レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     2.虹色の光

「おい、危ないぞ」
「平気ー」
 ティオはフォースの声にそう返事をして、馬車の窓から屋根の上へと上がっていった。慣れてしまったのだろう、リディアはただ苦笑しただけだ。バックスが騎乗したまま窓の側に寄ってきて口を開く。
「やっと二人きりになれたね」
「バカ」
 フォースはれて、そうつぶやいた。
 一つの空間に二人になったのは、確かに久しぶりだ。移動と宿との繰り返しで、いつでも周りには兵士がたくさんいた。一緒に馬車に乗るのも初めてだ。
 だが、馬車の窓は開いたままだし、騎乗した兵士の目線と窓の高さがあまり変わりないので、中はまる見えだ。これを二人きりとは言わないだろうとフォースは思う。
 そのフォースの腕を、隣に座っているリディアが引いた。
「ホントに二人になれるのを待っていたの。シャイア様のことを話すと、ティオが怖がっちゃうから」
「シャイア神の? なに?」
 フォースがリディアに向き直り、顔をのぞき込むと、リディアはフォースの耳に口を寄せてくる。
「反目の岩のところで、フォースが落としていった短剣があるでしょう?」
「え? あれってあそこで」
 目を見開くと、リディアはフォースに小さくうなずいた。
「ずっと持っていたんだけど、それが光るの。シャイアさまの光」
「シャイア神の? 短剣が?」
 フォースが顔をしかめると、リディアは困ったように視線を落とす。
「ええ。フォースが帰ってきた時、すぐに返そうとも思ったんだけど。渡さないでいたらシャイア神が何か言ってくれるかと思って」
「それで? なにか分かった?」
 フォースの問いに、リディアはを寄せて首を振る。
「グレイさんが本でも調べてくれているのだけれど、まだ何も」
「今も持ってる?」
 その声にリディアはうなずくと、巫女の服のスカート部分に手をかけた。何をするのかと見ていると、リディアはを上気させて控え目な笑みを浮かべる。
「向こう向いてて」
「あ、了解」
 その言葉にスカートの中にあるのだと気付き、フォースはててリディアに背を向けた。窓の外のバックスと目が合う。
「ちょ、ちょっと待って。見えてる」
 フォースは、左右についている日除けのためのカーテンを急いで閉めた。
「おい、何やってるんだ」
 外からバックスが声をかけてくる。
「大事な話があるんだ。ちょっと待ってて」
「フォース、こっち向いて、」
 リディアの声にフォースが振り返ったとたん、馬車の中に光が充満した。
「なっ?! 大丈夫か?! 見えな……」
 フォースは、思わずリディアを抱き寄せるように腕を回す。そこにリディアがいることに安心し、光が収まった時に周りが見えるように、きつく目を閉じた。腕の中から笑みを含んだ声が聞こえる。
「平気よ、あ、まってきたわ」
「フォースっ? ヤバいことしてんじゃないだろうなっ?!」
 外からバックスの声が響く。フォースは片手で顔をった。
「見張ってる方向が違うだろうが」
 リディアはそのつぶやきにクスクス笑うと、フォースの腕を引っ張った。フォースがゆっくり目を開けると、まだまぶしいほどの短剣の光が目に差し込んでくる。
「ずいぶん強烈な光だな」
「シャイア様は何も言ってくださらないけど、これに意味がないとは思えないの」
 その言葉にうなずくと、フォースは何か手がかりはないかと詩を思い浮かべた。
 火に地の報謝落つ。風に地の命届かず。地の青き剣水に落つ。水に火の粉飛び、火に風の影落つ。風の意志、剣形成し、青き光放たん。その意志を以て、風の影裂かん。
 剣という言葉は出てくるが、剣の形を成すというなら、元は剣ではないということだ。他にも暗示するような言葉は見あたらない。
 リディアが小さくため息をつく。
「最初、これが女神の意志を持った剣で、これを使って斬れっていうことかと思ったの。でも、肝心の光が青くないのよね」
「そうだな。それが女神の意志だってのなら楽でいいんだけど」
「おーい、フォースー?」
 内緒で話しかける時のようなバックスの押さえた声が聞こえてきた。フォースは顔をしかめると、その声を背にするように座り直す。
「この剣で、光っている時に斬れってことかな」
「ありそう」
 そう同調すると、リディアは短剣を差し出してきた。フォースが受け取りリディアの手を離れたとたん、光が急激に収まっていく。
「あれ」
「消えちゃったわね」
 眉を寄せたリディアと、思わず顔を見合わせる。
「これじゃ、光っている間にって言われても無理だな」
 リディアは口を押さえて視線を泳がせると、もう一度フォースを見つめてきた。
「まさか私に……」
「斬れって? 冗談……」
 言葉を失って顔を見合わせていると、突然ゴンゴンと馬車の車体を叩く音がした。
「リディアちゃーん? フォース、生きてるかー?」
 これでは、いくらなんでも外がうるさすぎる。話しに集中できず、フォースは勢いよくカーテンを開けた。
「ええい、やかましいっ!」
 窓の側にバックスと、少し離れたところからアジルとイージスが、心配げな顔でのぞき込んでいる。
「てめえら……」
「あ、無事だった?」
 バックスはフォースの顔を見て、乾いた笑い声を上げた。
「あのな。大事な話があるって言っただろうが。邪魔するなよ」
 フォースが眉を寄せると、バックスは照れたように頭をく。
「いやいや、あの光。フォースが悪さしてシャイア神に殺されたのかと」
 バックスの言葉を、フォースは呆気にとられて聞いた。リディアがクスクスと笑っている。
「そ、そんなことするわけが……。大体、それじゃあ全部ぶち壊しじゃないか」
「いやぁ。だって。なぁ」
 バックスは肩をすくめると、アジルの方を向く。話を振られて焦ったのか、アジルは慌てて何度かうなずいた。
「だーもう、好きに想像してろっ」
 そう言い捨てると、フォースは勢いをつけてカーテンを閉め、リディアに向き直って短剣を差し出した。
「とりあえずこれはリディアが持ってて。リディアが手放したらこれ見よがしに消えるってのは、たぶんリディアに持っていて欲しいからだろうし」
 はい、と大きくうなずくと、リディアは短剣を受け取った。スカートに手をやったのを見て、フォースはリディアに背を向ける。
 二人だけの空間だと思うと、すぐにでも抱きしめたい気持ちがらんでくる。だが、バックスの照れた顔を思い出してその気持ちをえつけ、フォースはため息をついた。
 リディアに袖を引かれて振り返ると、リディアは恥ずかしそうにうつむく。
「話す時には外しておこうと思ってたのに。恥ずかしい」
「大切に持っていてくれて嬉しいよ」
 フォースが笑みを向けると、リディアはうつむいたまま控え目な微笑みを浮かべる。フォースはリディアの肩を抱き寄せると、頬に手を添えて口づけた。その感触は、渇きを癒す水のように身体に染み入ってくる。
 唇が離れると、見上げてくるリディアの笑みが苦笑に変わった。
「なんだか悪いことしているみたい」
 そう言うと、リディアは外を気にするように両方のカーテンに視線を走らせる。
「大事な話をしてるはずなのに……」
「これだって大事な話だよ」
 フォースが肩をすくめてリディアに笑みを向けると、リディアは嬉しそうに目を細め、フォースの肩口に頬を寄せた。フォースはリディアの髪にキスをする。
「まぁでも、馬車ばっかり見張っていられたら不用心だから開けなきゃな」
 リディアはクスクスと笑いながら、了解、とフォースを真似た敬礼をした。

   ***

 馬車は夕焼けの中、何事もなく街道を城都に向かっていた。一台の馬車を二隊分の兵士が取り囲んでいるのだ、手を出そうと思ったら、兵の数もそれなりのも必要だろう。
 道を形作っている森の密度がだんだんと下がり、畑と入れ替わっていく。宿のあるアイーダの街が近いのだ。
 城都の北に位置するアイーダは、街道沿いが栄えている宿場町で、城都とヴァレスを往き来するほとんどの旅人が利用すると言っていいほど最適な場所にある。ここまで来ると道もよく整備されていて、馬車の動きもなめらかだ。
 フォースは、納屋や小屋だった周りの建物に店が増えてきたところで、自分の腕を抱きかかえるようにして眠っているリディアに目を向けた。
「リディア?」
 控え目な声をかけると、リディアは腕に頬ずりするように頭を振り、腕を抱く手に力を込める。
「リディア、もうすぐだよ」
 二度目の呼びかけに、リディアは顔を上げた。ボーッとした表情でフォースを見上げてくる。
「起きた? もうすぐ宿に着くよ」
「寝てる……」
 そう言うと、リディアは相変わらずフォースの腕を抱いたまま、肩にコツンと頭を乗せた。
「着いたらすぐ横になるといいよ」
「そうする」
 リディアはコクンとうなずき、視線を落としたままあくびをする。
「リディア起きた?」
 ティオがそう言いながら、屋根の上から窓をのぞき込み、逆さまに顔を出した。リディアは首を横に振ると、ティオから隠れるようにフォースに身体を寄せる。
「フォース? リディアって、いつも何か抱っこして寝てるよね」
「えっ?!」
 リディアはいきなり顔を上げてフォースから離れた。腕が軽くなったのを寂しく思いながら、フォースはティオに、そうだな、と返す。ティオが、ヘヘッ、と変な笑い声をたてた。
「このあいだも、」
「ティオっ? 駄目、言わないで!」
 リディアは慌てて立ち上がり、ティオの口をふさごうとした。
 その時、車輪が何かを踏んだのか馬車が揺れ、フォースはバランスを崩したリディアをに座らせるように受け止めた。フォースは、肩口からリディアの顔をのぞき込む。
「言わないでって何を?」
 上気して赤い耳元にささやくように言うと、リディアは両手で顔をった。
 馬車の外からバックスの冷めた笑い声が聞こえてきた。フォースがそちらを見ると、バックスは下手なセリフのような笑い声をたてたまま、速度を落として後ろに下がっていく。フォースは、真っ赤なまま何も言わないリディアを隣の席に座らせると、窓から顔を出した。
「てめ、絶対勘違いしてるから戻ってこい!」
「勘違いも何も。事実だ事実」
 笑っているバックスの周りが目に入り、フォースはもうすぐそこに宿があることに気付いた。前方には、ちょうど宿の目印になる、街道沿いの大きな木が迫っている。アイーダの最も城都寄りで、裏手には森が広がっている場所だ。馬車も速度を落とし始めた。
 先に着いた兵士たちが、馬を集める者、宿へ向かっていく者と、それぞれ行動を始めている。
 御者は宿の真ん前に馬車を止めた。フォースはサッサと扉を開けて飛び降り、馬車の中のリディアに手を差し出す。リディアはその手を取って巫女の服のを気にしながらゆっくりと降り立った。手招きをするバックスの側へと歩を進める。
「明日には城都だ」
 バックスの声は明るい。フォースは周りに目を配りながら苦笑した。
「不気味なくらい何も起こらないな」
「ありがたいじゃないか」
 そう言いながら、バックスは宿の扉を開けた。
 正面のカウンターに誰も見えない。そのこちら側にいる何人かの兵士が、カウンターをのぞき込み、乗り越えていく。一人の兵士がバックスの方へ戻ってきた。
「どうした?」
「カウンターの中に、宿のご主人が倒れているんです」
 その兵士を追うように出てきた部屋の空気が、フォースをでるように通り過ぎる。その空気の重さが、溶け落ちたデリックが作った、薬を含んだ空気の記憶と交錯した。
「宿から出ろ、すぐだ。扉を閉めてくれ」
 兵士たちは、わけが分からないといった表情のまま、フォースにって宿を出てくる。
「フォース?」
 兵士に閉められるドアを見て、バックスが疑わしげな顔で振り返った。フォースは宿から離れるようにす。
「薬だ。どこまで仕込んであるか分からない」
「薬? どこにそんな」
「宿にきしめてある。気を付けろ、近くに敵兵がいるぞ」
 フォースと目を合わせていたバックスが、了解、と冷ややかな笑みを浮かべた。
「ってことは標的は宿か。包囲でもしてるんだろう」
 側にいた兵士を一人捕まえると、耳元に口を寄せる。
迎撃準備だ、兵と馬を戻せ。淡々と急いでな」
 その兵士と入れ替わりに、イージスとアジルが側に来た。
「ご無事でしたか。馬小屋に毒が」
 控え目な声で言ったイージスに、フォースは顔をしかめる。
「馬小屋も?」
 フォースが返した言葉で宿もだと察したのだろう、イージスはうなずいて、首を動かさずに周りをうかがった。アジルは身体の側で目立たぬように親指で後ろを指差す。
「兵も馬も無事です」
 そのアジルの後ろ、宿の横に兵と馬が進んでくる。予定にない様子に気付いたのだろう、周りの森や建物の陰から、ちょうど二隊分ほどの敵兵が飛び出してきた。馬小屋から戻った兵士たちの後ろで、剣の音が響く。
騎乗しろ! 蹴散らせ!」
 バックスの声が飛んだ。乱戦状態になるのはいただけないが、前線の兵と城都の兵の実力差は大きい。同数ほどなら心配もいらないだろう。
 フォースは窓のない場所を選び、リディアを左腕で抱くように引き寄せると、宿の壁を背にして立った。前方には半端に大きくなったティオが、立ちふさがり、リディアはほんの少し震えているが、何も言わず腕の中でじっとしている。フォースは念のために剣を抜き、状況を見つめた。
 裏の方からこぼれてきた敵兵は、ティオのさらに前にいるバックスが、すべて相手をしてくれている。手を出す必要は無さそうだ。
 街道側を見ると、城都の方から敵兵を乗せた馬が五頭ほど駆けてくるのが見えた。城都へ逃げようとしたところを待ち伏せでもするつもりだったのだろう。バックスも気付いたのか、馬をよこせ、と合図を送った。
 その時、フォースの左右にある二つの窓を破り、同時に敵兵が飛び出してきた。大きな破壊音で、リディアがすくんだように身体を硬くする。
 フォースはリディアを後ろにい、剣を振り上げた右側の兵を蹴り倒した。ひっくり返った兵に背を向け、左から振り下ろされる剣を受け流す。わずかに体勢を崩した剣のを突いて、敵兵の手から剣をはじき飛ばした。剣を目で追った兵の首筋に手刀を叩き込み、バックスの合図で側に来た馬にリディアを乗せて、自分も騎乗する。
 完全に大きくなったティオは、まわりの敵兵をつかみ取り、辺りの樹木に背中のプレートで引っかけ始めた。
 腕の中のリディアから、虹色の光がれ上がった。それに気付いた敵兵の動きが止まる。シャイア神と入れ替わったのだと思ったフォースを見上げ、リディアは微笑んだ。
「光だけでも効き目はあるわよね」
 緑の輝きをたたえた瞳でのリディアの声、リディアの言葉に驚いたが、今はそんなことは言っていられない。フォースは笑みだけ返すと、馬で駆け寄ってきた敵兵に切っ先を向けた。
 リディアは上体をフォースに預けるように寄り添って振り返り、光を放ったまま冷ややかな視線を近づいてくる敵兵に向ける。敵兵たちは、その虹色の光と視線に慌てたのか、無理矢理馬を止めた。
 リディアの光を見て、明らかに敵兵の士気が下がるのが見て取れる。シャイア神はメナウルの神なのだ、信仰心が深ければ深いほど、敵視されては生きた心地もしないだろう。剣の音が消えた。その場にひざまずいてしまった敵兵すらいる。
 これが通じるのだから、狙いは自分の方だったのだろうとフォースは思った。クエイドが説く戦争継続に賛同はしても、それがシャイア神に逆らうことになるなど、普通なら知らない。いきなり事実を突きつけられることになるのだ。
 戦闘中とは思えない静寂が、辺りを包んだ。アジルやイージス、ティオさえも、雰囲気を察したのか馬の側に近づいてくる。
「シャイア神はその男の素性をご存じか!」
 敵兵をまとめているのか、一番上質そうなを着けた男がそう叫んだ。リディアはその男に緑色に光る瞳を向けて口を開く。
「ライザナル皇帝の子息であり、神を守護する一族の者でもあります」
 聞き慣れない言葉だったのだろう、その男は確かめるように周りにいる仲間の兵と視線を合わせ、首を振り合った。リディアの声にシャイア神の声が少しずつ重なり、大きくなってくる。
「この人を失うようなことがあれば、直接神の怒りを買うことになりましょう。私だけではなく、大いなる神にも必要な戦士なのです」
 シャイア神が直接話せるのなら、最初から全部説明して欲しいとフォースは思った。だが、もしかしたら今のリディアだからこそ、こんなふうに同調して話せているのかもしれない。
 巫女だからなのか、それとも自分には何か足りないことがあるのか。短剣の光が消えてしまったことも、何か関連がありそうな気がする。
 敵兵たちは呆然とリディアを見ていたが、ハタと気付いたように剣を引き、に収める者もいる。それでも敵兵の半数近くが、剣を手にしたまま、大きなティオを気にしながらジリジリと近づいてくる。フォースはその兵士一人一人に目を留めて口を開いた。
「貴様らはクエイドの素性を知っているのか?!」
 まだ剣を手にしたままの敵兵たちは、その言葉で動揺を見せた。
「薬を使ったこのやり方は、クエイドがライザナルと通じていたことを意味しているんだぞ!」
 その一言で、また敵兵数人の足が止まった。それでも残りの数人が、先ほど声をあげた男を先頭に距離を狭めてくる。
「俺はを取りたいだけだ! お前がライザナル皇帝の息子なら、その命が欲しい! クエイドなどただの道具でしかない、何をしていようと関係ないっ!」
 すぐ側で、バチッという弾き損ねた剣のような音がした。ふと見ると、白い光をたたえたリディアの手が、ゆっくりと敵兵に向けられていく。
「駄目だ」
 フォースは、今にも光を放ちそうなその手をつかんだ。女神の瞳が振り向いてフォースを見上げる。
「殺さない。すべての記憶を消すだけだ」
「たいして変わらねぇだろっ」
 初めてまともに交わした会話がこれかと、フォースは頭を抱えたくなった。女神は再び手に白い光をれさせる。
「ならば」
 女神が男に向けようとした力を、フォースはとっさに押さえつけた。光球が男の足元に飛び、土埃が舞い上がる。男は腰を抜かしたかのように、その場にへたり込んだ。
「バカやろっ、都合で人を殺すな! そんな命令もするな! 俺は決してみで人を斬ったりしない。彼も、影もだっ」
 フォースは思わず女神に抗議した。だが、目に入っているのは、冷たい瞳で見上げてくるリディアの姿だ。こんな話しをしていることに苛立ってくる。
「くそったれ、サッサとリディアを返せよ」
 顔を歪めてつぶやいたフォースに、女神は目を細くして微笑みを向けてきた。その瞳から緑色の輝きが、全身から虹色の光が、少しずつ引いていく。
「そういう意味じゃ……」
 フォースはため息をつき、片手で顔を覆った。へたり込んでいた男が、周りにいた兵士に助けられて立ち上がる。
 フォースはリディアを支えながら、敵兵たちに向き直った。リディアは瞳を閉じてほんの少し首を振ると、再びフォースを見上げてくる。
「大丈夫か?」
 フォースはリディアと一瞬だけ視線を交わした。リディアの瞳は完全に元の色に戻っている。
「平気よ」
 リディアはそう答えると、フォースにって敵兵に身体を向けた。女神の攻撃のせいか敵兵の視線に力が無くなっている。
「い、いくら脅されても俺は。あいつの仇を……」
 その言葉に、フォースは緊張を高め、剣を握り直した。もし攻撃してきても、すぐ前に陣取ってくれているティオやバックス、周りの兵が相手をしてくれるはずだ。だが突破されでもしたら、馬上で手綱を持ったままリディアを支え、剣を振るわなければならない。危険この上ないし、できることならそんな情景の中にリディアを置きたくないと思う。
「お前が死ねば、クロフォードに苦痛を与えることができるんだ!」
 男は自分で無理矢理気力を取り戻そうとするように、声を大きくした。リディアはフォースが握り直した剣に目をやり、気を落ち着けるように大きく息をつくと、視線をその男に向ける。
「この人の命を奪えば、あなたは気持ちの安らぎを得られるのかもしれません。でも、決して安穏な生活は訪れません。ライザナルの皇帝も、私も、神でさえもあなたを恨むでしょう」
 声は違うがリディアが発した言葉だ。女神が手にした光の威力を思い出したのだろう、男の声が上擦った。
「う、恨みなんていくら買ったってかまわないっ。俺はあいつのために」
「その方は、あなたがそんなふうに恨まれることを望まれるような方だったのですか?」
 リディアが口にした問いに、その男は声を失っている。口を意味無く開け閉めし、何か言い返そうと泳がせた視線をリディアに向けた時、リディアは手のひらを向けてその言葉を制した。
「もしそうなら、私はあなたを止めません。あなたがもし、……、命を落とすようなことがあっても、この人が無事でいることだけを祈ります」
 しっかりとした口調でそう言ったリディアを、敵兵たちは呆然として目も口も開けたまま、じっと見つめている。
 ほんの少し首を巡らせたリディアの頬を涙が伝い落ちるのが、フォースの視界に入った。兵士たちは、まさかリディアが涙を流すなど思ってもみなかったのだろう。それでこの状況なのだとフォースは理解した。
 フォースはリディアに回した腕に力を込めて抱き寄せた。リディアは敵兵から顔を隠すようにうつむき加減で、身体をフォースに預ける。
 フォースは敵兵に鋭く冷たい視線を向けた。
「俺は今、ライザナル皇帝の使者でもあるんだ。戦のない平和な世界が欲しいとは思わないのか? 仇を討つなら戦そのものに討てよ!」
 その言葉に、敵兵たちは驚きの表情で顔を見合わせている。
「だいたいクエイドに利用されているのはお前じゃない、お前が大切にしているその人なんだぞ!」
 声が怒りで震えた。リディアの腕が背中の方へ回るのが分かる。フォースは剣を逆手に持ち変え、手の甲でリディアの髪をでた。
「分かってる。殺したりはしない」
 フォースの言葉に、リディアは悲しげな瞳のまま、ほんの少しの笑みを浮かべた。それを見ていた敵兵が長いため息をつき、切っ先を地面に降ろす。
「仇を討ちたいのは、あんたじゃない。あんたじゃ、憎しみのつなぎにはならない」
 男の言葉で、その周りにいた仲間の兵士たちも、緊張が解けたように肩を落とした。
 後方の戦意を喪失した敵兵をまとめていた兵士たちが、前に出てきた男たちも捕まえ始めた。ティオは辺りの敵兵を三、四人まとめて抱え込むと、また木の太い枝に引っかけだす。
「しばらくおとなしくしていてもらおう。無事に城都に着けないと、せっかくの和平も頓挫しちまうからな」
 バックスも、敵兵をまとめていた男を拘束にかかる。男は半信半疑な顔をフォースに向けた。
「戦は、……、終わるのか?」
 この戦の根がどこに張っているかは、もうすでに分かっている。あとはその根を断ち切ればいいのだ。
「終わらそう」
 問いかけてきた男にそう返して剣を収め、フォースはリディアと馬を降りた。
 とたん、ティオがバックスから男をひったくった。叫び声を上げている男を持ち上げると、背中とそのプレートの間に、木の一番上の枝を差し込んで固定する。ティオは、暴れると折れるからね、と声をかけると辺りを見回した。
「もう居ないの?」
 敵兵が残っていないか探しているティオと、敵兵が飾られた木を、フォースは半笑いで交互に見上げる。
「なんか壮観だな」
 思わず同意してうなずいたリディアも、笑うに笑えずに木を眺めた。
「落とさないように気をつけてね」
「大丈夫だよ。折れないとこ選んでるから」
 ティオは上機嫌な笑みで、敵兵が鈴生りになった木を指差した。バックスは肩をすくめると、ティオに苦笑を向ける。
「じゃあ、合図したら一人ずつんで渡してくれよな」
「えぇ? 取っちゃうの?」
 ティオのムッとした声に、バックスは眉を寄せた。
「どうすんだよ。このままにしておけないだろ?」
「だって……、リディアぁ」
 鼻にかかった甘えた声のティオに、リディアは怒った顔を作ってみせる。
「きちんと言うことを聞かなきゃ駄目よ」
 その一言に、ティオは不機嫌に、はぁい、と返事をした。
「じゃあ、頼んだよ」
 フォースはその言葉をわざとティオに向けた。元気よくうなずいて機嫌がよくなったティオの声を背中に聞きながら、フォースは通り過ぎようとしたアジルとイージスを引き留める。
「あ、隊長。薬漬けの宿ですが、イージスに任せていいでしょうか?」
 アジルはフォースに敬礼を向けると、そう口を開いた。フォースがうなずくと、アジルは街をぐるっと指差す。
「今夜の宿の方は、別の者が手配に回っています」
 いつものように、命令を下すまでもなく動いてくれる兵士たちに感謝しながら、フォースは、頼むよ、と返礼した。リディアは一緒に会釈をすると、日が落ちて星が広がり始めた空に視線を向ける。
「綺麗」
 リディアに袖を引いてされ、フォースも空を見上げた。暗くなるにつれて星がどんどん増え、輝きを増してくる。
 星の位置もいつのまにか、すっかり見慣れたメナウルのモノだ。しかも、ここまで南下すると、戦の影が感じられなくなってくる。だが何年か前の使者は、城都までのどこかで殺害されてしまっているのだ、最後まで気を抜くことはできない。
 ふと、リディアがこちらを見ていることに気付いた。目が合うとリディアは柔らかく微笑み、また空に目を向ける。
 この微笑みを守っていたい。ただ今日は、どちらかというと守ってもらったような気がしないでもないのだが。
 フォースは照れくささに苦笑すると、もう一度リディアと同じ方向を見上げた。