レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
1.胸裏
イージスは拉致の命令が下った時のために、できる限りの調査を続けていた。巫女が住む神殿を調べ、少しでも内部の状態を知ることは欠かせないと思った。
講堂側は訪れるだけですべてを見ることができた。ソリストでもあり巫女でもあるリディアの姿を実際見ることも容易だった。ただ、居住空間側はさすがに簡単に出入りをさせてはもらえない。
そこでイージスは、街の娘たちと同じ格好をし、まずは出入りする人間、マルフィという下働きの女性との交流を図り、神殿の人間と少しでも馴染むように心がけた。
今では、そのつど凶器の携帯がないか検査を受けるだけで、裏庭の花壇までならば出入りを許されている。メナウルには女性の騎士や兵士がいないし、ライザナルに存在することもあまり知られてはいないので、疑われづらかったのも要因だろう。
庭の手入れを手伝いながら神殿の人間と話しができることは、内情を知るためには充分な状況だ。扉が開いた時には、少しだが居住空間もうかがい知れた。
部屋の左には大きめなテーブル、その奥から右上へとのぼる階段と、正面に右から左へ降りているだろう階段の囲い、右奥には神殿へと続いていそうな廊下の存在は確認している。
中に入らないと、これ以上の情報収集は望めない。イージスは花殻を摘みながら、一度本隊のいるルジェナに戻ろうと思い始めていた。
「お茶でも飲もうか」
背が低くふくよかなマルフィの、丸みを帯びた声が背中に聞こえ、イージスは顔を上げた。
「ここ、もうすぐ終わります」
「じゃ、ちょうどいいね。お茶をいれてくるよ。待っておいで」
扉に向かっていくマルフィに、はい、と返事をして、イージスは体勢を低くしたまま、中へ入ろうとするマルフィを視線で追った。マルフィのノックで、扉が開かれる。
「あら、ルーフィス様」
その名前を聞き、身体に緊張が走った。その緊張に見合わない笑顔を浮かべ、ルーフィスが姿を現す。マルフィはルーフィスの後ろをのぞき込んだ。
「あらリディアちゃん、お茶、いれてくれたのかい? ありがとうね」
いいえ、と軽やかな返事がして、リディアが外に出てきた。手にしたトレイにはお茶のポットとカップが乗っている。
リディアと、うまくすればルーフィスとも、話くらいはできるかもしれないし、知り合いになることができれば好都合なことこの上ない。そう思い、イージスは手を止めて立ち上がった。
「あ、リディアちゃん? あちらが最近お手伝いしてくれているイージスさんだよ」
マルフィの言葉で、リディアがイージスに視線を向けてくる。目が合うとリディアは微笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。歌っていた時よりもいくらか幼く見えると思いながら、イージスも礼を返す。
「こっちにおいで。お茶にしよう」
マルフィの手招きに、はい、と返事をして、イージスは扉の方へと向かった。
「こっちだよ」
マルフィは井戸の方向、作業台と椅子が置いてある場所を指差して歩き出し、リディアもマルフィの後に付いていく。イージスはルーフィスと話すのをあきらめ、今いる場所から少しだけ頭を下げて挨拶をすると、まっすぐ作業台へと歩を進めた。
「ここにお座りよ」
マルフィはイージスのために椅子を引くと、作業台を挟んだ反対側、リディアの側に腰を下ろす。イージスは勧められた席に座った。
神殿で歌うリディアは、巫女としての自信に満ちあふれ、凛とした美しさに見えた。だが今イージスの目の前にいるリディアは、緊張感が抜けているせいか、ずっとおとなしくて可愛らしく感じる。
お茶のポットを持った白く長いしなやかな指や、動きに合わせて陽の光がたわむれる琥珀色の長い髪、そして咲きたての花びらのような瑞々しい唇。イージスは、ただリディアの美しさと、その立ち振る舞いに目を奪われていた。
手を伸ばし、イージスの前にカップを置かれた時、リディアの胸元に自然と目がいった。この胸のおかげで、フォースとニーニアの間に一悶着あったことを思い出す。確かにこの肌でこの大きさ、形なら、さぞ綺麗だろうと思う。
席について顔を上げたリディアは、イージスの視線が胸元に向いていることに気付いたのだろう、恥ずかしそうにうつむいた。イージスはその様子を見て、ハッと我に返る。
「申し訳ありません。不躾な視線、大変失礼をいたしました」
勢いよく頭を下げたイージスを見て、マルフィがワハハと朗笑する。
「みとれる気持ちは分かるよ。けど、あんた、まるで騎士みたいな口をきくね」
「は? あ、つい。い、いえ、あがっちゃって……」
つい、も余計だ。イージスは照れて笑った振りをしながら、落ち着こうと、なるべく分からないよう控え目に深呼吸をした。
「どうぞ、そんなにかしこまらないでください。私はただのソリスト見習いですから」
そう言って微笑んだリディアが女神そのものに見えるのは、降臨を受けているという先入観、そして自分の失態を追求されないことも原因の半分なのだろう。雰囲気に飲まれているのは間違いなかった。
しかも、自分だけではない。毒を受けたフォースを助けたことで、アルトスやジェイストーク、果てはクロフォードにさえ、すでに巫女ではなく個人としての存在も受け入れられている。一方的なニーニアの想いのことを考えると、気が重くなった。
「さぁ、お飲みよ。冷めちゃうよ?」
「いただきます」
口に含んだお茶は、ニーニアが好んで飲んでいたお茶によく似ていた。ふと、リディアにフォースのことを聞いてみたい衝動に駆られる。
「あの騎士様は、最近いらっしゃらないんですね」
「あの?」
リディアは最初から誰のことを聞かれたのか分かっているのだろう、あまり驚きもせずに目を大きく見開き、もとの柔らかい微笑みに戻る。
「はい。今は他でお仕事をされているそうです」
そう説明することで騒がれずにすんでいるのかと、イージスは納得した。それにしても、よく外部に漏れないと感心する。
「詳しくお知りになりたいのでしたら、そちらの騎士にたずねてください」
しかもリディアは、ずっとこの笑みを保ったままだ。本当に恋人だと思っているのなら、少しはかげりが見えてもいいと思う。
「私が聞いちゃっていいんですか?」
「ええ。ですが、ごめんなさい、イージスさんにお教えしていい場所にいらっしゃるかどうか、私は知らないのですけれど」
そう言うと、リディアは静かに微苦笑した。ルーフィスに任せてしまえば安心だろうから、多分誰に聞かれても、同じ答えを返すことにしてあるのだろう。護衛に敬語を使うのはどうしてかと聞きたかったが、それを聞くと自分のかしこまった言葉にも突っ込まれそうなのでやめておく。
「あの騎士様のこと、お好きなんですか?」
この質問にも決まった答えがあるのだろうと思いつつ、イージスはリディアに問いかけた。だが、むしろマルフィの方が興味津々で、リディアの顔をのぞき込んでいる。
「そんな立ち入った話し、聞いちゃっていいのかね。で、どうなんだい?」
答えるのをやめさせるのかと思ったが、そうではないようだ。笑い出さないようにこらえながら、イージスはリディアの様子をうかがった。
「心から尊敬できる方です」
その言葉と共に頬がフワッと上気し、リディアはそれを隠すようにうつむいた。微笑みが消え、寂しげに目を細める。
その表情で、リディアの愛情は本物なのだとイージスは確信した。マルフィがポンと背中を叩くと、リディアは何もなかったかのような微笑みで顔を上げる。マルフィはリディアに笑みを見せてからイージスに向かって口を開く。
「あの子がこの街に来た頃、五歳くらいだったかね。いくら言い聞かせても毎日夕方になると家を抜け出して、ケンカしてケガして夜中に帰ってくるっていう、とんでもない不良息子だったんだけどね。いつから尊敬だなんて言われるようになったんだか」
そう言うとマルフィは、さも可笑しそうに笑い出した。リディアは変わらぬ微笑みを浮かべたままだ。
「不良息子、ですか」
「ほんの三年くらいなんだけどね、うちにいたんだよ」
リディアの感情の揺れは幾らか見えるものの、ハッキリと微笑みを崩すことがない。このリディアの笑みは、気持ちを守るための鎧なのだろう。
お茶を口に運びつつ、ふとマクヴァルが繰り返す、巫女の拉致を、という言葉が脳裏によみがえった。拉致されてしまえば、かなりの確率で成婚の儀を行わなくてはならなくなるだろう。そのくらいならニーニアのためにも、軍とは別個に単独で拉致を実行した方がいいのかもしれないと思う。
成婚の儀などと、もっともらしい名前があっても、結局は巫女への暴行でしかない。シェイド神の神官でもあるマクヴァルが、一時期結婚していたという噂も、イージスにとっては儀式を疎む原因になっていた。
「ファル!」
その声と共に、すぐ側の花々の間から緑色の物体が飛び出した。呆気にとられて見つめた遠ざかっていく後ろ姿で、それが子供だったのだと理解する。
「驚かしてしまってごめんなさい。ちょっと失礼します」
リディアはイージスが返事をする間もなく、その子供の側に駆け寄っていった。そこに一羽の鳥が舞い降りてくる。鳥に詳しいわけではないが、狩りをしたり手紙を運ばせるために、よく使われている鳥と似ている気がした。
リディアは子供と一緒にかがみ込むと、その子供から白いモノを受け取っている。どうも何か紙のようだ。鳥が手紙を運んできたのだろう。
その手紙を開いたリディアの顔色が変わった。側に来たルーフィスへと視線を向け、何か言っている。その手紙を受け取って確認したルーフィスは、リディアをエスコートして神殿の中へと入っていった。
「リディアさん、どなたかと手紙のやりとりを? もしかしてあの騎士様と?」
「さあ? あのちまっちゃい子は動物好きでね、よくいろんなのが訪ねてくるからねぇ」
ちまっちゃいとは、小さいということだろうか。その子供は、確かに目に映っているのに、ここにいるのかハッキリしないといった、どこか不思議な存在に見える。すぐ側から飛び出した時も、草の音一つたたなかった。その子供はイージスの見ている間に、サッと草の影へと入っていった。
***
窓の外、裏庭にテグゼルの姿を見つけ、マクヴァルは部屋のドアを開けて廊下に出た。今裏庭に向かえば、外に出る扉あたりですれ違えるだろう。どんな小さなことでもいい、マクヴァルは情報が欲しかった。
マクヴァルにとって、鏡を無くしてしまったのはひどく痛い事実だった。呪術の道具とバレてしまったことで、壊されてしまったとは聞いた。そのカケラだけでも手に入れたかったが、フォースが幽閉されている場所と繋がっていることもあり、石室に入る手だてもなかった。
鏡が無くては、人の動きを見張る手だても無い。自分の目に頼る以外なかった。
外に出る扉が目に入ってから、マクヴァルは歩く速度を緩めた。必要な時以外は外に出ない自分が、中庭で人に会うのは偶然とは言い難い。出入り口より手前にある左へ折れる廊下あたりでテグゼルを見つける、それが時機としては一番だ。
はたして狙い通り、もう少しで左廊下という場所で扉が開いた。テグゼルと一緒に、ニーニアも入ってくる。
ニーニアは不機嫌な顔をマクヴァルに向けた。マクヴァルが丁寧にお辞儀をすると、ツンとそっぽを向く。テグゼルはニーニアとの間に立って敬礼を向けてきた。
「レイクス様の様子はどうだ?」
マクヴァルは、さも心配しているように顔をしかめてたずねた。テグゼルは少し考えるように首をかしげ、口を開く。
「お元気でいらっしゃると思います。陛下とアルトス、ジェイストーク以外は声さえうかがうこともできないのですが、警備の時は部屋で歩かれたり、動いている音が聞こえていますので」
「ケガの具合は?」
「ケガしてるの?!」
思った通り、ニーニアが口を挟んできた。テグゼルはニーニアに笑みを向ける。
「それも大丈夫だと思います。薬を運ぶこともなくなりましたので」
「そうか。それは良かった。なにせ神殿の人間がレイクス様が逃げたと勘違いさせるようなことをしてしまったので、罪の意識があってな」
マクヴァルはため息混じりの声を出した。テグゼルが首を横に振る。
「いえ、そのことについては、レイクス様は誰のせいでもないとおっしゃってくださったそうです」
ふと、曲がると見せかけた廊下から、ジェイストークが近づいてくることにマクヴァルは気付いた。
「責任問題を問われるようなことはありません」
テグゼルが継いだ言葉を聞きながら、本当ならフォースの側近であるジェイストークに実情を聞くのが一番確かだとマクヴァルは思った。だが、フォースが拉致された一件から、口すらきいていない。
マクヴァルは、側まできて立ち止まり、ニーニアとテグゼルに挨拶をしたジェイストークをうかがうように視線を向けた。ジェイストークはいかにも話したくないふうで面倒臭そうに口を開く。
「このあいだのことですか? レイクス様もその場ではお怒りでしたよ。今はすでに何も口になさいませんが。追求するおつもりは無いようです」
マクヴァルはジェイストークの返事が聞けてホッとした。人前で仲たがいしているように見られたくないのはジェイストークも同じだったのだろう。マクヴァルはこの機会に感謝した。
「それなら安心だ。神殿が嫌われていると、何を言われるかが不安だからな」
「もっと早くに、その不安を解消してくださればよろしかったのに。ただお会いいただくだけで誤解も解けたはずです」
ジェイストークのこの言い方だと、神官としての立場に対しての信頼は薄れていないだろうと、マクヴァルには思えた。
「それは神殿側も同じだ。早くに巫女を差しだしていただければ、ここまでこじれることはなかった」
マクヴァルはいつもの調子でジェイストークに言葉を返した。
「何かありましたら、お知らせしますよ。警備が厳重ですから、もう何も起こりようがないとは思いますけれどね」
「何も、事故を期待しているわけでは無いぞ」
マクヴァルは薄笑いを浮かべると、軽く礼をして廊下の角を曲がった。
ジェイストークとテグゼル、ニーニアは、マクヴァルが来た廊下を進んでいく。三人の足音が少し離れてから、マクヴァルは廊下の角に戻り聞き耳を立てた。
「そういえば、神の力はまだレイクス様に及んでいるのだろうか」
その事実は、皇族側近の騎士にだけは知らされていると聞いている。マクヴァルも、どうにかやめていただけるようにお願いすると、形だけは確約していた。
「どうなのでしょう。最近はレイクス様自らが、何もかもお隠しになっているご様子ですので、なんとも」
やはり女神の媒体のせいで、あまり効き目はないようだとマクヴァルは思う。だが、その力を送っているうちはシェイド神の存在を強く感じずにはいられないだろう。
「ケガって、ひどいの? 大丈夫なの?」
ニーニアが不安げにたずねる。のぞき見ると、ジェイストークがニーニアに笑みを向けているのが見えた。
「いえ、ひどくはないですよ。まだ数日ですから、完治してはいませんが」
「お見舞いはできないの?」
「申し訳ありませんが、しばらくはお会いになれません。陛下はレイクス様の安全のためにも、一年は幽閉を解かないとおっしゃっていますので」
そう、とニーニアの寂しげな返事が聞こえた。なんとか気を紛らわせようとするテグゼルの声が、何を話しているのか聞こえない程に小さくなっていく。
今回のように、先に食料や人員を送り込むなどの準備ができないため、幽閉されている間は手を出せそうにない。
しかし、幽閉の期間が一年ということは、巫女の拉致を終えてからと考えているのだろう。成婚の儀の後ならば、シェイド神との和解も期待できると思っているに違いない。
降臨を解いてしまえば、フォースの戦士としての契約も消え、必要以上に怖れることもないし、楽に始末できるようになるのだから大歓迎だ。
だが、成婚の儀がそこまでの意味を持つのだ、手をこまねいている必要はない。すでにジェイストークを使って密命を出してある。その密命を携え、ナルエスがルジェナに向かっているのだ。
もうすぐいい知らせがくるはずだ。無くしてしまった鏡に映った巫女の姿を思い出し、マクヴァルは冷笑を浮かべた。
***
アルトスが小屋の中の御者に声をかけて外に出ると、フォースは手にしていたパンをすでに平らげた後だった。
「ライザナルの皇太子が立って食ってんじゃない」
「馬で走りながら食うよりはいいだろうが」
予想していた返事に、アルトスはため息をつく。
「ここからは馬車だ。もっと食べるなら用意する。鎧を外せ」
旅をするために作られた軽い鎧、元々メナウルからフォースが着けてきたその鎧のネックガードに、アルトスは指をかけて引っ張った。
「どうして馬車だ。まだ行ける」
フォースはアルトスの手を払いのけると、サッサと前を馬車の方へと歩いていく。
「早く着きたいのは分かる。だが、疲れているだろう。この辺りが限界だ」
「大丈夫だ」
フォースとやり合いながら、アルトスはジェイストークが、レイクス様はきっと無理をなさりたがる、と言っていたことを思い出していた。
「バカを言うな。ここで馬車を使わなければ、二ヶ所先まで休めないんだぞ? お前はそんなに保たない」
「だから、そのくらいは大丈夫だって。わかんねぇ奴だな」
馬に繋いである馬車の金具を外そうとフォースが伸ばした手を、アルトスは乱暴につかんで引き留める。
「分かっていないのはどっちだ。馬車に乗れ。それともメナウルは、お前が行かないと巫女が拉致されてしまうほどの力しかないのか?」
「そんなことは言ってないだろ」
フォースがふりほどこうとする手に、アルトスは力を込めた。
「着いてすぐに剣を合わせるようなことがあったら、間違いなく斬られてしまうぞ」
その言葉に胡散臭げに顔をしかめ、フォースがアルトスに向き直る。
「あのな。どうせまだメナウルには着けないだろ」
「ライザナルに敵はいないと誰が言った? 乗れ!」
「イヤだ」
フォースはそう言い捨てると、またアルトスに背を向ける。アルトスはフォースの腕を放して剣の柄に手をやり、カチャッと剣身で音を立てた。フォースの身体に緊張が走るのが分かる。
「私に勝ったら妥協してやろう」
「は? じょ、冗談だろ? なに言って……」
条件反射でつかんだのだろう、フォースは剣の柄から手を離し、もう一度アルトスに向き直った。アルトスはフッと鼻で笑って見せ、馬車の扉を開ける。
「余力がないから断るんだ」
「バカ言え、お前とやり合ったら、せっかく残っている体力、全部使い果たしちまうだろうが」
頼んだ御者が小屋を出てくるのを見て、アルトスはフォースを捕まえ、馬車に押し込めようと力を込める。
「な、なにしやがるっ」
「言い合っている時間がもったいないとは思わないのか? さっさと乗れ。私は絶対に折れないぞ」
ほとんど無理矢理乗せられ、不機嫌なフォースを無視して、アルトスは、例の場所まで、と御者に声をかけて馬車に乗り込んだ。
「承知いたしました」
御者の返事が聞こえ、馬車はゆっくりと動き出す。
「例の場所、か。馬がいる場所をジェイに教えてもらっておけばよかった」
そうつぶやいたフォースに、アルトスはムッとした顔を向ける。
「教えられるわけがないだろう。お前は必ず無理をすると、ジェイが心配していた。まったくその通りだ」
フォースはアルトスを睨みつけると、あきらめたのか大きくため息をつき、鎧を外しはじめた。
「だから無理なんて言ってない」
外した鎧を足下に置くと、フォースは足を床につけたまま上半身だけを座席に横たえた。アルトスは椅子の下を開けると毛布を取り出す。
「少しは言うことを聞け!」
アルトスは手にした毛布をフォースの顔に向かって投げつけた。フォースは上半身に被さった毛布を、転がったまま器用に広げて身体に掛ける。
「聞くも聞かないも、問答無用で聞かされているだろうが。あぁ、あったかい……」
フォースは身体が座席に沈んだように見えるほど、大きく息を吐いた。
「マクラーンに戻る時は隠密行動になるから、このルートは使えないよな」
フォースは窓の外に視線をやっている。その視界には、道ばたの木々と空しか見えないだろう。
「マクラーンは遠い、意志を持てってのも分からない、ジェイの父親の意識が残っているかもしれない。難点だらけだ」
フォースはつぶやくように言葉を継いだ。斬れば解決する問題ではない。斬るだけでよければ、ジェイストークか、もしくは自分が斬っただろうとアルトスは思う。
「マクヴァルの意識と一緒にジェイの父親の意識も斬るつもりか」
「それ。でかいよな。それが解決しないと斬る意志も持てない。どうにもならない」
「どうにも?」
アルトスは頭を抱えたくなるのをこらえて、言葉を継ぐ。
「ずいぶん呑気だな」
「考えているようには見えないって?」
眉を寄せたフォースに、アルトスは、そうだ、と強くうなずいて見せた。フォースは大きくため息をつく。
「……、そりゃそうか。今はリディアのことが心配で、他のことまで気が回ってない」
「本当に考えてないのか?!」
アルトスが思わず荒げた声に、フォースは目を細めてアルトスを見た。
「うるさいな、後でだ」
「まったく。頼りにしていいんだか悪いんだか、わからん」
アルトスは、フォースの視線がまた外に向いたのを感じ、反対側の窓から外を眺めた。馬車は結構な早さで走っている。これならそう遅れたりはしないだろうとアルトスは思った。
「寝なくていいのかよ」
フォースの声に、アルトスは外を向いたまま返事をする。
「私はドナの手前まで行って、お前をメナウルに送り出せればそれでいい」
「寝ろよ」
「心配は無用だ。お前は自分の心配だけしていれば、?」
フォースの表情をうかがうと、しっかりと目を閉じて眠っているように見える。顔を寄せてのぞき込むと、寝息が聞こえてきた。
「いつの間に」
もしかしたら、寝言に返事をしていたのかもしれないと思うと腹が立ち、アルトスは思わずフォースの頭を軽く叩いた。
「んん……」
フォースはほんの少し眉を寄せただけで、起きる気配もない。ドッと身体の力が抜け、思い切りため息が出た。
それにしても。眠っているとフォースは顔が子供に戻る。エレンに抱かれて眠っていた頃の面影さえある気がする。
(この子をお願いね)
その頃エレンに何度となく言われた言葉が、脳裏によみがえってきた。
だが、いったい何をしてやれるというのだろう。メナウルに入ってしまえば、守ってやることすらできない。詩の通りにライザナルへ戻っても、隠密行動になるのだ、守るどころか、どこにいるかさえ把握できないかもしれない。
それでも。神が降臨を解き、ディーヴァに帰ってしまったら、その時こそ何か力になれるだろうか。
まるで神が創世を終えて生まれたような世界に、誰もが適応していけるわけではないだろう。その一歩をまず踏み出さなくてはならない運命を背負ってしまっているのが、このフォースなのだ。
だが、それを重いとは言わせない。それだけのモノを、フォースが持っているのは紛れもない事実なのだから。
少し眠ろうと目を閉じるその一瞬、アルトスは、フォースの髪を撫でて微笑んでいるエレンが見えたような気がした。