レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     3.羽の旋風

 アルトスが顔色を変えるのを、イージスは初めて目にした気がした。御者も自分の言葉でアルトスが驚くとは思ってもみなかったのだろう、凍り付いたようにその顔を見ている。
「ジェイが怪我? 他に情報は? 何もないのか?」
 低く静かに押さえつけたアルトスの声に、御者はただ、はい、とうなずいて見せた。ますます顔をしかめたアルトスに、御者は話しづらそうに上目遣いの視線を向ける。
「鳥は二羽とも無事に着いたのですが、やはり中身は同じ手紙でして……」
 そんなことは、御者が気にすることではない。マクラーンとこの街道沿いにある馬車の拠点間では、何かあった時のために伝書鳥を二羽飛ばす。二通が違う内容では意味がないのだ。
 しかし、ジェイストークが神殿で怪我を負って瀕死の状態だというそれだけの内容では、他に何も考えようがないし手の打ちようもなかった。
「あの、馬車でよろしいでしょうか」
 御者が遠慮がちに言った言葉に、アルトスは視線をさ迷わせてから一度大きく息をついて口を開く。
「変更はない。出してくれ」
 その言葉に幾分ホッとしながら、イージスはアルトスの胸中を思った。
 マクラーンへの日程は、変更をするまでもないほど無駄なく組んである。むしろ変更しても無意味な時間ができるだけで、早くは着けないだろうと思われるほどだ。
 御者が馬の金具を確かめている間に、アルトスと馬車に乗り込む。アルトスは進行方向に顔が向く座席に腰を下ろした。後から乗車したイージスは、その強張った表情を見ないように努めていた。
 馬車が動き出し、少しずつ速度を増していく。いつもより早く感じるのは、アルトスの不機嫌な顔を御者が忘れられないからなのだろう。このままサッサと眠ってしまおうかとイージスは思った。だが、無視できないほどに、疑問が大きくらんでくる。
「なぜエレン様の霊堂しかない神殿地下で、命に関わるような怪我を負ったのだ」
 無意識に発したのか、アルトスのつぶやくような声が、イージスの疑問をなぞるように聞こえてきた。その声につられてイージスも口を開く。
「ええ。何かが起こったとしか考えられません」
 イージスはそこで初めてアルトスをまっすぐ見た。窓の外にやっていた目をイージスに向けてゆっくりうなずくと、アルトスはそのまま壁面の一点に視線を移す。やはりその疑問から心が離れないのだろうとイージスは思った。
 こんな時は何を言っても気を紛らわせるのは難しい。ただ黙って自分の気を静めるのが一番なのだ。ただそうは思っても、気を落ち着けることのできる要素は何一つ無い。逆に疑念を抱く要因は、いくらでもれてくる。
 唯一、地下へと続く階段ならば、怪我をしてもおかしくないと思われる。だが、なだらかな上に踊り場が広いので、足を踏み外したところで瀕死の怪我にはならないだろう。石でできた手すりは幅もあり、当人が乗り越える努力をしない限りは、落とすことも簡単にはできない。
 しかも心配はそれだけではすまない。フォースの身の回りの世話をしているのは、ソーンだけということになるのだ、心許ないことはなはだしい。誰か新しくけているのだとは思うが、フォースが塔にいないことを誰かに漏らされる危険まで気に掛かってくる。
「少しでも眠った方がいい」
 思考をさえぎった声にハッとして、イージスはいつの間にか自分を見ていたアルトスを見やった。
「もう少ししたら、私も休む」
 はい、と返事をして、イージスは自分が座っている椅子の下を開け、毛布を取り出そうとみ込んだ。
 突然、馬のいななく声と共に減速で馬車が揺れ、次の瞬間、ぎゃあ、と御者の叫び声がした。バランスを崩したイージスは、身体を支えるまもなく座席に抱きつくような格好になる。その後方にできた空間にアルトスが立ち上がり、声を外に向けた。
「どうした?」
 体勢を立て直したイージスは、アルトスが止まってしまった馬車の窓から御者台の方向に上半身を乗り出したのを見た。妙に生臭い匂いが馬車の中に流れ込んできて、吐き気に顔をしかめる。ヒィヒィと息をするたびに漏れる御者の声が続いていて、気が触れたようにさえ響く。
「なんだ、これは……」
 馬車の外側でアルトスの声がする。イージスは反対側の窓から顔を出し、窓の外側にポツポツと付いている黒いシミに気付いた。顔を向けただけで、辺りの嫌な匂いはこのシミが原因だと分かる。
 外に出て馬車を振り返り、イージスは目を見張った。その黒い物体が馬車に飛び散っている。前に回ると、その物体で黒く染まっている御者が目に入った。
「おい、どうしたんだ。何があった?」
 アルトスに腕をつかんで揺さぶられると、御者は一瞬正気に戻ったように視線を合わせ、そのまま気を失った。
 イージスは馬の所まで歩を進めた。御者の声のせいか、いくらか興奮はしているようだが、幸運なことに異常がない。イージスは馬に呼びかけ、肩や背中をかるくたたいて落ち着かせながら、アルトスが御者を馬車に運び入れて戻るのを待った。手伝った方がいいに違いないが、正体が分からない黒い物体のあまりの不気味さに、御者に触れるのも嫌だった。
「行くぞ」
 馬車から出たアルトスは、御者台に向かっている。
「私は……」
「どこかに乗らないと置いていくぞ」
 ジェイストークのこともあるからか、やはり前の拠点まで戻る気はないらしい。予定がずれるより、アルトスはこのまま進むことを選んだようだ。
 イージスは覚悟を決めて御者台にいるアルトスの隣に落ち着いた。馬車が走り出すと全部後ろに置いてくるのだろう、嫌な匂いだけはしなくなった。だが、まわりにこびり付く黒い物体を無視することはできそうにない。
 改めてまわりを見回すと、その黒い染みの飛び散り方から見て、前方から飛んできた何かが直接御者に当たってしまったのだろうと推測できる。
「これは何なのでしょう。生きものだったのでしょうか」
 イージスがそう声をかけると、アルトスは少し間を置いてから口を開く。
「今は何を言っても推測にしかならない。急ごう」
 次の拠点まで行っても、正体が何か分かるとは思えない。だが、ここにいたのでは何も進展しないし、手の出しようもないのだ。それに次の拠点には、ジェイストークに関する新たな情報が届いているかもしれない。
 イージスは息をめ、緊張した面持ちで前方を見据えた。

   ***

 ディーヴァの山沿いを、何日歩いただろうか。フォースは相変わらず、できる限りまわりに気を配りながら歩を進めていた。
 樹木が入り組んだ森は抜けたものの、徒歩だけあってあまり距離は稼げない。ただ、軍のモノではなく乗馬用の軽い鎧を身に着けているので、いくらか休みさえすれば一日歩いても苦にはならなかった。
 自分がレイクスだとバレれば、自分やリディアだけではなく、マクラーン城の人間も窮地ってしまう。焦って目立つわけにはいかなかった。
 幸いなことに人に会うこともなく、何匹かの小さな動物を目にしただけで、今の所危険を感じるようなことは何もなかった。それはリディアを連れている自分にとって、なによりなのだとフォースは思う。
「フォースとリディアはそれで足りる?」
「ああ、全然問題ない」
 食べ物は木の実や果実など、ティオがどこからか持ってきてくれる。もし食料が足りなかったら、比較的捕獲が楽なトカゲでも捕まえて、元が何かはリディアに黙ったまま肉にして食べさせようとフォースは思っていた。自分で探す覚悟をしていた分、気が楽だ。森を進むうちは、食べ物に困ることも無さそうだった。
 リディアと二人で果実を口にしていた時、どこからか出てきたティオが、両腕にいっぱい抱えてきた自分の分の食料を、ガサッと側に置いた。いつもながら多量だ。しかも凄い勢いで平らげていく。移動しながらでもないと、ティオの食料は調達できないだろうとフォースは思った。
 それだけの量を抱えてきたティオに、食べ終わるのを待ってもらい、少し食休みを取ってから再びマクラーンに向けて歩き出す。
 最近は、リディアと荷物を肩に乗せたティオが、フォースの前を歩いている。その方がティオは歩く気が出るらしく、フォースにとっても視界の中にリディアがいる方が安心できた。
 右手にはディーヴァの山々が連なっている。上面をうアイスグリーンの冠雪は美しく、いつもと変わりないストーングレイの山肌によく似合う。
 だが、普段は美しいだけのディーヴァも、裾野を歩くのは辛いモノがある。森は少し奥に入ると、枝葉を伸ばした木々が勢いよく生い茂っている。だからといって森を離れてしまうと、砂利の混ざった軟らかな土が、足をめ取ろうとするのだ。
 そしてこのディーヴァに住むはずの神は、今リディアの中に、そしてマクヴァルの中にもいる。呪術に抑留されているシェイド神や、使命なのか感情なのかにわれているシャイア神が、人の世アルテーリアにいい影響をもたらすはずはない。実際戦は、百二十年もの長い歳月続いているのだ。
 彼らが神だからこその弊害は、大きくリディアにのしかかっている。戦を望まないリディアに、シャイア神がつけ込んでいるとしか思えない。だからこそリディアをシャイア神から解放したい、どうしても返して欲しいのだ。
 そしてたぶんそれこそが、詩に歌われる自分の意志そのものなのだろうとフォースは思う。
「水の匂いがするよ。湖の」
 ティオが声をあげた。リディアは辺りの空気をいで、まわりを見回している。
「匂い? 湖なんてことまで分かるの?」
「川の水と、湖の水は違うよ。沼も違うよ。雨だって水たまりだって井戸だって」
 ティオは得意げに、そう口にした。リディアは、凄いのね、としきりに感心している。飲める水はあるだろうか。フォースがそう思った時、ティオがフォースを振り返った。
「リディア、水浴びしたいって」
 そう、それもあるのだ。あまり間を開けては可哀想だと思う。だが、どうやって見張るのかを考えると頭が痛い。
「方向も分かるのか?」
「任せて」
 ティオはにっこり笑うと、今まで進んでいた方向を左前方に修正した。
 少し行くと、木々の間から水の反射が見えてきた。日の光を反射して、キラキラと美しく輝いている。
「もう少し行ったら川もあるよ。リディア、どっちがいい?」
 そう問いかけられ、リディアはティオに笑みを向けた。
「湖の方がいいわ」
「そう? 川の方が水がちょっとだけ綺麗だよ?」
 リディアは少し迷ったのか首をかしげると、またすぐに口を開く。
「綺麗なのは嬉しいけど、でもきっと、凄く冷たいわ」
「うん。……そうか、人間には冷たいのが痛く感じるんだね?」
 また心の中を読んだのだろうティオに、リディアはうなずいて見せた。
「そうね、そんな感じよ」
「うん、分かった。すぐそこに入り江があるから、そこに行くね」
 そう言うと、ティオはフォースを振り返った。フォースがその顔を見ているとティオは、ね? と繰り返す。
「え? あ、ああ」
 ティオは了解を取っていたのだと気付き、フォースは慌てて返事をした。ケラケラと笑うと、ティオはほんの少し足を速める。
 ティオが笑うのも無理はないとフォースは思った。声には出さなかったが、二人の会話はほとんど上の空で、どうやって見張ればいいのかと、ほとんどそればかり考えていたのだ。
 神殿での湯浴みなら通路の左右だけを気にしていればいいのだが、湖ではそうはいかない。入り江ならなおさらだ。
 湯浴み用の薄い服を着るとはいえ、まさかジーッと見ているわけにもいかないだろう。そう思った時、急にティオの背中が大きく見えた。ぶつかる直前で足を止め、ティオが立ち止まったのだと気付く。
「どうした?」
 フォースはティオの横に並び、その視線を追った。
 そんなに遠くない入り江の水から、金色の髪をしたきゃしゃな上半身が、しぶきを上げて現れた。細く白い身体に、控え目な膨らみが見て取れる。赤みの強い茶系の瞳が、こちらを向いて見開かれた。
 なんと言っているか分からない、耳が痛いほど高い悲鳴が辺りに響いた。ほとんど同時に、フォースは入り江に背を向ける。
「すみませんっ!」
「その大きなのも、向こうを向いてよっ!」
 悲鳴と同じくらい大きな声に、ティオもフォースにって後ろを向いた。
「フォース? あの人、怒ってるみたいだけど気持ちが読めない」
 ティオが声を小さくしてささやいた言葉に、フォースは眉を寄せた。ティオはフォースの顔を見て、ウン、とうなずく。
「きっとライザナルの妖精だよ」
「普通にいるんだな」
 ティオはフォースにもう一度うなずきながら、リディアと荷物を地面に降ろした。
 フォースの前方に立ち、フォース越しに入り江を見やったリディアが、あっ、と小さく声をあげた。ほとんど同時に、風に乗った柔らかな布地が、後頭部からまとわりついてくる。
 驚いているフォースに笑みを向けると、リディアはその布を手に取った。ちょうど肩のところを持ったらしく、スカートの部分がフワッと下りていく。
「服? だな」
「ええ。持っていってあげなくちゃ」
 入り江に向かいかけたリディアの身体に腕を回し、フォースはリディアを引き留めた。
「フォース?」
「何を考えているか分からないのに、側に行くなんて危険だ」
 リディアは、不安げなフォースとその服を交互に見ると、フォースの顔をのぞき込む。
「フォースが行きたいの?」
「は? なっ、なに言ってんだ? お、俺は別にそんなことを言ってるんじゃ」
 動揺を隠せないフォースに笑みを向けると、リディアは入り江の方に目をやった。
「あの人、困っちゃうわ」
 眉を寄せたリディアに、フォースは言い聞かせるように顔を寄せる。
「だから、ここに服を置いて、俺たちが場所を変えればそれで」
「その服! 飛んじゃったの?!」
 いきなり背中から聞こえてきた大声に、今度はフォースが顔をしかめた。リディアはフォースの肩越しに、コクコクとうなずいてみせる。
「拾ってくれてありがとう。持ってきてくださらない?」
「こいつじゃ駄目か?」
 フォースは断られるだろうと思いつつ、ティオを指差した。
「駄目に決まってるでしょ! 怖いじゃない」
 ティオは何を考えているのか、怒りもせず、ただ固まったように前方を見ている。
「じゃあ、ここに服を置いて、俺たちが消えるってのは」
「その間に飛んでっちゃったらどうするのよ。今だって飛んでっちゃったのに。冷たいわね」
 冷たかろうが厳しかろうが、そんなことはどうでもよかった。
 人に会わないようにわざわざ街道をさけていたのに、会った上に関わってしまったのだ。しかも、こんなところにいるのは妙だと、元から疑ってかかるように思考ができてしまっている。
 相手が妖精なので、ここにいても不思議でもなんでもないとは思う。融通が利かないと思いながらも、疑う気持ちは消えようがなかった。
「だったら、飛ばないように石でも乗せ」
「冗談じゃないわ! 服が汚れちゃうじゃないのよっ!」
 どこに置いてあったのか、風に飛んだのだから汚れくらい付いているだろう。いまさらだと思うと、無意識に難しい表情になる。
「だいたいね、私がその娘を襲うかもしれないだなんて、おかしいんじゃない? 見たでしょ?! 私も女よ、失礼ねっ!」
 思考を読んだのだろう、相変わらず高い声が不快に響く。だったら話は簡単だとフォースは思った。自分が思ったそのままを読み取ってくれれば、申し出を受けるつもりがないことくらい、すぐに分かるだろう。
「フォース? 持っていってあげましょう?」
 ね? と、小首をかしげてリディアが顔をのぞき込んでくる。
「でも、見張ることもできない」
「何かあったら声を出すわ。すぐそこだし。裸のままでいるなんて不安でしょうし、かわいそう」
 後ろから吹いてくる風が、リディアの光をはらんだ琥珀色の髪と一緒に、手にした薄い布が何枚も重ねられた服をフワフワとなびかせて通り過ぎる。
 仕方がないのだろうかと思ってついた軽いため息を承諾と取ったのか、リディアは笑みを浮かべると、フォースが止めるより先に後ろ側へと足を踏み出した。
「とても綺麗な服ですね」
 背中からリディアの軽やかな声が聞こえた。クスクスと笑う妖精の声が重なる。
「でしょう? ありがとう。お気に入りなのよ。とても」
 とても、という言葉が妙に冷たく響き、フォースの頭にシャイア神の声を聞いた時の衝撃が走った。
 フォースは迷わず剣を抜きながら振り返って駆け出した。そこだけ強い風が取り巻く中、服が生きもののようにリディアをめ取ろうとしている。最初に口をふさがれてしまったので声も出せなかったのだろう。
 リディアを抱きかかえようとする妖精に突きを出すと見せかけて身体を引かせると、フォースはいくぶんんだ風の中でリディアの口を押さえた服をつかみ、引き剥がしにかかった。
 飛びすさった妖精は、阻止しようと手を伸ばしてきた。フォースはその腹を押すように蹴り飛ばす。しりもちをついた妖精が起きあがるに、剣をリディアと服の間に差し入れると、フォースは服を断ち切った。
 布地が切れた音が悲鳴に聞こえ、服はリディアを放り出すように解放した。フォースは服から投げ出された格好のリディアを抱き留める。
 服は距離を取った妖精が伸ばした手に向かって、風と共に飛んでいく。フォースの腕の中で、リディアは震えながら空気を大きく吸い込んだ。
「大丈夫か?」
 息を荒げたままうなずいたリディアを後ろ手に庇い、フォースは妖精に向き直った。妖精が眉を寄せて目を細めると、辺りに突然風が巻き起こる。
 その風に屈することなく、フォースは妖精に視線を据え剣を構えた。妖精はチッと舌打ちすると、湖へ身体を投げ込むように身をひるがえす。
「野蛮人!」
 悔し紛れかそう叫ぶと、妖精は透き通った羽を広げ、水面近くを向こう岸へと飛んでいく。後ろに大きなままのティオが駆けつけてきた。
「動けなかった」
「術か」
「うん」
 涙目になったティオの返事を聞きながら、フォースは逃げていく羽が付いた妖精の後ろ姿を目で追った。
 動きを止められていたことが衝撃だったのか、顔を引きつらせたティオがフォースを見下ろしてくる。
「怖かったけど、綺麗な人だったね」
「あれが?」
 フォースは妖精から視線をらさずに、ティオに返事をした。目的はリディアの拉致に間違いなさそうだ。だが、一人なのか仲間がいるのか、他のことは何も分からない。
 ふと、身に着けている簡易鎧を、横から軽く引っ張られる感覚があった。リディアだ。フォースが振り向くと、リディアは頬を赤くしてうつむく。
「どうした?」
「もういいでしょう?」
 フォースは意味が分からず、顔を上げずに言ったリディアを見下ろした。
「え? なにが?」
「だって、まだ見てる。あの人の、……、裸」
 その言葉にブッと吹き出すと、フォースは慌ててリディアと向き合った。自分でも顔が上気してくるのが分かる。
「いや、ちっ、違うっ、そんな、い、意識してもいなかっ……」
「でも。顔が真っ赤」
 ほんの少しだけ見上げてきたリディアは、すぐにまたうつむいてしまったが、眉を寄せ、口をとがらせているのが見て取れた。
「ほ、ホントだって。だいたいそれどころじゃないだろ。何者なんだ、あいつ」
 あいつ、とは言ったものの、妖精が去っていった方向を、もう見ることもできない。怒っているのかと思ってフォースがのぞき込むと、リディアは悲しそうな顔をしていた。釈明しようとして、フォースはいくぶん早口になる。
「あ、いや、だから、羽があったから驚いて見ていただけで、裸って言われてもむしろリディアのを思い出すくらいしか見てな、あ」
 驚いて見上げてきた顔が、みるみるうちに上気した。
「もうバカ、エッチ、スケベ、意地悪……」
 鎧の胸プレートをコンコンと叩く手を取って引き寄せ、フォースはリディアを腕の中に包み込んだ。
「ゴメン」
 抱いた腕に力を込めたい気持ちを、息を潜めてこらえる。それでも抑えられない想いで、フォースはリディアの髪をゆっくりと撫でた。リディアは小さく首を横に振ると、フォースを見上げてくる。
「ごめんなさい。フォースの言うことをきちんと聞いていれば、襲われたりしなかったのに」
「そんなことはいい。無事でよかった」
 フォースは髪を撫でていた手でリディアを引き寄せ、口づけた。
 リディアが入り江の方へ行かなかったら、違う手で襲われていただろう。どんなことを考えていたかは分からないが、とにかく無事にやり過ごせたのだし、存在を知ることができたことだけでもけモノだったと思う。
 唇を離し、いつものように見上げてきたリディアの控え目な笑顔が、急に驚いたように丸くなる。その視線につられて後ろを見ると、ティオがすぐ後ろに顔を寄せていた。
「な、なにやってんだ」
「さっきの人、ホントに好みじゃないんだ」
 ティオが真面目な顔をして言った言葉に、フォースはため息をついた。
「そんなこと探ってたのか」
 ティオは口を横に広げていかにも嬉しそうな顔になる。何を喜んでいるのだろうと思いながら、フォースは湖の向こう側を親指で指差した。
「さっきの妖精、ライザナルのなのか?」
「うん。シェイドのだ」
「分かるのか?」
 フォースの問いに、ティオは胸をはってうなずく。
「妖精は滅多に死なないから、変わり者もみんな知ってるけど、あの人は知らないよ」
「まさかシェイド神の妖精すべてが敵じゃないだろうな」
 その言葉に、リディアもティオも口をつぐんでしまい、冷たいが流れる。フォースは疑問をそのまま口に出してしまったことを後悔した。
「いや、山裾を歩いてるのに、これまで会わなかったことの方が、むしろ問題なのかもしれないし」
「もし他の人を見つけたら、聞いてみるよ」
 ティオはフォースの言葉に顔を上げてそう言うと、自分でウンとうなずいた。
 もしも妖精にまで敵がいるのだとしたら、大きめな街があるところでは街道沿いの宿を選んだ方がいいのかもしれないとフォースは思った。人が多い街なら目立たなくてすむし、心置きなくリディアを休ませることもできる。
「リディア、入るんでしょ?」
 ティオは人差し指で湖を指差し、リディアに笑顔を向けた。リディアは確認を取りたかったのだろう、困ったように苦笑してフォースを見上げてくる。フォースは眉を寄せた顔をティオに向けた。
「さっきの、湖から発生したんじゃないだろうな」
「フォース、違う生きものと間違えてない? 増やし方は人と同じだよ」
 増やし方、と繰り返しそうになって慌てて口を押さえ、フォースはリディアの表情をうかがう。
「入りたい? ……、よね」
 口を押さえたままたずねたフォースに、リディアは控え目にうなずいた。フォースがまわりを見回したのを見て、ティオが笑い出す。
「リディア、俺が側にいてあげるね」
「はぁ? なんでお前に見せなきゃならないんだよ」
 そう素で返してしまってから、ティオが感情を読めてしまうことを思い出す。
「妬くなよ」
 やはりそう来たかと思いながら、フォースは不機嫌な顔をティオに向けた。
「うるさいな。ティオも見張りだ。さっきのが戻ってきたりしたら大変だぞ」
 ティオと対等なケンカになっているのが、なんだか情けない。だが、いてくれてとても助かっているのは間違いないのだ。そんな気持ちすら読んでしまうのか、ティオはにっこり笑って、分かった、と答えた。
 リディアはクスクスと笑いながら荷物からローブを取り出して羽織る。その中で着替えをするらしい。ティオはキョトンとした顔でリディアを見ている。
れちゃうの?」
「当たり前だ」
 高圧的に返事をしても、意に介していないのだろう、ティオがフォースの顔をのぞき込んできた。
「ホッとした? 気が抜けた? 残念?」
「全部だ、バカ」
 隠しても無駄なことは分かっているが、どうしてここまで正直に言ってしまわなくてはならないのか。
「人って複雑だね。フォースも時々複雑だよね」
 その言葉に唖然とすると、ティオはまたおかしそうにケラケラと笑う。フォースは左手で顔の左半分を覆い、大きくため息をついた。

   ***

 ボウッと光が目に入ってくる。そこに見えているのが天井だと分かって、ジェイストークは自分がベッドに寝かされていることに気付いた。
 全身が熱く脈を打っている。身体を起こす気力も体力も何もない。ただ視線を巡らせて、神官が一人、窓の外をめているのが見えた。
 あの怪物に、ひどい怪我を負わされたのだ。
 神官の後ろ姿で、神殿地下でのことを思い出す。あの怪物は何だったのだろうか。あそこで見たのは、確かに父マクヴァルだったのだろうか。
 考えようとしても頭が動かない。きっともっと眠った方がいいのだろう、そうジェイストークは思った。
 目を閉じようとした時、窓の外にファルがいることに気付いた。気付いたはいいが、自分で手紙を受け取ることは、しばらくできそうにない。取ってくれと神官に頼むわけにも行かない。
 ジェイストークはため息のように息を吐くと、再び眠りに落ちていった。