レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     3.黒鏡の幽魂

 なにかの音で、ジェイストークは目を覚ました。ひどく身体がだるく、動くのが億劫だ。
 風邪でもひいただろうかとの思考と重なり、ノックの音が聞こえた気がした。
「おい。まだ寝ているのか?」
 その声を聞いて、ジェイストークは初めて、アルトスに起こされているのだということに気付いた。
「起きた。今開ける」
 そう答えながら身体を起こす。ベッドから下りた時、騎士の寄宿舎である建物の外観が頭の中をよぎった。どうしてそんなモノがと思いつつ、ドアを開ける。
「すでに出たらしいぞ」
 アルトスは、ひどくを含んだ声でそう言った。ジェイストークが、何のことか分からず眉を寄せると、アルトスはため息を返す。
「レイクスがだ」
「出た? って、出立なさったのか?!」
「シーツをいてつなげたロープが窓の外に下がっていた」
 ジェイストークは耳を疑った。身体のだるさも手伝って、まだ夢を見ているような気分だ。アルトスはジェイストークに不機嫌な顔を向ける。
「やり方が危険すぎる。しかも、塔から走り去る影を、神殿の長老に目撃されている」
「それはまた間が悪いな」
 確かに神官にとって、レイクスのこの行動は、逃げたと思われ、すべてを背負わされてしまいかねない。
「城門では見つけられなかったのか? 無事でいらっしゃるといいんだが」
 ジェイストークは思わず眉をしかめた。アルトスはうなずくと、騎士の寄宿舎の方角を親指で指差す。
「ナルエスもいない。連れて行ったのだろう」
 憮然とした表情で言い切って、アルトスはため息をついた。
 ナルエスの名前を聞いて、ジェイストークはふと浮かんだ寄宿舎の場景の中に、ナルエスがいたことを思い出して顔をしかめた。密命という言葉が頭に響く。夢でも見たのだろうかと疑問に思う。
「それにしても、どうしたんだ? 身体の調子でも」
「よくはないが、そんなことは言っていられない。陛下には報告したのか?」
「ああ。外面的には捜索して連れ戻すように見せろとのことだ。兵はすでに動かしてある」
 アルトスの返事を聞き、ジェイストークはとりあえず身支度を始めた。レイクスを捜索する振りをしなくてはならない。いや、実際探し出して無事を確認した方がいいのだろう。どこか落ち着かない。
「レクタード様も探さねばならない。昨日から部屋へ戻られていないんだ。どこへいらしたものか」
 いくぶん心配げになったアルトスの声に、ジェイストークは疑いの目を向けた。
「いらっしゃらないのか? 一晩ってるのに?」
「まさか一緒に行ったのではないと思うが」
 しくなったアルトスの表情を見て、ジェイストークは一息の間だけ、力の抜けた笑みを返した。
「今まで粘ってきて、ようやく和平につながる親書をいただいたというのに、レクタード様に危害が及ぶかもしれないことをするとは思えない」
 これだけは間違いない。そう考えながらアルトスを見返すと、アルトスは分かっているとばかりにうなずいた。
「ソーンは部屋に残っていた。何も知らないそうだ。今は食事をさせている」
 ジェイストークが支度を終えたのを見ると、アルトスはサッサとドアの外に出て行く。ジェイストークも後を追った。
 戻るわけはないと思いながら、いつの間にか足は塔に向いていた。塔はロープも片付けられ、何事もなかったかのようだ。誰もいないのだと思うと、ひどく空虚な場景に見える。
 ふと見ると、窓の真下に当たる場所で、塔を背にしてソーンが座り込んでいる。思わずジェイストークは、ソーンの元へと駆け寄った。
「そんなところで、何してるんだい?」
 ソーンは声をかけられててて立ち上がった。
「いえ、別に。ちょっと変だなって思って」
「変? なにが?」
 ジェイストークが聞き返すと、ハッとしたようにソーンの視線がうろたえる。
「あ。え、ええと、何でも、ないです……」
「言え」
 後ろから来たアルトスが、すごんだ声をあげた。ソーンは凍り付いたように動きを止め、ゴクッとノドを鳴らす。
「ほ、ホントに何でもないんです」
 ソーンはそう答えると、アルトスと目が合わないように視線を反対側に向ける。
しちゃ駄目だろ」
 ジェイストークは、アルトスに苦笑してそう言うと、体勢を低くしてソーンと向き合った。
「どんな小さなことでもいい、なにか気付いたことがあったら教えて欲しいんだ。レイクス様が無事でいらっしゃるならいいが、このままでは安心できないだろ?」
「でも、言っちゃいけないってレイクス様が、あ……」
 ソーンが慌てて口を押さえる。ジェイストークは、アルトスと顔を見合わせてから、もう一度ソーンに向き直った。
「だったら、言っちゃいけないことは言わなくていい。難しいかもしれないけど、ソーンが変だと思うのはどこなのか、説明して欲しいな」
 ジェイストークに、はい、と返事をすると、ソーンは難しい顔で考え込んだ。
「レイクス様は帰ったとか逃げたとかって、みんなが言うんだけど。どうしても帰ったとは思えないんです」
「なぜだい?」
 ジェイストークは軽く笑みを浮かべながらたずねる。ソーンは一度口を閉ざすと、自分の考えを反芻したのだろう、決心が付いたように大きくうなずいた。
「忘れ物してるんです。窓から外に出たら見えるから、絶対忘れないと思うんですけど」
 その言葉で、アルトスが塔の向かい側の屋根を見上げた。それを見て、ソーンがうろたえたようにうつむく。ジェイストークは、ソーンの顔をのぞき込んで視線を合わせた。
「レイクス様が大切にしていたモノが、そのまま残っているんだね?」
 ソーンは口をギュッと結んだまま大きくうなずいた。アルトスが不意に、ソーンの目の前に手を差し出す。
「分かった。行こう」
 アルトスは、ソーンが恐る恐る差しだした手を取り、早足で城内への扉へと向かっていく。ジェイストークは、わけが分からないまま、慌てて二人の後に続いた。

   ***

 両腕を引っ張られる痛みで、フォースは意識を取り戻した。
 目の前には、壁の石と同じ材料でできているらしい腰の高さほどの台があり、その向こう側にはランプでも置いてあるのだろうか、弱々しい光がれている。
 その光で、石壁が一部分だけ張り出し、その脇に隙間ができているのが見えた。石の扉と出入り口なのだろう。
 ゆっくり首を巡らせてみると、どうやら自分はあまり広くない石でできた部屋の壁際にいて、天井の左右から伸びた鎖で腕をされているらしかった。
 服がはだけている。外されてしまったのだろう、ペンタグラムが無い。確認はできないが、服のは通ったままなので、女神の媒体である布は無事かもしれない。
 足はかろうじて地面に届いていた。つま先で立って少しでも腕の負担を軽くしようとすると、どのくらい吊されていたのだろう、腕に蓄積されていた無理が痛みになって襲ってくる。
 その辛さに足から力を抜き、元の体勢に戻ろうとしてみたが、どっちにしろ苦痛から逃れられそうになかった。ならば少しでも腕が復活するようにと、足を伸ばしてつま先で身体を支える。背を壁に預けると、ほんの少しだが楽な気がした。
 ふと、正面にある石でできた台の向こう側が、明るさを増した。壁が白っぽい石のせいか、影にしか見えていなかった台の上に、黒い鏡と短剣らしきモノが置いてあるのが目に映る。
 そしてその向こう側に、白く長いドレスの女が立ち上がった。手にしているランプがまぶしくて、フォースは顔をける。
 自分を襲ったのは男だった。犯人は複数なのだろう。相手が誰であれ、この体勢ではどうしようもないとは思う。
「気が付いたのね。私を覚えてる?」
 女はランプを石台の上に置くと、台を回り込んで前に立つ。フォースはランプのまぶしさに目を細めて女の顔を見た。
 その女は、溶けてしまったデリックの娘、サフラだった。アルトスがサフラについて、何者かに手引きされ逃亡した、と言っていたのを思い出す。
 フォースが視線をらすと、サフラは口の端に冷めた笑みを浮かべ、しつこく顔をのぞき込んでくる。
「返事は? 覚えてるって聞いてるのよ?」
「ホクロ女」
 フォースがボソッとつぶやくと、サフラは、何ですって? と、眉を吊り上げた。
「あなたなんか皇太子でもなかったら、相手になんてしなかったわよ」
 フォースはサフラをんだ目で見、鼻で笑ってみせる。
「俺はてめぇが王妃でも、相手なんて願い下げだ」
「あら。残念ね。私の言うことを聞いてくれたら逃がしてあげようと思ってたのに」
 サフラの願いなど、ろくなモノではないだろうとフォースは思う。しかも、願いを叶えたところで、フォースを逃がすことを許される程の発言力などたぶん有りはしない。それでも、手首のカセを外すくらいはできるかもしれないが。
「あなたは誰にも知らせず帰ってしまったことになっているのよ。いくら粘っても助けは来ないわ。このままだと、殺される。私をにしてよ。死ぬよりはマシだと思わない?」
 サフラ自身がすでに拉致監禁の共犯者なのだ。ここで自分がうなずいたら、約束が果たされるとでも思っているのだろうか。とても正気とは思えない。だが、これを利用しない手は無いと思う。
 返事をしようと視線を戻したフォースは、目に入った出入り口らしき隙間に人の姿を見つけ、息を飲んだ。
「ゼイン……?」
 フォースはその顔に目を見張った。サフラの顔色が変わる。ゼインはフォースに一瞬笑みを浮かべて見せると、サフラに向かって歩を進めた。
「面白い話し、してなかったか?」
「え? あんなの冗談に決まって、」
 ゼインはサフラの胸元をつかんで、容赦のない力で頬を張り倒した。サフラは壁にぶつかってみ込む。結構大きな音の割に石壁に響かなかったことをフォースは腹立たしく思った。
 音が響かないように、何か細工がしてあるのかもしれない。部屋の外に声や音が漏れていたにしても、この分ではあまり大きくは聞こえなさそうだ。人知れず監禁するにはいい部屋だと思う。一体なんのために作られたのだろうか。
 サフラは恐怖に満ちた目で、ゼインを見上げる。
「ひどい。痛いじゃない」
「鍵をよこせっ」
 ゼインはサフラの頭の上から怒鳴り声を浴びせる。サフラは身体を震わせながら手を伸ばし、小さな鍵をゼインに手渡すと、その場に座り込んだ。
「鍵まで持ちだしやがって。冗談には聞こえないんだよっ」
 ゼインの険のある声に、サフラはますます身体を小さくする。これでゼインが席を外すことは無くなっただろう。だが、どうにかしてそういう状況を作らないと、逃げ出すことは不可能かもしれない。
 手首のカセのだろう鍵を石台の隅に置くと、ゼインはフォースの方へと歩いてきた。不意に背を向け石台を前にすると、黒い鏡を台の上に立てる。
「久しぶりだな」
 ゼインはフォースをチラッとだけ見やると、ほとんど無表情で台の上に燭台を並べ、ロウソクの準備を始める。
「ヴァレスの神殿で王位継承権一位のエッグを見た時は驚いたよ。嘘でも冗談でもない、ホントに持っていやがったってね」
「お前、一体……」
 フォースの声に振り返りもせず、ゼインはただロウソクを立てていく。
「ドナの井戸に毒を入れ、処刑されたのが俺の父だ。父は産まれた時にはライザナルの密偵だった。三世ってヤツでね」
 ゼインはロウソクを立て終わると、ランプを取ってフォースに向き直った。そのランプをフォースの目の前にかざす。
「俺はお前を見張るために、騎士にならなければならなかった。四世だぞ? 何が密偵の子だ。しかもメナウルで産まれて、他人の家で育ったのにな」
 フッと鼻で笑うと、ゼインはランプから手にしたロウソクに火を灯した。その火を先ほど立てたロウソクへと移していく。
「それでも騎士だ。待遇はいいし、そりゃあ必死だったさ。だが、努力しようが祖父のコネを使おうが、お前には追いつけやしない。祖父には叱られるし、散々だ」
 その言葉のいくつかが、フォースの頭に引っかかった。祖父。コネ? 叱られる? ふと、神殿執務室でゼインを罵倒していた声を思い出す。
「まさか、……クエイド?」
 その名前にゼインは手を止め、冷笑を浮かべて振り返った。
「そう、二世ってヤツ。でも先の皇帝陛下に可愛がられてあそこまで出世したら、自分の立場を忘れて地位を守り通そうと必死になってしまった。父は祖父に反発して、ライザナルにいいように使われた末にアレだ」
 ゼインは親指を立て、自分の首をき切るように動かす。
「お前が存在する限り、いつ足元が揺らぐか分からない。祖父はお前を殺そうと躍起になったよ。お前を十四で騎士に推挙したのも、サッサと前線に送ったのも、すぐに死んでくれると思ったからだそうだ」
 肩をすくめて苦笑を浮かべると、ゼインはフォースに背を向け、ロウソクに火を入れるのを再開する。
「ところがお前は全然思い通りにならなくてな。親子三代、お前に振り回されたってわけだ。でも、それもこれで終わりだ」
 ククッとゼインがノドの奥で笑い声をたてる。フォースは声になりそうなほど大きなため息をついた。
「バカじゃねぇ?」
「はぁ? お前、自分の立場、分かってんのか?」
 ゼインはまた手を止めると、首だけで振り返る。フォースはゼインを無視するように視線を逸らした。
「分かってるさ。殊勝にしてたら逃がしてくれるわけでもないだろ」
「そりゃそうだ」
 笑みを浮かべた返事をしたが、やはり激怒していたのだろう、ゼインは身体を向き合わせるついでのように、フォースの腹を殴打した。ゼインは、声を立てずに苦痛に耐えているフォースと、顔を突き合わせる。
「お前を邪魔だという人が他にもいる。これ以上シェイド神と話しをされると困るから、鏡に封じて欲しいんだそうだ」
 その言葉はマクヴァルが言ったのだと、フォースには容易に想像がついた。しかもこの鏡に短剣、封じるという言葉。やはり呪術を利用しているらしい。ゼインは勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
「神に統制されていない自然は、怖ろしいものだと聞く。降臨のない、神のいない世界なんて、きっとその先は滅びしかないだろうよ。こんな状況で神を守護しようだなんて、人間の考えることじゃない」
 降臨のない、神のいない世界。マクヴァルがそう言い、それを恐れているのだろうか。自分の想像が当たっていれば、だから呪術で神の力を使える状態にしたとでも言いたいのかもしれない。だが、神の力も人間が使う時点で、神の意志のないただの得体の知れないモノだろうとフォースは思う。
 ゼインはフォースの眉間を指差した。
「お前を鏡に封じたら、後は待つだけだ。あ、そうそう。実は、お前を鏡に封じる報酬は、成婚の儀の後のリディアさんなんだ」
 その言葉に息を飲み、フォースは気を落ち着けようと大きく息を吐いた。
「そう簡単に拉致できるかよ」
「簡単じゃないだろうけどね。実行するのはライザナルだ。お前は行方不明になるんだし、それこそ簡単にあきらめたりはしないだろうよ」
 ゼインの言葉に、フォースの動悸が激しくなる。ゼインは薄笑いを浮かべたまま言葉をつないだ。
「鏡の中から外は見えるって話しだから、成婚の儀も、俺がリディアさんをどうやって抱くかも、全部見せてやるよ」
 フォースが怒りを込めて向けた視線を、ゼインは薄笑いで受け止めた。ゼインはフォースの首に腕を当て、壁に押さえ付ける。
「お前のことなんざ微塵も思い出せない、頭でモノを考えられなくなるくらい抱きつくしてやるよ。まぁ、お前は鏡の中でリディアさんに二度と会えないことを願っていればいいさ。無駄だろうけど」
 ゼインはフォースから手を離すと、大きな声で朗笑した。
「あ、リディアさんのペンタグラムは、ちゃんと返しておくから。いや、お前が持っていたからって形見にされちゃたまらないから、俺がもらおうと思ってるんだけどね」
 ゼインは自分の襟元から鎖をたどり、ペンタグラムを引っ張り出すとフォースの目の前にちらつかせた。
「リディアさんと一緒に暮らせるなんて、考えるだけで嬉しいよ」
「どういうこと……?」
 サフラの高い声がゼインの言葉をさえぎった。ゼインはほとんど無表情になり、サフラを振り向く。
「リディアって誰? 一緒に暮らすって。私はどうするの? もうどこにも行く所なんて無いのに」
 ゼインは、ボソボソとつぶやくサフラに笑みを向ける。
「バカだなぁ、心配するなよ。俺はお前と一緒にいるよ」
「ゼイン……」
 サフラの顔が嬉しそうに歪んだ。ゼインはフッと鼻で笑う。
「ここを出るまではな。牢獄だって飯くらい出るさ」
「そんな! 父に紹介したのも、この話を取り付けたのも私なのに!」
「仕方ないだろ。リディアさんをこの手で抱けるんだ、お前をかまっている暇なんかねぇよ」
 ゼインの言葉に、サフラは茫然自失でその場に座り込んだ。
 逃げ道がないから逃げないのか、すべてを失って放心状態だからなのか、フォースはつかみかねていた。だが今できることは、自分がここにいることを誰かが気付いてくれるまでの時間をぐことくらいだ。とにかく話し続けるしか無いと思う。
「リディアがお前を嫌うのがどうしてか、よく分かったよ。とことん哀れな奴だな」
「哀れだと?」
 ゼインが怒りからか顔色を変えた。フォースの顔をりつけ、をつかんで顔を突き合わせる。
「哀れはお前だろう? ほら、命乞いをして見せろよ」
 付き合わせた顔を歪めるように笑うと、ゼインはそのままの体勢で何度もフォースを殴打した。
 フォースは歯を食いしばり、声をあげずに耐えた。ゼインは苦々しげな視線を残し、突き飛ばすように手を離す。背中を壁に打ち付けられてもフォースは声を出さなかった。ゼインはじっとフォースの様子を見ていたが、ため息をつくと石台に向き直る。
「始めるか。やらなきゃならないことはさっさと済ませてしまうに限る。コレが終わればお前は永遠に鏡の中だ。話しを聞かせるだけなら、それからでも遅くない」
 ゼインはいくつか消えてしまったロウソクに、また炎を移し始めた。フォースは、乱れた呼吸を必死で押さえ付ける。
「俺とは道が違ったが、クエイドはあれでもメナウルの幸せを願っていた」
 声を絞り出すように言ったフォースの耳に、ゼインがフッと鼻を鳴らす音が聞こえる。
「そうだな。だけど俺は違う。そんなモノはどうだっていい。俺の人生を滅茶苦茶にしたお前が苦しむのを見たくて生きてきた」
 すべてのロウソクに火を灯すと、ゼインは黒曜石の短剣を手にし、フォースと向き合った。
「二、三日いたぶってやるつもりだったけど、サフラが使い物にならないからそれも無理だし。じゃあな」
 ゼインは短剣を突き出すためにを引いた。その肘に駆け寄ってきたサフラが抱きつく。
「なにすんだっ!」
「これ以上、罪が重くなったら、……っ」
 ゼインはサフラの手首をつかんで引きはがし、腹を蹴り飛ばす。短剣を奪おうとしていた手が届くことなく空を切り、サフラは壁に激突して倒れ込んだ。気を失ったのか、動かない。
「バカな女」
 ゼインはかすかに顔をめると、もう一度フォースに向き直った。
「今度こそ、サヨナラだ」
 ゼインが短剣を握り直すと同時に、部屋にアルトスが躍り込んできた。フォースが目を見張ったのに気付いたのか、ゼインが後ろを振り返る。
 ゼインは襲ってくる切っ先を、手にした黒曜石の短剣で受けた。だがアルトスの剣は短剣を砕き、ゼインを切り裂く。
 フォースはまばたきもせず、切っ先を追った。振り下ろされた剣の側に、ゼインの身体が崩れるように倒れる。
「無事か」
 怒鳴られると思ったが、アルトスが向けてきた言葉はそれだった。意外さに呆気にとられながらも、フォースは短く、ああ、と返事をする。アルトスが剣を収め、遺体を調べようとかがみ込むと、ちょうどジェイストークがランプを手に部屋へ入ってくるのが見えた。
「今、外します」
 ジェイストークはフォースの状況を見たからか、いくらか慌てながら部屋に視線を走らせた。台の上にランプを置き、そこに鍵を見つけて手に取ると、フォースの手首のカセを外し始める。
「ずいぶん殴られたようですね。いったい何があったんです?」
 フォースは説明しようと試みて、ことの発端がレクタードだったことに思い当たった。
 最初は気付かなかったが、あの時レクタードは明らかに変だった。最後に見た状態は、溶けてしまった兵士にも似ている。そう思うと無事でいるのか心配だ。しかも思い切り投げ飛ばしてしまっているのだ。
「レクタードは?」
「ここに来る一つ前の部屋で監禁されていらっしゃいました」
「様子は? 今どうしている?」
「はい。少し前からの記憶が欠如されている上に、身体が痛くてひどくだるいとのことで、テグゼルがまず陛下のお部屋へと、お連れしています」
 カセが外れて腕が自由になると、腕の痛みと、つま先で支えていたための足の疲労が襲ってきた。媒体である布が腕にあるのを確認し、ホッと息をつく。
 レクタードも体調はよくないようだが、とにかく無事らしいという安心感もあり、その場に座り込みたくなる。だがフォースには、どうしてもやらなければならないと思うことが残っていた。
 ジェイストークは心配げに顔をのぞき込んでくる。
「レイクス様?」
「ちょっと待って」
 フォースはジェイストークに微笑んで見せ、石台まで進んだ。深呼吸を一つすると、黒曜石の鏡を左右からつかんで持ち上げようと力を込める。腕の状態がよくないからか、ひどく重く感じたが、鏡はなんとか持ち上がった。
 これが呪術の道具なら、このままにはしておけない。フォースは鏡を高く掲げると、ありったけの力を込めて床に叩きつけた。鏡は大きな音と共にいくつかの破片に姿を変え、短剣のカケラと混ざり合う。
 ランプの明かりが、スッと小さくなった。ジェイストークは疑わしげにランプをのぞき込む。
 その時。床に散らばったいくつもの破片から、まっすぐ上に向かって光が立ち上り始めた。ひどく明るい光だが、不思議とまぶしく感じない。
「これは。一体なんだ?」
 アルトスのつぶやいたような問いに、フォースは首を振った。
「鏡を割っただけだ。他には何も、え?」
 気付くと、光の中から一人の老人が自分を見つめていた。他にも人の形の光がいくつか立ち上っている。
 フォースは、老人が手招きしているのに気付き、誘われるように二、三歩前に出た。その腕を、アルトスが引き留める。
「駄目だ」
「敵じゃない」
 思わず言い切ったフォースに、アルトスは怪訝そうな顔をしながらも手を離した。
 フォースは、少しずつ上昇しているその老人のすぐ側に立った。そこで老人の瞳が紺色だということに気付き、驚きに目を見開く。老人はどこか母エレンに似ているような目で優しい笑みを浮かべ、フォースをじっと見つめてくる。
「ディーヴァの門番たるシャイアの戦士よ」
 見上げた顔の向こうに、天井が見えている。実体はないのだろう。だが、声は間違いなく耳に届いてくる。
「呪術によりわれしシェイド神の解放を」
 その声にフォースはしっかりとうなずいて見せた。老人の頬が緩み、精一杯腕を伸ばしてフォースの頬に触れてくる。
「会えて嬉しかった。エレンの息子。私の……」
 声が小さくなり、聞こえなくなる。それと同時に姿も見えなくなっていった。ただ、最後にその老人の口が、子孫、と動いたのを、フォースは確かに目にした。
 鏡からの光が弱まるにつれ、ランプの明かりが戻ってくる。ポカンと口をあけて見ていたジェイストークが、緊張が解けたように大きく息を吐いた。
「幽霊、ですか?」
「そう、かな? 鏡に封じられていた人たちなんだとは思うけど」
 フォースの返事に、ジェイストークは乾いた笑い声をたててランプを手にした。
「行きましょう。サフラが気付く前に兵も呼ばないとなりませんし」
「もうちょっと待って」
 フォースはゼインの亡骸に向かって一歩踏み出した。アルトスはフォースの腕をつかんで引き留める。
「すぐ済むから」
 そう言ったフォースの目の前に、アルトスは手にしていたペンタグラムを下げて見せた。フォースはキョトンとそれを見つめる。
「早く受け取れ」
「あ。ありがとう」
 フォースはアルトスに笑みを浮かべて見せ、ペンタグラムを受け取った。それを握りしめ、ゼインに一瞬だけ目をやると、フォースは石室を後にした。