レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     2.胸奥

 サーディは神殿でのグレイの講義を、神殿に続く一歩手前のドアから聞いた。ここでユリアにフラれたのだと思うと、講義は上の空になった。
 自分の気持ちは何一つ変わっていない。いや、変われないのかもしれない。感情が流れないまま、ずっとここに落ちているような気がした。
 ユリアと話しをし、リディアに沈んだ気持ちの巻き添えを食わせ、懺悔をしたらその神官がグレイだった。おかげで間に挟む壁のない、対面での懺悔をさせられるハメになったのだ。その行動に怒ったシャイア神の思し召しだったのかもしれない。
 講義を終えたグレイと、無言のままいつもの部屋へ向かった。
「ユリアは初心者なままだよ。まだ好きなら何度でもそう伝えればいい」
 無言でいたことで、むしろ自分が何を考えていたのかが筒抜けになっていたのだろう。グレイは薄笑いともとれる冷ややかな笑顔でそう言った。
「そうは言ってもな。まだフォースのことを好きだってんなら、何度言っても断られるだろ」
 いつもフォースが座っていた席の真向かいに腰を落ち着け、サーディはため息をついた。そこにいたフォースは、いつでもリディアを見つめていた。ユリアもたまらなかっただろうと思う。
「口説き落とすってのは、どうやるか知ってるか?」
「そのくらいは知ってる」
「じゃあ口説け」
 簡単に言ってくれるが、実際そんな場面は見たことがない。だいたい、モテている奴はいつでも黙ってモテているようにしか見えない。自分が口説いて何になると反発したくなる。
「本でなら読んだ」
「あ、そ」
 グレイは気の抜けたような声でそう言うと、手にしていた本をすでにある本の上にポンと乗せた。その音で頭に残る違和感を思い出したサーディは、両肘を机に乗せて頭を抱える。
「まだ痛いよ……」
「余計なことを言おうとするからだ」
 いつの間にか後ろにいて後頭部から響いた声に、サーディは胡散臭げに振り返った。すぐ側に、腰をかがめて付き合わせたグレイの顔がある。
「余計って。謝りたいじゃないか。あんなことを、……、してしまって」
 サーディが目をそらして言った言葉に、グレイは大きくため息をついて起きあがり、背筋を伸ばした。
「抱きしめました、ゴメンナサイ。さて、そう言われたら、リディアはなんと答えるでしょう。一、いいの、気にしないで。二、平気、気にしないで。三、大丈夫、気にしないで。四、あんなことするから、悲しくて寂しくて罪悪感がいっぱいになって絶対に許さないんだから!」
 人差し指を答えの数の分だけ立てて話し続けるグレイに、サーディはなにもリディアの真似までしなくていいのにと思いながら顔をしかめた。
「四番は無い」
「そうだな。フォースの前だからこそ、サーディを罵倒して欲しいんだけど」
 リディアが自分を許したら、フォースが辛い思いをするだろうことは分かっているつもりだ。
「だから、直接フォースになら謝れるかと思って」
 サーディの言葉に、グレイはため息をついて腕組みをした。
「どうしてリディアは何も言ってくれなかったんだろう、そんなことを隠したりったりするなんて、もしかしたらリディアにサーディのことを好きだっていう気持ちがあるんじゃないだろうか」
 反論しようとしたが、サーディは言葉が出ずに口をつぐんだ。フォースとリディアは、もう充分に信頼を築いているのだとは思う。だが信頼しているからこそ、自分の言葉が意味を持ってしまう可能性が無いとは言い切れない。
「それは、……、そうかもしれない」
 つぶやくように言うと、グレイは再び顔を突き合わせてきた。
「いいか、あれは既に終わったことだ。フォースを傷付けてでも、記憶の彼方に葬り去りたいってんなら」
「そんなわけじゃ」
 慌ててそう答えてから、謝ることですべての解決にはならないと気付く。
「……無いつもりだった」
「なら何も言うな。忘れろ。話しを蒸し返しただけじゃ終わらない。サーディの中だけで解決を付けるんだ」
 やりすぎだろうとは思うが、本で頭を殴ってでも止めてくれたことを、グレイに感謝する。サーディは気を落ち着けるように息をついた。
「ずっと罪悪感を抱えていかなきゃならないんだな」
「まぁ、自分が悪いと思っていることをした分は」
 謝れば自分の気は済むかもしれない。でもこの状況で謝るのは、傷付けたと思った人をさらに傷付けてしまうことになる。
「痛いよ……」
「だからって自分を傷付けている刃を人に向けたりしたら、未来永劫、大気のままだ。熱砂に焼かれ、岩盤に削られ、海中に囚われ、トルヴァールには絶対に行けない。魂は休まらない」
 熱砂に焼かれ、岩盤に削られ、海中に囚われ。人が死んで、魂が地中にあるトルヴァールという国に行けなかった時は、そうして風と一緒にさ迷い歩くことになると教義で教えられている。
「もう分かったよ。だから教義を持ち出してすな」
「バカ言え、俺は神官だぞ。ついでに懺悔を受けたのも俺だ。サーディにはこれ以上悔いを残して欲しくない」
 トルヴァールでこの大地に抱かれ、魂は浄化されるのだ。この痛みもその時には間違いなく消える。そう思うとわずかだが気持ちも落ち着く。だが、対面で話したことまで、懺悔と言えるのかどうか。
「ついでに言えば、サーディはユリアに気持ちを知られただけで、告白もしていないんだと思うぞ?」
 グレイが落ち着いた静かな声で言った言葉に、確かにそうかもしれないとサーディはうなずいた。ユリアには好きだという気持ちが存在していると言っただけだ。
 だがそこまで言っても、付き合って欲しいなどと言い出す勇気は出なかった。自分と付き合うということは、そのまま結婚を意味するし、ユリアは既に違う道を選んでいるのだ。告白したところで、いい返事をもらえる自信は起こらない。
 しかも、どちらかと言えば、サーディにはグレイも苦労ぜずにモテている部類に見える。その辺りを分かってもらえるのかは非常に不安だ。
「グレイはそういう感情を持ったことはないのか?」
「あるよ」
 グレイから簡単に帰ってきた言葉に驚き、サーディは思わず聞き返した。
「誰に?」
「シャイア様」
「ホントに?」
「……、シャイア様だ」
 二度目のその名前は、ひどく苦しげに聞こえた。シャイア神の像はリディアに似ている。しかも現在降臨を受けているのがリディアなのだ。もしかしたらリディアのことを言っているのではないかと思い、サーディは思わずグレイの顔に見入る。
「懺悔してくる」
 グレイはそう言うと、一瞬の笑みを浮かべて身をひるがえした。
「え? ちょっと待っ」
「マズイだろう、やっぱり。神官がそんなことを考えてたんじゃな」
 振り向かずに手を振りながら神殿へと続く廊下へ入っていくグレイを、サーディは止めることができなかった。
 グレイの受け答えが、いつもよりほんの少しキツイ気がしていた。だからグレイが言ったシャイア神というのが、リディアを差しているのかもと思ったのだ。
 もしかしたら、グレイをも傷付けてしまったかもしれない。サーディは大きくため息をついた。無意識に、まいったな、と言葉が混ざる。
「お茶をお持ちしました」
 その声に驚き、思わず振り返った。ユリアがお茶のトレイを持ち、眉を寄せた顔で部屋に入ってくる。その視線は扉の側、フォースとリディアの荷物が置いてあった場所に向けられていた。
「フォースなら、ついさっき行ったよ」
 サーディがそう伝えると、ユリアはその名前に一瞬目を見開き、それから笑顔を作った。
「無事に帰ってきて欲しいですね」
 どこかぎこちない声に聞こえたのは、ユリアはまだフォースのことを好きなのだと、分かってしまったからだろうか。そうだね、と言ったサーディの返事を聞いて、ユリアは作り切れていない笑顔でサーディの右隣に立ち、お茶を一つテーブルに移す。
「どうぞ」
 ありがとう、とサーディは微笑みを返した。トレイの上にはもう一つ、グレイの分のお茶が乗っている。それを指差し視線を向けると、ユリアは肩をすくめた。
「グレイさん、行っちゃいましたね」
「忙しい?」
 ほとんど同時に言葉が出て、思わず苦笑し合う。ユリアはもう一つのお茶をテーブルに移すと、サーディの隣の席についた。
「今度帰ってきたら、結婚式でしょうね」
 ユリアは目の前にあるお茶に目を落としたまま、それでも明るい声でそう言った。
「多分ね。そうなって欲しいって思ってる」
 サーディの言葉に、ユリアはゆっくりうなずいた。その表情は、緩やかな微笑みを浮かべたままだ。
 グレイに言わせれば、ユリアはまだフォースを忘れてはいないらしい。確かに、ユリアを見ていると、その視線の先にはフォースがいるような気がする。
「聞いても、……、いいかな」
 そう言いながら、まだフォースを好きなのかなどと、聞いてはいけないのだとサーディは思った。グレイを傷付けてしまったかもしれないのに、この上ユリアまで傷付けてしまうことになる。だが、サーディのそんな考えなど知るよしもなく、ユリアはサーディの顔をのぞき込んで言葉を待っている。
「あ、あの、結婚式の時、結婚する二人に大きな白い布をかぶせるだろ?」
 なんとかごまかそうと、サーディは適当に話しを切り出した。ユリアはホッとしたようにフワッと微笑む。
「素敵ですよね。新しい一つの家庭という範囲の象徴とか言われていますけど。たいてい中でキスしていらっしゃるんですよね」
「そうなの?」
 思わず聞き返したサーディに、はい、と返事をして、ユリアはクスクスと笑い声をたてる。
「それが何か?」
 ユリアの問いに、サーディは一度言葉に詰まってから口を開いた。
「あぁ、あの布って、神殿で準備するの?」
「ええ、神殿にもあります。でも、最近は持ち込まれる方が多いんですよ」
 ごまかすつもりで始めた会話に、サーディはつい真剣になってくる。
「え? あんな大きな布、どうするんだろう」
「大きいから使えるんですよ。窓の風よけに使ったり、赤ちゃんの産着に仕立てたり。アリシアさんなんてシーツにするって言ってましたし」
 ユリアの楽しげな声に、サーディは思わずブッと吹き出した。
「な、なんか。うわ、想像しちゃうよ」
 その言葉に、エッ、と短く声を発すると、ユリアは頬を赤らめて両手で顔を隠す。サーディは慌てて両手をユリアに向けて振った。
「ごっ、ゴメン! つい。い、いや、たださ、薄くて透ける布でも用意して、フォースが中で何をするか見てやろうとか思っ……」
 いつの間にかキョトンとした顔で見つめられていたことに気付き、サーディは肩をすくめて舌を出す。
「あぁ、やっぱり悪趣味だよね、ゴメン」
「分かります、それ」
「そうだよね、って、ええ?!」
 サーディは、ユリアの言葉に意表をつかれ、目を見張った。ユリアはコクンとうなずき、笑みを向けてくる。
「私も見たいです。可愛いでしょうね、リディアさん」
 リディアの名前を聞いて、サーディは絞り出したようなグレイの声を思い出した。もしかしたらリディアのことを好きなのだろうかと勘ぐる気持ちがよみがえってくる。
 懺悔をしに行くと言ったグレイは、今何を考えているのだろうと思うと、不安が溢れてきた。
「何かあったんですか?」
 顔に出てしまったのだろう、ユリアが心配そうに眉を寄せる。
「俺、グレイにとって辛いことばかりしてしまっているから」
 サーディの言葉に、ユリアは不思議そうな視線を向けてきた。
「そうなんですか? グレイさん、いつもと変わりなく笑っていましたけど」
 グレイは元から感情を表に出すことはあまり無い。ユリアに分からなかったとしても仕方がないだろう。
「グレイが誰を好きなのか知ってる?」
「シャイア様ですよね」
 ユリアの表情が変わらない即答に、グレイはむしろ本当の気持ちを隠しているからこそ、そう答えているのではないかと、サーディは思った。
「それ、本当なのかな」
「分かりません。でも、神職にわっているのですから、嘘ではないと思います」
 そういう言い方をすれば、確かにそうなのだろう。サーディは苦笑した。
「君も、シャイア様が好きなんだ」
「ええ。……」
 ユリアの視線が、自然といつもフォースがいた場所に向く。
 サーディの視線に気付いたのか、ユリアは慌ててその席から目をそらした。そのしぐさが、そして一途にフォースを想う気持ちが、愛しいと思う。ユリアがフォースを好きでも、やはり自分はユリアを好きなのだ。
「リディアさんのように両手を広げてすべてのことを受け入れていけたら、って言ってたよね。もしかしてフォースがリディアを想う気持ちも、その中に含まれてるんだ」
 サーディはユリアをまっすぐ見つめた。ユリアは一度合わせた視線を逸らし、頬を上気させて、はい、とうなずく。
「俺の気持ちも、受け入れてくれないかな」
 その言葉に、ユリアは視線をそらしたまま目を見張った。
「わ、私は……」
「君がフォースを好きなのは分かってる。分かってるけど」
 サーディの声を、ユリアは視線を合わせないまま聞いている。サーディは一度気持ちを落ち着けるように息をついた。
「俺にはそうやってすべてを受け入れてくれようって娘じゃないと駄目なんだ。皇帝を継がなきゃならないからってのもあるし、俺だからってのも」
「私はリディアさんのようになりたいと言っただけで、まだ、そんな……」
 視線の定まらなくなったユリアの顔を、サーディはのぞき込む。
「そういう努力をしようって娘を好きになれるなんて、きっともう無い。必ず大切にする。だから、君の半分を俺に任せて欲しいんだ」
 頬を上気させ、ほんの少し動いたユリアの唇を目にして、サーディは開きかけた口を閉じて、その言葉を待った。
「……、考えさせてください」
「ホントに?!」
 トーンが上がった声に目を丸くして驚き、ユリアはサーディを見つめてくる。
「え……?」
「考えてくれるんだ?」
 サーディは、キョトンとしたユリアの手を取り、両手で包み込んだ。
「ありがとう! 嬉しいよ、とても」
 ほんの一瞬ビクッと動いてそのまま手の中にいてくれるユリアに、サーディは本気で感謝した。

   ***

 一束の花を抱え、ジェイストークは神殿地下へと向かっていた。
 アルトスが巫女拉致の軍を止めたとの知らせを聞いた時、ジェイストークは久しぶりに身体の奥にまで空気が届いた気がした。肩の荷が下りたと共に、こごっていた息をすべて吐き出し、大きく息を吸い込んだからだろうか。たった今まで息をしていなかったのかと思うほど、それは身体の隅々にまで染み渡った。
 知らせを受けたちょうどその折、ジェイストークはクロフォードの側にいた。内容を察したクロフォードにいたわりの言葉をかけられ、ことの次第と同等に、内情までをも気に掛けてくれていたのだと感謝した。
 クロフォードが日課にしていた、ドナから移したエレンの墓に花を供えるという役目を、その時以来ジェイストークが代わりに遂行している。手にした花は、エレンに捧げるためのものだ。視線の先に墓が見えてくる。
 クロフォードとリオーネの関係も、少しずつではあるが良い方向へと変化しているようだ。エレンの墓に供えるこの花も、一部リオーネの意見が取り入れられているらしい。このままいい関係を作っていけば、皇帝家族の絆も深まり、対外的にも面目を保てる。
 だが逆に、フォースの孤独は深まるのだろう。エレンの墓を目の前にして、自分がまだ小さな子供だった頃の懐かしい微笑みが脳裏によみがえってきた。
「エレン様がレイクス様に対して、何をお望みになっているのか。それが気がかりです」
 一日経った、まだほとんどしおれていない花を横にどけ、抱えてきた摘んだばかりの花をえながら、ジェイストークはそう声に出して言った。
 マクヴァルからシェイド神を解放したら、マクヴァルはただの神官ではいられない。呪術を使ってシェイド神をり付けていたのだ、当然失脚する。マクヴァルの実子である自分はもちろん同じ役職、同じ地位にはいられないだろう。
 そして同じようにフォースの地位も、今ほど確固たるものではなくなってしまう。成婚の儀自体の意義が消えて無くなるのだ。ましてや状況だけを考えれば、クロフォードとマクヴァルのどちらが父親なのかが分からないことになる。
 もし誰もがクロフォードの血を引いていると思ったとしても、正妻であるリオーネとの子息であるレクタードが、俄然力を増すのは間違いない。
「レイクス様を皇帝にとは、お考えにならなかったのでしょうか」
 今はもう、エレンの思いがここに届くことはないのだ。その望みは、永遠に知り得ることはない。ただ、詩の存在一つでここへ戻らなかったのは、レイクスを皇帝にする方を選ばなかったからだという可能性が大きい。
 誰よりも自分が、レイクスを皇帝にしたいと思っているから、エレンに同調して欲しいと思うのだろうか。レイクスを皇帝にしたら、誰もがエレンを忘れない。自分はそれを望んでいるのかもしれない、とジェイストークは思った。
 ふと、視界の右隅を黒い影が横切った。ジェイストークは首を回して影の方向を見た。普段と変わらない情景がそこにある。
 だが、空気が変わった気がした。背筋に寒気が走る。息を潜め、感覚をとぎすましたその中に、低い空気の震えが伝わってきた。その揺れは少しずつ大きさを増し、がノドを低く振るわせる音に酷似してくる。
 左後方に影が走った気がして、ジェイストークはそちらに向き直った。やはり何も見えないが、今はうなり声のような息が響いている。どこかに何かが姿を隠していることは間違いなかった。
 壁が石でできているせいでうなり声が響くため、その発生源がどの方向にあるのかが分からない。ジェイストークは焦る気持ちを抑えつけ、護身用に身に着けている短剣を探った。
 手が短剣に触れたその瞬間、身体の右側、至近距離に影が入り込んできた。とっさに後ろに飛んだが、空気を切る音と同時に太股に影の爪が走る。
 着地して踏ん張ろうとした足の痛みに、体勢が崩れた。黒い物体が視界の正面を一瞬で占める。
 目がある。そう思った時、その目の前を黒い物体が振り上げた右腕らしきモノが通り過ぎた。
 来る。短剣を鞘から引き抜くと同時に、間を取るために後ろに下がった。腕の長さを充分に考慮したつもりだったのだが、鋭い爪の先が身体をかする。
 視界の隅に、マクヴァルが映った。
「来るな!」
 思わずそう叫ぶと、ジェイストークは注意を引くため、黒い物体の目の前を短剣でいだ。黒い物体がジェイストークに向き直る。
 人の形に似てはいるが、間違いなく人間ではない。とにかく怪物としか言い表しようがなさそうだ。
「逃げろ!」
 マクヴァルがどこに行ったかまで、確認している暇はない。そう叫んで、後は忘れるしかなかった。しかも長剣ならともかく、短剣では相当に分が悪い。怪物はそれしか脳がないかのように、再び腕を振り上げ、勢いを付けて振り回してくる。
「お前は」
 マクヴァルの声が響いた。
「俺も隙を見て逃げるっ。こんなのを相手にしていたら、命がいくつあっても足りない!」
 ジェイストークは黒い腕から逃れるため、後ろに下がりつつ叫ぶ。黒い腕が空を切る音と同時に、石の床を遠ざかる靴の音が聞こえた。
 ホッとしたその時、何かに足を取られるのを感じた。後ろに転倒しそうになり、床に手を付く。直後、左から脇腹に衝撃を感じた。その勢いのまま右に飛ばされ床に転がる。身体がエレンのに当たって止まった。
 黒い怪物の方を見て、自分がつまずいたのが、分厚い本だったのだと分かる。さっきまでは無かった。マクヴァルが落としていったのだろう。だがシェイド神の教義には本は使わない。
 激痛が走る左脇腹を押さえようとした手が、ヌルッと血ですべった。その手を目の前にかざしたが、よく見えていないのか血が赤くない。影のように黒く見える。
 近づいてくる怪物の向こう側に、マクヴァルの黒い神官服が見えた気がした。その位置関係で、もしかしたらこの黒い物体はマクヴァルが操っているのかもしれないとの疑惑がわき上がってくる。
 だがすでに遅い。出血が多いのか、急激に意識が遠のいていく。すべて終わりか。ジェイストークは、そう口にしたかどうかすら分からないまま、意識を失った。

   ***

 反目の岩を通り過ぎ、深い森に獣道という状況で、ティオはリディアを肩に乗せ、その上荷物まですべてかついで歩いている。
「ファル、マクラーンに着いたかな。手紙、渡せたかな」
「いくらなんでも早過ぎだ」
 後ろからついてきているだろうティオに、フォースはそう言葉を返した。
 ヴァレスを出てから三人は、まっすぐディーヴァの山沿いを目指していた。ほんの少し雑草が左右に割れた状態だとはいえ、これをさすがに道とは言いがたいし、楽に歩けるわけもない。
 だがティオにとっては、木々や下草が茂っていることは、あまり気にならないようだった。リディアが枝に当たらないよう、スルスルと木々の間を上手くすり抜けてくる。
「ねぇ、フォース?」
 いつもよりもいくらか控え目な声がして、フォースはリディアの姿を振り返って確認した。
「なに?」
「……、あ、あの、ブラッドさん。とても元気になっていて良かったわね」
 一瞬だが言い淀んだことに、フォースは足を止め、どうしたのかとリディアに顔を向ける。
「そうだな。一時はどうなることかと思った」
 フォースがそう笑みを返すと、リディアは笑顔を作り、口をつぐんだ。フォースはまた前を向いて歩き出す。
「ね、フォース?」
 今度はティオの声だ。リディアの真似をしているのか、さっきの声より抑揚を押さえている。
「なんだ」
 ぶっきらぼうに返したフォースに、ティオは少し迷ったような顔をして、それから口を開いた。
「リディアがね、フォースに聞きたいことがあるんだって」
「ええっ? そんなこと言っちゃ、あ」
 リディアが慌てたような早口で、ティオの言葉をさえぎった。フォースは立ち止まると、ティオの足元まで戻ってその肩に座っているリディアを見上げる。
「さっきから何か言いたそうだとは思ってたけど。どうしたんだ?」
 フォースがリディアを見上げているのを見て取ると、ティオはリディアをフォースの側に降ろし、みるみるうちに小さな子供の姿に戻る。
「フォース、俺が聞いた時の返事とリディアが聞いた時の返事が違いすぎるよ」
「同じになるわけがないだろうが」
 フォースが冷ややかな笑みを浮かべて見せると、ティオは理解したのかしないのか、フーンとそっぽを向いた。ティオの後ろ姿を横目で見て、フォースはリディアに向き直る。
「リディア?」
 リディアは話しずらそうに眉を寄せ、それから意を決したように顔を上げた。
「ティオに、女心を勉強しろだなんて言ったの?」
「ああ、神殿のあれ」
 フォースはそんなことだったのかと、安心して肩の力を抜いた。似たようなことは考えたが、それをティオに読まれただけで、口には出していないから誤解されたのだろうと思う。
「いや、微妙に違うんだけどね」
「勉強するの?」
 不安げに見上げてくるリディアに、フォースは笑みを返した。
「しないよ。俺はリディアの気持ちさえ分かれば、他は必要無いと思ってるし」
 その言葉にリディアは、ほんのわずかな笑みを浮かべ、恥ずかしそうにうつむく。
「変なこと聞いてごめんなさい。ありがとう」
 琥珀色の髪がサラサラと頬を隠していく。その髪をくように撫でて頬に触れ、フォースはリディアの顔をのぞき込むようにキスをした。唇を離し、見つめ合った瞳に浮かんだ柔らかな微笑みを、思わず抱きしめたくなる。
「シェイド神がいるのに、どうして妖精が全然いないんだろね?」
 ティオの声にギクッとして振り返り、フォースは逃げ越しになったティオを、手持ち無沙汰になった手でリディアの代わりに捕まえた。
 自分が持つ不届きな感情を、ティオは見張っているのかもしれないとフォースは思った。実際有り難くもあり、ひどく迷惑でもある。だが、あれでも心配しているのだろうと思うと、可愛いような憎らしいような両極端な感情が湧いてくる。
「シェイド神が呪術で縛られているからじゃないのか?」
 そう答えながら、フォースはティオの後ろから首に腕を回し、もう片方の手でグリグリと乱暴に頭をでた。ティオはフォースの感情を理解しているのだろう、ケケケと変な響きを立てて笑い出す。リディアは二人のやり合いを止めた方がいいのか止めなくてもいいのか、手を差し出そうとしたまま悩んでいるようだ。
 ティオはフォースの腕の中でくるっと向きを変え、ニコニコと笑った顔をリディアに向けた。
「おなかすかない? 何か食べ物探してくるよ」
 そう言うと、ティオはフォースの腕からスルッと抜け出した。
「あまり遠くに行くなよ」
「分かってる」
 フォースが心配して言った言葉に、ティオはまたケラケラと笑うと、手を振って木々の間に音もなく入って行った。