レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     4.恋心

 部屋の大きめな窓の外から、剣を合わせる音がいてくる。ここからわりと近い、裏庭あたりからだろうか。その冷たく響く金属音は、わりとテンポがゆっくりしていて、イージスには打楽器が立てる音楽に聞こえた。
 ニーニアはその窓まで行き、窓枠に手を付いて外に目をやった。だが、視線は石畳の方にあり、その目に映っているのは景色ではない。その日何度目になるか、ニーニアはため息をつく。
「どうしてレイクス様といたら自然に振る舞えないのよ。自分で何をしているのかも分からなくなっちゃう」
 ニーニアは、丸い口調だが怒ったような言葉を口に出す。部屋のドアの所に控えているイージスは、ニーニアが繰り返すひとりごとを、穏やかな気持ちで聞いていた。
「ねぇ、イージス? 私、変じゃなかった? バレてない?」
 ニーニアが突然振り返って言った言葉に、イージスは笑みを向けた。
「変などということは、ありませんでしたよ。ですが、バレるとは一体何がです?」
「え? ……、そうね、変だってことがよ」
 イージスは、初心者向け、そのうちどうでもよくなる、とフォースが自らのことを言っていたことを思い出した。変とニーニアが言っている行動は、たぶん好きだから現れる行動をいうのだろう。少しでも見ていたかったり、感情を悟られたくなかったり、嫉妬だったり、というものだ。
「大丈夫です。変などということは少しもありません」
「ホントに変じゃない?」
 ニーニアに、ええ、とうなずきながら、イージスはフォースに対するニーニアの恋心を、とても愛らしく感じていた。本当に初心者という言葉がピッタリくる。
 だが、ニーニアにとってフォースは婚約者なのだ、そのうちどうでもよくなるとは思えない。ニーニアは瞳を伏せ、右手で左袖のフリルをもてあそぶ。
「どうしてあんなことで頭に来たのかしら。胸だってどこだって、見せられれば見えちゃうのに」
 その言葉にイージスが思わず微笑むと、ニーニアは口をらせた。
「笑わないで。真剣なのに」
「申し訳ありません。可笑しかったのではなく、ニーニア様がとても可愛らしかったものですから」
 イージスが頭を下げ、そう声をかけても、ニーニアの表情は暗く沈んだままだ。だが、今の状態で自分が何を言っても、ニーニアの機嫌が直ることはないだろうと思う。
りたいわ。らなきゃ。でも、会ってくれるかしら」
「大丈夫です。会ってくださいます」
 イージスの言葉に目を見張って一瞬嬉しそうな顔をすると、ニーニアはまた目を伏せ、イージスに背を向けて窓の外に目をやった。剣の練習をしていたのだろう音が、不意にむ。
「でも、私……。ないのよ、胸」
 小声でささやくように言うと、ニーニアはまた一つため息をつく。イージスは、ニーニアから見えていないのを幸いに、思わず下を向いて苦笑した。まだ八歳なのだ、胸のふくらみなど、ある方がおかしい。
「ひとつため息をつくと、幸せが一つ逃げると伝えられておりますよ」
「でも、ため息をつかないと息が詰まっちゃうわ。生きるために必要なのよ」
 確かに、それがため息だとしても、息をしていてくれないと困る。首を突っ込みたくはないが、このまま放っておくのは可哀想だとイージスは思った。
 剣を合わせる音が、また響いてきた。だが、前の音とは全然様子が違う。一撃ごとの音に力があってテンポも速く、なにより緊張感がある。城の裏庭での練習を許される立場で、これだけの音を立てられる人間はそういない。
 イージスは、フォースが帯剣を許され、アルトスが稽古を付けるという話しを、今朝ジェイストークから聞いていた。もしかしたらこの音は、アルトスとフォースかもしれないと思う。
「少し外に出ませんか? 新しく花を植えていたようですし」
 特に申し入れをせずに、ニーニアをフォースに会わせられるかもしれない。改まって会うということになると、ニーニアも構えてしまって大変だろうから、これはチャンスだ。そして、二人が剣を合わせているなら是非見たいとイージスは思った。
「ため息でも、外の空気を吸うと少しは気が晴れるやもしれません」
「イージスがこんなに熱心に物事をめるのって初めてね」
 ニーニアは不思議そうな声を出す。会わせようとしていることを察したのかと思ったが、ニーニアはため息と共にわずかな笑みをこぼした。
「行ってみるわ」

   ***

 どういう範囲でどのような話しがなされたのかフォースには知らされなかったが、フォースは帯剣を許された。タウディの一件が切っ掛けになったのは間違いないだろう。フォースはジェイストークからバスタードソードを受け取った。
「これ、俺の……」
「ええ。保管してありましたので。ご自分の剣がよろしいかと思いまして」
 ジェイストークの声を聞きながら、フォースは剣に見入っていた。柄を握ると自分の身体の一部のように、しっくりと馴染んでくる。
「身体を動かしませんか? 陛下には許可を取ってあります」
「いいのか?」
 思わず子供のように聞き返したフォースに笑みを向け、ジェイストークは部屋の外に向かって声をかける。
「ソーン、持ってきてください」
 その声で、ソーンが鎧一式いで入ってきた。これも、ライザナルに入る時に着けてきた自前の鎧だ。パーツの影から少しだけ顔がのぞいている。フォースはソーンにぶつからないように気をつけて、鎧を受け取った。ソーンは盛大にため息をつく。
「あぁ、重かった」
「ありがとう」
 フォースの礼に、ソーンは照れくさそうにヘヘッと笑った。
「毒が残っていないか、不備はないか、チェックいたしました。万が一に備えてご着用ください」
 フォースは何も考えず、言われるまま鎧を着けた。ひんやりした金属の手触りも、金具の立てる音も、ただひたすらかしい。ソーンの好奇心に満ちた目が、ルーフィスが鎧を着けるのを見ていた頃の自分を思い出させる。
 着け終わり立ち上がってみると、その鎧は記憶よりも幾分重く感じ、身体が完璧に戻っていないのがよく分かった。毒を受けて寝込んだことももちろんだが、移動を重ねた時期が長く、動いていなかったからだろう。だが、その重量さえも満ち足りた気分にさせてくれる。
「行きましょう」
 ジェイストーク、ソーンと一緒に部屋を出た。いつの間にか新しい花で埋まった花壇を伝うように裏庭に出ると、そこではアルトスがレクタードに剣の稽古をつけていた。レクタードは鎧など防具一切を着けていない。
 レクタードがフォースを見つけ、いきなり手を止めた。フォースは、危ないと叫びかけて言葉を飲み込む。アルトスは難なく剣をひいていた。レクタードがフォースに笑顔を向ける。
「フォース、その格好」
「レイクス様です」
 アルトスに言い直され、レクタードは肩をすくめる。
「ジェイは突っ込まなくなったのにな」
 その言葉で、アルトスの視線がジェイストークに向いた。ジェイストークの変わらない笑みに眉根を寄せ、アルトスは口を開く。
「私に相手をしろというのか」
 アルトスがジェイストークに文句を言うのかとフォースは思ったが、アルトスが口にしたのはそのセリフだった。ジェイストークは、ただ薄く笑ってみせる。
 アルトスとジェイストークが話しをはじめると、阿吽の呼吸というのか、端折る部分が異常に多い。それだけ信頼や慣れが浸透しているのだろうが、会話を聞いている方は不意打ちを食らう気分になる。
 鎧を着けろと言われたのは、練習の相手がアルトスだからなのだと、フォースはそこで初めて気付いた。単純に練習させようと思ったのか、どの程度の刺客まで放っておけるか見極めようとしたのか、アルトスの本意は計り知れない。
 それにしても、意地でもアルトスに情けない姿は見せたくないとフォースは思った。アルトスと練習をする前に、他の誰かと練習させろと、思わず文句を言いたくなる。
「行くぞ」
 その声に振り向くと、アルトスはに剣を振りかぶっていた。フォースは条件反射のように剣を抜いて頭上で受ける。
 剣が容赦なく重い。フォースは受けた剣を右に流して左に飛び、体制を整えようと試みた。その左に退路を断つような突きが出され、フォースはその剣をく力を利用し、ようやく対峙する形を取る。
「どうした。来ないのか?」
 アルトスの言葉に、カッとフォースの血がいた。左へのフェイントでった突きを右にかわし、剣ので手首をい、かわされると切っ先を返して横にぐ。アルトスはその剣を難なく受けると、フォースの眼前に剣を突き出した。体勢を低くして切っ先を見送り、フォースは剣を振り上げて腕を狙う。アルトスはそれを柄で受けると、首の高さで剣をいだ。フォースは剣に腕を添えて首の横ギリギリで受けとめる。
 レクタードが何か言っているようだが、フォースの耳にはに言葉には聞こえなかった。否応なくアルトスの剣や身体の動きだけに集中させられる。アルトスの突きが多い。それだけ自分に大きなが多いのだとフォースは思う。
 フォースが剣を受け、流すたびに、身体のことや意地、自尊心など、余計なことすべてがそぎ落とされ、気が張りつめていく。っているだろうと思っていた感覚も、思っていたよりは簡単に戻ってきた。
 どのくらいったか、ふとアルトスの手が止まった。しく思って目を向けたフォースに、アルトスは視線で城の出入り口を示す。荒い息をのままフォースが振り返ると、そこにいたニーニアと目が合った。
「呼んできましょうか?」
 そう言ったジェイストークにチラッと視線をやり、フォースは特に返事もせず目をそらす。その様子を見てジェイストークは、何を伝えようというのか、ソーンを連れてニーニアとイージスの元へ駆け寄っていった。
 フォースが荒くなっていた呼吸を整えようと、何度か大きく息をして振り向くと、イージスがジェイストークと入れ替わりにこちらにやってくるところだった。フォースは剣をに収める。ニーニアとジェイストーク、ソーンの姿は、いつのまにか見えなくなっていた。
「ニーニア、まだ怒ってるんだ」
 レクタードがイージスに声をかける。イージスは、はい、と返事をしてかしこまる。
「ですが、苛立っていることを、悲嘆もしておられます」
 その言葉にレクタードは苦笑した。
「分かりやすい奴だよな。フォースとは、もう少し距離を置いてやった方が、ニーニアのためにはいいと思うんだけど」
「だからといって、あのような話しをニーニア様のお耳に入るような場所でなさるなど、んでいただきたいのですが」
 イージスは、フォースとレクタードを交互に見つめる。レクタードはチラッと舌を出した。
「いや、あれは。単に話しの流れで。気をつけるよ」
「もう少し緊張感を持って、俺はあくまでも他人でいてやった方がいいんだろうな」
 フォースは、レクタードに同調するようにうなずいた。だがレクタードは、フォースに苦笑を向ける。
「他人って。兄妹なんだから、それ相応の付き合いはしてやってもいいだろうに」
「難しいことを言うなよ。どこまでが兄妹でどこからが違うなんて、そんな器用なことが俺にできると思うか?」
 フォースが質問を振ると、レクタードは乾いた笑い声をたてて、そうだな、とうなずく。フォースは、簡単に認められたことにホッとはしたが、少し腹立たしくも思った。二人の会話にいくらか表情をめたイージスが、もう一度態度を引き締め、フォースに向かって口を開く。
「次にニーニア様にお会いになった時にでも、謝罪願えませんでしょうか」
る?」
 聞き返したフォースに、イージスは、はい、と軽く礼をする。
「ニーニア様は、ご自分が怒ったことでレイクス様を不機嫌にさせたのではと、怖れておられます。このままでは、お可哀想すぎます。子供相手だと思って、どうか」
 イージスの言葉で、フォースはニーニアが部屋に飛び込んできて鍵を閉めてしまった時のことを思いだした。
「子供扱いするなって言われてるんだけど」
「申し訳ありません」
 丁寧に頭を下げたイージスに、フォースはため息をつく。
「まぁ、いいけど。でも、なんてればいい? まさか、リディアの胸は見ただけだとか?」
 その言葉に、レクタードが吹き出した。
「いや、それはちょっと。あのような話しはもうしない、でいいだろ」
「でも、それだと話しがズレてる。それくらいなら、知らない振りで別のことを話しかけてやった方がよくないか?」
 フォースはレクタードが肩をすくめるのを見て、イージスに視線を移した。イージスは再び、だが今度は深いお辞儀をする。
「お願いします」
「結局、それ相応の付き合いをしなければならないってことか」
 フォースは、眉を寄せて小さく息を吐いた。それ相応といっても、後のことを考えるとあまり馴れ合いたくはない。すぐに態度を硬化させようと思う。
休憩は終わりだ」
 アルトスの声に、フォースの手が無意識にを握った。それを見てレクタードが、あきれたような声を出す。
「まだやるのか?」
「立って話せるうちは、まだりん」
 アルトスが返した言葉に、フォースは剣を抜いて答えた。

   ***

「うわ、すげぇ! 何これ?」
 南向きの窓の側、ニーニアと話しをしていたソーンが大きな声を出した。ニーニアは顔をしかめる。
「何これって何よ」
「あ、そか。ええと、これはなんでしょう?」
「そうね」
 ニーニアは腰に左手を当て、右手の人差し指をソーンの目の前に立てる。
「でも、すげぇ、というのも変よ」
「えっと、凄いですね、かな」
 ソーンの言葉にニッコリ笑うと、ニーニアは右手を開いて見せた。手のひらにガラス玉が乗っている。
 フォースはソファに座って、ぼんやりと二人の様子を見ていた。動くのがもったいないと思うほど、身体から余計な力が抜けている。
 アルトスは容赦なかった。本当に立っているのが辛くなるほど、剣を振り続けた。剣を収めた時、途中で戻ってきていたらしいニーニアに、ほんの少しの笑みを向けるのがやっとだった。
 アルトスは今もドアの向こう側で警備を続けている。化け物かと思いつつ、フォースはこのままの体力ではアルトスにわないのだと思い知らされていた。
 そして、ドアの内側にはイージスが控えている。フォースの部屋へ行くと言ってきかなかったニーニアに、しっかり付いてきたのだ。イージスは部屋に入った時から、微塵も動いていない。だが、たまに明るい茶色をした瞳がうかがうようにこちらを見ているのを、フォースは知っていた。
「座れば?」
「は? いえ、とんでもありません」
 声をかけられたこと自体意外だったのか、イージスは慌てて答えた。フォースは、真面目だな、とつぶやきながら、自分の部下がそんなことをしていたら殴り倒すかもしれないと思い、苦笑する。
「そりゃそうか。護衛が仕事中に座っていられるわけが……」
 フォースは、言いかけた自分の言葉にハッとして、背筋を伸ばした。
「あ、別に引っかけようとしたわけじゃ。ただ、護衛の立場を思いだしただけで」
「承知しております」
 かに頬を緩めたイージスに、フォースは苦笑を向け、小さく息を吐いた。
「緊張も何もあったもんじゃないな。頭さえ働いてない」
「いえ。あんなに動かれた後ですから、無理もありません」
 あれしか動けなかった。そう返したい気持ちを、フォースは押さえ付けた。イージスは本気でそう思っているのだろうかと疑問を持つ。ほんの少しだけ眉を寄せたフォースの表情を見て、イージスが心配げな視線を向けてきた。
「そろそろご就床なさいますか?」
「いや、まだいいよ。なんだか楽しそうにしてるし」
 ニーニアとソーンがケラケラと声を立てて笑うのが聞こえてくる。イージスはその二人に控え目な笑顔を向けた。
 剣の実力がどのくらいかは分からないが、こんな風に心配りもでき人当たりもいいイージスは、護衛に最適だろう。そして女神の護衛なら、その生活に密着するのだ、女性の方がいいに決まっている。もしメナウルにイージスのような存在があれば、シェダはリディアの護衛に自分ではなく、そちらを選んだだろうとフォースは思った。
 自嘲するように笑ったフォースを見て、イージスが怪訝な表情を浮かべた。フォースは気が抜けたようにため息をつく。
「変な奴だと思ってるだろ」
「はい」
 迷い無く帰ってきたイージスの返事に、フォースは苦笑した。まっすぐにフォースを見つめてくるイージスに、フォースは、どうぞ、と話すようす。
「こちらに戻られるために手筈を整えておきながら、皇位をお捨てになるなど考えられません」
手筈? なんのことだ?」
 訳が分からず聞き返したフォースに、イージスはうなずいて見せる。
「はい。反戦運動も巫女を恋人にしたのも、ライザナルに戻り、皇位を継がれるためではなかったのですか?」
 フォースは、イージスの勘違いが可笑しくて、えきれずに吹き出した。
「それ、とんでもないだろ。人間的に問題だと思わなかったのか?」
「いいえ。ライザナルのためだと解釈していましたから。なのに、すべてを無駄にするなど、どうしてかと。……、違うんですか?」
 イージスは、呆気にとられて聞いていたフォースに、疑わしげな視線を向けた。フォースは苦笑して肩をすくめる。
「い、いや、ゴメン。本気でそう思われていたのなら、笑い事じゃないな」
「では一体、なんのために戻られたのです? 反戦運動は、こちらに来やすいからではなかったのですか?」
 不思議そうなイージスに、フォースはまっすぐ視線を向けた。
「単純に戦をやめる方向に動く切っ掛けを作れないかと思っていた。いつか人をらずにすむ時が来ればと。そのためにまたって罪を重ねているんだから世話無いけど」
ることを罪だと? それを感じながら戦をするなんて辛すぎませんか?」
 その言葉にフォースは懐かしさを感じた。グレイに同じような言葉をかけられたことがあったのだ。
「最初は意地だったかもしれない。でも今はいくら罪を重ねても、リディアが心から幸せに思える世界が欲しいんだ」
「巫女が、ですか?」
 聞き返したイージスに、フォースは、そう、とうなずく。
「前線に送り出す時には笑顔を見せてくれるけど、戻った時は泣くほど喜ぶんだ。待ってくれている間、どんな思いでいるかと思うと。傷つけないで、女神からも穏便に取り返したいし」
「では、本当に恋人なんですね?」
 イージスが眉根を寄せ、フォースはそれに冷笑で答える。
「本当じゃない恋人って? 便宜上なんて付き合いは、俺にはできない」
 フォースの言葉に、イージスの視線が一瞬ニーニアを向いた。フォースが肩をすくめると、イージスは困ったように顔をめる。
「では、反戦運動も、ライザナルへいらしたことも、すべて巫女のためだと」
「すべてではないよ。俺だって知りたいことがないわけじゃなかったし」
「だから帰るなどと」
 イージスはこめかみに指先を当て、難しい顔で長く息を吐き出す。
「とんでもないですね……」
 そのイージスの言葉は、フォースの考えに対して発せられたものであることを、フォースは充分に理解していた。
「いや、だから、どっちがだ」
 だが、フォースはフォースで、イージスがフォースに対して持っていた予想に対し、思い切り深いため息をついた。

   ***

「では。おやすみなさい」
 ソーンはしっかりとしたお辞儀をすると、部屋を出て行った。外側からアルトスの手がドアを閉めるのが見える。
 そのドアに鍵をかける音が響き、部屋に一人だけになったのだと実感できた時、フォースは思わず深呼吸をした。身体の緊張が解けていく。
 南向きの窓から顔を出してまわりに人がいないのを確認すると、フォースはファルを呼んだ。
 メナウルに戻ってはくれないかと、幾度となく挑戦していたものの、いつも失敗に終わっていた。向かい側の屋根にいたファルはフォースの仕草に気付き、すぐに飛んできて窓枠の中央にとまる。
「お前に帰ってもらうのって、どうすりゃいいんだろうな。この場所は覚えたんだよな?」
 フォースが話しかけると、分かっているのかいないのか、ファルは窓枠を左に歩いて移動した。フォースはファルが開けた窓の右半分に手を付いて、外の景色に目をやった。疲労が激しいからか、今はファルに行けと命令することさえ面倒に思う。
「メナウルは遠いよな。星の場所までズレてるだなんて」
 日が落ちたら、またあのどこか妙に感じる星空が広がるのだろう。リディアと見た夜空がただ懐かしい。そして思い浮かべたリディアの笑顔やぬくもりの記憶が、胸を突き上げてくる。
「なぁ、ファル。リディアに会いたいよ。側に感じたい、抱きしめたい。寂しいのは分かっていたはずなのに、こんなに辛いなんて。今何をしてる? 何を思ってる? せめて元気でいるかくらい知りたいよ。リディア……」
 ファルは、フォースに寄り添うように窓の中央まで来ると、不意に羽を広げた。フォースが驚いて一歩下がると、ファルは窓枠をり、羽で空気をく音を残して、空へと飛び立っていく。
 向かいの屋根に戻るのだろうというフォースの予想を裏切って、ファルは高度を上げていつのも場所を通り過ぎた。南に薄く見える雲に向かって速度を増し、どんどん小さくなっていく。
「ファル? 行って、くれたのか……?」
 本当にメナウルへ戻って行ったのかは半信半疑だったが、フォースはファルの見えなくなった空を、祈るような気持ちで見つめていた。