レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜

第2章 拘泥の相関

     1.影の膨張

 マクヴァルは、烏文木製の黒い机に重ねてある数冊の本の隣に、手にしていた本を伏せて置いた。変わらない表情で、窓の側へと歩を進める。
しいな」
 風の言語で書かれたその本には、自分がシェイド神を取り込んで以来見たことがなかった妖精を、その世界から引きずり出して利用する、その方法が書かれていた。
 ただ、無理に呼び寄せることになるために、様々な能力はなくなって知能も減退し、外見も崩れた化け物のようになってしまうとある。当然壁を抜けることもできないだろう。そんな状態では、フォースが幽閉されている塔を襲わせることは難しい。
「上手くはいかないモノだな」
 その手が駄目なら他に探すまでだ、時間はいくらでもある、とマクヴァルは思った。
 改めてめた窓の外には、重く垂れ込めた雲の下、色とりどりの花が揺れている。本来ならもっと南で咲く花だ。庭師が水をいているが、その水も花にとっては冷たく感じるはずだ。
「水か」
 ほとんど無意識にそう口にして、マクヴァルは机の本を振り返った。閉じて重ねてある本は、隣国メナウルでもなかなか手にすることができないほど貴重なシャイア神についての書物だ。そこにはシャイア神の特性が、あますところなく書かれていた。
 シャイア神が、すべてを伝える使いの神であることは知っていた。だからこそ、あの詩の水がメナウルを差すことを解読できた。しかし、他の神から存在を隠して行動できること、その視界範囲内にいる戦士も同様であることは、まったく知らなかった。最近手に入れたこの書物で初めて知ったのだ。
 だがそれを知ってもなお、マクヴァルの笑みは消えていない。手はすでに打ってあるのだ。巫女を拉致したとの報告を、ただ待てばいいのだと思う。
 バタバタと足音が近づき、ドアにノックの音が響いた。
「マクヴァル殿、失敗でございます」
 ノックにるように聞こえてきた声に、マクヴァルは顔をめる。
「なに? 失敗しただと?」
 そういいながらドアに近づき、大きく開く。その向こう側にいた声の主が、その場で頭を下げた。
「出兵まではこぎ着けたのですが、止められてしまったようです」
「いったいなぜ、そのようなことに」
 一度頭を上げかけた年老いた神官が、改めて深々とれる。
「命令の後に発ったアルトスが、そのような命令は出されていないとの報告をしたらしいのです」
 その言葉に、マクヴァルはフッと鼻で息をついた。
「信仰心が薄れたか、それともレイクスに懐柔されたのか」
「陛下かレイクス様がルジェナで直接命令を下さねば、軍は動かないと決まったようです。戦は必要なのだと分かっていただけているのかどうかも疑わしいですな」
 これで間違いなく軍を利用する手は使えなくなってしまった。しかも場所がつかめないとなると、シャイア神の侵入を考慮に入れなくてはならないのだ。このまま黙っているわけにはいかないだろう。
「動かずに待たれますか?」
「拉致の説得は続けねばならんだろうな。その日が来て気が変わったでは話にならん」
 もう下がれ、と言いかけて、マクヴァルは口を閉ざした。
 塔の内部に潜入させるのが無理だとしたら、引きずり出した妖精をシャイア神の見張りに使えばいいのだ。知能が減退すれば、盲目的に従ってくれる可能性もある。命令して動かすにはちょうどいいだろう。
「明日にでも同胞を召集する。準備を頼む」
「何かが」
 年老いた神官は、冷たい笑みを浮かべたマクヴァルを見ると、目を細めて頭を下げた。
「分かりました。失礼いたします」
 その神官が背を向けるのを見て、マクヴァルはドアを閉めた。
 まずはその妖精とやらを呼び出してみることだ。使えるモノなら量産し、前線方面へ送り込めばいい。シャイア神がライザナルへ来ようというなら、神の存在であるゆえ敏感に察知できるかもしれない。防御のため、石にして神殿に配置しておくこともできる。
 あまり複雑でない円形の図形を書き、呪文の詠唱をするだけで、この呪術は成立するはずだ。ただ、本に書かれているのは息だけで表さねばならない風の言語だ、息をる慣れや抑揚鍛錬が必要になるだろう。
 マクヴァルは机に伏せておいた本を、再び手に取った。部屋を出て石の階段を通り、神殿地下へと歩を進める。地下一階にあるエレンの墓をいちべつし、シェイド神の像が置かれている台の裏側へと足を向けた。
 そこに立ち止まったマクヴァルは、指先で石の台に触れ、口の中でブツブツと呪文の詠唱を始めた。ガリガリと石がれ合う音が響き、台の手前半分が右へとずれていく。そこに現れた階段に足を踏み出し、もう一つ下の階へと向かう。
 マクヴァルが通り抜けると、その台はまた石のれ合う音を立てて元の台へと戻っていく。光がさえぎられていく中、マクヴァルが指を組んで差し出した先、階下にある左右のランプに火が灯った。その間に見えてきた木のドアを押し開く。
 そこには、塔の下にある石の部屋とそっくりで、少し広い円形の空間が広がっていた。中程にある石の台には、インク壷や紙、測量に使う糸や染料などが雑然と置いてある。その中から、マクヴァルは白く柔らかな石を手にした。
 ドアは木製だが、その先は頑丈な石台でさえぎられている。人に悟られないように呪術を試してみるには格好の場所だ。マクヴァルはその床にはいつくばって、本に載っている図形を書き写していく。
 壁に響く、床と白い石のれる音をいまいましく思い、舌打ちが出る。レイクスの幽閉により、完璧に作られた部屋が使えない場所になってしまったためだ。マクヴァルは、雑念を振り払うため一度大きく息をすると、本と同じになるよう気を付けながら、再び様々な図形と風の文字を床に書き込んでいった。
 最後の線を書き終えた時、白い線の影が浮き上がり、一瞬の後に黒に変わった。その反応に、マクヴァルは薄い笑みを浮かべながら立ち上がる。そして本にあるいくつかの呪文の中から短い一つを選びだし、頭の中で何度もその呪文を繰り返した。
 呪文を記憶に染み込ませ、マクヴァルは石台の上に本を置くと図形の前に立ち、両手を前に差し出す。
 マクヴァルは、音を外さぬよう注意を払いながら風の音を発した。音に反応してか、一番外側の黒い線が浮き上がってくる。
 マクヴァルが呪文の詠唱を終えた時、図形の真ん中にブツブツと音を立て、黒い泡が盛り上がってきた。やがてその泡は、首が曲がり、胸から足が生えている、左右非対称な羽を持った物体を形作っていく。
 その黒い物体は苦しげに、キィ、と甲高い声をあげると、崩れ始めた羽を広げて床をり、マクヴァルの法衣をかすめて壁に激突した。グチャッと元の形が分からないほどにれ、ボトボトといくつかのかたまりになって、床に落ちていく。
 黒い液体が壁を伝うのを見て、マクヴァルはフッと鼻の奥で笑った。
 初めて呪文を唱えて、ここまでできたのだ。何度か練習すれば、何の苦もなく妖精を引きずり出せるようになるだろう。そして本にある長い呪文を練達すれば、大型の妖精も使うことができるようになる。
 笑みを浮かべた顔を引き締めると、マクヴァルはもう一度、黒い円に向かって手を差し伸ばした。

   ***

「使者か。本当に来ていたのか疑わしいな」
 神殿裏へと続く扉を背にしたバックスに向き直り、フォースは苦笑した。
「気持ちは分かるけど、記録には残っているんだ。ライザナルも、そんなにいい加減なわけじゃない」
 その言葉を聞いてフォースがライザナルの皇太子だと思い出したのか、バックスは慌てて口をった。グレイはいつもの席で本に目を落としたまま、可笑しそうに笑みを浮かべる。
「気持ちが分かったりしちゃ、駄目なんじゃないか?」
 グレイが向けてきた言葉に、フォースは眉を寄せた。
「ライザナルはずっと敵国だからな。いきなり印象を変えるなんて無理だ」
「でも、その記録を信じるほどには変わったってわけだ」
 グレイが真顔に戻り、肩をすくめる。フォースは首を横に振って、小さくため息をついた。
「そうかもしれない。でも、メナウルの人間で使者を阻止しそうな奴が浮かんだから、なおさら信じる気になれたんだけど」
「なにぃ?!」
 バックスが素っ頓狂な声をあげた。グレイが初めて顔を上げる。
「誰だ、それ」
「クエイド」
 フォースがげた名前に、バックスとグレイは顔を見合わせた。予想通り、二人が口をつぐんでしまったことに、フォースは眉を寄せる。
「言っておくけど私怨じゃないからな。向こうで色々出てきたんだ。ドナの犯人が息子だったり、ゼインが孫だったり」
 その言葉にさらに言葉を失ったのか、バックスとグレイはただ驚いた顔をフォースに向けた。
「とにかく母や俺のこともあって、自分の立場を守るために戦を続けていなくてはならなかったらしいんだ。俺がライザナルに行って無事に帰ってきたのを知っていたら、まず間違いなく仕掛けてくるだろうな」
「襲われるってことか」
 バックスはそうつぶやくと顔をしかめ、すぐに口を開く。
「充分に有り得るじゃないか。ついていく目的がハッキリしたってもんだ」
「そう、だから護衛を頼んだんだ。バレてはいないと思うけど内部のことだからな。新婚さんに頼んじゃって悪いけど」
 フォースが笑みを向けると、バックスは、かまわねぇよ、と冷笑を返してきた。
「巫女の護衛だ、二隊付いていても多いってことはないさ。向こうの数が少なければ、襲う機会を与えずに済むかもしれないしな」
「城都に着いたらクエイドに会う。帰りはそんな心配がいらないようにするよ」
 いくらか緊張した顔で言ったフォースに、バックスはうなずいた。
「まぁでも、どっちかって言ったら、嫁さんがマルフィさんと険悪だったりする方が心配なくらいだ」
 確かに、マルフィの怒りは尋常ではなかった。フォースは、イージスがいたからだろうと思っていたが、そうでもないらしい。目が合うと、バックスは苦笑を向けてくる。
「俺のせいで責められてちゃ、可哀想だからな」
 その言葉に、フォースは思わず笑みをらした。バックスは照れくさそうに頭をく。
「いや、マルフィさんも俺を責めてくれりゃあいいんだが、親子だけに、そうはならないらしくて」
 グレイは、そういうものか、とつぶやくと、フォースに視線を向けた。
「大変だろうね、リディア。シェダ様を相手にしなきゃならないなんて」
「うわ、シェダ様」
 バックスが目を丸くする。フォースは口を開きかけたが何も言えなかった。今回の城都行きで、ライザナルに連れて行かせて欲しいとシェダに頼まなければならない。本当に仲たがいさせてしまったとしたら。
「既成事実が作れない状態だからな」
 グレイがしれっと言った言葉に、フォースはブッと吹き出して背中を向ける。
「そ、そんなことしたら、なおさら大変だろうがっ」
 いくら顔が見えないと言っても動揺しているのはすっかりバレているのだろう、グレイはノドの奥で笑い声を立てている。
 それにしても。シェダにライザナルへの同行を許してもらえなければ、辛いのはリディアだ。リディアを守ろうにも、自分がその親子関係にどうやって関わればいいのか想像がつかない。
「大丈夫だよ」
 グレイが声をかけてくる。
「リディアはシェダ様と、ずっと付き合ってきてるんだから」
 グレイの言葉に、だからこそ心配なんだと思いながら、フォースはため息をついた。
「ついて行きたかったわ」
 廊下の奥から聞こえたスティアの声が、少しずつ近づいてくる。
「今回の話しって私のこともあるのに、別に発てって。分かるんだけど」
 その言葉で、今回の城都行きの話しだと、フォースはすぐに理解した。
「私も、父にライザナルに行ってくるって伝えておきたいの」
「それだけ?」
「他にあるの?」
 それもルーフィスが言っていたので、容易に想像がつく。スティアは、シェダに結婚の承諾をもらえと言いたいのだろう。
「そうか、そうよね。それってリディアの用事と違うわ」
「え? なんのこと?」
 リディアが気付かないのは、ライザナルへ行くことに少なからず緊張感や恐怖感を持っているからだと思う。
 クスクスと笑いながらスティアが廊下から出てきた。その後ろから、スティアがなにを言っているかを悩んでいるのか、難しい顔をしたリディアが姿を表す。
 フォースと目が合うと、スティアは笑みを浮かべて側まで来る。フォースはるなという意味で、人差し指を口に当てて苦笑を返した。
「あれ、分かってる? しい」
 小さくつぶやくと、スティアはサッサと扉に向かって歩いていく。ひとこと余計だと思いながら、フォースはスティアを目で追った。リディアはスティアを見送るためか、扉までついていき、また何か話し込んでいる。
 リディアと一緒にライザナルへ行くことをシェダに許されるなら、それで話しはすむ。だがシェダにとってリディアは一人娘だ。いくら巫女だからシャイア神のいいつけを聞かなければならないといっても、気持ちが収まらないところがあるだろう。当然、自分の存在も大きく関わってくる。
 もしも同行を許してもらえなかったなら。どうにかして自分を標的にしてもらえばいい。それには、結婚を申し込んでしまうのが一番だ。
 許されない上に結婚を申し込んでも、まず間違いなく断られる。そうすることで、上手くすれば自分がになれるかもしれない。
 もしリディアがシェダとケンカをしてしまったとしても、あとは自分がしっかりと、リディアが安心して帰ってこられる場所でいればいいのだ。
「フォース?」
 スティアを見送り、すぐ側まで来て見上げてくるリディアに、フォースは椅子を引いて座るようにした。
 こうして存在を感じているだけで、気持ちの揺れがなくなる。迷わず一瞬で決断できるのだ。
「イージスが戻ったら出発するよ。準備はいい?」
 椅子に落ち着いたリディアがうなずくと同時に、廊下からトレイにお茶をのせたユリアが入ってきた。部屋の入り口で一瞬足を止めると、いくらか表情を歪め、もう一度足を踏み出す。
 ユリアが何も言わないままお茶を配るのを見ていて、フォースは思わずリディアの表情をうかがった。リディアは視線を合わせて微笑みを向けてくる。ユリアがその横からお茶を側の机に差し出した。
「連れて行くのね。イージスって人」
 お茶を置くついでに耳元でささやかれた言葉に、フォースは顔をしかめた。
 付いてくるのも、ヴァレスで秘密裏に動かれるのも、どちらも面倒には変わりない。それなら目の届くところにいてくれた方が、まだマシではある。
「下手に動かれても気味が悪いから同行してもらうだけだ。君には関係ないだろう」
 だから口を出すなと言いかけたフォースに、ユリアは不機嫌な視線を向けた。
「信じられない。だいたい、女連れで帰ってくるなんて最低」
「好きで連れてきたワケじゃない」
 フォースは、ライザナルに行ってくる前と変わらないユリアの声の冷たさに、ため息混じりでそう返した。ユリアは、フォースからツンと視線をらす。
「それに婚約者だなんて。リディアさんがどんな気持ちになるかくらい考えたら?」
「他の女と結婚する気なんか俺には微塵もない。しかもあんな小さな子供をどうやったら婚約者だなんて思えるんだ?」
 フォースの言葉に、ユリアが忌々しそうに振り返る。
「あなたの気持ちなんて関係ないわ。それに、婚約者に大きいも小さいもないでしょう?」
 ユリアがフォースを指差して言った言葉に、グレイは肩をすくめて、正論だな、とつぶやいた。
 不安そうな顔をしていたからだろうか、リディアが見上げてきて、首を横に振る。リディアがなにか言いかけた時、扉にノックの音がした。
「私だ」
 ルーフィスの声がして、バックスが扉を開けた。だが、まず入ってきたのはイージスだった。その後からルーフィスが顔をのぞかせる。その手招きに、フォースはリディアに苦笑を残し、扉まで歩を進めた。
「日程だ」
 差し出された一枚の紙を、フォースは受け取った。ルーフィスはフォースの耳元に口を寄せる。
「秘密裏に進めてあるとはいえ、二隊動くのは目立つ。悟られる可能性を考慮して動け」
 はい、と返事をして視線を合わせたフォースに、ルーフィスは表情を引き締めたまま目を細めた。
「標的がどちらになるかも分からん。充分に気を付けて行ってこい」
 ルーフィスはポンとフォースの背を叩くと、神殿をあとにした。遠ざかっていく背中に聞こえないよう、分かってるって、と小声でつぶやいたフォースに、バックスが、親だよなぁ、と返す。
 フォースはため息をつきつつ苦笑して、手にした日程の紙を広げた。バックスが横からのぞき込んでくる。
「余裕が無いな。結構ギリギリだ」
「そりゃ、急ぎなんだから仕方がない」
 フォースが日程に目を落としたまま言うと、バックスはククッとノドの奥で笑った。
「いや、悪い。早く帰ってこられそうだと思って」
 その言葉を聞いて、フォースはバックスに冷笑を向けた。背中からユリアの声が聞こえてくる。
「レイクス様って立場から抱かせろって言われたら断れないんでしょ?」
 何を考えているのかと、フォースは大きく息をついて片手で顔をった。イージスは、はい、と返事をする。
「どのようなことでも、逆らうなど許されません」
「は? バカ言えっ、逆らえよ!」
 フォースは、イージスの言葉に驚いて、声を荒げた。イージスは困ったように眉を寄せる。
「はぁ。ですが命令でしたら従わないことには」
「そんなことに従うくらいなら、黙って従ってライザナルへ帰れっ!」
 扉を指差して言ったフォースに、グレイが背を向けた。
「んわ、った。抱かれろって言うのかと思った」
「そんなわけないだろっ」
 笑っているのだろう、肩を揺らしているグレイを見ていると、怒っていることすらバカらしくなってくる。
「これだけ強い立場で、結婚を断ることすらしないなんて」
「俺はに断ってる。当たり前だが、皇帝の方がいんだ。先に宗教をなんとかしないと、これ以上は聞き入れてもらえない」
 フォースの言葉に、ユリアは眉をしかめた。
「神様のせいってわけ」
 リディアは立ち上がってフォースに苦笑を向けると、ユリアの側に立って見上げる。
「ねぇユリアさん。小さな女の子に好かれるのは罪じゃないでしょう?」
「でもリディアさんは一人で残されて辛い思いをしたのに。簡単に許しちゃ駄目です」
 ユリアが言った辛い思いという言葉は、フォースの胸に痛かった。離れているのに信じろだなど、心のやりどころも思いを晴らす方法も何も無い。それをリディアに強いてしまっていたのだ。だがリディアは一度うつむくと、柔らかな笑みをたたえて顔を上げた。
「何も無くさないようにって思ったら、それしか方法がなかったわ。フォースが私を置いていくのは守ろうとしてくれてるんだって、その時分かった。私が辛かったのは、私がフォースの側にいることができないほど弱かったからなの」
 そう言いながらも、リディアは笑顔を少しも曇らせずにいる。ユリアは眉を寄せてため息をついた。
「あなたはそうやって何でも受け入れてしまうから……」
「イージスさんのことも婚約者がいることも、ただの事実だわ。私にはフォースがどう思っているかの方が重要なの」
 リディアの微笑みを見つめていたユリアが、視線をらして足を踏み出し、廊下に向かう。
「きっといつか辛くなるわ。たくさん積み重なって、どうしようもなくなって」
「俺が一つずつ取り除く。必ず守る」
 フォースの言葉に足を止め、ユリアは一つ息をついた。
「できるのなら、サッサとやんなさいよ」
 ユリアがフッとかすかな笑い声をたてて廊下へ入っていくのをフォースは唖然として見送った。ユリアの姿が見えなくなると、笑いをこらえている風のグレイに向き直る。
「あれはなんなんだ? わけが分からない」
「まぁ、北と南ってくらい方向が変わってるからな。わずらわしいか?」
 グレイの質問に、リディアが不安そうな顔をする。
「いや。今の方が断然いい」
 フォースがそう答えると、リディアは穏やかに微笑んだ。
 今の方が断然いいのはリディアもだとフォースは思う。自分がライザナルに行っている間に、ずいぶん強くなった。
 襲撃された時、イージスの前に立ったリディアは、まるで女神が表面に出てきていた時のように毅然たる態度だった。
 自分の調子が悪いのをきちんと見ていて支えてくれたし、ブラッドが斬られたことを伝えた時も動揺を抑え、無理をしようとした自分を止め、連絡を取るように動いてくれようとした。
 今もそうだ。ユリアを納得させようと、しっかりと自分の意見を笑顔で口にした。
 前のリディアなら、怖がったりオロオロしてしまい、フォースが気付いてたずねない限り、何も言えなかっただろうと思う。
 今は、庇護しているというより、肩を並べている、支えてくれているという実感がある。リディアを想う気持ちにも、余裕が持てている気がする。
「ホント、初心者向けだよな」
 グレイがため息をつくように言葉を吐き出した。フォースは初心者という響きに眉を寄せる。
「なんの話しだ」
 フォースと目が合うと、グレイはフォースを指差した。
「初心者って言ったら決まってるだろ。フォース、まだユリアにれられてるんだな、と思って」
「は? どこをどう解釈したらそうなるんだ? 間違いなく嫌われているだろうが」
 フォースの疑問に、グレイは肩をすくめる。
「まっすぐなモノがまっすぐにしか見えないフォースに理解は無理」
 グレイの言葉に、フォースはますます顔をしかめた。グレイは、苦笑を浮かべながら口を開く。
「いや、分からなくていい。ユリアのためにもフォースのためにも、嫌われてると思っていた方がいいかもしれない」
 そう言うと、グレイはペロッと舌を出した。グレイはひどくい奴なので、れられているということも、もしかしたら本当なのかもしれない。だが、グレイが考えて、嫌われていると思った方がいいと言うなら、それはその方がいいのだろう。分からないモノはこれ以上考えようもない。
「行こう」
 フォースはリディアに声をかけた。リディアは、はい、とうなずくと、寄り添うように側に立つ。扉に行きかけた時、視界にイージスが入った。
「君は民間人として、アジルと行動を共にしてくれ」
御意
 そう言って頭を下げたイージスのあまりの丁寧さに、フォースは危うく吹き出しかけた。リディアはフォースの腕を取り、笑っているのか顔を隠すようにおでこを寄せている。
「あのな。もっと普通にしていてくれないと困るって何度も」
「すみません、つい」
 頭を下げたイージスを見て、リディアはフォースの腕を引いた。
「移動って、馬車よね?」
 その問いにフォースはリディアを見下ろし、そうだよ、と返事をする。
「一緒に乗ってもらった方がいいんじゃない?」
「それは……」
 いくら隠すためでも、リディアとイージスを二人だけにするのは抵抗がある。むげに危険だとも言えずにフォースが言葉をすと、イージスがリディアに向かってかしこまった。
「私は巫女様の命を狙った人間です。ご一緒するわけにはまいりません」
「でしたら、もっと気を付けてくださいね。フォースがフォース以上の扱いを受けていたら、何かと怪しまれるでしょうし、危険ですから」
 リディアはそう言うとイージスに笑顔を向けた。分かりました、と軽く頭を下げたイージスは、リディアにつられたのか安心したのか頬を緩めている。リディアはその笑みを引き締めて、フォースを見上げてきた。
「フォースもよ。高圧的な言い方をしたら、イージスさんだって、かしこまってしまうと思うわ」
 リディアが言った言葉に、フォースはハッとした。確かに、イージスがそこにいるという事実にイライラして、色々押しつけるような言い方をしていたかもしれない。そんな命令を聞こうと思ったら、誰だろうと一歩下がるしかないのだ。
「そうか。そうだな。気を付けるよ」
 フォースが同意したことにホッとしたのか、リディアに笑みが戻る。
 フォースがリディアの背を支えるように手を添えると、グレイが、気を付けて、と手を振ってきた。リディアが手を振り返すのを待って、フォースはリディアと一緒に神殿を出た。