レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
2.誤算
城内に限ってだが、フォースが部屋の外へ出るのは自由になった。しかし実際城内を歩いてみると、どうしても慣れることのできない不自由が一つあった。
護衛の騎士が自分の後ろにいるということだ。
それがアルトスなら、まだよかった。だが信頼していない人間に、背中を任せるのは気持ちが悪い。むしろ自分が護衛の後ろを歩きたいくらいだ。次の瞬間敵に変わるかもしれないと、その様子に神経を集中しながら歩くより、黙って部屋の中にいる方がよほど楽だと思う。
だからといって外出を許されたからには、ずっと部屋の中にいるわけにもいかない。それに、何もせずに部屋にいては、進展も望めないのだ。
気を遣っているつもりなのか、フォースはよくレクタードに庭へ出ようと誘われた。騎士も二人以上だと抑止力も働くだろうし、護衛の騎士のどちらかがアルトスになる可能性も高い。その点はフォースにとって都合がよかった。
そして今は、誘いに来たレクタード、いつの間にか付いてきたニーニアとソーンの四人で庭に出ていた。騎士もやはり皇族分の三人いて、その中にはアルトスもいた。
ニーニアとソーンは、少し離れた花壇の花をのぞき込み、何か話しているようだ。金髪の騎士テグゼルが、二人の側につき従っている。
フォースは城に近い花壇の縁に腰掛け、その隣ではレクタードが突っ立ったまま、ニーニアとソーンが遊んでいるのを眺めていた。右に少し離れた場所に、新たに配属になったのだろう見慣れない騎士と、その反対側、左にはアルトスがいる。
見上げた陽光のまぶしさが、ふとシャイア神の光の記憶と重なった。それは、リディアがシャイア神として反目の岩に現れた時のことだ。膨大な量の情報なのか感情なのかが、頭に流れ込んできた。
あの時、シャイア神は何かを伝えようとしたのだろうか。言葉として自覚できたモノは一つもなかったが、自分の場所が知れるような危険なことを、ただ意味もなくするとは思えない。
「早く行ってください、必ず助けて。か」
思考を遮ったその言葉を見上げ、フォースは、何の話だ、とレクタードにたずねた。たずねてしまってから、その反目の岩でリディアが言った言葉だと思い出す。
「だから別れ際。アルトスがフォースを連れてこようとしたら、メナウルの騎士に止められて、それで」
レクタードは、早く行ってください、必ず助けて、と、リディアが言ったという言葉を繰り返した。
「そうだった」
「忘れてた?」
「その時は意識がなかったし。リディアの口から直接聞いていないからな」
フォースの言葉に、レクタードは肩をすくめて、そうか、と手を叩く。フォースは苦笑した。
「なんでそんなことを今さら」
「アルトスに聞いたんだ。強力にリディアさんを買っているから、どうしてなんだろうと思って。その時のこと、詳しく話してもらった」
リディアからの手紙によると、その手当てこそがシャイア神と戦士としての自分との契約だったらしい。シャイア神はその契約のために、自分の血に流れる毒も一緒にリディアに飲ませたのだ。
今なら契約は必要だったのだと理解できる。だが、自分の血が毒を持っている時でなくても、話してくれさえすれば機会はいくらでもあっただろう。なにも言わないシャイア神が、憎らしいことこの上ない。
顔をしかめたフォースに、レクタードは小さくため息をついた。
「リディアさん、可哀想だったかもな」
フォースは、あの時意識を保っていられなかった自分を不甲斐なく思っていた。結果、同じように離れてしまうのでも、笑顔を残せなかったのだ。リディアのひどく心配そうな視線の中で意識を失うなど、離別の形としては最悪だと思う。
「あんな別れ方をしてしまって。素で帰りたいよ」
「分かるよ。俺もスティアに会いたい」
うなずいて言ったレクタードの寂しげな微笑みに、フォースは苦笑を返した。
兄弟揃ってこれでは、クロフォードに呆れられても仕方がないかもしれない。だからといって、単純に諦められる部類の感情でもないのだが。
「もう一度触れたい、抱きしめたい。抱きしめて俺だけのものに……。って俺、そういう奴からリディアを守る立場だったんだけどな」
フォースは苦笑してため息をついた。レクタードはニーニアに向けていた視線をフォースに戻す。
「ルーフィス殿に頼んできたんだろ? 手が出せなくていいじゃないか。それとも自分がさらってくる時のために、他の誰かに頼めばよかったとか?」
「どっちもどっちだろ。……、じゃなくて。笑えねぇ」
思わず南の方向を見やり視線を遠くしたフォースに、レクタードはノドの奥で笑い声をたてた。
「待ってるだろ、リディアさんならずっと。心配いらない」
確かに、会えなくても言葉のやりとりをしている今なら、そう思うこともできる。ただ、それはソーン以外の誰もが知らない事実なのだが。
フォースは、ニーニアが背を向けたままじっとしているのに気付いた。ソーンも訝しげにニーニアをうかがっている。リディアの名前が耳に入り、聞き耳を立てているのだろうと思う。
「心変わりを疑っている訳じゃないんだ」
フォースはニーニアに気付かぬふりで口を開いた。
リディアなら、本当にいつまでも変わらぬ気持ちでいてくれるのではと思える。だが、それとは別に、気持ちはいつでもざわついている。
「今何をしているか知りたい。昨日はどこで何をしてた? その前は? もう何日分リディアを知らない? 居ても立ってもいられない」
寂しげに眉を寄せたフォースに、レクタードは肩をすくめた。
「感情過多だな」
その言葉に一瞬目をやり、フォースは、そうかもな、とつぶやく。レクタードは苦笑した。
「そんなことを言っていたら、王位継承権のある者として威厳を保っていなければならない。なんて父上にどやされそうだ」
その光景が簡単に頭に浮かび、フォースはノドの奥でクッと笑う。
「頑張れよ」
「おい。フォースもだ」
レクタードはフォースに言い返すと、笑いをこらえている。フォースはレクタードに力の抜けた笑みを向けた。
「だから継承権なんていらないって。正直、レクタードもスティアも凄いと思うよ。俺には無理だ」
そう言いながら何気なくアルトスに視線をやると、やはり忌々しげな顔をしてフォースを睨みつけていた。
反対側にも目を向けると、皇族警備の新人騎士は、フォースの言葉が信じられなかったのだろう、不審げにフォースを見ている。目を合わせたまま思わずイタズラに微笑んでみせると、騎士は思い切りギクシャクと視線を逸らした。
フォースは立ち上がり、大きくノビをする。
「さてと」
「戻るのか? それとも何かあった?」
レクタードの問いに、ああ、とうなずいたフォースを見ていたのだろう、アルトスが向かってくる。
「デリック殿と会う約束なんだ」
「へえ? デリック殿と?」
意外な名前だったのだろう、レクタードは首をかしげた。側まで来たアルトスが、フォースと向き合う。
「デリック殿と会って何をする気だ? まさか」
「は? 会いたいと言ってきたのは向こうだ。俺が諜報部を使って裏から何かするとでも思ってるのか?」
胡散臭げに返したフォースに、アルトスは緊張を解いたのか、小さく息をついた。
「そうだな。お前にそんな頭はない」
「てめぇは……。メナウルのことは話すつもりはないって言ったんだけど。いったい何の用だか」
フォースはレクタードに軽く手を上げ、じゃあまた、と挨拶する。
「そのくらい聞いておけ」
アルトスの呆れ顔にフォースは舌を出した。ソーンが慌ててニーニアに頭を下げ、駆け寄ってくる。
フォースは、ニーニアには笑顔を向けただけで声を掛けず、背を向けて歩き出した。ソーンとアルトスが後に続く。
「いいんですか?」
ソーンが隣に並んで声を掛けてきた。後ろを気に掛けているので、ニーニアのことを言っているのだろうと分かる。苦笑しただけで返事をせず、足も止めないフォースを、ソーンはうかがうように見上げた。
「彼女、可哀想かな? って」
「だったら、もう少し一緒に遊んでいてもよかったのに」
「俺じゃ、あ。私ではレイクス様の代わりにはなりません。それに機嫌を損ねたら、……怖いんです」
ソーンの思っても見なかった言葉に、フォースは呆気にとられた。
「怖い? 好意を持っているから一緒にいるんじゃなかったのか?」
「ええっ? 冗談はやめてください。レイクス様が冷たくすると、その分私に返ってくるんですから」
ソーンはニーニアにとっても人質なのかと、フォースは顔半分を手で覆ってため息をついた。
後ろからアルトスの押さえた笑い声が漏れてきた。フォースが、何が可笑しい、と文句を言いつつ振り返ると、アルトスはフォースから目をそらすように、ソーンに視線を移す。
「そういう愚行はしっかり覚えておいて、いつかリディア殿に教えて差し上げるといい」
「なっ?! バカ言えっ。なんでそんなことをリディアに言わなきゃならな」
まくし立てるようにそこまで言って、フォースは口をつぐんだ。顔をしかめ、再び前を向いて歩き出す。アルトスがクッと笑った声が背中から聞こえてきた。
「本気で困ったようだな」
「やかましいっ」
アルトスの笑顔は今振り返らないと二度と見られないかもしれないと思いつつ、フォースは腹立たしさに前を見たまま言い捨てた。
ニーニアはまだ八歳だ。リディアは、ユリアに対してすら可哀想だと思っていたようだったのに、まだ小さな子供のニーニアに対してそういう気持ちが湧かないわけがないと思う。
だが、自分がニーニアやユリアを立てることは、誰よりリディアに対して失礼だと思うのだ。そんなことをリディアが望んでいるとは思いたくもない。
だったらどうするのがいいかと考えても、自分では答えなど出せそうになかった。考えるだけ無駄に思える。
「あそこ?」
ドアの前に一人の騎士が立っているのを見たのだろう、ソーンが声をあげた。フォースはソーンにうなずいて見せる。
「客間ではないか」
「客間?」
聞き返したフォースの隣に並んだアルトスが、眉を寄せて追い抜いていく。フォースは小さくため息をついて、アルトスの後に続いた。
ドアの前の騎士は、アルトスを見つけると姿勢を正して敬礼をした。
「デリック殿はこちらか」
「はい」
「同席させていただきたいのだが、よろしいか?」
「はい」
アルトスへの返事の一つ一つが、いやに落ち着き払ったように聞こえ、フォースは顔をしかめた。だが、簡単な返事に間違いなく抑揚がつくかというと、そうとも限らないだろうと思う。
「では、失礼する」
いつも無表情なアルトスが仏頂面に見えるくらい表情のないその騎士は、アルトスにまた、はい、とだけ返事をしてドアを開けた。一歩踏み出したアルトスの足が、なぜか止まる。
どうしたのか訝しく思い、そこに並びかけたフォースの左腕を騎士がつかんだ。そのまま強い力で、部屋の中へと引きずり込まれる。引っ張られながら振り返ると、ソーンがアルトスの身体に抱きついて後ろへ下がり、間を隔てるようにドアを閉められるのが見えた。
ドアに鍵をかけた男が、こちらに顔を向ける。デリックだ。
フォースは、起きた後に思い出した夢のように、目の前の光景が遠くなっていくのを感じていた。いくらか白濁して見える空気が絡みついてくるようで、身体を動かすことさえ不自由だ。
フォースはその空気を振り払おうと、目を閉じて首を振った。だが状況は変わらない。むしろ少しずつ悪くなっている気がする。
「レイクス様? どうなさいました? 顔色がよろしくないようですが」
そう言うと、デリックはベッドの側にある椅子を指し示し、騎士に言葉を向ける。
「こちらにお連れして。あ、それとも横になられた方がよろしいか?」
「いや、そんなわけには……」
首を横に振りながら、フォースはアルトスも様子が変だったことを思い出していた。アルトスがこの部屋に入るのを、ソーンが止めたように見えた。しかも、デリックは鍵をかけていたようだった。
今何が起こっているのかが分からない。だが、身体の力がどんどん抜けていき、考えることすら億劫になってくる。
立っているのがやっとだったのに腕を引かれ、体勢を崩したところを騎士に支えられた。デリックにも右横から肩を貸され、フォースは椅子に浅く腰掛けて膝に肘をついた。
真後ろに回った騎士がフォースの二の腕、ちょうど媒体である布を巻いたすぐ下をつかみ、背もたれの後ろ側に引いて固定するように動きを止めた。騎士の力が異様に強い。
「放せっ、何を……」
フォースは自分の力が弱くなっていて、抵抗を試みながらも逃れられないだろうことに気付いていた。
「少しでいいんです、そのまま動かずにいてください」
デリックはフォースの正面に回り、顔を近づけてくる。
「シャイア神の媒体さえいただければ、それでいいんですよ」
その言葉に目を見開き、フォースはデリックを見上げた。まさか知っている人間がいるとは、思ってもみなかった。
「どうしてそれを?」
フォースの問いにデリックは何も答えず、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。マクヴァルに聞いたのか、それとも他の誰かか。とにかくデリックは、女神との契約や媒体のことを知っているのだ。
騎士の手から逃れようとしても、岩に固定されているように少しも動かない。
「くそっ、放せっ」
「逃げられませんよ。身体も思うように動かないでしょう? この部屋には、薬が焚きしめてありますからね」
「薬? 焚きしめてある……?」
考えをまとめられず、そのままの言葉を返したフォースに、デリックは冷笑を向けてくる。
「ええ。この部屋の空気自体が薬なんですよ。レイクス様にとってこの薬は、神の守護者と同じような効き方のようです。そうそう、成婚の儀の時は役に立ちましたよ。暴れられると大変ですからねぇ。儀式の時のエレン様はそれは美しかった」
デリックが目を細めて言った母親の名前に、フォースは息を飲んだ。デリックはフォースに視線を合わせ、ノドの奥で笑う。
「人には単に毒ですから、メナウルの巫女には使えませんがね。巫女はレイクス様とそういうご関係だそうですから、薬は必要ないでしょうが」
「儀式なんて、やらねぇよ」
鼻先で笑ったフォースに、デリックは首をひねった。
「そうなんですか? まぁどちらにしても、巫女はシェイド神に捧げていただくことになるでしょうが」
思い切り睨みつけても、この体勢だ、脅しにもならない。デリックは薄気味悪い笑みを浮かべたまま、両腕を広げ、深呼吸のように大きく息をつく。
「レイクス様には、人、種族、どちらの効き目が出るか分からなかったですが、死ぬ方でなくてなによりです。シェイド神がレイクス様との契約を望んでおられるのですから」
頭のどこかで、アルトスとソーンが部屋に取り残されなくてよかったとフォースは思った。だが、デリックと騎士が薬の影響を受けていないのを訝しく思う。フォースの疑問に気付いたのか、デリックは自分を指し示した。
「ああ、私ですか? 中和剤が効いていますからね。飲んでからある程度時間が経たないと効き目がでないんです。今気付いて中和剤を飲んでも、薬が効き始めるまでは、この部屋に入ることすら出来ないんですよ。分かりますか? 誰も助けには来られないってことです」
デリックはフォースの思考能力が落ちていることも分かっているのだろう、腹が立つほど丁寧に噛み砕いて話をしている。
「とにかく、シェイド神がレイクス様を必要としていらっしゃる。シャイア神との契約を解いてください」
デリックは、フォースの前にひざまずくと、服に手を伸ばしてきた。両腕を後ろでつかまれたこの体勢だと、左腕に巻いてある媒体に気付かれるまで、時間は掛かりそうだ。それまでに、なんとかしてこの状況から脱しなければと思う。だが、抵抗するだけの力もなく、頭も回らない。
「こうして見ると、本当にエレン様に生き写しだ。あなたが女だったら、あの頃の思いも遂げられたのに」
その言葉にフォースはデリックをさげずむように見た。デリックはチラッとだけフォースに視線を向ける。
「そうそう、そういう邪険な態度が魅力的でした」
「てめぇみたいなゲスに思われてるなんて、知らなくて幸せだったろうよ」
「どうぞ、なんとでも」
腹を立てさせようとフォースが言った言葉に、デリックはククッとノドの奥で笑い声をたてた。デリックの視線が、フォースの胸元に止まる。
「ん? これは?」
デリックはペンタグラムの鎖を手にしている。フォースはハッとして思わず身をひいた。動悸が大きくなる。
「それは、違う」
できる限り感情を抑えて言ったつもりが、声が震えた。動揺を隠せないフォースに、デリックは楽しげに笑って見せる。
「何が違うんです? メナウルでは、これをペンタグラムと言うんだそうですね。シャイア神のお守りだとか。こんなモノを持っていらしたんですね」
デリックは鎖を引いてペンタグラムを取り出すと、フォースの目の前に下げて表情をのぞき込んでくる。
「気安く触るな。それはあんたの言う媒体じゃない」
リディアと交換した大切なモノにデリックが触れているのが、フォースにはとにかく気にくわない。そんなフォースの反応に目を細めると、デリックはペンタグラムを握りしめ、その鎖を引きちぎった。
「何を?! 違うんだ、返せ! それは違う!」
フォースは騎士の手からなんとか逃れようと、激しく身体を揺すって抵抗した。だが、やはり騎士は何も話さず、びくとも動かない。
「必死ですね。そんなにシャイア神の戦士でいたい理由はなんです?」
「は? バカ言え、誰もそんなことは言ってないだろう。それはシャイア神とは関係ない、返せ!」
フォースの抵抗でペンタグラムを媒体だと思いこんだのか、デリックは満足げにうなずくと立ち上がった。
「これを処分すれば、あとはシェイド神がここから逃がしてくださるのを待つだけです」
そう言いながら、デリックはベッドを回り込み、窓へと移動していく。
「何をするつもりだ?! それは違うって言ってるだろう、待てよっ!」
デリックは、窓を細く開けてペンタグラムを持った手を差しだし、もう一度フォースに笑みを向けると、その手をゆっくりと開く。鎖がスルッと手のひらを滑り、窓の下へと落ちていくのを、フォースは呆然と見ていた。
ガチャっと鍵の開く音がした。デリックが慌てて窓を閉めるのと同時にドアが開き、ジェイストークが入ってくる。
「デリック殿、何をなさっているんです?」
ジェイストークはドアを目一杯開き、デリックの背中から声をかける。デリックがなにも言わず薄ら笑いを浮かべているのを見て、フォースは部屋に充満している薬のことを思い出した。
「ジェイ、部屋から出るんだ、薬が……」
「大丈夫です。デリック殿とその騎士が中和剤を服薬しているのを見かけたので、念のためご相伴にあずかったんですよ」
そのジェイストークの言葉を睨みつけるように、デリックは振り返った。
ジェイストークは側に飾ってあった花瓶を手にすると、デリックに向かって投げた。花瓶はデリックが避けた後ろの窓を、盛大な音を立てて突き破る。ドアから入ってくる空気が、壊れた窓から吹き抜けていく。
デリックは疑わしげにジェイストークを見やった。
「どうして鍵を……」
「二つずつあるはずが、ここだけ一つしかありませんでしたので、紛失だと勘違いして注文してあったんです。つい先ほど届きまして。手回しが早すぎたようですね」
ジェイストークの言葉に、デリックの顔が一層険しくなる。ジェイストークはデリックにきつい視線を向けた。
「一体どうしてこんなことを」
「お、お前こそ、もしかしたら、?!」
デリックは目を見開くと両手でノドを押さえ、大きく口を開けてヒュウと苦しげに空気を吸い込む。
「約束が! 救い出してくださると!」
絞り出すように声をあげると、ガハッと咳をするように息を吐き出した。口から何かあふれ出たかと思うと、その口自体もノドを押さえた手も、すべてがただれ、液体のようになって流れ、崩れていく。フォースもジェイストークも、息を飲み、ただ呆然とデリックを見ていた。
「ここは……? あ?! レイクス様?!」
フォースの腕を押さえていた手がビクッと震え、離れる。
「私は何を、うわぁ?!」
フォースが振り返ったすぐその先で、騎士の身体もあらゆる部分がただれ始める。
思わず目をつぶり、フォースは初めて自分の身体にもシェイド神の攻撃を受けていることに気付いた。ただれかけたジェイストークの手に触れると治ったのを思い出し、発作的に騎士の溶けかけた腕に手を伸ばす。
「レイクス様っ?!」
ジェイストークが慌てて駆け寄ってきたが、さすがに手を出せずにいる。
フォースが触れたことで、騎士の身体はほんの少しだけ回復しかけているように見えた。フォースは思うように動きのとれない身体で必死に立ち上がり、騎士をその身体で支えた。腐敗臭が鼻につき動悸が激しくなり、苦痛に顔をゆがめる。
「レ、イ……」
騎士は、形を取り始めた顔に微かな笑みを浮かべると、フォースを押しのけるように離れた。とたん、騎士の身体の組織が骨を伝い、果てはその骨さえも、ドロドロした液体に変化し床に向かって流れていく。
逆に、フォースの身体はいくぶん楽になった。虹色の光が身体を満たしていくのが分かり、その中心にリディアの想いも感じる。フォースは膝をつき、その想いを抱きしめるように身体に腕を回すと、騎士だったその物体が動かなくなるまで見つめていた。
我に返ったジェイストークが、フォースに歩み寄る。
「レイクス様、まだ薬が残っています、部屋を出ましょう。それに、着替えも」
その声に、フォースはジェイストークを見上げた。自分に向けて手を差しだしているその無事な顔を見て安心する。
「待ってくれ」
フォースは、自分の手や服に騎士だったモノが付着しているのを見て、ジェイストークの手を借りずになんとか立ち上がった。吐き気がするのをこらえ、そのままフラフラとペンタグラムを落とされた窓の方へと向かう。
「レイクス様?」
フォースはジェイストークに返事もせず、壊れた窓枠を外へと押しやり、窓の下をのぞいた。
そこは城壁の外側だった。かなりの高度があり、地形が分からないほど木々が茂っている。
城壁の外側では、ペンタグラムを探しに行くことは許してもらえないだろうし、あの様子では容易には見つからないだろう。せめてその向こう側、広がる町並みに落ちたのなら、探し出せないこともないだろうが。
ふと、フォースの身体に腕が回った。そのまま軽々と抱え上げられる。アルトスだ。
「なっ? なにすんだ、放せ! 薬が残っているのに、なんで入ってくるんだ」
逆らいたいが身体がだるく、フォースはほとんど口だけで抵抗した。アルトスは無言のままフォースを廊下まで運ぶと、部屋と反対側にドサッと放り投げる。フォースは勢いで壁に背をぶつけ、そのまま壁を背にして座り込んだ。
「薬が残っていると分かっていて、いつまで中にいるつもりだ。薬を吸い続けていては動けないぞ」
アルトスの冷ややかな声から、フォースは目をそらした。アルトスは息を止めて自分を運んだのだろう。だから部屋では話さなかったのだ。
「まったく。いつまでも何をやっているんだか」
なんと罵られても、ペンタグラムを捨てられてしまったことをアルトスに話したくはなく、フォースは無視を決め込むしかなかった。
「お前は守られなければならない立場だということを忘れるな。不審に思ったら逃げろ。ソーンがいなかったらどうなっていたか」
ソーンの名を聞いて、フォースは焦って周りに目をやった。ソーンを探していると察したジェイストークが苦笑する。
「ソーンは無事ですよ。今は別の場所にいます。何が起こるか分かりませんでしたから」
その言葉に、フォースはホッと胸をなで下ろした。
安心したと同時に吐き気が襲ってきた。手で口を押さえようとして汚れていることに気付き、その汚れを避けるように身体を背けて耐える。
「大丈夫ですか?」
身体をかがめ、ジェイストークがフォースの顔をのぞき込んでくる。フォースはチラッと視線をやっただけで、うつむいて目を閉じた。何もかも忘れて、このまま眠りこけてしまいたいと思う。
ふとジェイストークが立ち上がるのを感じ、フォースは目を開けた。敬礼をしたジェイストークの視線を追うと、騎士二人を従え、廊下をこちらに向かってくるクロフォードが目に入ってくる。
「どうした?」
座り込んでいるフォースに気付いたのだろう、クロフォードは足を速め、フォースのすぐ側に立った。
「なんだこれは……」
クロフォードが汚れに伸ばした手を避け、フォースは身体をずらした。クロフォードは眉を寄せ、説明しろとばかりにアルトスとジェイストークに視線を向ける。
部屋を身体で隠そうとしたジェイストークを押しのけると、クロフォードは部屋の光景を見て、二ヶ所に広がる異様な液体に目を見張った。
「あれは、なんだ?」
「……、デリック殿と、騎士だったモノです」
ジェイストークの言葉に、もう一度部屋に目をやり、その意味を理解したのだろう、クロフォードの目に険しさが増す。
「何があった?」
クロフォードの厳しい問いに、誰もすぐには口を開けなかった。