レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜

第2部2章 距離と情意

     1.きざし

 リディアは居間兼食堂の大きなテーブル、いつもフォースと居たその定位置に座っていた。手にはフォースが残した短剣がある。その隣ではナシュアが教義を書き写す仕事を、ルーフィスは部屋のドアを背にして、ほとんど必要のない見張りを続けていた。
 ティオは最近、グレイの手伝いで地下の書庫にいることが多くなった。高いところにある本を取ったり、本を運んだりしているのだ。それ以外の時は、やはりいつものようにソファーを陣取っている。だが起きていても静かで、前のように跳ねて遊ぶこともない。
 ここ数日のあいだ、同じような状況の部屋に、リディアはあまり口を開くこともなく、ただそこに座っていた。
 フォースが居た席は空いたままだが、そこにいると心が落ち着いた。この席でのフォースは、いつも笑顔でいてくれた。その記憶と向き合うには、ここが一番だった。
 存在を実感できる場所ということもあって、ここにいればフォースは生きていると思うことができる。
 フォースに何かあったら、立場が立場だからにもなるだろう。それに、ファルも帰ってこない。ファルは言いつけを聞いて、ちゃんとフォースの側にいてくれているのだ。
 一区切りついたのか、ナシュアが小さく息をついて視線を上げた。リディアはそれに気付く様子もなく、相変わらず手にした短剣を見つめている。
「失礼します」
 ユリアが五つのお茶をのせたトレイを手に入ってきた。ルーフィスのためにドアに近いテーブルの角に一つお茶を置き、リディアの隣に立つ。
 目の前にお茶を置かれ、リディアは顔を上げた。ほんの少しだけなんとか笑みを浮かべ、ありがとう、と口にする。ユリアは無表情を装って背を向け、リディアに見えない角度になってから眉を寄せた。
「無理に笑わなくていいわよ」
 ユリアの視線の先にいたナシュアが、吐き捨てられた言葉を聞いて苦笑する。ユリアはナシュアの前にも一つお茶を置いた。
 無理に、という言葉が、リディアの胸に引っかかっている。フォースが行ってしまってから、どこか息苦しい。話すのが辛い、笑うのも難しい。食事もなかなかノドを通らない。そしてなにより、歌うことができなかった。
 自分は見習いでもソリストなのだから、フォースが居た時と同じように歌いたい。そうは思っても、息を思い切り吸い込む力がどうしても足りない。必死に息を貯めてみても、吐き出す時に震えてしまう。これでは歌にならないのだ。
「ナシュアさん」
 リディアは、短剣に目を落としたまま隣にいるナシュアを呼んだ。ナシュアは、なんですか、とリディアの横顔を見つめる。
「私、ソリストをめます」
 ナシュアに向けられた言葉に、書庫へと続く階段に向かっていたユリアが、驚いた顔で振り返った。ナシュアが少し困ったような笑みを浮かべる。
「どうしてですか?」
「辞めること、フォースとも話していたんです。こんなことになって、言う切っ掛けを失ってしまって」
 書庫からの階段を、たくさんの本を抱えたティオを先頭に、タスリルとグレイが上がってきた。話しが聞こえていたのか、何冊か手にしていた本を机の隅に置いて、グレイが口を開く。
「何も今でなくても。フォースが帰ってきてからだって遅くないよ」
「でも、歌えないんです。声が……」
「それはこんな状況だからかもしれないだろ? せめて連絡が来るまで待ってみてもいいんじゃないか?」
 グレイの言葉に、リディアは無言で瞳を伏せた。連絡など、いつ来るのかも分からない。
「それにね、リディアがソリストでいた方が、フォースは安心していられると思うんだ。帰ってきてから復飾するという手もあるし」
 リディアは大きく息をついて、肩を落とした。復飾とは、それ相応の理由があった時にシスターになった者が神職を離れることだ。隣国の皇位継承者が婚礼を望み、本人も承諾するとなれば、それは間違いなく理由の範囲内である。
 本当はソリストで居続ける方が、フォースの安心にがるだろうことも、リディアには分かっていた。もし女神が降臨を解いてしまっても、神殿にいる限り生活を変えることなく、いつまでも同じ状況でいられるのだ。だが。
「私には、もうシャイア様を思う余裕が無いんです」
 それはリディアにとって、どうしても辛い事実だった。黙って見ていたユリアが、あぁもう、と声をあげる。
「思おうが思うまいが、あなたの中にシャイア様はいらっしゃるのよ?」
「でも」
「余裕なんて関係ない。ソリストを辞めることで降臨を解かれたりしたらどうするの?」
 そんなことがあるだろうかと思いながら、それでもリディアはユリアに何も言い返せなかった。うつむいてしまったリディアを見て、タスリルは小さく息を吐く。
「お前さん、あの子が生きているって思いたいんだね」
 タスリルがつぶやくように言った言葉に、リディアはハッとして視線を合わせた。
「約束したこと、話しをしたこと、すべてしてしまって待ちたいと、そういうことなんだろう?」
 そういいながら側まで来ると、タスリルはリディアの肩に手を置いた。リディアはその手をぼんやりと見る。
「そうかも、しれません……」
 リディアは、フォースと話したことは全部してしまわなくてはと思い込んでいるところが、自分には確かにあると思った。タスリルは優しい声で続ける。
「お前さんが辛いのは分かるつもりだよ。だけど、お前さんはお前さんのままでいておやり。結局はそれがあの子には一番だろうさ。待っているだけでは疲れてしまうよ」
 タスリルの言葉に、リディアは短剣に視線を戻した。フォースにソリストを辞めると話した言葉に嘘はない。だが、それはあの時の状況だからこそのことだった。
 フォースのために、そして自分のために、今できることはなんなのだろう。そこには少なくとも、ソリストを辞めなくてはならないという事実は無い。
「少し、時間をかけて考えてみます」
 リディアの出した答えに、それがいい、とタスリルは微笑むようにシワをめた。
 ユリアはホッと一息つくと、こちらに置きます、とタスリルに声をかけ、グレイの置いた本のそばにお茶を二つ置いた。
「飲んで。冷める前に」
 ユリアがリディアに向かってつっけんどんな声を出す。リディアは、はい、と返事をしてお茶を手にした。
「時間ある? 手伝ってくれるかな」
 グレイに声をかけられ、ユリアも同じテーブルに着き、タスリルと三人で書庫から持ってきた本を広げ始める。
 リディアはお茶を口にした。いつも入れない甘味があって、眉を寄せる。それに気付いたユリアが顔を上げた。
「そんなモノでも身体に入れないよりはマシでしょ」
 その言葉でリディアは、ユリアが自分を見ていてくれたことに気付いた。大人数で食事をすると、自分があまり食べていなくても目立たないと思い、ずっとそうしていたのだ。
 サッサとそっぽを向いてしまったユリアに、ありがとう、とつぶやくように言い、リディアはお茶を包むように、もう片方の手を添えた。薄く涙が浮かび、その涙で気持ちが溶けて、少し楽になっている気がする。
「教義、暗唱しましょうか? 少しは落ち着けるかしら」
 ナシュアの申し出に、リディアはうなずいた。リディアは、柔らかで優しいナシュアの声が好きだった。今は他のことを考えず、教義を聞くことだけに専念しようと瞳を閉じる。それを見て微笑み、ナシュアは口を開いた。

 ――ディーヴァに大いなる神ありき。神、世を七つの分身に与えし。裾の大地、海洋を有命の地とし五人に与え、異空、落命の地を創世し二人に授けん。

 初めて聞くのだろう、タスリルが興味深そうにナシュアに目をやっている。ナシュアの誦読する声が続く。

 ――天近き力のパドヴァルはヒンメルに、中空照らすライザナルはシェイドに、恵み横たわるシアネルはアネシスに、くまなく流伝すメナウルはシャイアに、命脈の波動発すナディエールはモーリに。

「シェイド神は大いなる神の分身ってわけかい? 初めて聞いたね。シェイド神の教義には、そんな部分はないよ」
 ナシュアの声を聞きながら小声で言ったタスリルに、グレイは目を見開き、やはり声をひそめて話す。
「元々は一つの教義なのにですか?」
「いや、それも初めて聞いたんだよ」
 タスリルとグレイは、難しい顔でお互いを見やった。
「分身同士なら、なぜ争うんだろうね」
 タスリルが誰に聞くともなく言った言葉の答えを、グレイも無意識に探そうと首をひねる。
「何かあるかもしれませんね。あの書庫に」
「そうだといいが」
 扉にノックの音が響いた。
「俺だよ、サーディ」
 息切れを押さえたサーディの声に、ナシュアが暗唱をやめた。ルーフィスが急いで扉を開ける。
「サーディ様? どうしました?」
「ちょっと前にバックスが戻ったんだ。連絡を取るつもりの場所で、いきなり会えたらしくて」
 苦しげな呼吸の間の言葉に、グレイはガタっと椅子の音を鳴らして、サーディの側へ駆け寄る。
 リディアは立ち上がると二人に背を向けた。知りたい、でも聞きたくない。複雑な思いが胸に渦巻く。
「それで?」
 グレイがサーディを急かす、ほんの一瞬の間さえ、リディアにはとてつもなく長く感じた。
「フォース、生きてるよ。ほとんど回復してるって」
「ホントか!」
 グレイがサーディと喜び合う声と、ルーフィスの安堵のため息が混ざる。タスリルも不自然なほど優しい笑みを浮かべた。
 生きている。リディアには、その言葉だけが耳に響いていた。
「よかった……」
 小さくつぶやいた声が震え、リディアは口を両手でった。フォースが居ない辛さも不安も少しも変わっていない。それでも、嬉しさにこみ上げてくる涙を抑えるだけで、気持ちが一杯一杯になる。
「なんで我慢するのよっ。嬉しい時は泣けばいいでしょ」
 その声で、ユリアが隣にいることにリディアは気付いた。リディアは、困ったような顔のナシュアをわざと隠すように立っているユリアを見上げる。
「ありがとう」
 その一言を口にすると、リディアの瞳からを切ったように涙があふれだした。リディアはユリアを腕で包むように抱きしめる。
「え? ちょ、ちょっと!」
「ありがとう。励ましてくれて」
 繰り返される感謝の言葉に、リディアを引きはがすこともできず、ユリアは狼狽えている。
「私、あなたなんか、どうなったってよかったのよ?」
「でも、私のことを見ていてくれたわ」
「あの人だって、今死んでしまえば誰のモノにもならないって思って……」
「お茶にお砂糖を入れてくれたわ」
 ユリアはリディアの震える肩を見下ろしてため息をついた。
「バカよ、あなた」
 そのため息と一緒に出てきた言葉には、少しも力が入っていなかった。リディアの腕の中にいるのが、ひどく心地良く感じる。ユリアは、どうしてリディアが人に好かれるのか、不覚ではあったが理解してしまった気がした。
「……、もう、あなたの勝ちね」
「勝ち?」
 リディアに不思議そうに顔を見上げられ、ユリアはツンとそっぽを向いた。リディアは首を横に振ると、今はきっとこれで目一杯だろうというくらいの笑顔を浮かべる。
「いいえ、誰も勝っても負けてもいないわ。ありがとう」
 その言葉を、ユリアは黙って見つめた。リディアに抱きしめられた腕の感覚と一緒に、ありがとうという言葉が身体に染みこんでいく。
 ユリアには、リディアに嫌われていないという事実が衝撃だった。さんざん嫌な思いをさせたのだから、受け入れられなくても当たり前だと思う。でも。リディアの笑顔は間違いなく自分に向いている。求められているわけではないが、すべてを容認されているのだ。
 リディアの瞳から落ちる止まらない涙を、ユリアは思わず指で拭った。ユリアは、その行動に目を丸くしたリディアに気付き、自分は何をしたのかと驚いて手を引く。
「い、いつまでも泣いてるんじゃないわよっ」
 そう言いながらユリアは、わだかまっていたモノが解けてれそうになるのを感じていた。
「マルフィさんとアリシアさんにも知らせてくるわ」
 らんでくる気持ちを悟られないように、ユリアは身をして講堂へと続く廊下に駈け込んでいく。キョトンとした目で見送ったリディアは、ユリアを追いかけようとしてナシュアに引き止められた。
「いいんですよ」
「でも私、また何か怒らせてしまったみたいで」
 慌てて涙を拭いているリディアに、ナシュアが微笑みを向ける。
「大丈夫です。ユリアは怒ってなどいません。今は一人にしておいてあげてください」
 ナシュアの変わらない微笑に、リディアは少し心を残しながらも、分かりました、と返事をした。
 涙に濡れた頬を両手で隠しているリディアの側に、サーディが来る。
「ホントに、フォースが助かってよかった」
 その言葉に、はい、とリディアはうなずいた。
「リディアさんが助けてくれたおかげだよ」
 サーディの言葉に、リディアは軽く首を横に振る。
「たぶん、シャイア様が手伝ってくださったからです」
「手伝う? たぶんって」
 グレイの問いに、リディアは、ええ、と首を縦に振った。
「あの時はフォースのことしか考えていなかったから、シャイア様が意識のすぐ下にいらっしゃっても上の空だったんですけど」
「なにか指示があったとか?」
 明らかに興味を持った顔でたずねるグレイに、リディアは一瞬躊躇してから口を開く。
「ええ。……飲み込めって」
 その言葉に虚をつかれて、グレイは目を見張った。サーディはキョトンとした視線をリディアに向ける。
「はぁ? 飲むって。え? まさか、血っ?!」
「そ、それで、飲んだのか?!」
 サーディとグレイの勢いに、リディアはおどおどとうなずいた。
「シャイア様のおっしゃることを聞かないで意識をわれてしまったら、手当てができなくなってしまうと思って」
 いいなぁ、とつぶやいたサーディの真後ろから、バカ、とツッコミを入れると、グレイはリディアの顔をのぞき込んだ。
「それ、一体なんのために?」
「分かりません。飲んだ後も、何かしていらして。でも、それがなんだったのかは、さっぱり……」
 リディアの困り切った表情を見て、グレイはシャイア神の目的が分かるかもしれないと思ったのか、ソファーにいるティオを振り返った。
「俺、シャイア様がいる時は、俺がどうなってるのか分かんないんだ」
 問いを向ける前の返事に、グレイはため息をつく。そのグレイの様子を見て、タスリルがノドの奥で笑い声をたてた。
「宿題が一つ増えたようだねぇ。さ、調べ物の続きだよ」
 はい、と返事をして、グレイは本の積まれている方へと移動する。
「それにしても、ほとんど回復してる、なんて話しより先に、さっさと生きてるって連絡くらい寄こせばいいのに」
 グレイがつぶやくように言った言葉に、サーデイは肩をすくめた。
「まだ連絡をつけるのが、それだけ大変なんだ」
「嫁に行ったら実家と疎遠になるのと一緒だな」
 そう言うと、グレイは鼻で笑っている。サーディはブッと吹き出した。
「なんて例えだ、それ。嫁にやった訳じゃないぞ」
「当たり前だろ」
 笑い声をこらえているグレイに、本気にするほどバカかよ、とサーディは舌を出した。そしてハタと思い出したようにポンと手を叩く。
「そう、それでな。約束通り、ライザナルの軍がドナから撤退し始めているという報告も入ってるんだ。きっとフォースも」
「当たり前だろ」
 グレイは同じ言葉を繰り返したが、今度の言葉はグレイ自身にも重たく感じたようだった。リディアはため息をつく。
「前線よりも、治安はいいはずですよね」
「そうだね。フォースにとっては少しは安全かもしれない」
 グレイが、ほんの少しだけ笑みを取り戻して同意する。
「遠くなるほど、もっとサクッと連絡を取れるようにしなきゃならないよな」
 サーディの言葉に、グレイがうなずいた。本に目を落としていたタスリルが、ふと顔を上げる。
「連絡? そういや、うちにきた時に連れていたハヤブサはどうしたんだい?」
「ファルならフォースのところに。一緒にいてくれているはずです」
 リディアの答えに、タスリルは、そうかい、と難しい顔で何度かうなずいた。
「ファルが何か?」
「いやね、私とソーン、あ、ルジェナにいる孫なんだけどね、手紙を持って往き来しているのがハヤブサなんだよ」
「え? もしかしてファルにもそれが」
 期待を持って言ったリディアに、タスリルは大きくうなずいて見せる。
「きっとできるよ。でも、一度戻ってきてくれないことにはねぇ。あの子が気付いてくれたらいいんだが」
「うん。俺、通訳するし」
 そう言うと、ティオは久しぶりにソファーをって跳ねだした。タスリルはそれを見ると、ティオなら間違いはないね、と笑って視線を本に戻す。
 リディアも、ファルが一度戻ってくれればいいとは思った。でもファルがいない間、フォースは寂しい思いをしないだろうか。それに、連絡を取れたとしても、他の誰かに手紙が見つかってしまったら。
 もしもそうして連絡を取れるなら嬉しいだろうという気持ちと、それでも迷惑をかけるのならやめた方がいいのかもしれないと思う気持ちが、リディアの中でせめぎあっていた。