レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
2.狭小な自由
目の前にある、黒く堅い木でできた両開きの扉を見上げ、フォースは天井が高いなと思った。接ぎ合わせが見えないその扉は、一本の木から作られたのだろうか。だとしたら樹齢もかなりのモノだったに違いない、などと漠然と思いを巡らせる。
「ボケッとするな」
後ろからアルトスの押さえた低い声が聞こえ、フォースは片目だけ細くしてチラッと声のする方を見やり、視線を前に戻した。扉の取っ手にジェイストークの手がかかる。
「いいですか? セリフ覚えてますよね?」
緊張した顔で振り返ったジェイストークに、フォースは苦笑を浮かべた。
「セリフなんて程のモノか? ただいま戻りました、でいいんだろ?」
フォースは、ジェイストークが微笑むのを見て、扉に目を据えた。
ジェイストークがほんの少し扉を動かすと、向こう側にいた騎士二人がそれを引き継いだ。扉が少しずつ左右に開かれ、謁見の間がフォースの目にあらわになっていく。
最初に、床にひかれた赤い絨毯が、クロフォードが悠然と腰掛けている王座へと、まっすぐつながっているのが見えた。側にリオーネ、レクタード、ニーニアが立っている。
赤い絨毯がひかれた両脇には、たくさんの人間が礼装で身を固め、きらびやかな壁を作っていた。だが、フォースが身に着けている礼服の方が、ずっと上等で派手である。場の緊張感よりも、その服を身に着けている落ち着かなさのほうが、フォースにとっては重大な問題だった。
扉が完全に開かれ、その前にそれぞれ騎士が立ったのを見てから、フォースは足を踏み出した。右後ろにはアルトスが、左後ろにはジェイストークがついてくる。
両側にいるたくさんの人々は、かしこまって礼をしているが、通り過ぎたその後から目で追っているのだろう、背中には幾重にもかさなる視線を感じている。そして、右側の人々の後ろに見える窓の外が暗闇であることと、部屋にたくさんの明かりが灯され、左の壁が金色の光を反射していることも、この部屋の圧迫感を増す結果となっていた。
フォースは長い人壁を抜けて王座の前に進み、予定通りクロフォードに向かってひざまずいた。クロフォードと一瞬視線を交わし、深々と頭を下げる。
「メナウルの騎士フォースです。和平のお願いにあがりました」
フォースがそう口にしている間に、左後ろからは息を飲む気配が、右後ろからはカチャッと鎧の鳴る音が、まわりからは押し殺したざわめきがフォースの耳に聞こえてきた。頭を下げた視線の外で、クロフォードが立ち上がるのを感じ、とたんにシンと空気が張りつめる。
静寂を微かに揺らしながら、柔らかな絨毯の上を近づいてくる靴が、目の前で止まった。フォースは思わずしっかりと瞳を閉じ、唇を噛みしめる。
これくらいのことで殺されるようなら、それまでだ。なにを言っても戦をやめさせることはできないだろう。だが、そうでなければ、充分に望みはあるとフォースは思った。
「立ちなさい」
その穏やかな声に、フォースは目を開けて顔を上げた。差し出された手にもう一度頭を下げ、自力で立ち上がる。少し見上げた位置にあるクロフォードの顔が、柔和な笑みを浮かべた。伸びてきた手が頬に触れる。
「この瞳、何度夢に見たことか。懐かしい。宵の月を支える色だ」
その見つめてくる瞳はまっすぐで、寂しげでもある。不意にその瞳がルーフィスの面影と重なった。
「エレンの墓は城内神殿の地下に作った。できることなら生きてもう一度会いたかった。追々、エレンのことも聞かせて欲しい」
クロフォードの言葉を直視できず、フォースは視線を落とす。
「おぼろげな記憶で、よければ……」
「お前だけでも無事でよかった」
そう言うと、クロフォードはいきなりフォースを抱きしめた。力のこもった腕の中で、フォースは息を飲む。
「よく帰ってくれた。もう離さん」
どうしていいか分からないフォースの視線が、クロフォードの後方をさまよった。部屋の奥、左右の角に飾られている黄金の鎧に目がとまる。その右側の鎧の影がうごめいたように感じ、フォースは目をこらした。鎧の向こう側に立っていたのだろうマクヴァルが、その影の中から姿を現した。
マクヴァルは動けずにいるフォースに、顔の右半分だけでの笑みを見せる。フォースは、背筋がゾッとして身の毛がよだつ思いをした。クロフォードは腕を緩めると、フォースの背中をポンポンと軽く二度叩き、肩をつかんで瞳をのぞき込んでくる。
「明日の披露目の宴には出てもらうが。疲れただろう、まずはゆっくり休みなさい」
クロフォードの言葉に、ありがとうございます、と返し、フォースは一歩さがってキッチリと頭を下げた。
クロフォードは軽くうなずくと、再び王座につき、ジェイストークを呼び寄せた。ジェイストークはクロフォードのささやきを聞いてからフォースのもとへと戻り、フォースの先に立って扉の方へ歩を進めていく。
フォースは、後ろにいるマクヴァルの存在を不気味に感じ、振り返りたくてしかたがなかった。しかも左右の人々からの好奇を持った視線が、身に着けた礼服を貫いて身体に絡みついてくる。こんな役に立たない礼服を着るくらいなら、部屋の奥にあった、ひどく重量のありそうな金色の鎧の方が、まだいくらかましだろうと思う。
左右に騎士が立つ扉を通りすぎ、ジェイストークが足を止める。フォースは、アルトスがジェイストークと並ぶのを見てから、部屋の方へ向けてかしこまった礼をした。騎士が扉を閉める音を聞いてフォースが頭を上げると、その視界の端にいたアルトスが、フォースの胸ぐらをつかむ。
「お前っ」
ジェイストークがアルトスを止めようと出しかけた手を、フォースは視線で制した。
「誰がなんと言おうと、俺はそのために来たんだ。悪いとは思ったけど、いい機会だったからな」
「お前がどう思っていようと、そんなことは関係ない。あれでどれだけの人間を敵に回したと思うんだ」
顔を突き合わせたアルトスの勢いに、フォースは苦笑した。アルトスの言葉は、自分がサーディに言っていた言葉そのものだったのだ。
「何が可笑しい」
アルトスは怒りのせいか目を細める。フォースはアルトスに冷笑して見せた。
「信頼してるよ」
アルトスはきつく眉を寄せると、つかんでいたフォースの服を、力を込めて突き放した。バランスを失ったフォースの背を、ジェイストークが胸で受け止める。
「痛ぇ……」
「大丈夫ですか?」
顔をのぞき込んでくるジェイストークに、フォースは、ゴメン、と謝った。アルトスは、気を静めるように大きく息をついてから口を開く。
「お前は陛下とエレン様の血を受け継いでいる。無駄に使うことは許さん」
「バカ言えっ。だからやってるんだろうが」
フォースは、真正面からアルトスを睨み返した。二人の視界を遮るように、ジェイストークが間に入る。
「どこまで行っても平行線なことで言い合っていても始まりません。さぁ、部屋へ行きましょう。エレン様がいらした部屋ですよ」
「は?」
フォースは胡散臭げな顔で、歩き出したジェイストークに聞き返した。後ろからついてくるアルトスが鼻で笑ったような息が聞こえ、フォースはアルトスを振り返った。
「何笑ってやがる」
「幽閉だそうだ。警備もやりやすい」
「幽閉?」
聞き返したフォースに、アルトスは、そうだ、と冷ややかに笑う。フォースはそれを見てノドの奥で笑い声をたてた。
「少しは気を抜いてゆっくりできそうだな」
フォースはそう言うと、少し開いたジェイストークとの間を急ぎ足で詰める。アルトスの呆れたような大きなため息が、フォースの後ろから聞こえた。
***
人々が去り、がらんとした謁見の間で、クロフォードは王座に腰掛けて頬杖をつき、陰鬱な表情で何か考え込んでいた。そしてその王座の右斜め後ろから、マクヴァルがクロフォードの様子をうかがうようにのぞき込んでいる。
「レイクスが、本当にあのようなことを考えているとは」
「困りましたな」
マクヴァルは、困るのが当然なのだと印象づけるため、クロフォードの言葉を聞いてすぐにそう返した。クロフォードはますます眉を寄せる。
「レイクスを説得してはもらえないか。レイクスは次期皇帝だ、このままシェイド神をないがしろにし続けるわけにはいくまい」
その言葉に、マクヴァルはさも残念そうに大きくため息をついた。
「しかし、シェイド神はレイクス様と会おうとなさいません。私たちの分からない、何かお考えがあるのでしょう」
そう言いながら、マクヴァルはフォースと直に会うことは避けようとの思いを強くしていた。直に会えば、シェイド神が何か行動に出ようとする可能性もある。危険はできる限り避けなくてはならない。
「そなたが直々、レイクスにシェイド神の教えを説いてくれるとよいのだがな。シェイド神が話してくださらないのなら、それをどうにかして改善せねばならん」
「それができるなら、そうしたいのですが。シェイド神のことがなければ、私もお会いして話をうかがいたい気持ちはあるのです」
その言葉に、クロフォードはマクヴァルを振り返った。
「シェイド神はレイクスを嫌っているのだろうか。神の子でもあるというのに。そのあたり、シェイド神と詳しく話してはもらえまいか?」
「レイクス様がシャイア神を守ろうというのが、ひとつの要因であることは間違いないのです。巫女を差しだしてはいただけないでしょうか」
何度も繰り返している言葉を、これが原因なのだと語気を強め、マクヴァルはもう一度告げた。
「しかし何度も言ったように、それは……」
クロフォードも変わらず同じ返事を繰り返す。約束だと言い切らないうちに、マクヴァルは口を挟んだ。
「それこそを考え直していただきたいのです。信仰の心がないと分かっているからこそ、この対応だとは思われませんか?」
その言葉に言い返すことができず、クロフォードは大きく息をつき腕を組んだ。問いの答えを待ちきれず、マクヴァルは窓へと歩み寄った。闇の中、小さな明かりが灯った部分に、この時期に咲くはずのない花々が、冷たい風に吹かれて頭を垂れているのが見える。
あの花が枯れずにいられるのも、神がこの世界にいるからだ。シャイア神の最大の力は自然現象を起こす力だと聞く。この世界を保つためには、間違いなく大きな力となるだろう。
神を一人でも多くこの身体にとどめておかねば、世界は変わってしまうのだ。そのためにもこの好機を逃してはならない。
「では、心してお聞きください。神はこの世界を見捨てようとなさっているのです」
マクヴァルの言葉を聞き留め、クロフォードは顔を上げた。
「神が? 見捨てる……?」
繰り返した言葉に、暗く冷たい余情があふれる。マクヴァルはうなずくと、言葉をつなぐ。
「神が不在になると、この世界はどうなってしまうことか。一年に大きな気候の変化が起こり、自然が牙を剥くようになる。少ないが安定した作物の収穫も望めなくなってしまいます。神の意に沿わずにいると、怖ろしいことになるのですよ」
黙って聞いていたクロフォードが、勢いを押さえた長いため息をつく。その息の気配を背中で感じ、マクヴァルは笑みを浮かべた。
***
「この上です」
ジェイストークの言葉に、フォースは外壁が丸くできている塔を見上げた。メナウルの城都にある城の中庭で、城の屋根を見上げるのと同じほどの高さだと思う。ジェイストークは、フォースが視線を戻したのを見て、その塔の入り口をくぐった。フォースの後ろから、ソーン、アルトスが続く。
入ったすぐは石の壁で、左右に廊下が分かれている。その右を少し行ったところにある階段を上がり始めた。
「この後ろには、何があるんだ?」
フォースが尋ねると、ジェイストークは一瞬だけ振り返って視線を合わせる。
「少し降りると突きあたりです。何もないんですよ。出るという噂はありますが」
そう答えるとジェイストークは、再び歩を進めていく。左に四つの扉を見送り、その突きあたり、立派な扉がある場所まで上ると、そこで足を止めた。
「こちらです」
フォースが側に来たところで、ジェイストークは扉を開けた。
そこは塔の中とは思えないほど、広い部屋だった。左右に大きな窓があるせいで、閉じられた空間という雰囲気は一つもない。フォースは、中を見渡してから部屋へと入った。後ろからついてきていたソーンが、部屋の真ん中に駈け込んでいく。
入ってすぐの左には、金糸を織り込んだソファーと彫刻の入ったテーブルが置かれ、右奥には天蓋がついたベッドがある。ドアと対面の壁は平面になっていて、そこには大きなドアがついていた。
ソーンがベッドを一周してそのドアの側まで行き、こちらを振り返る。
「開けてもいい?」
「いいですよ」
アルトスを部屋の外に残して、ジェイストークは入り口の扉を閉めた。同時にソーンが反対側にあるドアを開ける。そこには様々な色や材質のドレスが吊されていた。ソーンがドレスの間に入っていったのを見て、フォースもドアのところまで歩み寄る。
色の洪水のようなドレスの数々を見て、フォースは呆気にとられた。空気にさらされていた部分の色が変わっているわけでもなく、どれもこれも、自分が産まれた時ほど古いモノとは思えない。
「エレン様のですよ」
ジェイストークがフォースの後ろから声をかけてくる。
「でもこれ、新しいんじゃあ」
「それはそうでしょう。十七年前のドレスなど使い物になりませんよ。いつ戻られてもいいようにと、陛下が随時用意されていたんです」
フォースは改めて部屋を見回した。この部屋はクローゼットだけを見ても、とても幽閉という言葉は似合わない。
「母も、……、幽閉されていたのか?」
「エレン様のご希望と、警備の面を考えて、こちらに住まわれていたんです」
希望? と聞き返すと、ジェイストークは、はい、とうなずいた。もし自分がこの場所を知っていたら、確かに希望するかもしれない。隔離された場所だ、ここにいる間は落ち着いて過ごせそうだと思う。ただ、自分の場合は幽閉なのだが。
「それにしても。あんなことを言うからですよ。幽閉だなんて」
思考を継いだような言葉に、フォースは苦笑した。
「いや、このくらいは覚悟してたんだ。かえって気が楽になったよ。これで、へりくだった奴らと会わなくてすむし、これ以上悪い状況なんて無いだろうしね」
フォースは、人と会わないですむ生活に、むしろホッとしていた。ジェイストークは、大きく息をついたフォースに笑みを向ける。
「ですが、陛下もおっしゃっていましたように、明日の披露目の宴には出ていただきますよ。まさかおおっぴらに幽閉しているとは言えませんしね」
ドレスだらけのクロゼットを歩き回っていたソーンが、ドレスの間から出てきた。その肩に引っかかっていた白い布地を外してやりながら、フォースは巫女の服の感触を思いだしていた。もう少し厚みがあった気はするが、柔らかさと表面の手触りが似ていると思う。
「どうしました? 部屋着を兼ねたナイトウェアですよ。巫女の服みたいですね」
「え? あ」
フォースはジェイストークの言葉を聞いて、慌ててその手を離した。
「オレ、ここに住みたい」
ソーンがもう一度クロゼットに入っていこうとするのを、ジェイストークが止める。
「ここはクロゼットですってば。ソーンには他にちゃんと部屋を用意します」
「どこにだ?」
フォースが尋ねると、ジェイストークは下を指差した。
「二つ下のドアがそうです」
その答えに、ソーンが不思議そうな顔をする。
「二つなの? 一つでなくて?」
ええ、とうなずいたジェイストークに、フォースは疑わしげな眼差しを向けた。その目に気付いて、ジェイストークは貼り付けたような笑みを浮かべる。
「イヤですねぇ。何を考えていらっしゃるんですか」
「どこに繋がっているんだ? どうせ抜け道か何かなんだろ?」
フォースの問いに、ジェイストークは、ええ、まぁ、と煮え切らない返事をした。言うつもりはないのかと、フォースはため息をつく。
「幽閉ってくらいだから、外にはつながっていない。だとしたら、……、クロフォードのところか」
つぶやくように言ったフォースの言葉に、ジェイストークは、無表情のままで醒めた笑い声をたてた。
フォースはもう一度ため息をつくと、南向きの窓の側に立った。
信仰というモノに傷つけられていただろう母は、ここでどんな生活を送っていたのだろう。自分を信仰の道具にした男を部屋へ迎え入れるのは、どんな気持ちだっただろうか。
「別に、来るなとは言わないよ」
「ホントですか?!」
ジェイストークはフォースの呟きにパッと表情を明るくした。フォースは、その喜びように苦笑しながら窓の外に視線を移す。
「とにかく話しをしなければ、何も変わらない。それでは困るんだ」
「それを聞いて、少し安心しました」
フォースは、嫌でも話しをしなくてはならないと思っている。クロフォードとも、シェイド神ともだ。このずっと南に、リディアのいるヴァレスがある。万全な体制を整えて、そこにリディアを迎えに行くために。
抜け道まであるのだ、クロフォードは黙っていても通ってきそうだと思う。問題はシェイド神だ。
シャイア神の時は、側にいなくても声は聞こえた。同じようにシェイド神もそうだった。だが、シェイド神の声を聞いたのは一度きり、しかもまた戦士という言葉だけだ。言葉を出せるが自主的に話していないのか、それとも他に何か理由があるのか。
自分に聞こえないということは、マクヴァルとすら話しをしていないということだ。攻撃してくる力と言葉の協和性の差にも、疑問を感じる。
もう少しシャイア神が近ければ、状況を理解し、理由も聞けただろうか。シェイド神の攻撃の緩和も、もっと楽にできるのかもしれない。だが、リディアを連れてくるのは、今はまだ危険すぎる。シェイド神に捧げろだなど、そんな条件を呑むことは絶対にできない。
フォースはため息をついて視線を落とした。見下ろすと、少し前に歩いていた石畳が随分小さく感じる。ここから落ちれば、確実に死ぬだろうと思う。
「これ、危険だと思わなかったのか?」
ふと湧いてきた不安を、フォースは言葉にした。母は死のうとは思わなかったのだろうか。
もし自分が母の立場にある人を警護するとしたら、この場所を選ばないか、窓をふさいでしまうだろう。だが、ジェイストークはそこに思い当たらないのか、訝しげな視線をフォースに向けてくる。
「どうしてです?」
「落ちれば死ぬだろ」
そう答えながらフォースは、母の希望と警備の面を考えてここに住んでいたという、ジェイストークの言葉を思いだしていた。
「大丈夫ですよ。すべて解決して帰らなくてはならないと思っていらっしゃるのでしょう? あなたは死んだりしません」
「は? 俺?」
「違うんですか?」
話しを自分に振られたことに驚き、フォースは目を丸くした。
ジェイストークは、母が死を考えていたとは、微塵も思っていないようだ。本当にそうだとしたら、クロフォードとの関係も、自分が思っているようなモノとは違うのかもしれない。
だが、やはりリディアをその立場に置くことはできない。もしもシャイア神がリディアを守ってくれるとしてもだ。何より、リディアを失うかもしれないという、自分の不安が大きいのだとも思う。
ソーンが隣に来て、窓枠に手をかけて飛び上がり、窓の下をのぞこうとした。フォースは、その首根っこをつかむ。
「ソーン、だから危ないって言って、」
いきなりシェイド神の力がフォースを襲った。やはり距離のせいなのか、身体が辛い。フォースはソーンを窓から引きはがすと、胸を押さえてうずくまった。
「兄ちゃ……」
ソーンはフォースの肩に乗せた手を、ハッとしたように慌てて引っ込めた。駆け寄ってきたジェイストークにその手を見せる。
「ねぇ、溶けないよ?」
「そうですね。もしかしたら危険なのは、あの布だけなのかもしれません」
ジェイストークはフォースの背に手を伸ばした。危険だと避けようとしたフォースの手に、ジェイストークの腕がぶつかる。
「私だけが嫌われている訳でもなさそうですよ。大丈夫ですか?」
ジェイストークの腕に支えられ、フォースはベッドに腰掛けた。ジェイストークの腕に異変がないことを見ると、フォースは意識をその力に集中する。
シェイド神の力は近くに感じて強力だが、なぜか覆いがかかっているような気がする。必死に探っても、そのベールは薄いようでいて思考が綺麗に見えてこない。むしろシャイア神の方がハッキリと感じるほどだ。それなら、話さないシェイド神よりも、シャイア神に意識を向けた方がいいと思う。
シェイド神は今どういう状態なのか。反目の岩で一気に向けられた意識は何だったのか。そして、これだけの力を発することで、リディアを苦しめてはいないだろうか。
――戦士よ――
ひどく遠くて微かだが、いつも聞くシャイア神の声が聞こえた。愛情さえ感じるほどに、温かく包み込まれている実感が大きくなってくる。シェイド神の力が弱まりつつあることに安心して、フォースはゆっくりと身体の力を抜いた。
瞬間、脳裏にリディアが歌う姿が映った。その瞳から涙がこぼれたのが見え、同時にすぐ側で見つめ合って唇を重ねた時のような感情が身体を横切る。その想いを離したくなくて、思わず自分の身体を抱くように腕を回した。その想いはフォースの腕の中で、身体中に広がり染み込んでいく。
フォースは、リディアの姿がただの記憶かもしれないという思いを、頭の中から振り払った。今まで歌っているのを正面から見たことはない。しかもシャイア神の光を湛えたまま歌うなど、メナウルにいた頃には考えられないことだった。
「大丈夫ですか?」
その声に、フォースはジェイストークの顔を見上げ、ああ、とうなずいた。
「ジェイは? 手は平気か?」
「ええ。この通り」
ジェイストークは、フォースを支えた手を目の前に差しだして、ヒラヒラと振ってみせる。
「たぶん、じかに布に触れると危険なのですね」
「そうみたいだな」
フォースは安心して浮かべた笑みを、側で心配そうに見ていたソーンに向ける。
「ありがとう。ソーンのおかげだ」
ソーンは、恥ずかしげにエヘヘと笑い声を上げた。それを笑顔で見ていたジェイストークがフォースに視線を向ける。
「それで、何か分かりましたか?」
「……、いや」
フォースは、わざわざ話す必要はないだろうと、リディアの名前を飲み込んだ。シャイア神は、単に人質を見せるためにリディアの姿と想いを届けてきたのかもしれない。フォースにとって、これ以上力になることはないのだ。
だが、リディアのこと以外は、何一つ収穫がなかった。ジェイストークは珍しく眉を寄せ、難しい顔つきをする。
「シェイド神の力ですが、どんどん強くなっていませんか?」
「そうなんだ。単に距離のせいなら、これ以上ってことはないだろうけど」
あっさりと言い返したフォースを見て、ジェイストークは不思議そうな声になる。
「何かいいことでもあったんですか?」
「は? いや、別になにも」
リディアのことを隠したつもりで、たぶん顔か態度か、どこかに出てしまっているのだろう。気をつけなくてはと、フォースは思った。ジェイストークはフォースの顔色をうかがうようにのぞき込む。
「レイクス様がシェイド神から攻撃を受けていることを、陛下にお伝えしてもよろしいでしょうか」
「ああ、かまわないよ。隠さずに話してしまった方がよさそうだ」
フォースの言葉に、ジェイストークが丁寧にお辞儀をする。ジェイストークが頭を上げる前に、フォースは言葉を継いだ。
「それと、マクヴァルに会わせて欲しいんだ。シェイド神に、じかに話しかけてみたくて」
「危険ではないですか?」
心配げに顔をのぞき込んでくるジェイストークに、フォースは苦笑を返した。
「危険だから接触を避けるだろうというのが、向こうの狙いかもしれない。そう思ったら、黙っていられなくて」
「分かりました、お伝えしておきます。では、この部屋のセットと、ソーンの部屋の準備を進めますので、一度失礼致します。何かご入り用なモノはございますか?」
首を横に振ったフォースにもう一度丁寧に頭を下げると、ジェイストークは部屋を出て行った。
「お伝えしておきます、か」
会うことに反対されるかもしれないと思い、フォースは眉を寄せてため息をついた。窓から外を見ていたソーンが振り返る。
「あのハヤブサ、ずっとついてきてるよね。兄ちゃんの友達?」
ソーンの隣に行き、フォースは、塔の向かい側に見える屋根を見た。そこにいるのは、やはりファルだ。
「そうだよ。ファルっていうんだ」
「じゃあ、ファルにもできるんじゃない? 手紙を運ぶの」
フォースは 手紙、とソーンに聞き返した。ソーンは大きくうなずく。
「手紙を持ってばあちゃんのところと往き来してくれているのがソーカルなんだ。おんなじハヤブサ」
「そうなのか? ファルにできるかな。できるなら直接やりとりができて、凄く助かるんだけど」
「ファル、ここに呼べる?」
「たぶん」
フォースは、降りてくるようにとの命令の仕草をファルに向けた。ファルはキチンと見ていたのか、こちらに向かって飛んできて、窓枠にとまる。見ている人間がいないとも限らないので床に降りるよう指示すると、ファルは素直に部屋に足を降ろした。
「すげぇ。声出さなくても大丈夫なんだ」
「ティオって妖精がいてね、彼が通じる合図を決めてくれたんだ」
フォースは、驚いた顔のソーンに笑みを見せた。声に出さずにすむのは、見つかる確率も低くなるので、今となっては非常にありがたい。満面の笑みを浮かべていたソーンは、かがんでファルを目の前にすると、難しい顔で首をひねる。
「最初って、どうすればいいんだろう」
「え……」
知らないのかとソーンを責めることもできず、フォースは苦笑した。
「一度ヴァレスに帰ってくれれば、ティオもタスリルさんもいるんだけどな。どうやって帰せばいいんだろう」
思わず顔を見合わせて、二人でため息をつく。
「ねぇ、ヴァレスに行ってこない?」
ソーンがファルに向かって真剣に声をかけたが、ファルはその場で首をひねるような仕草をする。言っていることが分からなくて首をひねっているわけではないだろうと思うと、フォースはなおさら前途多難に感じた。だが、ティオがいた分、少しくらいは人の言葉も分かっているかもしれない。
「ファル、ヴァレスだ、分かるか?」
相変わらず首を動かしているファルに、フォースは行けと合図をした。ファルが窓から飛び出していく。ソーンが窓に駆け寄り、残念そうな顔で振り返る。
「もとの場所だよ」
窓の外に目をやると、確かにファルは元いた場所に落ち着いてとまっている。フォースは冷めた笑いを浮かべると、ため息と共にベッドに腰を落とした。