レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     3.腕の中へ

「では、親書のご返事を受け取られたら、巫女とライザナルへ」
「リディアが一緒に行ってくれるならな」
 自分が育った家に向かいながら、ことのいきさつをイージスに説明して返ってきた言葉に、フォースはそう一言返した。
 ほんの少し前まで、マクヴァルを斬るのは一人でもできるのではないかとの迷いがまだ残っていた。だが、会って触れてしまった今は、もう二度と離れたくはなかった。
 一人でいる時とは間違いなく違う自分がそこにいた。気持ちの揺れが一掃されるのだ。それに、リディアと二人、どうすれば幸せをつかめるか、離れていては追求できない。一緒にいないと、何をすればいいのか想像さえつかなかったのだから。
 だが、今後ろを歩いているのはイージスだ。フォースにはひどく鬱陶しかった。
「それは、私に彼女の機嫌を損ねるようなことはするなと、そういうことですか?」
 イージスが向けてきた疑問に、フォースは眉を寄せた。
「なに言ってる、君とは関係ないだろ? 君はただ帰ればいいんだ。リディアに会う必要もない」
 フォースがため息と共に振り返ると、イージスはまっすぐフォースに向き直り、微笑んでみせる。
「私はレイクス様の警護をいたしますので」
「だから、必要ないって言ってる」
「なんとおっしゃろうと、レイクス様はライザナル皇帝クロフォード様のお世継ぎであらせられます」
 その言葉に苦笑すると、フォースはまた家に向かって歩き出した。
「第一子だってのは否定しない。けど俺は継がないよ」
「しかし陛下のお気持ちは」
 イージスはフォースになんとか了解を取り付けようと、後ろにピッタリひっついて離れない。フォースは足を速めた。
「ライザナルの皇帝は、俺がメナウルの人間として育ったことをきちんと理解している。前ほど継ぐことを強要はしないはずだ。したがって護衛もいらない。君が気に病むことでもない。それも変化だ」
「ですが、レイクス様が陛下にとって」
「名前」
 フォースがさえぎった言葉に、イージスは口を押さえると困ったように眉を寄せる。
「なんとお呼びすれば」
「フォースでいい」
「では、フォース様と」
 速度を緩めずに歩きながら、一瞬不機嫌な顔で振り返ったフォースに遅れまいと、イージスはスカートのせいもあり小走りになる。
「どうか、敬称くらいは付けさせてください」
「いいけど。自分が呼ばれているように聞こえないな」
 フォースが家の門を中に入ろうとすると、中からマルフィが飛び出してきた。一歩下がったがねて抱き留めると、急に足を止めたせいで、また背中にイージスがぶつかってくる。
「も、申し訳ありませんっ」
 イージスがフォースと間を取って、勢いよく敬礼した。
「あんたライザナルの嘘つき女!」
 マルフィの、イージスを指差しての罵倒に、イージスはもう一度、今度は無言で深々と頭を下げる。
「フォースっ、そんな女殺しておしまいっ」
 頬をらましていったマルフィに苦笑を向けると、フォースはマルフィを家の方に向けて背中をポンポンと叩く。
「駄目だよ。これ以上事を荒立てたくないんだ」
「もういいだけ荒立ってるよ! あの旦那、私はともかくアリシア一人助けられないなんて!」
 マルフィは顔を赤くして怒りながらも玄関へと向かった。
「旦那?」
「ホントに情けないったらないよっ」
 フォースの問いが聞こえたのか聞こえなかったのか、何度もフォースを振り返りながらマルフィは玄関まで進んだ。その扉が内側から開けられ、アリシアが顔を出す。
「お母さん、まだそんなこと言って。あ、フォース! しかもさっきの……」
 フォースは後ろにいるイージスを無視して、アリシアに問いを向ける。
「マルフィさん、結婚したのか?」
「何言ってんだいっ。あたしゃ、あんな男はやだよ。フォースが結婚してくれるとずっと思ってたのに、アリシアったらあんな男と」
 マルフィが怒っているのは変わらないが、フォースの向けた質問のせいか、幾分勢いが無くなった。アリシアはれた顔でフォースを見やる。
「結婚したのは私よ私っ。なんで母さんがあの人と結婚するのよ!」
「だからあの人って」
 慌てたアリシアを見てフォースは、バックスがアリシアのことを気にかけていたのを思い出した。
「バックスか?!」
 目を丸くしたフォースを、マルフィはめしそうに見上げると、大きくため息をついて家に入っていく。後を追うように、アリシアが家の中に顔を突っ込んだ。
「リディアちゃんを差し出してしまったら、私たちだけの悲劇では終わらないことくらい分かってるでしょう!」
 その言葉を聞いて、いつだったか正義の味方になると言ったバックスの嫁という立場が、アリシアにはピッタリだとフォースは思った。もういい加減にしてよ、などとブツブツ言いながら、アリシアはようやくフォースと向き合う。
「あの人なら、そこの人が二階に忘れていった兵士を連れて行ったわ。……、じゃなくて聞きたいのはリディアちゃんのことか」
「いや、それも必要だよ」
 フォースの苦笑に、アリシアは肩をすくめてニヤッと笑う。
「やぁね。聞いたのはそれじゃないって、顔が言ってるわよ」
「言ってない」
 冷笑したフォースに、アリシアはノドの奥で笑い声をたてた。
「相変わらずね。進歩してないって言うか」
「お互い様だろ」
「あら、私は進歩したわよ」
 アリシアの言葉に、フォースは息で笑う。
「普通自分で言うかよ。そんなことよりリディアは?」
 眉をしかめたフォースに顔を近づけ、アリシアは可笑しそうにフフフと笑った。
「リディアちゃんなら神殿よ。ルーフィス様が連れて行ったわ」
「え? 親父?! ……」
 フォースは思わず聞き返して口をつぐんだ。現在の護衛はルーフィスなのだろうから、当然といえば当然だ。アリシアは満面の笑みを浮かべる。
「サーディ様、スティア様も一緒よ。まぁ、頑張って取り返すのね」
「そうする」
 気の抜けた返事をしながら、フォースはアリシアに手を振り、背を向けた。
 門を出ると、今度は街の中心部、神殿の方へと足を向ける。リディアを取り返さなくてはならないという義務感よりも、ここで逢えなかった寂しさを大きく感じていた。
 フォースは少し足を進めてから、やはりイージスが後ろをついてきていることに気付いた。だが、やり合うのも面倒で振り返ることなく、ただ足を運んでいる。
 後ろにいるイージスやブラッドのこと、そして積み重なった疲労がフォースの気持ちを重くしていた。これまでのことや拉致の動きのことも、すべて説明しなくてはならない。
 神殿の鐘塔部分だけが見えていたが、街の中心の広場に出ると全体が姿を現した。もうすぐリディアに逢えるのだ。少し前に触れた指先の感覚がよみがえってくる。
 フォースはいつも出入りしていた神殿の裏口へと向かった。門のところまでくると、扉の前から珍しい物でも見たように、じっとこちらを見ていた見張りの兵士が、ハッとしたように敬礼を向けてくる。フォースは返礼をして扉まで進んだ。兵士は扉をノックして、中に声をかけている。
 出てきたのはグレイだった。笑顔で扉を大きく開けてくれる。
「お帰り、遅かったね。みんな待って、……、顔色悪いぞ?」
「そうか? もしかして日に当たらない生活をしていたからかな」
「もとは色白だってか?」
 グレイは可笑しそうに笑うと、部屋の方へとフォースの腕を引いた。
「リディアはルーフィス様と部屋にいるよ」
 そう言いながら目に入ったのだろう、グレイは視線をフォースの後ろにいるイージスに向ける。しげな顔のグレイに、フォースは苦笑して見せた。
「帰ってもらおうと思ってるんだけど」
「いいえ、レイクス様がライザナルへお戻りになるまで護衛に付かせていただきます」
 イージスの言葉に、グレイは目を丸くしている。フォースは大きくため息をついた。
「まったく。リディア拉致の実行責任者が、なに言ってんだ」
「ええっ?! あ……」
 階段から下りてきたサーディが途中で立ち止まり、口を大きく開けたままイージスを指差す。その後ろに付いてきていたスティアが、サーディを追い抜いて駆け下りてきた。
「フォース、無事でよかった!」
 そのまま駆け寄ってきたスティアが、気を取り直したサーディが下りてくる階段の上を指差す。
「リディア、今ルーフィス様と話してるわ。ルーフィス様、怒ってるわよ」
「そりゃそうだろうな。でも、きちんと説明して分かってもらうほかない」
 いくらか頬をめた顔で言ったフォースを見てホッとしたのか、スティアは力のない笑みを見せた。
「フォース」
 少し離れたところにいるサーディに、控え目な声で呼ばれる。フォースが笑みを向けると、サーディは少しうつむいてからもう一度視線を合わせてきた。
「無事でよかった」
 そう言った声にを感じ、フォースはサーディの方へと足を踏み出した。
「何かあったのか?」
「え? い、いや、何も」
 サーディは慌ててフォースに手のひらを向け、左右に振る。
 その時、階段の上に琥珀色の髪がなびいて見えた。
「フォース!」
 リディアが階段を駆け下りてくる。フォースは階段の下まで行くと、下りてきたリディアを思い切り抱きしめた。
「リディア、逢いたかった。やっと逢えた」
「フォース……」
 リディアの声が震えている。フォースはリディアの頬に触れ、つたい落ちてくる涙に気付いて指で拭った。
「私、もう泣き虫じゃないの。ホントよ?」
 そう言いながら見上げてくるリディアの瞳から、次々と涙が溢れてくる。
 親書を預かった時のリディアは、とてもしっかりした様子だった。今は泣いているが、その言葉は嘘には聞こえない。
「ああ。分かってる」
 そしてその涙は、自分といる時のリディアが少しも変わっていないと教えてくれる。フォースは触れていたその頬とまぶたに、そっとキスした。
く明確な差別だよな」
 その声にハッとして振り向くと、グレイがじっとこちらを凝視していた。スティアは嬉しそうな顔で半分涙目で見つめ、イージスは見て見ぬ振りなのか視線が定まっていない。サーディは硬直したような青い顔をしている。
「ご、ゴメン。つい」
 フォースが言葉に詰まりそうになる息を飲み込んで謝ると、サーディは慌てたように手の平を向けた。
「い、いや、そうじゃなくて。俺も、シャイア神が拒絶したらと思ったらゾッとして」
「拒絶?」
 フォースの問いに、グレイは真顔を向けてくる。
「だからシャイア様さ。相手がフォースならキスしても白い光が飛ばないなんて。他の男なら落雷ものだと思う」
 白い光と聞いて、フォースはイージスがリディアを拉致しようとした時の白い火花を思い出し、リディアの顔をのぞき込んだ。リディアは苦笑を向けてくる。
「男の人だと全然駄目だし、女の人でも触れるのを拒否することがあるの。シャイア様に悪意を持っていそうな人にも火花が出るし」
 フォースは思わずリディアに触れていた手のひらを見た。
「平気だよ? 何もない」
「フォースだもの」
 リディアは疑ってもいなかったのだろう、事も無げにそう言って言葉をつなぐ。
「逢うのは話を聞いてからだってルーフィス様はおっしゃったんだけど、いいか悪いかなんてシャイア様が判断しますって出てきちゃったの」
 その言葉を聞いて、フォースはルーフィスがいるという階上を見上げた。ルーフィスは護衛という立場だが、フォースを見張っているわけでもない。信頼してくれているのか、それともシャイア神をこそ信頼しているのか。
「いつからなんだ? どうしてそんな」
「どうしてって、俺らにシャイア神の気持ちなんて分かるわけがないだろうが」
 グレイはフォースがリディアにかけた問いに即答すると、ククッとノドの奥で笑い声をたてて舌を出す。
「それにしても、一番危ない奴を許してちゃ世話無いよな」
 グレイが同意を求めたのか、振り返った先、サーディは、肩をすくめて苦笑した。
「シャイア神はフォースの機嫌を損ねるようなことはできないだろう。とにかく行動して欲しいって立場なんだろうし」
 サーディの言葉に、グレイは思い切り大きくうなずいて見せる。
「エサ、だな」
「また微妙な表現を」
 フォースはため息と共に言うと、リディアと視線を合わせて苦笑を交わす。
「フォースには食いもんだろうが」
 そう言い切ったグレイの頭を、サーディがベシッと叩いた。
「神官の言葉じゃない」
「いやいや。でも、エサがいいと釣れるモノもでかいよな」
 ノドの奥で笑い声をたてているグレイを横目で見て、フォースはスティアに視線を向ける。
「そうそう、レクタード。元気にしてるよ。あの親書は、レクタードと皇女の婚礼をって話しにも言及してる」
「ホントか!」
 思い切り驚いたサーディと違い、スティアはキョトンとした顔でフォースを見つめてくる。
「……
「あのなぁ。少しは喜べよ」
 フォースがため息と共に苦笑すると、スティアの目からいきなり涙がこぼれた。
「喜んでるわよっ。突然そんなことを言うからビックリしたじゃない。婚礼って、……、ちょっと貸してよっ」
 スティアはリディアの腕をとって引き寄せると抱きしめた。リディアは柔らかな笑顔でスティアの髪を撫でる。フォースは手持ち無沙汰になった手で、スティアの肩をポンと叩いた。
には苦労させられるかもな」
「レイクス様っ!」
 顔色を変えたイージスに、フォースは眉を寄せて視線を投げた。イージスは自分が口にした名前に気付いたのか、申し訳ありません、と、慌てて頭を下げる。
 フォースがため息をついてそっぽを向くと、イージスは一度上げた頭をもう一度下げたのか、低い場所から声が聞こえてくる。
「リディア様、先ほどは大変失礼をいたしました。スティア様、お話はレクタード様からうかがっておりました。ライザナルの騎士でイージスと申します。以後、お見知り置きを」
「騎士?!」
 スティアが素っ頓狂な声をあげ、自分で口を押さえた。フォースはため息混じりの声を出す。
「さっきリディア拉致の実行責任者って言っただろ」
「だって女性よ? 思いっきり別に考えてたわ。それで護衛するなんて言うのね」
 スティアに、はい、と返事をして、イージスは敬礼した。
「よろしくお願いします」
 不安げに見上げてくるリディアに苦笑を返し、フォースはイージスと向き合った。
「俺はまだ許していない。それに、ここに残ってると、もう一人と一緒に投獄になるかもしれないんだぞ?」
「それでもかまいません。陛下のお気持ちを考えると、このまま残らないわけには」
 イージスはすっかり決意してしまっているのか、手を握りしめている。それに気付いたフォースは、逆に肩の力を抜いた。
「護衛はいらないし、陛下のお気持ちってのも変化してるって言ってるだろ」
「いいえ。来たからにはご一緒させていただきます。幸運なことに、私がライザナルの人間だと知っているのは、数人の方達だけですし、髪も瞳も少し薄いくらいの茶色です、メナウルでも目立ちません」
「そういう問題じゃ……。大体、大人数なほど動くのに制限がかかっちまう」
 フォースは眉を寄せてリディアを見下ろした。リディアも困惑した顔でフォースを見上げてくる。グレイはサーディとスティアをソファーに座らせながら口を開く。
「もしかしてフォースがライザナルに二度と行かないとでも思ってるんじゃ? 別に見張ってなくても、フォースなら親書の返事を頂戴したら間違いなく届けに行くよ」
「いえ、そういうことではありません。ただ無事にお帰りいただけないと、陛下に申し訳が立ちませんので」
 イージスの言葉に、ふうん、と気の抜けた返事をすると、グレイはサーディの向かい側の椅子に落ち着いた。
「いいんじゃない? いても」
「おい。ただ必要ないだけじゃない、もし素性がバレでもしたら危険なんだぞ?」
 フォースは、グレイを横目で見てフウと肩の落ちる息をつく。その肩に、リディアが指先を乗せた。振り返ると、椅子が置いてある。
「フォースも座って。疲れてる顔してる」
 フォースは素直に礼を言ってその椅子に腰掛けた。リディアはもう一脚をソファーの側まで運ぶ。
「イージスさんも座りませんか?」
「いえ、私はここで」
 少し離れた場所、扉に近い位置で頭を下げたイージスを見てリディアは肩をすくめ、自分もフォースの左斜め後ろに椅子を置いて腰を落ち着けた。
 イージスはフォースよりも頭が高くならないようにするためか、その場にひざまずく。
「私の安全など、考えてくださらなくてかまいません」
 なにを言っても折れるつもりが無いのか、イージスは余裕の笑みを浮かべている。フォースは眉を寄せて、その笑顔を冷ややかに見た。
「じゃあ、言い方を変えよう。俺はリディアと二人でいたいんだ。君は邪魔だ」
「どうぞ、お気になさらず。居ないモノとして空気のようにっていただいてかまいません」
 予想していた最悪の返事が返ってきて、フォースは頭を抱えた。
「だから、扱うのが面倒なんだって言ってるだろ?」
 イージスはフォースに邪気のない笑顔を向ける。
「それに、私がいることで少しでもニーニア様のご意志が通るのなら、そのためにもお側にいないわけにはいきません」
「あのな。それのどこが、お気になさらず、なんだ? 思いっきり期待してるんだろうが」
 フォースは不機嫌な顔で吐き捨てるように言った。
「ニーニアって?」
 スティアがたずねた聞き慣れない名前にサーディが顔をしかめると、イージスは軽く頭を下げて口を開く。
「ニーニア様はライザナルの皇女、生まれながらにしてレイクス様の婚約者です」
「あぁ、あの八歳の」
 そういってグレイが苦笑した。フォースは憮然とした顔でイージスをみつける。
「だから、俺はニーニアとは結婚しないって言ってるだろ」
 フォースの視線を気にすることなく、イージスはフォースをまっすぐ見返した。
「レイクス様のご意志は承知しておりますが、今大切なのはニーニア様のお気持ちです。ニーニア様のお気持ちがレイクス様にある間は、私はレイクス様のお側にいます。それで少しでもリディア様とのことをえてくださるのでしたら、我が意を得たり、です」
「は? 冗談じゃない、意地でも控えるかよ」
 フォースはそう言ってしまってからハッとして、片手で両頬むように口を押さえた。サーディはブッと吹き出したあと、そっぽを向いている。リディアは真っ赤にした顔を両手で隠していた。
「変わってねぇ」
 グレイがそうつぶやくと、スティアはうなずきながら呆れ半分の笑みを浮かべる。
「売り言葉に買い言葉、にしてもねぇ」
「まぁ言葉にしようがしまいが、まわりで何を言おうが態度は変わらないだろうけど」
 クックとノドの奥で笑いながら言ったグレイに、サーディが、俺もそう思う、と何度もうなずく。
 フォースがリディアを振り返り、ゴメン、と声をかけると、リディアは頬に手を置いたまま微笑んで、小さく首を横に振った。
「帰ってきたと思ったら、なんて顔をしている」
 階上からの声に、フォースは階段の上を見上げた。ルーフィスがいる。なんのことを言われたのだろうかと、フォースは自分の顔に片手をやった。
「話を聞こう」
「え? あ、はい」
 返事をして立ち上がったとたん、フォースの視界が揺れた。一緒に立ち上がっていたのだろう、リディアが腕を支え、心配げに見上げてくる。
「大丈夫?」
「ああ。長いこと寝ている間も移動しっぱなしだったから、なんかまだ揺れてて。ありがとう、もう平気だよ」
 フォースがリディアに言った言葉に、グレイが顔をしかめた。
「調子が悪そうなのは、それか」
「では、私がお話しします。拉致責任者ですので」
 そう言いながら階段に向かって歩き出したイージスに、フォースは眉を寄せる。
「いいから帰れって」
「聞ける話しは聞く。先にその方の話を聞かせてもらおう。お前は一度休め」
 ルーフィスの言葉に、フォースはこのままルーフィスとイージスが話しをして、護衛まで納得させられてはたまらないと思った。何か言い返さなくてはと思考を巡らせたフォースの腕を、リディアが引く。
「休んで」
「でも、」
「疲れているんだもの、眠らなきゃ駄目よ」
 返す言葉を探せずにリディアを見下ろすと、リディアは穏やかに微笑んで見上げてきた。
「行きましょう」
 リディアはイージスに先に行くようにとし、フォースの腕をとったまま、階段を上り始めたイージスの後に続く。
 フォースは階段に足をかけて、身体が思うように動いていないことに初めて気付いた。リディアが無事だったこともあり、気が抜けたのかもしれないと思う。
「おやすみぃ」
「また後でな」
 スティアとサーディから声がかかり、フォースは苦笑して手を振った。
 階段を上りきって二階廊下の方を見ると、元リディアがいた窓のある部屋へと、ルーフィスがイージスを通しているところだった。二人いた兵士に、笑顔と共に敬礼を向けられ、フォースは返礼を返す。部屋へ入りかけたルーフィスが、足を止めてこちらを向いた。
「とりあえずリディアさんの所で休ませてもらえ。部屋がない」
 サーディとスティアも来ているのだ、部屋数は間違いなく足りない。ライザナルへ行く前日の夜は、場所がないせいもあり見張りにまわされたのを思い出す。
 フォースが苦笑を返すと、ルーフィスはうなずいて部屋へ入りドアを閉めた。
 リディアの部屋といっても、それはここを出る前にフォースが使っていた部屋だった。懐かしい気持ちでドアを開けると、自分が置いたままの上位騎士のが目に入ってくる。
 妙に綺麗に見えるその鎧は、側まで行くと一つ無いほど綺麗に手入れされているのが分かった。思わずリディアを振り返る。
「あんまりいないと、すり減って無くなっちゃうんだから」
 リディアはフォースが何に驚いているのか分かったのだろう、そう言うと部屋へ入って、クスクス笑いながらドアを閉めた。側にいてくれるんだと思うとホッとする。
 だが、全部を吐ききるほどの息をつくと、脳裏にブラッドの顔が浮かんだ。今どうしているだろうと思うと、いてもたってもいられなくなってくる。
 フォースは着けていた簡易鎧を外し、上位の鎧に手を伸ばした。リディアがその手を取る。
「フォース?」
 リディアは鎧との間に立つと、フォースを見上げてきた。フォースはリディアの手を引いて抱き寄せる。
「寝ていられない。行かなければならないところがあるんだ」
 そう言いながら、自分の気持ちが落ち着いていくのが分かる。リディアはフォースに身体を預けたまま口を開く。
「どこに行くの?」
 その声がひどく不安げに聞こえ、フォースは腕に力を込めた。
「ブラッドが斬られてるんだ」
 リディアは息をのんで身体を硬直させ、フォースを見上げてくる。
「助かるか分からないって言われてる。だから、治療院に様子を見に行かないと」
「……、後でね」
 硬い表情には変わりないが、リディアは幾らかの笑みを浮かべた。
「リディア?」
「一度休んでからよ。ブラッドさんの前で、そんな疲れた顔はできないでしょう? 逆に心配かけてしまうわ」
 まっすぐ見つめてくる瞳に、フォースはなにも言い返せなかった。移動が重なった上、丸一日は眠ってもいない。確かに起きているのが辛いのだ、ひどい顔になっているのかもしれないと思う。
「誰かに様子を連絡してもらうようにしておくわ」
「連絡はアジルがしてくれることになってるんだ。でも、」
 リディアの指先が、フォースの頬に触れる。
「だったら休んで。どこにいても結局待つしかないんだもの。なにか知らせがきたら、変わりないって知らせでも起こすから。ね?」
 それで不安が消えるわけではなかった。だが、波立っていた不安が今はいでいる。リディアは顔をほころばすと、ドアの方へと身体を向けた。
「リディア」
 フォースはリディアを後ろから抱きしめた。リディアは幾分驚いた様子で、顔だけで振り返る。
「フォース? 知らせのことを見張りの人に」
「もういい。アジルならちゃんと分かってる。連絡なら来る」
 フォースはそう言うと、リディアの耳に口を寄せた。サラサラとした髪が頬に心地いい。
「だから、ここにいて」
 そう言って返事を聞く前に、顔を上げたリディアの頬に手をやり、唇を引き寄せ口づけた。気持ちも身体もリディアが足りないと、狂ったように騒ぎ立てている。フォースはこちらを向こうと身体をひねったリディアの肩をつかんで向き合い、力を込めてもう一度抱きしめた。
「もう、二度と離したくない」
 腕の中で、リディアはゆっくりとうなずく。
「離さないで。側にいさせて」
 きつく抱きしめているからだろう、苦しげで、でも穏やかな声が心をでていく。胸にあったリディアの手が背中に回った。
 大きな安心感や暖かさが身体を包んでいる。だがそれとは裏腹に、胸の鼓動は痛いほど深く刻まれていた。鎧を隔てていない柔らかな身体の感触や、記憶と変わらない懐かしい匂いのせいで、リディアのすべてを抱きしめて、その手で探ってみたくなる。
「頭がえてきそうだ」
「どうして?」
 身体を任せたまま見上げてくるリディアに、まさか正直に抱きたいとは言えない。
「どうしてって……」
 フォースが口ごもると、リディアはませた。
「私は気持ちがよくて眠たくなってきちゃった」
「は? ちょ、ちょっと待……」
 フォースの驚きようにリディアはキョトンとした瞳を向けてくる。フォースは自分の慌てようを嘲笑し、抱きたい気持ちを押さえつけようと、目を閉じてできる限りゆっくり大きく息をついた。目を開けるとリディアは首をひねりながらも、また微笑みを向けてくる。
「俺のやってることって、まだまだ不毛なんだよな」
 そうつぶやいたフォースに、今度はリディアが目を丸くした。
「ええ? そんなことないわ。帰ってこられるだけ本当のお父様と理解し合えたんでしょう? それだけでも、」
「無駄。無意味。役立ってない。全然まだまだ」
 フォースはそう言うと、まだ当惑に目を見開いているリディアの足を右腕ですくって抱き上げた。リディアは息をのんでフォースの首にしがみつく。
「な、なに?」
「まだシャイア神からリディアを取り返せない」
 そう答えながらリディアをベッドに横たえると、フォースはリディアにさった。左で片肘をつき、右手はリディアの指と絡ませて、その手をベッドに押しつける。
 フォースはそっと身体を預けながら長いキスで唇をふさいだ。息ができないからか、リディアのノドの奥で苦しげな声がれる。唇を解放して見つめると、リディアは恥ずかしそうに微笑んでから視線を合わせてきた。
「フォース? 眠らなくちゃ」
 拒否されたような気まずさに顔をしかめると、リディアは突然空いていた右手でフォースの首に抱きついた。驚く間もなく引き寄せられるまま身体を合わせ、側の枕に顔を突っ込む。もろに体重がかかっただろうと、フォースは慌てて身体をベッドの奥へと移した。
「大丈夫か?」
 フォースの心配げな顔を見て、リディアは含み笑いをしながら、フォースに身体を向ける。
「そんなに簡単にはれないわ」
 リディアはそう言うと、フォースの髪に手を伸ばしてきた。一度だけ指先で撫でると、自分のしたことに驚いたのか、慌てて手を胸に抱くように引っ込める。
 その仕草になごんで大きく息をつくと、身体がベッドに沈んだ気がした。しばらく遠ざかっていた眠るための場所が、ひどく心地いい。
「俺、滅茶苦茶疲れてて、よかったのかもしれない」
「どうして?」
 何度聞かれても、やはり正直には言えない。フォースは笑みだけ返して目を閉じた。手探りでリディアの手を捕まえる。
 一眠りして身体も気持ちも復活したら、自分を抑える気持ちも元に戻っているんだろうと思う。
「フォース? もう眠ったの?」
 リディアの声が子守歌のように聞こえ、自分が一番帰ってきたかった場所にいることを実感できる。
「フォース、……、大好き」
 眠りに落ちる直前に聞いたかすかな声で、嬉しそうな顔をしたかもしれないとフォースは思った。