レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     3.相克狭間

 アイーダを立っていくらも進まないうちに、城都の方向から進んでくる隊が見えてきた。進行を止め、馬上で様子をうかがっていたフォースの元に、隊から二騎だけ抜け出して近づいてくる。片方は上位騎士の鎧、もう片方は町人の格好をしているが、バックスの隊の兵士だ。
 上位騎士の見覚えのある顔に、フォースは目を見張った。ゆったりと敬礼を向けてくるその人は、フォースの前に二位の騎士だった、現神殿警備責任者のグラントだ。
「サーディ様からのご報告を受け、陛下より巫女様、及びライザナルよりの使者の警備を仰せつかって参りました」
 低い、だがよく通る声が、フォースの耳に届く。グラントは二位の騎士としてのフォースには直属の部下だが、父親よりもさらに年上の騎士だ。幾分緊張して返礼したフォースに、グラントは頬を緩めた。
「クエイド殿の嫌疑についても聞いているよ」
 そう言うとグラントは隣にいる兵士を視線で指し示す。
「アイーダでのことは、彼が報告してくれた。鎌を掛けたのが当たったそうだな」
 その言葉で、兵士は慌ててフォースに敬礼を向けてきた。フォースは返礼と苦笑を返す。
 襲われた時点でクエイドの策略だと限定したのは、多少乱暴だったかもしれないとフォースは思う。だが、他にもそんな思いを持つ人間がいるとは、どうしても思いたくなかった。
「今頃はノルトナとシェラトの隊が邸宅を包囲している」
 いつもの口調にもどったグラントに、フォースは身体の力が抜ける思いがした。小さい姿で駆け寄ってきたティオが、フォースの後ろに飛び乗る。馬は身動き一つせずにそれを受け入れた。
「あの人、フォースのお父さんと似てる」
 外見で似ているところは一つも無い。ティオが言っているのは性格や思考、自分との関係など、中身のことなのだろう。元より、嘘をつくような人でないことは分かっている。フォースはティオに笑みを向けると、グラントに対して姿勢を正した。
「お元気そうでなによりです」
「ああ、君も。そこの妖精君もだ」
 グラントに声をかけられ、ティオは嬉しそうに、ハイ、と返事をすると、バックスの方へと駆けていく。
 後ろに控えていた隊が、フォースの思考を読んでいったティオの伝令を受け、前進を再開した。隣に並んだグラントが、フォースに問いを向ける。
「どうする? クエイド殿にも会うか?」
 もちろん会えるモノなら会っておきたいとフォースは思った。少しだけでもゼインのこと、その父である人のこと、クエイド当人のことも聞きたいし、預かってきたペンタグラムが息子のモノかも問いただしたい。フォースは首を縦に振った。
「ええ。ですが、まずは陛下に親書を。その時にでも許可をいただきます」
 フォースの返事に、グラントは笑みを浮かべ、大きくうなずいた。

   ***

「通してくれ」
 メナウル皇帝ディエントの声が、ドアの向こう側に響く。グラントは、承知いたしました、と声を掛けてからドアを開いた。フォースはグラントに礼をし、リディアと共に部屋へと入る。
 二人が通されたのは、ディエントが近しい人間と対話する時に使われる部屋だ。あまり広くなく窓も一つしかないが、調度品が品よく置かれ、落ち着いて話しをするためか、小形の椅子とテーブルがえられている。ディエントの私室に程近く、警備も完璧に騎士のみで行われていた。
 その部屋の奥に、ディエントが悠然と立っていた。
 入室し、背後のドアが閉まった音を合図に、フォースはひざまずいた。左隣、少し後方でリディアもフォースにう。ディエントはフォースの前に立った。
「経緯はすべてサーディより報告を受けている。まさか君がライザナルの皇太子とはな。よく無事で戻ってくれた」
 フォースには、戻って、という言葉が嬉しかった。そして、ライザナルの皇太子だと知っていてなお、く迎え入れてくれた感謝の気持ちから、深く頭を下げる。
「巫女を拉致するための出兵がありましたこと、遺憾に思っております。二度とこのようなことが起こらないよう」
「君のおかげで大きな混乱にならずに済んだのだから、気にすることはない」
 ディエントはフォースをさえぎってそう言うと、笑みを浮かべる。だが、フォースにはそうは思えなかった。
 逆にもし自分がいなければ、巫女に直接手は出さなかったのではないか。たぶん自分の動きを封じるために、巫女を拉致しようという計画が持ち上がったのだろう。
 考えあぐねるフォースに、ディエントは苦笑を浮かべて見せ、その右手を差し出して立つようにした。
「まず立ちなさい。ここではそのような儀礼は必要ない」
 その言葉に従い、フォースは立ち上がった。振り返って、左側にいるリディアにも手を貸し、リディアと控え目な笑みを交わす。
「しかし、よくこの短期間で戻ってこられたな」
 ディエントが小首をかしげての言葉に、フォースは思わず苦笑する。
「思いの外命を狙われることが多く、危険を考慮してくれたのだと思います。それと、これをお届けする必要が出てきましたので」
 フォースは鎧の内側から親書を取り出し、ディエントに向き直った。
「クロフォードより預かりました親書です。どうぞご一読を」
 ディエントは大きくうなずいて親書を受け取る。
「君が帰ってこられたのも、ライザナル皇帝の愛情があるからこそ、ということらしいな。ならば、信じてみるのもいい。まずは拝読しよう。ここで待っていてくれたまえ」
 親書の裏にある封印を見ながらそう言うと、ディエントは部屋を出て行った。
 軽くお辞儀をして見送ったフォースは、ドアが閉まる音を聞いて顔を上げた。笑みを向けてきたリディアを抱き寄せる。リディアは暗い息を一つついてから、フォースに身体を預けた。
「聞き入れてくださる、わよね……?」
 胸の辺りで小さく響く声に、ああ、と、うなずいて、フォースは腕に力を込めた。
 確信しているわけではなかった。だが、若い時に反戦を考えた時期があったとディエント自身の言葉で聞いたことがあるのだ、そう信じたかった。
 どちらからともなく唇を寄せて重ねる。そうしている間は頭の中を空っぽにできるし、今は幸せなのだと感じていられた。
 唇が離れると、思わず苦笑し合った。不安も欲求も、すべてが筒抜けになっている気がする。
「座っていればいいよ」
 そう言ってフォースはリディアの手を取り、椅子に腰掛けさせた。自分はその横に立つ。座って落ち着けるとは思えなかったし、むしろリディアの側に立っていた方が気持ちは楽にしていられた。離していない手から、ぬくもりが伝わってくる。
 フォースの視線は、窓から見える景色とドアの間を、無意識に往き来した。その何度か目に、リディアに見つめられていることに気付く。フォースがリディアに苦笑して見せた時、ドアにノックの音がした。
「陛下です」
 グラントの声にリディアが立ち上がり、フォースは姿勢を正した。ドアが開き、ディエントが入ってくる。
「待たせたね」
 いえ、と短く返事をして、フォースは軽く頭を下げた。顔を上げるのを待ったように、ディエントが口を開く。
「親書は読ませていただいた。明後日にはスティアが到着する。話しを聞いた後、返事をしたためよう」
 フォースが少しの沈黙に耐えられず、かすかに眉を寄せると、ディエントは相好を崩した。
「話し合いは必要になるが、賛同しようと思う」
 ディエントの言葉を聞き、リディアは喜びに大きく息をつくと、両手で口を押さえる。その瞳に涙が溢れたのを見て、フォースはそっと背中に手を添えた。ディエントはゆっくり大きくうなずく。
「戦は終わらせよう。メナウルにしてみれば、もともと仕掛けられてくる戦いを受けるだけの戦だった。それが無くなるのだから、わざわざこちらから挑む必要もあるまい」
「ありがとうございます」
 フォースはディエントに頭を下げた。
「勝手な申し出だとは重々理解しておりますので、賛同のご決断、有り難く存じます」
 フォースの言葉に、ディエントはフッと軽い苦笑を漏らす。
「メナウルの騎士としての忠誠も思いも、変わらずにいてくれるのが心強いよ。君を二位の騎士に任命しておいてよかった。この親書を持ってきたのがライザナルの使節なら、私の返事も変わってしまったかもしれん」
 その言葉に、フォースは深く頭を下げた。二位に任命された時、反戦の意志を示していたことも含めて認められたことを、今も変わらずに納得してくれているのだ。感謝の気持ちがさらに大きくなった。その肩にディエントの手が乗る。
「シャイア神が必要だというのも理解したが。肝心のシャイア神はどう言っているのだね?」
「ライザナルへ行くと申しております。どうかシャイア様のお言葉のままに」
 リディアがディエントに向かい、そう口にした。ディエントの声が、いくらか軽くなる。
「リディアはすでに行くと決めているようだ」
 そう言うとディエントはノドの奥で笑う。ハッとしたように口を覆い、頬を赤らめているリディアと、フォースは苦笑を交わした。
「シェダの所には知らせをやっておく。君も明日にでも顔を出してくれ」
 ディエントの言葉に一度顔を上げ、フォースは、はい、と返事をしてから再び頭を下げる。もうよい、とフォースに頭を上げさせ、ディエントはため息をついた。
「反対する人間たちも、を取りたいと思う自分の気持ちも、なんとか口説かねばならんな」
 悲しげな声に、フォースは黙ったまま視線を落とした。騎士になって五年に満たないが、それでも仲間の騎士も近しい兵士も、大勢失っている。彼らの思いはどこにあるのだろうと思うと気が遠くなる。ましてやディエントは国の責任者なのだ。失った人や物の数が自分の比ではないだろうことは、容易に想像がつく。
「そう、その第一人者だが」
 その言葉で、フォースの脳裏にクエイドの顔がよぎった。視線を合わせたフォースに、ディエントが眉を寄せる。
「伝令から話しは聞いているよ。すでに邸宅を包囲させている。まさか、ライザナルと通じていたとは……」
 ディエントの言葉尻が、珍しくった。ディエントにとっては重要な部下だったのだ、裏切られる悔しさや、納得できない思いで一杯だろうと思う。ゼインのことがあったせいか、フォースはその気持ちも手に取るように理解できた。
「通じていたと言っても、直接かどうかは分かりません。ドナの犯人かゼインを介してだけのことかもしれませんし」
「だが、同じ事だよ」
 ディエントが寂しげに言った言葉が、フォースの胸に重たく響く。
「話しをさせていただけますでしょうか」
 フォースが口にした言葉に、ディエントは何度かうなずいた。
「そうだな。君の立場で問いただすのが、クエイドも話しやすいかもしれん」
 そう言うとディエントはドアに歩み寄り、二度叩いてドアを開けた。向こう側にグラントの敬礼が見える。
「フォースをクエイドのところへ連れて行ってくれ。君も話しを聞くために同席して欲しい」
「承知いたしました」
 グラントの低い声が廊下に響いた。

   ***

「リディアさんを連れてこなくて正解だったな」
 クエイドの屋敷に張り付くように並んだ兵士たちを見て、グラントは苦笑した。
「これは物々しすぎる」
「ええ、危険かもしれませんし。アテミアさんにも会いたがっていましたので、神殿に預けてきてよかったです」
 フォースはグラントに笑みを向けると、すれ違いざま敬礼を向けてきた兵士に返礼を返す。
「ああ、本職ソリストの。リディアさんにとっては師に当たるのか。まぁ巫女が戻られたと言うことで、神殿は一層の警備体制を取っている、安全でもあるだろうしな」
 その言葉にうなずきながら、今は自分といる方が危険なのだとフォースは思った。だが、今とは比べものにならない、もっと危険な場所へ連れ出そうとしているのも事実だ。
 ティオと森を進むことで、人目が付かないという点ではいくらか危険は緩和される。
 ティオとファルがいればジェイストークかアルトスと連絡を取れるだろうし、マクヴァルに悟られずにマクラーンへ入ることも可能だろう。
 だが。最後にたどり着くマクヴァルの前ほど危険な場所はないのだ。人間なら誰もがマクヴァルにられてしまう可能性がある。リディアを人に任せることはできないし、だからといって自分が斬らねばならないのは間違いない。
 黙り込んだフォースの顔を、グラントが心配げにのぞき込んでくる。
「何か問題があるのか?」
 グラントに問われ、フォースは、いいえ、と首を横に振った。グラントに話したところで、解決できる問題ではない。だが、問題無いと返したことで、いくらか吹っ切れた気がした。
 なんにしろマクヴァルを斬らない限り、神に無言で突きつけられている交換条件を満たせないのだ。そこまでやらなければ、リディアをシャイア神から解放してもらえないし、戦も再燃してしまうかもしれない。すべてが振り出しに戻ってしまう。やるしかないのだ。
 せめてあの詩にもう一行、斬った後のことが書かれていて欲しかったと、フォースは思った。実際、その後の何かをシェイド神に教えられたような気がするのだが、まだ文献に記述は見つからないし、思い出せもしないでいる。だが未来のことだけに知らない方がいいのだろうとも思い、フォースは顔に出さずに苦笑した。
 クエイドの屋敷の正面玄関が見えてくる。そこを固めている騎士が、知り合いであるノルトナとシェラトと分かり、フォースは頬をめた。
「取り調べ?」
 ノルトナが声を掛けてくる。
「いや。それは任せる」
 フォースはそう答えながら、律儀に向けてくる敬礼に返礼した。自分で取り調べなどしたら、今までの確執のことなどがどうしても影響してしまうだろう、それは避けなければならない。グラントに指示され、シェラトが扉をノックした。
 少しの間を置いて、扉は内側から開かれた。クエイド本人だ。フォースを見つけると、硬い笑みを向けてくる。
「兵に包囲された時点で、君が来ると思っていた。入りたまえ」
 そう言うとクエイドは、奥に向かって歩き出した。その場に立ったまま様子をうかがっていたフォースを振り返る。
「安心したまえ。薬も兵もアレが最後だ、もう残っていない」
 クエイドは嘲笑を浮かべると、再び背を向け、歩を進めていく。フォースはグラントと視線を交わし、その後に続いた。
 まっすぐ突き当たりの部屋に入る。家具や調度品などは、ディエントが使用している部屋にあるモノよりも派手で、むしろ豪華にさえ見える。机には湯気を立てたカップが一つ置かれていて、今までそこでお茶を飲んでいたことがうかがえた。
「何か飲むかね?」
「いえ」
 クエイドは、フォースが予想していたよりも、ずいぶん落ち着いている。今までいたのだろうカップの前、椅子の方へとゆっくり歩いていく。
 フォースは鎧の内側に手を入れ、クロフォードから預かってきたペンタグラムを探った。金具から外した勢いで、鎧にぶつかって音を立てる。クエイドが振り返ったその視線の先に、フォースはペンタグラムを差し出した。
 クエイドの顔色が変わった。おぼつかない足取りでフォースの方へと戻ってくる。
「こ、これは……」
 クエイドは青い星形の石に手を差し出した。フォースはその手の上にペンタグラムを落とす。それにじっと見入った目を一瞬フォースに向けると、クエイドは右奥にあるドアへ駆け寄り、もどかしい手つきでドアの取っ手を引いた。
 中へ入っていったクエイドを追って、フォースとグラントは開け放たれたドアから中をのぞいた。大きめのベッドがあり、そこに一人の女性が寝かされている。
「分かるか? 息子のだ、私たちの息子のモノだよ」
 どうもクエイドの夫人らしい。フォースは、その人が驚きに息を飲んだような空気の動きを感じた。クエイドはベッドから伸びてきた細い手に、ペンタグラムを握らせる。
「あなた、あぁ、本当にあの子のだわ……」
 声を詰まらせ、ペンタグラムを包み込むように持つその手に、クエイドは自分の両手をかぶせた。
「まさか、またこうして手にすることができようとは」
 クエイドは、涙こそ流してはいないが、肩を細かく震わせている。
「いったい、どこにあったんです……?」
 その問いに、クエイドはハッとしたように視線を上げた。
「それは……、そこにいる騎士が持ってきてくれたんだ」
 クエイドに視線で示され、フォースは思わずかしこまった。夫人はクエイドに手を借り、上体を起こす。白く柔らかそうな髪が揺れ、夫人はフォースに向かって上品なお辞儀をした。
「ありがとうございます。これを、どこで……?」
 凍り付いたようなクエイドの視線が、フォースに向けられる。
 フォースはそのペンタグラムを、クロフォードから受け取った。ライザナルでは、エレンとフォースをさらった犯人の所持品と思われている。そしてそれを確かめるため、ここに来たのだ。
「申し訳ありません。私はクエイド殿に渡してくれと言付かっただけで、詳しいことは知らないんです」
 だがフォースは、夫人に対してその事実を伝えることができなかった。そのために眉を寄せた表情を見て、クエイドはフォースが知っていると思ったのだろう、ホッとしたような、しかし悲しげな笑みを浮かべている。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
 クエイドに背を撫でられながら、何度も頭を下げる夫人に敬礼を向け、フォースは元の部屋へと戻った。寂しげに置いてある一つだけのカップに迎えられ、フォースはため息をつく。
 クエイドのあの様子では、息子のしたことをすべて知っているのだろう。母エレンとフォースをさらったのが、そのうちの一つだということも。だからこそ、あの反応を示したのだ。
 後ろからついてきたグラントが、フォースの肩をポンといて通り過ぎ、入り口側のドアへ戻って部屋の中央へ身体を向けた。その心配げな表情に、フォースはわずかな笑みを返した。
 クエイドが戻ってきた。夫人のいる部屋のドアをそっと閉じると、カップの置いてある前の椅子に腰掛ける。
「あんな小さなペンタグラム一つでも、幸せを感じられるモノなのだな」
 そう言うとクエイドは、立ったままでいるフォースと一度視線を合わせると、寂しげな笑みを浮かべた。フォースは気付かれぬように、気を静めるための深呼吸をして口を開く。
「母と俺をさらったのは、あんたの息子なんだってな」
 もはや疑いの余地はなかった。フォースの言葉にクエイドは、カップを見つめたまま肩の力を抜く。
「やはり、知っていたのか」
 予想通りの返事を返し、クエイドは視線をフォースに向けた。
「息子が私に反発し、ライザナルへ顔を出したせいで、ライザナルに私の存在が知れてしまった。諜報部のやからをどこの隊に配属しろだの、随分と利用されたよ。息子はその私と自分の利用のされ方に腹を立て、ライザナルに仕返ししようとエレンとお前をさらったんだ。息子がメナウルに帰って来たのはよかったと思ったが。戦をしている両国の狭間に手を触れてはいけなかった」
 早口で、しかしえた声でそう言うと、クエイドはフォースが何も言わないことに苦笑し、カップに視線を落とした。
「お前を盾にされ、エレンは抵抗もできなかったらしい。だが、国境間近で逃げられたそうだ。ところがエレンはマクラーンに戻らず、いつの間にかドナにいた。犯人は確かに息子だ、だが帰らなかったのはエレンの意志なのだぞ? メナウルの軍部にはライザナルの人間がすでに何人か配属されていた。見つかれば、かどわかしたとして殺されてしまう!」
 クエイドのが机を叩き、カップのお茶を揺らした。そのに力がこもる。
「それを怖れた息子は、エレンとお前がドナに居るのをライザナルへ知らせるために、ドナの事件を起こしてしまったのだ。だが、何もかも計算が狂った。息子は間違いなくお前達は生き残ると思っていたようだ。同じ立場なら誰だってそう思うだろう。それが、あんなことになってしまった」
 脳裏にエレンが斬られた時の情景がよみがえり、フォースはクエイドから視線を逸らして眉根を寄せた。クエイドは短い笑い声をたてると、握っていたをほどく。
「しかもライザナルが気付くのが遅すぎた。ライザナルの者が後から来て探りを入れても、ドナの誰もが何も言わない。そりゃあそうだろう、村の人間はみな、エレンを殺した罪悪感に取りかれていたんだからな。結局私の息子も無駄死にだ」
 クエイドの顔が悲痛に歪み、その視線を夫人のいるドアへと向ける。
「戦が終わってしまえば私の立場はどうなる? どちらの国からも非難を受け、きっと何も知らない妻までも野垂れ死にさせてしまう。だから戦という均衡たねばならなかった、とにかく、どうしても続けなくてはならなかったんだよ」
 クエイドは胸に溜まった息をすべて吐ききるようなため息をついた。何かを思い出したようにハッと目を見開くと、視線を上げる。
「ゼインは? ライザナルにいただろう? どうしているか知っているのか?」
 すがるような視線がフォースの身体にみついてきた。フォースはクエイドをまっすぐ見つめたまま口を開く。
「俺に仇を取ろうとして、アルトスに斬られた」
「死んだのか?!」
 悲痛に歪められた顔に、フォースはうなずいて見せた。
 クエイドは身体から力が抜けたように両肘につき、手で顔を覆った。そこから長いため息が漏れてくる。
「私は何もかもを失ってしまったのだな……。嘘を重ねたいだ」
 静かな部屋に、クエイドの震える呼吸音だけが聞こえている。フォースは夫人のいる部屋に目をやると、もう一度クエイドに視線を戻した。
「嘘なら俺もついた。あの人に」
 その声にクエイドが顔を上げた。悲嘆に暮れるその表情に背を向け、フォースは足を踏み出す。
「私はどうすればいいのだ」
 クエイドの声が、フォースの背中に響いた。フォースは一瞬足を止めたが、そのまま歩を進める。
「戻ります。後はお任せします」
 フォースはグラントの視線を受けてそう言うと、クエイドの家を後にした。