろ、それ」
 フォースはアルトスを遮り、サッサと言葉をつなぐ。
「成婚の儀だかなんだか知らないが、巫女を抱いても女神は単に逃げ出すだけだ。降臨を解くために自分でわざわざ」
「いえ、でも、神と降臨を受けた者だけの、閉じた場所が必要なのでは?」
 横から口を出したジェイストークに、フォースは冷笑を向けた。
「女神が逃げられない空間を作ろうってのか? 神の力で? その間マクヴァルは動けないはずだろう?」
 シャイア神がそうだからといって、シェイド神もだとは限らない。だがジェイストークは、小首をかしげて考え込んだ。フォースはジェイストークから視線を逸らさずに話を続ける。
「どっちにしても、降臨を解いたシャイア神に対してシェイド神が何かしようってのなら、最高位の神官殿は傍観者でいた方が確実だってことだ」
 フォースの言葉に、レクタードが、そうか、とうなずくのを見て、ジェイストークは苦笑した。
「そうですね。そうかもしれません。でも、分かっていらっしゃいますか? その発言、神殿を敵に回すのと同じですよ?」
 ジェイストークのう様な顔を、フォースは真剣な目で見返す。
「もとより覚悟の上だ。神を神に捧げるなんて、訳が分からなさすぎる。少なくともシャイア神と同じように、シェイド神の声で理由を聞くまでは信じない」
 キッパリと言い切ったフォースに、ジェイストークは困ったような笑みを浮かべた。
「では、是非理由を聞いて、納得されてください」
「納得できるかどうかは、また別だ」
 フォースのまっすぐな眼差しに、ジェイストークは、まいりましたね、と苦笑した。腕を組んだアルトスが、ドアの横の壁にコンと鎧をぶつけて寄りかかる。
「直接シェイド神の言葉を聞いて、それでも別だというのか」
「神の守護者ってのは、神を護衛する役目をっているんだろ? 降臨を解かれてまで捧げられようとするのを守る方が、しっくり来る話だよな」
 フォースの視線がアルトスを向く。アルトスはノドの奥でククッと笑った。
「上手く取りったつもりだろうが。事の善し悪しを神より理解するなど、お前ごときにできると思うのか?」
「じゃあ、どうして神の守護者という一族は、神の声を聞けるんだ? 少なくとも何か理解しろということだろう? 俺を護衛するのに、俺の声が必要か?」
 答えに詰まったアルトスに、フォースは肩をすくめて苦々しげな笑みを浮かべる。
「もっとも、理解できるなんて微塵も思っていないけどな」
 シャイア神の言葉を理解したと思ったのは、場所の指定があった時くらいだった。戦士という言葉も、指し示された本も、いまだに何のことだかさっぱり分からない。反目の岩で毒を受ける少し前、いきなり大量の意識が流れ込んできた時もだ。あの滝のような思念の中から、どうすれば言葉をい出せるというのだろう。
 だが、時を経た今、何かぼんやりと言葉があるような気もする。そこに集中すれば、何か分かるだろうか。
 フォースがついたため息に、ジェイストークは何事もなかったような優しい笑顔を向けてくる。
「お休みになりますか?」
 フォースは、そうだな、とつぶやくように口にした。だが内心では、一人になって女神の残した言葉を探り出す努力をしてみようと画策していた。
「起きられたら父を一緒に見送ろう。その後で話もあるしね」
 レクタードはそう言うと、じゃあ、と手をあげてドアへ向かった。ジェイストークも丁寧にお辞儀をしてレクタードの後に続く。アルトスはドアを開けて二人を通すと、自分は中に残ったままドアを閉めた。
 護衛しているのか、逃げないように見張っているのか分からないが、窓の外だけではなく、ドアの向こうにも充分人員が配置されているようだった。フォースは、アルトスを見ずに声をかける。
「今護衛は必要ないだろう。出てってくれ」
「駄目だ。陛下にお前を一人にするなと言い付かっている」
 アルトスの言葉に、フォースは、余計なことを、と毒づいた。
「逃げねぇよ」
「関係ない。私がここにいると思うな」
 そうは言われても、アルトスの存在を無視するなど、たぶん無理だ。
「態度も図体も、でかいくせしやがって」
 フォースはそうつぶやくと大きくため息をつき、そっとペンタグラムを手の中に包み込んだ。