レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     2.孤独の定義

「完全な幽閉の体勢を取るようだ」
「塔の扉を閉じるのですね。待っていました。予期していた通りです」
 神殿の石の壁に、二つの低い声が響く。祭壇にあるロウソクの炎が、ジジッと音を立ててかに揺れた。
「これで影響力はほとんどなくなったのだ、放っておいてもいいのではないか?」
 老齢の神官が、マクヴァルの顔をのぞき込むように見上げる。マクヴァルは、エレンの面影の重なるフォースの顔を思い浮かべた。
不穏な空気は排除しておいた方がよいでしょう。今なら動けます」
「だが、無理をして事を荒立てる必要はないだろう」
 苦笑の交じった声に目をとめ、マクヴァルは眉を寄せる。
「荒立てるですと? 神の意志に反している時点で、すでに荒立てているのです。小さな傷も出来うる限り修復していかないと、取り返しのつかないことになりかねません。ましてやレイクスの目は守護者の色なのです」
 今までも神の守護者を見つけ次第、黒曜石の鏡に封印してきた。助けを求める神の声を聞かれるなど、とんでもないことなのだ。封印はこれからも続けなくてはならない。
 その強い視線を受け止め、老齢の神官は苦笑を浮かべた。
「私も歳をとったようだ。そなたとは違い、一度死んだらこの世に私の意識が戻ることはない。神をなくす恐怖も薄れてしまっているのかもしれませんな」
「いえ。お任せいただければそれで。この世界が神を失うようなことが、あってはなりますまい」
 そう言いながらも、マクヴァルは孤独感を振り払えなかった。事実を知っている者は、どんどん死に絶えていく。この先、残るのは自分一人だということも、充分身に染みて分かっている。
 だが、自分が神を内包し続けることで、この世界に神をとどめておけるのだ。そうなれば今の孤独など、取るに足りない。そして自分は、この世でなによりも強い力を持つ人間になる。ならば自然に、自分こそがこの世の秩序となっていくだろう。
 この世界を神の力で守り通す。この世を作ったからには、神であろうと最後まで責任を持ってもらわねばならない。その邪魔をされないためにも、シェイド神を助けようとする神々の降臨を解いて一部を取り込み、二度と降臨ができないようにしてしまう必要がある。
「多少大がかりでかまわん。巫女の拉致も進める」
「どのように?」
「幸いなことにナルエスが戻っている。ジェイストークをって密命を下せばよい。ジェイストークが寝入るのを待って行動に移す。準備を頼む」
 神官はマクヴァルに向かって頭を下げた。それを見てうなずくと、マクヴァルは後方を振り返り、祭壇の影に言葉を向ける。
「まずはレイクスだ。出入りがしやすいのは今のうちだけだ。配置に付いてくれ」
 完全に祭壇の後ろにいるため姿は見えなかったが、その人物がうやうやしくお辞儀をした動きが、空気の揺れでマクヴァルの元に伝わってきた。
「この鏡と短剣を忘れずにな」
 マクヴァルは満足そうにうなずくと、祭壇に掲げてある黒曜石の鏡と短剣を、満面の笑みで見つめた。

   ***

 アルトスの視界の中、イライラと部屋を歩き回っているリオーネが、クロフォードの前で止まった。ドレスのふくらみが前後にゆっくりと揺れる。
「どうしてそこまでしてレイクス様をかばう必要があるというのです?」
「いつかはシェイド神と和解して欲しいと願っている」
 クロフォードは表情を変えることなく、リオーネをまっすぐ見返した。リオーネは不機嫌に眉根を寄せる。
「レイクス様のように信仰心のカケラもない人がシェイド神と和解だなんて、そんなことできるワケが」
「無いと申すか? 少しでも可能性があるなら、それを追求するまでだ」
「ですが。そんな状態で陛下の後を継ぐだなど無理です。レクタードの援助をどこまで要求なさるのです?」
 リオーネが何もかも包み隠さず話してしまうのは、自身の部屋にいるための気の緩みがあるからだろう。だが、まっすぐ不満をぶつけられるクロフォードの方は、たまったモノではないだろうとアルトスは思った。
 クロフォードはリオーネの不機嫌な声に、冷ややかに目を細める。
「それは無理だろうな。少なくとも、もめたままではまりがつかない。時期にもよるだろうが」
「時期ですか……」
 その言葉を繰り返し、リオーネは心配げにクロフォードを見上げた。
「では、ニーニアは」
「もちろん神との血縁関係は結ばなくてはならない」
 ますます顔を歪め、リオーネが悲痛な表情になる。
「そんな! 陛下はニーニアに、一生幽閉されるかもしれない男の子供を産めと言うのですか?」
 リオーネの問いに、クロフォードはキッパリとうなずいた。リオーネはクロフォードの両腕にすがりつくように手を添える。
「ひどいことを。陛下はニーニアをなんだと思っていらっしゃるのですか。実の娘ですよ? それを信仰の道具にしようなどと。ニーニアにも幸せになる権利はあるはずです」
 真剣に見上げる瞳に、クロフォードは苦笑した。
「そなたがレイクスを許せないのは信仰心があるからで、ニーニアを守りたいのは信仰心がないからなのだな。どちらが本当のそなたなのだ?」
 その言葉に驚き慌てたのか、リオーネはクロフォードと向き合っていた身体をえ、うつむき加減の視線をこちらに向ける。アルトスはその視線を、なにも言わずにまっすぐ見返した。
「私は……」
「そなたは、どうするのが一番の選択だというのだ」
 繰り返されるクロフォードの問いに、リオーネは口を閉ざしたままだ。何も言わなくても、リオーネがフォースさえいなければと思っていることは間違いない。クロフォードもそれを察したのだろう、悲しげな瞳で微かな笑みを浮かべた。
「私にとっては、レイクスも大切な息子なのだよ。そなたも同じように思えとは言えんが」
 クロフォードに見透かされたことに驚いたのだろう、リオーネは一瞬目を見張り、急ぎ頭を下げる。髪を結い上げているその横顔が、アルトスの目には青白く映った。
「今はこれが最善の選択だと思っている。騒ぐことはない、状況を見ながら判断していけばいいことだ。分かるな?」
 クロフォードの問いに答え、リオーネの口から、はい、と絞り出したように重々しい返事が発せられる。クロフォードは、そんな声の返事にも満足したのか一度大きくうなずくと、リオーネに背を向けるように身をひるがえした。
「陛下……」
 リオーネの弱々しい声に足を止め、クロフォードは首だけで振り返る。
「なんだ?」
「私は、どうしたら……」
 王位継承権第一位の者をり軽んじるなど、普通に考えれば処分の対象になる。だがクロフォードは、リオーネに向き直り、微笑みを返した。
「そのままでよい。レイクスには、そなたともお互いに分かり合って欲しいと思っているのだよ。もちろん、そなたの理解も期待している」
 クロフォードの言葉に、リオーネはホッとしたような、しかし悲しげな表情を浮かべた。
「レクタードはどうした?」
 ふと思い出したように、クロフォードがねた。リオーネは見当が付かなかったのか、視線を泳がせ目をしばたたく。
「いや、分からんならよい。扉を閉める前に、レイクスと会わせようと思っていたのだが」
 リオーネの不安げな瞳に、クロフォードは笑みを返した。
「今度いつ会わせられるか分からんからな。まぁ、かまわん」
 クロフォードは一瞬アルトスに視線を投げてから部屋を出て、警備についている騎士二人の間を通り抜けていく。アルトスはクロフォードの後に続こうと、リオーネに向かって急ぎ頭を下げた。その視界にある、リオーネのドレスのが揺れる。
「あなたはレクタードの味方でいてくれると思っていたのに」
 そのつぶやきにアルトスが顔を上げると、上目遣いで見上げてくるリオーネと目があった。リオーネは眉を寄せて目を細めると、アルトスに背を向ける。アルトスはその背に向かってもう一度お辞儀をすると、クロフォードを追って部屋を出た。
 自分がレクタードの味方だと思われていたのは、護衛に付いていた時期があったからだろうか。仕事の相手だというだけで味方だと思えるリオーネの感覚が、アルトスには理解できなかった。
 クロフォードとの距離を取り戻した時、クロフォードはアルトスがリオーネに何を言われたのか気になったのだろう、アルトスに視線を向けてきた。アルトスが軽くだが丁寧にお辞儀をすると、クロフォードは何も聞かず、またすぐ前を見据えて歩き出す。
 ライザナルの皇帝は、代々一部の例外を除き、正妻の他に愛妾が少なくとも四、五人はいた。それを考えれば、クロフォードはまだ例外の方に属すだろうとアルトスは思う。
 だが、リオーネは許せないでいるのだ。自尊心のせいか、レクタードとニーニアを思ってのことか。エレンやフォースに対する嫉妬もあるだろう。
 自分はレクタードにもレイクスにも、敵味方という立場を意識したことがなかった。レクタードを警護しろと命令されればするし、フォースの護衛をしろと言われればそれを遂行する。ただクロフォードのために、クロフォードの思うまま動いているだけなのだ。
 味方がいるとすれば、それはクロフォード自身だし、他は誰一人として味方という括りの中には入らないとアルトスは思う。
 もしもクロフォードからリオーネを斬れとの命を受ければ、自分は迷うことなく斬るだろう。自分のリオーネに対する感情は無いに等しい。ただ、クロフォードの言葉を信じることができないリオーネの弱さが、何か重大なことを犯さないかと気がかりなだけだ。
 最短の道筋を通り、塔へと向かう。一度外に出る扉の脇に一人、老齢の神官が立っていた。クロフォードが扉に近づいていくのに気付いたのか、うやうやしく頭を下げてくる。
「扉を閉じられるのですな」
 お辞儀をしたまま神官が発した言葉に、クロフォードは目を留めた。
「そうですが。何か?」
「神の力は、石の厚い壁も物ともしますまい。少しでも早く拉致を実行に移された方がよろしいでしょう」
 神官が顔を上げて口にしたのは、その聞き飽きた言葉だった。表に出さずにため息をついたのだろう、クロフォードの肩が密かに上下する。
「そんなことは言われずとも存じています」
 を含んだ表情のクロフォードに、視線での合図を受け、アルトスは扉を開けた。外側に出て安全を確認し、頭を下げてクロフォードが通るのを待つ。
「確実に拉致するためにも、しっかり手筈を整えねばなりません。ことを起こす判断はこちらでいたします。ご心配なさいますな」
 クロフォードはそう言いながら外に出ると、首だけで振り返った。
「ここから先はご遠慮いただきたい。今しばらくは、もうどなたにもレイクスを会わせる気はありません」
 クロフォードは塔に向き直ると、そのまま歩を進めていく。アルトスは、神官の冷ややかな笑みをさえぎるように扉を閉め、クロフォードの後に続いた。
 塔の前には、二十人ほどの兵士が集まっていた。テグゼルの金髪が、兵士の間からチラチラと見え隠れしている。
 兵士が一人こちらを向くと、慌てたように他の兵士達に声をかけ始めた。クロフォードの到着を伝達したのだろう、兵士達がサッと左右に別れ、をついて頭を下げる。クロフォードは左右の兵士に視線を向けると、その間を進んだ。
 塔の入り口横には、厚い石の扉が置かれていた。その側に立つテグゼルが、クロフォードに敬礼を向ける。
「頼んだぞ」
 それだけ言うと、クロフォードは塔の中に入った。アルトスもテグゼルと敬礼を交わし、塔の内側へと移動する。
「始めるぞ」
 テグゼルの声で、兵士達が一斉に動き出した。石の扉が少しずつ動き、日差しがさえぎられていく。
 人が通れないだろう程に扉が移動すると、クロフォードはアルトスに笑みを向けた。
「先に行く」
 クロフォードは、そう言うが早いか、階段を上っていった。アルトスは扉の隙間から光がれなくなるのを待って、クロフォードの後を追った。
 フォースがいる部屋の二つ下の扉から、ソーンが顔を出している。クロフォードが通った気配を察してのぞいていたのだろう。こちらに気が付くと、ヘヘッと笑って首を引っ込め、ドアを閉めた。アルトスは一瞬笑みを浮かべただけで、さらに上を目指す。
 フォースのいる部屋の前には、見張りのようにジェイストークが立っていた。
 クロフォードが来たからといってジェイストークが退室する必要はない。だがジェイストークは、塔の扉を閉めたとの報告をするまでの間だけでも、親子水入らずでと考えたのだろう。
 アルトスが階段を上りきって隣に立つと、ジェイストークはえた声を向けてくる。
「まだ迷っていらっしゃるようだ」
 クロフォードは、フォースをメナウルに行かせることについては、すでに迷いはない様子だった。さらに、心配げなジェイストークの表情で、巫女を拉致するか否かで迷っていると言っているのだと想像がつく。
「拉致などしない方がいい。レイクス様は、一刻も早くシャイア神と一緒に行動された方が安全だ。なにより戻られるのを信じて待った方が、いさかいが起きずにすむだろうに」
「結局は巫女にも来ていただくことになる。それが先になっても、しっかり護衛さえすれば、変わりないだろう」
 その言葉を聞いて、ジェイストークは苦笑した。
「だが、陛下が手元に置きたいのは、レイクス様のすべて、身体も心もだ」
 確かに拉致を実行してしまうと、穏便にことを済ませるのは難しくなるだろう。だが焦点が側に置きたい、置きたくないということならば、感情的な問題は二の次でいい。
「アレが陛下の心情をればいいことだ」
「それは……」
 難しいだろう、と、声に出しては言わなかったが、ジェイストークの顔がそう物語っている。アルトスが顔をしかめると、ジェイストークはため息をついた。
「このようなしい陛下のお気持ちを理解なされるほど、レイクス様は柔軟な方ではないだろう」
 そんなことは分かっている。アルトスはチラッとジェイストークを見やると、小さく息をついた。
「できる、できないの話しではない。理解しなければならないと言っている」
 そう言い捨てたアルトスに視線を向け、ジェイストークはほんの少しの苦笑を浮かべる。
「実はナルエスにこっちまで戻ってもらったんだ」
「ああ。レイクスをメナウルに送り届けるためか」
 アルトスの言葉に、ジェイストークは無言のまま視線を返した。
「まさか、拉致の命令伝達を阻止しようとでも?」
 アルトスは胡散臭げな目で見返したが、ジェイストークは肩をすくめただけで何も答えない。
「影を取り除けた時、除けなかった時。陛下はその両方を考えて行動しておられる。拉致に関しては、どちらに転んでも無駄にはならない」
 何を言っても駄目だと思ったのか、ナルエスの存在を知っておけば充分だと思っていたのか。ジェイストークは、アルトスが拉致を否定しないことに対して、何も言及しなかった。ただその表情から、拉致には反対だという気持ちが見える。
「アルトスがまいりました」
 ジェイストークはドアに向き直ると、中に声をかけた。クロフォードの、入れ、という返事が聞こえる。ジェイストークの難しい顔を見ても、アルトスは先の言葉を訂正して見せようとは思えなかった。
 ドアを開け、ジェイストークと二人、入室する。
「重たい石の扉だ。あれを閉めてしまえば、この塔には私の部屋からしか来られない」
 クロフォードは向かい側に座っているフォースに、そう声をかけた。アルトスはジェイストークとドアの側に立つ。
「これで幽閉するという体制は整った。そしてこれが親書だ」
 クロフォードが封書を机の上に置くと、ジェイストークがチラッとアルトスに視線を寄こした。
 巫女がライザナルにさらわれた状態で、終戦を望む親書が手元にあったとしたら、レイクスならどうするだろうか。
 確かに、シャイア神と戦士がえばことは足りるのだ、その場で親書を破り捨てても巫女を助けに戻る可能性は大きい。
 だがそうすると、戦は取り返しの付かない方向へと進む。危険を承知で戦の終結のため、メナウルの皇帝に親書を渡しに行くという可能性も捨てきれない。
「戦をやめたいこと、皇女をレクタードの嫁に欲しいことを書いておいた」
「ありがとうございます」
 フォースの態度には、確かにクロフォードを信頼し始めているという気配が見える。ここでれてしまったら、その原因が巫女だからこそ、修復は難しいだろう。
「今晩一晩だけここにいてくれるか? 夜中に動くよりも明け方の方が、逆に目立たないだろう」
 クロフォードの言葉に、フォースは、はい、と返事をして頭を下げた。
 もし拉致の命令が出ても、昼夜を問わずに馬を走らせれば、阻止することも可能かもしれない。
 そう思ってから、アルトスは誰にも悟られないように大きく息をついた。何を阻止するというのだろう。クロフォードの命令は絶対なのだ。理解しなければならないと言ったのは自分だ。
 何一つ逆らわずに命令に従うことと、クロフォード自身の幸せを考えて動くこと、どちらがクロフォードにとって優れた臣下と言えるだろう。
「明日、私の部屋を通る時に、エレンの肖像を見せてあげよう」
 アルトスは、その言葉にフォースが返した、余計な力の抜けた笑みの中に、エレンを見た気がした。
 エレンがこの状況にいたとしたら。アルトスにはエレンがなんと言うか、容易に想像がついた。フォースにはライザナルに戻れと言い、クロフォードには戦が無くなるように働きかけるだろう。
 できることならば。エレンには、どうかそうなるよう見守っていて欲しいと思う。戦が無くなるよう、そしてなによりクロフォード自身が幸せを感じていられるように。
 まるで信仰のような気持ちで、エレンに祈りを捧げていた自分をあざ笑いながら、アルトスは発端である影の存在を、重く大きく感じていた。

   ***

 眠らなくてはいけない。そう思うと、フォースは余計に寝付けずにいた。気持ちが高揚している。明朝にはメナウルへ発つことができるのだ。
 ヴァレスからこのマクラーン城まで、いったい何日かかっただろう。ここへ来る時は気が滅入ってくるので、五日で数えるのをやめてしまった。密行になるので予定通り進めないだろうこともあり、ハッキリ何日かかるのかが分からないことにつく。
 それでもフォースは、帰れるという事実が単純に嬉しかった。しかも、戦を本当にやめさせられるのかもしれないのだ。ただ、やらなければならないことは残っている。それはとても重要なことだし、まだ解決できることかも分からないのだが。
 そんなことを考え始めると、なおさら眠れなくなる。フォースは上を向いていた身体を横に向けた。
 視界に入ったドアが、弱々しくカタッと音を立てた。フォースは顔をしかめ、身体を起こす。クロフォードの部屋を抜けてくるしかここに来る方法はない。だとしたらクロフォード自身か、会わせたがっていたレクタードかもしれない。
「フォース?」
 レクタードの声がして、その後ノックの音がした。寝ていたら戻るつもりなのか、控え目な声と音だ。フォースは、今開ける、と声をかけながら鍵をまわし、ドアを開けた。レクタードは、弱い明かりの灯ったランプを手にして立っている。
「入って」
 そう言って部屋を向きかけたフォースより先に、レクタードがフォースに背を向けた。
「え?」
「来いよ。いいモノ見せてやる」
 レクタードはフォースを振り返りもせず、サッサと階段を下りていく。
「ちょっと待てよ。いったいどこに……」
 フォースがかけた声にチラッとだけ振り返り、レクタードは足を止めずに進めている。レクタードの姿が見えなくなりかけ、明かりが届かなくなりそうになってから、フォースは慌てて後を追った。
 塔の扉は閉められているので、行ける場所はクロフォードの部屋への抜け道か、ソーンの部屋だ。そのどちらかへ行くのだろうと、フォースは思っていた。だが、どちらのドアにも足を止めず、レクタードは階下へと進んでいく。
「そっちは何もないんじゃ」
 フォースはそう言いかけて、入ったところから少し降りた突きあたりで、何もないが出ると、ジェイストークから聞いたことを思い出した。
「まさか、いいモノって……」
 フォースのわしげな声に一瞬だけ振り向くと、レクタードはククッとノドで笑い、またすぐ足を進めていく。
「幽霊? 違うよ。怖いのか?」
「怖けりゃ、その真上になんていられないだろ。そうじゃなくて」
 聞いているのかいないのか、レクタードはサッサと先に進んでいく。
 レクタードの様子がおかしいとフォースは思っていた。溶けてしまった兵士ほど無表情ではないが、話すのと笑うのを両方一度に見ることができない。いつもなら大抵どんな時も向き合って話をしていたのだ。
 フォースの目に、レクタードの向こう側の壁が映った。突き当たりだ。その壁と少し距離を置き、足元の階段が終わった場所で、レクタードは立ち止まった。
「だから、こんな所に何があるんだ?」
 フォースはそう言いながら、階段が終わる三段手前まで進んで足を止めた。レクタードはランプを階段下に置くと、左手で右前方の石壁を指差す。
「そこに」
 その指差した方向にフォースが目をやる振りをすると同時に、突き当たりの壁と右の壁の間に、人が通れそうな幅の影があるのが目に入った。思わず真剣に見入る。
 ふと、レクタードが階段に足をかけてフォースの腕をつかんだ。強い力で引き寄せられる。レクタードにわれるかもしれないと思っていたフォースは、引きずられながら冷静にどう対処するかを考えていた。
 階段から下りたところで、フォースはレクタードに引っ張られる力を利用し、足をかけて床にたたきつけた。レクタードはうめき声を上げて動かなくなる。自分を守るためとはいえ、レクタードにこんなことをしてよかったのかと一瞬不安がよぎった。
 その時、フォースの首に後ろから腕が回った。抵抗する間もなく、鼻と口を冷たい布で覆われる。慌てて息を止めたが、口の中にデリックが使った薬の匂いが充満した。
 布を押さえた手を引きはがそうとしたが、後ろから抱きつくように首にからまった腕が邪魔をする。口の中の薬を出すために息を吐いたせいで、身体に力が入らない。
 逃げようとして首を後ろに引っ張られ、息をしようと思ってもできなくなる。足で蹴ったランプが階段にぶつかって割れ、小さな火がこぼれた燃料に引火し、周りがパッと明るくなった。
「出るだなんて、人がいるようなが立つようでは駄目だな」
 声に聞き覚えがある。そう思っても誰の声なのか思い出せない。いくらか薬が回ってしまったのだろう、身体の力も抜けてくる。
「おとなしいな。効いてるのか?」
 首を解放され、フォースは条件反射のように息を吸い込んだ。薬がいのだろう、ノドに冷たい空気が流れ込んでくると、急激に意識が遠のいてくる。
 支えているのが面倒になったのか、床に転がされた。身体が重い。ぼやけた視界の中、顔らしきモノがのぞき込んでくる。
「久しぶりだな。って、もう分からないか。じゃあ挨拶は後だ」
 声の主が立ち上がり、石壁の隙間に姿を消した。
 辺りが少しずつ暗くなるってくる。ランプからこぼれた燃料が尽きるのと同時に、フォースは意識を手放した。