レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     2.帰郷

 イージスは、ヴァレスの街をぐるっと取り囲んだ防壁のすぐ内側、街の北西に位置する場所にいた。道の真ん中で立ち往生してしまった荷台を、必死になって押す振りを続けている。いつもより少し短いスカートをはき、布地に余裕のあるブラウスという、街の女に見える範囲では極力動きやすい格好だ。
 もしも拉致が行われることをフォースから知らされていたとしたら、巫女を神殿に置いたままにはしないだろうと、ここ数日、兵士と交替での見張りが続けられていた。
 それは無駄にはならなかった。昔フォースが住んでいたという皇太子とその妹姫のいる家に、巫女が移されるのを確認できたのだ。拉致が失敗する確率は格段に減っていることは間違いなかった。
 イージスが動きやすい、しかし街の女達と同じ格好でここにいるのには理由があった。防壁から敵の軍隊が見えたら、まず間違いなく伝令が走る。現在巫女がいる家に行く知らせが通るだろうと、簡単に目星を付けられるほど好都合なのがこの道なのだ。
 戦闘が始まる危険が高まれば、街には外出禁止令が出される。もし伝令が来なかったとしても、危険が迫っていることは容易に知れるだろう。だが、それまでには一瞬のができるのだ、そこをついて巫女をさらう、それがイージスの立てた計画だった。
 そしてその決行が今日、この時間だった。拉致を行うためにえた人員は、作戦実行にはイージスが選んだ精鋭七人だけが回され、残りのほとんどすべてがおとりに使われる。
 七人のうちイージスを含め二人だけが、ここで伝令を待ちかまえ、後の六人は、玄関を守る利用する予定の兵士を除いた、家の周りにいる見張りの始末をし、隙あらば巫女がいる家、人質が取りやすい台所近辺にり込んでおく算段になっている。決行の時間を過ぎ、一人二人はすでに侵入を果たしただろうとイージスは思う。
 やがて馬が一頭、相当な勢いで向かってくるのが見えてきた。道の真ん中を占拠する荷台が目に入ったのだろう、馬は速度を落とし、イージスが待っていたその場所の手前で止まった。乗っているのは神殿に出入りして知り合った、フォースの隊の兵士、ブラッドだ。こんなに好都合なことはない。
「あれ? イージスさんじゃないですか?」
「あ、ブラッドさん。荷台が動かなくなっちゃって」
 イージスは兵士と二人、荷台を押す振りを続けた。ブラッドは荷物を回り込もうと、馬を降りて手綱を引く。
「申し訳ないが、急ぎの用事があるんです。イージスさんも一度家に戻られた方がいい」
 その言葉で、ブラッドが伝令なのは間違いないだろうとイージスは思った。荷物を回り込んだブラッドの前にイージスが立ちはだかる。
「仕事を投げ出すわけにはいきません。きちんと巫女を拉致して帰らなくては」
「なっ?!」
 ブラッドの後ろで、仲間の剣の切っ先が斜めに振り下ろされた。
「あんたは……」
 ブラッドの視線がうつろになり、その場に倒れ込む。背中には大きな傷が走っていた。
「先に行く!」
 イージスは兵士に声をかけると、ブラッドが乗ってきた馬に乗り、その脇腹をった。勢いよく駆け出す馬上から振り返ると、残った兵士が倒れたブラッドを道端仰向けに転がしているのが見えた。
 すぐ死んでしまうほどには斬っていないはずだ。これで土をって血痕を隠せば、荷台を押すのをあきらめて寝てしまったように見えるだろう。だが、そう見えるのは、ブラッドに血の気が残っている間だけだ。
 巫女を拉致して防壁の外に出るまで、ここからは時間の勝負だ。イージスは馬を急がせた。
 巫女がいるその家は、イージスが着いた時点で、まだ何事も起こっていないように見えた。家の塀に寄り掛かって休んでいるように見える仲間が、振り返りもせずヒラヒラと四本の指を振ってみせる。
 すでに四人侵入している、その手はその人数を表していた。それだけ侵入できていれば、充分正攻法で行けるだろう。自分が到着したことは、人数を教えた見張りが中に合図する手筈になっている。
 イージスは馬ごと門をくぐり、玄関まで馬を進めた。玄関側にいた兵士が、何事かと剣を抜いて駆け寄ってくる。
「ブラッドさんからの伝令です! かなりの数の兵がヴァレスに向かってきていると」
「ブラッドはどうした!」
「私の荷台のせいで落馬してしまって。早く中に知らせてください!」
 イージスの勢いに負けたのか、その兵士は玄関を開け放って中へと入っていく。イージスもその後に続いた。
「なんだって?!」
 大きな声が見張りの入った部屋から響いてくる。イージスが中をのぞくと、椅子をひっくり返して立ち上がったバックスが見えた。
「くそったれっ、メシの時間だってのに」
「食事は後でね。死んだら無駄になるんだから」
 食事を運びかけていたアリシアが、そう言い残して台所に戻っていくのを、身なりの非常にいい、たぶん皇太子サーディだろう男が目を丸くして見つめている。
「了解、必ず食うから用意しとけよ」
 バックスは不敵な笑みを見せてそう言うと、玄関を見張っていた兵の後についてイージスのいる玄関の方へ向かってきた。イージスが剣を抜くと、後ろから着いてきた兵士もイージスにならって剣を抜き、玄関に出てくる兵を阻止しようと、もう一つあるドアに向かう。
 イージスは、先に戻ってきた兵士にドアの陰から当て身をくらわした。倒れる兵士を見たバックスは、驚きつつも剣を抜き放つ。
 イージスは、攻撃に転じようとしたバックスを止めるように手のひらを向け、顔と剣で奥を指し示した。マルフィとアリシアが、三人の兵士に拘束されて姿を現す。
 抵抗できなくなったバックスは、剣を持った手を下ろしつつも、背後にサーディをかばっている。一人の兵士がバックスの剣をもぎ取った。
「あんたは……」
 バックスの問いに、イージスは微笑んでみせる。
「巫女に大切な用事があるのです。二階にいらっしゃるんですよね? 連れてきてくださいませんか?」
「ふざけるな。巫女と交換できる人間なんて、いるわけがないだろう」
 バックスの言葉に、イージスはチラッとだけマルフィ、アリシアに視線を送った。
「いいんですか? この二人を犠牲にしても」
 そう言ったイージスに、歯噛みしたバックスが憎悪の視線を向けてくる。こんなところで時間をかけるわけにはいかない。イージスは肩をすくめてバックスに背中を向けた。
「まぁいいでしょう。あなた方に罪悪感を残さないためにも、直接来ていただいた方がいいですね」
 イージスは一人の兵を連れ、アリシアとマルフィを拘束している二人の兵を残して玄関ホールに戻った。ブラッドを斬った兵士も、そろそろここに着くはずだ。そう思いながらイージスは大きく息を吸い込む。
「リディア様っ、おえにあがりました! こちらにいらっしゃることは分かっております。早くきていただけないと、幾人か命を落とされることになりますよ!」
 あまり大きな家ではない、一枚ドアをてていたとしてもリディアに聞こええただろうとイージスは思った。
 耳を澄ます中、ギャッ、っと、短い妙な悲鳴が聞こえた。侵入した兵士の声に似ている、イージスがそう思った時、オープンな階段の上にリディアが姿を現した。ゆっくりと階段を下りてくる。
「なんで出てくるの!」
 ある程度下りたところで居間から見えたのだろう、拘束されているアリシアがそう叫んだ。リディアはアリシアに笑みを向けるとイージスの前に立つ。
「イージスさん。その人たちを解放してください」
 リディアが緊張した顔でそうハッキリと口にし、イージスは微笑みを浮かべた。隣にいた兵士がリディアの腕に手を伸ばす。その手にバチッと白い火花が飛び、兵士は慌てて手を引っ込めた。
「これはいったい……」
 眉を寄せたイージスに、リディアは一つ息をついた。
「シャイア様のお力の一つです。れることを許したくない人間に対して、白い火が飛ぶんです」
「では、やめていただきましょう」
「これはシャイア様の意志であって、私の意志ではありません。私に止めることは不可能です」
 リディアの返事に、イージスの隣にいた兵士がチッと舌打ちをすると、低い声をリディアに向ける。
「さっきのは俺たちの仲間かっ」
「そうです。いきなり羽交めにしようとなさったから、ひどく反応されたのでしょう」
「貴様っ!」
 兵士のつかみかかろうとした手が、思いとどまった。リディアは少しホッとしたように息を吐くと言葉を継ぐ。
「ですが、生きておいでだと思います。シャイア様は人の命を取るようなことはなさいませんから」
 イージスは兵士と顔を見合わせた。ライザナルにとっては、シャイア神は敵だ。逆にシェイド神ならメナウルの人間など八つ裂きだろうと思う。動かない状況に焦れたのか、リディアは眉を寄せた。
「私は逃げません。お願いですから、その人たちを離してください」
「こんな状態であなたが逃げないなんて、信じられるわけがないでしょう?」
 イージスはリディアにそう言うと、兵士を振り返った。
「用意していた縄を。なんとかり上げて引いていくしかない」
 兵士はイージスに簡単な敬礼を向けると、慌てて外に飛び出していった。

   ***

 フォースとアルトスがルジェナに着いた時は、すでに出兵が終わっていた。だが、ほんの少しの時間差だし、隊はドナを大きく回り込んで進む予定になっている、大きな衝突が起こる前には止められるだけの、時間の余裕があった。
 まっすぐ隊を止めに走って欲しかったが、アルトスはとして聞き入れなかった。結局ヴァレスの防壁まで着いてきて、そこから隊に向かったのだ。
 ヴァレスから軍隊が見えてはしまうだろうが、それでも止められるだけの距離は優に残っている。隊のことはアルトスを信頼して任せればよかった。
 だが、イージスを含めて八人の先発隊が存在していた。まずは少人数で拘束り、軍の衝突の合間をって連れ出す、そういう魂胆なのだろう。
 問題はその隊の行き先だった。ここを出る時点では神殿へ向かうのか、それとも現在リディアのいる昔自分が住んでいた家へ行ったのかが報告されていなかったのだ。
 家を移ったことが、バレている可能性もある。しかも、いきなり警備を増やすと敵に悟られる可能性があるため、大幅な増員はされていないはずだ。もし先発隊がそっちへ行っていたらと思うと背筋が冷たくなる。とにかくフォースはまっすぐそこへ向かうしかなかった。
 フォースは、子供の頃から知っていた、防壁がれているところからヴァレスに入った。内側にも外側にも草が茂っていて隠れているためか、ずっとそのままになっている。
 そこをくぐり抜け、外壁に沿って少し行くと、荷台が道を占拠しているのが見えた。
 すぐ側で土を蹴っていた男が、こちらに気付くこともなく、身をひるがえして家の方へと走っていく。身なりは普通だが、腰に差している剣でイージスの仲間だろうと見当が付いた。やはり行き先は神殿ではなかったのだ。
「隊長?!」
 その声に振り向くと、ブラッドが青ざめた顔で座り込んでいる。
「ブラッド?! 大丈夫か? さっきのは」
 フォースが差しだした手に、ブラッドは首を振って見せた。
「足、くじいちゃって。息も上がってるし。早く行ってください、リディアさんが」
「悪い、先に行く」
 フォースはブラッドの怪我に気付かぬまま、家に向かって駆けだした。
 家の外には見張りらしき男が一人、目だけをキョロキョロさせて立っていた。フォースは事も無げにその前を通り過ぎ、の低くなっている部分から二、三歩足をかけるだけでサッと乗り越えた。振り返った見張りが慌てて内側へ入ってくる。
 フォースは塀のに沿って門の方向へ走っていた。入ってきた見張りを塀の陰で見送り、背中から首筋に一撃を食らわす。見張りが伸びるのを見て剣を抜くと、フォースは玄関に駆け寄り、家の中をうかがった。
 すぐにリディアが視界の中に飛び込んできた。ブラッドの所から来た男の服に散っている返り血を見つけ息を飲む。ブラッドは斬られていたことを隠していたのだ。早く手当てしなくてはならない。
 その男と兵士がを手に、なんとかリディアを縛ろうと四苦八苦している。シャイア神の力だろう白い火花と共にバチッと音がし、飛び退いた兵士が手にしていた縄がれて落ちた。
「もういい!」
 イージスがその兵士を押しのける。
「連れ帰れないのなら、ここで斬るまでだ」
 イージスが剣に手をやったのを見て、フォースは中に飛び込んだ。リディアを斬ろうと向かってくる剣身を、すんでの所で受け止める。
「退け! ライザナルへ戻れ!」
「我々はレイクス様の命令を、?! レイクス様!」
 剣を止めた相手がフォースだと気付き、イージスは慌てて剣を引いた。
「俺はそんな命令は出していない。剣を収めろ!」
 イージスがその言葉にしたがったのを見て、周りの兵士も剣をめた。これで少しは落ち着いて話もできるはずだ。
「フォース……?」
 小さなつぶやきが耳に届いた。ずっと聞きたかった声だ。フォースはほんの一瞬だけ後ろを振り返り、驚いているリディアの顔を見ると、剣を腰に戻し、後ろに向かって手を差し出した。少しの間を置いて、細くかしい指がんでくる。
「レイクス様が逃げていらしたために陛下から命令が出たのでは?」
 兵士のイージスへの耳打ちに、フォースは兵士をみつけた。
「そうではない。俺はメナウルの皇帝に陛下の親書を届けに来たんだ」
 フォースは簡易鎧の内側から、親書を取り出して封印を見せた。それをのぞき込んだイージスが、確かにクロフォードの封印がされていることに目を見張る。
「まだにはできないが、陛下は戦の終結を望んでおられる。事を荒立てるような真似は許さない。今すぐ一番近い門から外へ出す。ライザナルへ戻れ! これは命令だ!」
 イージスはフォースに敬礼を向けると、行くぞ、と兵士に声をかけて外に飛び出した。一緒にいた三人と、マルフィ、アリシアを人質に取っていた兵士二人が後を追って行く。
 これで完全に撤退できれば、拉致に動いたという事実が知れても、誤解があったとしてなんとかコトを収められるかもしれない。
 退いていくイージスの背中を見て、フォースはリディアに向き直った。手にした親書をリディアの手に握らせる。
「預かってて。用事を済ませて戻る」
「はい」
 リディアはしっかりうなずくと、その親書を胸に抱きしめた。
 フォースは身をひるがえし、無理矢理退いていく兵の後を追って飛び出した。イージスが助け起こした見張りがフォースに気付く。
「さっきの!」
 指差したその手をイージスはバシッと叩いた。
「レイクス様だ、失礼だぞ!」
「いいから来い!」
 フォースは、目を丸くした兵士とイージスを追い抜き、先に進んだ。
 防壁にぶつかって右と左に別れる道に来ても、兵士達は迷うことなく左に折れ、一番近くの門へと向かっている。
 もしかしたら予想とは違い、北のライザナル側ではなく向かっている門から出るつもりだったのかもしれない。そう思うと、間に合ってよかったという安堵の気持ちが湧き上がってくる。だが、ブラッドに怪我をさせてしまったのは間違いない。早く手当てを受けさせなければと、焦りは大きくなっていた。
 門が見えてきた。勤務形態が変わっていなければ、自分の隊だった兵士が出てくるはずだ。はたして、飛び出してきたのはアジルだった。剣を抜けずに立ち止まった兵士の前に、アジルが立ちはだかる。
「通して欲しい。彼らを帰したいんだ」
 フォースは兵士の前に出ながらアジルに声をかけた。アジルは一瞬目を見開くと、疑うように目を細める。
「納得できる理由を言ってください。だいたい、あなたは誰です? 変わっていないと誰が」
「後からいくらでも説明する、ブラッドが斬られてるんだ!」
 最後まで聞かずにフォースが言った言葉に、アジルは目を見張った。
「なんですって?!」
「斬られていることに気付けなかったんだ。頼む、早く手当てしないと」
 必死になっているフォースに、アジルはうなずいて見せ、いったん詰め所に引っ込んだ。
「レイクス様、イージスともう一人、足りません」
「えっ?! なんで……」
 兵士を見回すと、ザッと見て六人だ。一人がハッとしたように手を叩く。
「上でシャイア神に!」
「そうだ。じゃあイージスは?」
「途中までは俺の後ろを走っていた」
 見張りをしていた奴が、そう口にする。迷うような道のりではなかった。だとしたら、何か目的があって離れたのか。
「とにかくルジェナに戻ってくれ。イージスともう一人は、俺が後から返す」
 重たい門扉が動き出した。人が通れるだけ開くと、次々と通り抜けていく。
「それと、くれぐれも親書のことは内密に頼む」
御意
 最後の一人がフォースに敬礼を向け、門扉の向こうに消えた。フォースは詰め所に首を突っ込む。
「アジル、ブラッドを!」
「小屋に馬がいます」
 扉を閉める操作をしながら、アジルは小屋の方向を指差した。フォースは急いで馬を二頭引いて出た。駆け寄ってくるアジルに、フォースは馬にまたがりながら声を張り上げる。
「防壁内側の道、ここから北なんだ」
「了解」
 フォースはアジルが馬に乗るのを待たずに、馬を進ませた。
 まるで目印のように、荷物が道の真ん中に積んである。フォースは荷物の手前まで行くと、馬から飛び降りた。ブラッドが座り込んでいた場所まで行ったが、本人が見あたらない。代わりに血溜まりがあるだけだ。
「どこにいるんです? これは……」
 アジルはフォースの横に立って血溜まりに目をとめ、慌ててフォースに視線を向けた。
「隊長?」
「一体、どこに……」
 そうつぶやきながら、フォースはこの場所以外のどこも考えられなかった。
「は? この怪我では動けないはずでしょう?」
 アジルの言う通り、確かに動けるわけがない。
「だけど、いないんだ」
 フォースは、ただ呆然とブラッドがいた場所を見下ろしていた。
「あんたフォースさんだよね?」
 その声に、ようやくフォースは血溜まりから目を離した。いかにも街の人間といった感じの人が、側に来てフォースの瞳をのぞき込む。
「その目の色、やっぱりそうだ。いや、薄い茶色の短い髪をした女が、伝えてくれっていってたんだ。名前忘れちゃったんだけど」
 薄い茶色、短い髪、フォースは焦る気持ちを抑えて頭の中で繰り返した。
「女……? まさかイージス?!」
「そう、確かそんな名前だったな。その人が、ここにいた兵士の怪我をてもらうって、荷台に乗せて連れて行ったんだ」
 そう言いながらその人は、あっちの方、と街の中心部を指差した。中心部、神殿の近くには、アリシアの勤める怪我の治療を専門に行う施設がある。リディアが神殿からあの家に移ったのを知っているということは、ある程度の期間ヴァレスにいたのだろう、その治療院を知っている可能性も高い。
「ありがとうございます!」
 フォースは勢いよく頭を下げると、馬に戻り、町の中心部へと馬首を向けた。アジルも後をついてくる。
 こんな時こそ、本当ならシャイア神に無事を願うのだろう。だがフォースにとっては、こんなことが起こっていること自体が、シャイア神のせいにさえ思えた。
 フォースはとにかく治療院へと向かった。その建物が見えてくるにつれ、門の近辺に薄茶の髪の女が見えてきた。イージスだ。こちらに気付くと両手を振ってくる。フォースは側まで行って馬を止めた。
「どうして街を出なかったんだ」
「一刻も早く手当てをせねばと思いましたので」
 イージスは、馬を降りて手綱をつなぎながら聞いたフォースに、そう答える。
「そのために残ったのか?」
「いえ」
 イージスは一言だけ返すと、アジルの馬をつなぐのを手伝った。フォースはイージスの返事に眉を寄せる。
「こちらです」
 イージスはフォースの疑問を無視すると、先になってサッサと建物の中へ入っていく。フォースとアジルは後を追った。
 イージスの背中を指差して、アジルはフォースに首をひねってみせる。何者かと聞かれたのだろうと、フォースは小声で、ライザナルの騎士だ、と返事をした。アジルは声に出さずに口を、おんな、と動かすと、大げさに驚いた顔をする。
 イージスがいくつか目のドアの前に止まり、控え目な音でノックをした。中からの、はい、という男の声での返事に、イージスがドアを開ける。そこにはベッドが一つだけあり、ブラッドがうつぶせに寝かされていた。その背中をのぞき込んでいた男が、こちらを振り返る。
「あ、戻ったんだね」
 術師はフォースに目をやって表情を変えずに言うと、はい、と頭を下げたフォースにうなずいて見せ、ブラッドがいるベッドに向き直った。
「ちょっと、……、助かるかは分からないよ」
 術師の言葉に、怪我に気付けなかった後悔がれてくる。
 去っていった男が土を蹴っていたのは血痕を隠すためだと、少し考えれば分かったはずだ。それに、これだけの大きな怪我だ、いくら隠しても、どこかしこに血痕は残っていただろう。もしも気付けていたら、ブラッドをここに運んでもらうよう、誰かに頼むこともできた。だが。
(足、くじいちゃって。息も上がってるし。早く行ってください、リディアさんが)
 ブラッドは怪我を隠してくれたのだ。そうでなければ、リディアを斬られていたかもしれない。フォースは術師の横に立ってブラッドの顔をのぞき込んだ。
「リディアは無事だよ。ブラッドが先を急がせてくれたおかげだ」
 聞こえていないと分かっていても、フォースはそう語りかけずにはいられなかった。ブラッドは表情を微塵も動かすことなく、ただ眠っているように見える。
「なんか、安らかに眠っているようですねぇ」
「アジル、お前っ」
 言葉の響きに慌てたフォースに、アジルは両手の平を向けて左右に振った。
「あ、いえ、すごく安心してるってか、いい夢見てるって顔だと思いませんか?」
 そう言われ、フォースは改めてブラッドの顔を見た。確かにとても穏やかで、斬られたという顔には見えない。だが、痛みも分からないのならば、それだけ傷がひどいのだろうと思う。
 顔をしかめたフォースに、アジルは口をとがらせて肩をすくめる。
「ブラッドはきっと、リディアさんの所には隊長がいると思ってるから安心してるんだ」
 護衛という仕事をやめたわけではないのだから、いつまでもここにいるわけにはいかない。ルーフィスにもきちんと話さなくてはならないだろう。
「分かってる。そんな、追い出さなくても仕事返してもらいに行くよ」
「仕事?」
 驚いたようにイージスの声が大きくなる。
「冗談はやめてください、あなたは我がライ」
 フォースは慌ててイージスの口をふさいだ。イージスは口を押さえられながら目をしばたかせる。
「俺はフォースだ。どこにいようと、誰がなんと呼ぼうと、それは変わらない」
 フォースはそう言うとイージスの口を解放した。イージスは言葉に迷っているのか、何も言えずにいる。フォースはアジルに敬礼を向けた。
「また後で顔を出す。何かあったら知らせて欲しい」
「了解」
 アジルの返礼を見て、フォースはその部屋を出た。当然のようにイージスがついてくる。
「レイクス様」
「その名前を口にするな。それがどういう人間の名前かバレたら、城都へのき来が困難になるだろ」
 フォースの言葉に、イージスは少し間を置いてから、はい、と答えた。
 治療院を出ると、緩やかな風が頬をでて通りすぎていく。もうすぐリディアに逢える。そう思うと、家に向かう足が無意識に速くなった。だが、相変わらずイージスが後ろにいる。
「巫女の護衛に戻るおつもりなのですか?」
「仕事じゃなくても、俺がやるのは結局リディアを守ることなんだ」
 フォースの言葉に、イージスが、はぁ、と気の抜けた返事をした。
 フォースは、イージスが拉致目的の隊にいつからいたか知らないのだが、幽閉を解かれた辺りからイージスに会った記憶がないのは確かだった。
「とにかく、君がマクラーンを離れてから、状況が随分変わっているんだ。二階に残ってしまったっていう兵士を連れて帰ってくれないか?」
「でしたら、納得できる説明をいただけませんか?」
 イージスが問い返した言葉に妙な響きがある。そういえば、ブラッドを治療院に運ぶために残ったのではないとイージスは言っていた。
「ここで何をするつもりだ」
「レイクス様がライザナルにお戻りになるまで、護衛につかせていただきます」
 護衛という響きに、フォースは驚いて足を止めた。その背中にイージスがぶつかってくる。
「申し訳ありませんっ」
 フォースが振り返ると、頭を下げたイージスが目に入った。
「なに言ってる、騎士に護衛は必要ない」
「いえ、陛下のためにもレイクス様を守らせていただきます」
 イージスは真剣な顔でフォースを見つめてくる。
「……、分かった、帰るのを納得できるように状況を説明する。まず、周りに誰もいなくても、その名前で呼ぶのはやめてくれ」
「はい」
 イージスは幾らかの笑みさえ浮かべ、フォースに向かって敬礼する。フォースはため息だけ返し、家に向かって再び歩き出した。