レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
     4.刺客

 まわりの木々は少しずつ緑の色が濃くなっているようだ。マクラーンに近づくほど針葉樹が多くなっていたのを、フォースは思い出していた。右手に連なるディーヴァ山脈の冠雪も、幾分増えてきている。
 足元は雨と根が固めた比較的歩きやすい地面に変わっていた。歩きやすいといっても、気を付けていないと根に足を取られてしまうのだが。
 前を歩くティオの左肩には、リディアがティオの頭を抱えるように右手で身体を支えて座っている。ティオの頭がフンフンと鼻を鳴らして息を吸い込み始めたせいで揺れ、リディアはティオの顔をのぞき込んだ。
「どうしたの?」
「なんかう」
 そう返したティオの鼻は、人間とは比べものにならないほど能力が高い。その鼻で、なんか、という程度の匂いなら、もちろんフォースもリディアも感じることはできない。
 フォースが細心の注意を払って変化をぎ取ろうとしても、緑と木の匂いと土の匂いがするだけで、他は一切分からなかった。
い」
 それでもティオはそう繰り返す。フォースは前を歩くティオの後頭部に向かって声を掛けた。
「何の匂いか分かるか?」
「わかんない。でも、生肉と血の匂いに似てる」
 その言葉に驚いたのか、リディアは自分の鼻と口を押さえている。フォースの脳裏には戦場の光景が広がったが、首を振ってそれを否定した。
 似てる、ということは生肉とは違うということだ。だが、いい印象の匂いではないから、そういう言い方になったのだろう。
「方向は分かるのか?」
「分かるよ」
「じゃあ、けてくれるか?」
 うん、と元気よくうなずいたティオは、立ち止まるとまた空気をフンフンと吸い込みながら、ぐるっと一回転した。
「あっちとあっちとあっち。だからこっちね」
 ティオは前方と左前方、左後方を指差しながら嬉しそうに言って歩き出したが、フォースはその数に思わず眉を寄せた。不安げに振り向いたリディアと目が合う。
 フォースはそのままの表情で笑みを浮かべた。苦笑になったが、リディアは曇りのない微笑みを返して、また前方に目を向ける。
 信頼してくれているのだ。そう思うと更に身が引き締まる思いがする。
「ねぇ、動いてる」
 振り返って言ったティオの言葉の意味が分からず、フォースはただ視線を返した。ティオはもう一度まわりを見回すと、口をらせる。
「匂いがね、歩いてるんだ」
「歩いてるって。そのくらいの早さで移動してるって事か?」
 フォースの問いにうなずき、ティオは左後ろを指差した。
「あっちのは遠くなってる。でも……」
 そこまで言うと、ティオはフンフンと空気を吸い込み、前方を指し示す。
「一番向こうにいたのが方向を変えて、こっちに来てる」
「まっすぐ森の外に出よう」
 フォースは右を指差し、先にティオを行かせて後ろに気を使いながら歩き出した。もしも近づいてくるのが敵なら、木々の中で剣で戦うのは困難だ。少しでも自由に動ける場所が必要だった。
 その匂いの元が移動しているということは、多分生きている。しかも方向を変えて向かってきているのだから敵と考えていいのだろう。それにしても血肉の匂いをさせて歩いているのが何なのか、想像が付かない。
 フォースの脳裏には、リディアを拉致しようとした妖精がこびり付いていた。しかし今まで見たことのある妖精は、湖にいた妖精とティオを除けば、存在感の薄い個体が多い。もしティオと同じような妖精だとしても、生肉と血の匂いをさせた妖精などいるとは思えない。
「駄目だよ。やっぱり近づいてくる」
 振り返って言ったティオにフォースはうなずいて見せ、先を急ぐようにした。
 その何者かが方向を変えたのが最初の一度だけならまだしも、二度目も向かってきているのだ、どんな目的にせよ遭遇を狙っているのは間違いなさそうだ。
 神の存在を感じることができるのは妖精だけだ。向かって来るという事実は、シャイア神の存在を感知されている可能性が大きい。匂いを発する何かを持っているということも考えられる。
 風向きのせいか、ティオが言いた匂いが鼻についた。思わず眉を寄せ、鼻と口を手でう。確かにフォースが想像していた戦場の匂いに似ていた。そこに腐敗臭が加わったような不快感がある。
「大丈夫か?」
 そう言って見上げると、やはり鼻と口を覆っていたリディアが首を縦に振った。
「ティオは? 大丈夫か?」
 そう言いながらフォースの頭にあったのは、同じ妖精を敵にまわしてもいいのかという確認だった。振り返ったティオはその思考を読み取ったのだろう、少し寂しげに笑みを浮かべる。
「平気だよ。俺、ガーディアンだ」
 ティオは胸をはると、また歩き出した。虚勢を張っているのがみえみえだ。出来ることならティオに手を出させずに、決着を付けてやりたいと思う。
 森を抜け、視界が広がった。ディーヴァの山が間近に見える。風のせいで強弱はあるが、匂いはどんどんキツくなり、何ものかが近づいて来るのがよく分かる。
「もう、すぐそこにいるよ」
 ティオの声に立ち止まり、振り返って目を凝らす。その視界の中に、黒いドロドロした液体をったような、かろうじて四肢を保っている型の生きものが現れた。その異様な姿に唖然とする。
「あれ、仲間だ……。妖精だよ」
 ティオが信じられないといったように声を震わせた。
 その声に、足元を見ていた視線を上げてこちらに気付いたのだろう、黒い妖精は一瞬足を止めると首らしきモノを上に向け、本能かしか分からないが、ノドを振るわせながら低い咆哮を上げた。そのに感謝しながら、フォースはティオに離れているようにと指示を出して剣を抜く。
 その咆哮をいくらかノドに残したまま、黒い妖精が突進してきた。剣が届く範囲に入る一歩手前で黒い足が地をる。フォースは頭上を飛び越える影を見ながら落下点まで移動し、落ちてくる妖精の下で地面と平行に剣を構えた。
 剣身が半分ほど黒い身体に当たり、り込んでいく感触が手に伝わってくる。フォースは剣の位置を維持し、落ちてくる妖精の身体を斬るに任せた。完全に着地した体勢の妖精から、剣を引き抜いて構え直す。
 妖精は一瞬動きを止めたが、振り返りざまに腕を振り回してきた。フォースはその腕を避けずに剣の腹と足先で受け、その勢いを利用して二人が下がった場所と妖精の間に移動した。
 表情を変えたのだろう、黒い顔がんだ。その背中で地面に黒い血なのか肉片なのかがボタボタと落ちて音を立てる。その不気味な音を隠すように、ノドから漏れる息が大きくなっていく。
 妖精の息が咆哮に変化した。左腕を振り上げながら、まっすぐフォースに向かってくる。フォースは妖精の視点が自分に定まっていることを幸運だと思った。
 大きく振り下ろされた左腕を避けて至近距離に潜り込む。フォースを抱え込もうとした右の腕を断つと、離れた腕が勢いで飛んだ。わずかに残った腕の切り口から黒い物体が飛散し、簡易鎧の胸を打つ。
 充満する悪臭を振り切るように、フォースは切っ先を右へと払った。剣身が浅く食い込む感触が手に伝わってくる。
「頭だ!」
 聞き覚えのある男の声が響いた。
 フォースは足を払おうと仕掛けてきた低い攻撃をとっさに蹴って飛び上がり、剣を妖精の頭に振り下ろした。着地した場所に左腕を振り回してきたが、それはら千切れてフォースの後ろへ飛ぶ。そのまま動きを止めた妖精と目が合った。
 かすかだが、フォースには妖精が笑ったように見えた。黒い液体が涙のように顔を伝う。その液体が落ちるのと同じように、身体全体が崩れていく。
「うわぁ?!」
 驚きと恐怖を含んだ男の声に、フォースは振り返った。黒い妖精と同じような物体が振り下ろした手に、傭兵の鎧を着けた男が引っかけられ、すぐ側まで飛ばされてくる。
「ウィン?!」
 フォースはその顔を見て思わずその名を呼んだ。ウィンはリディアの命を狙ってフォースに阻止され、仲間二人を失っている。巫女を殺しに戻るかもしれないと、ライザナルに入る時に言われた記憶がり、フォースは思わず一瞬だけ振り返ってリディアの無事を確認した。リディアとティオのまわりには誰もいない。
 重たそうな足音を立てて、もう一匹が迫ってくる。突き飛ばして進もうというのか、妖精は速度を落とさない。
 フォースは振り下ろしてくる腕をかいくぐり、妖精の右足に剣身を当てた。それでも突っ切ろうという勢いに対抗して剣を握る手に力を込める。
 足はその太さに対して不気味なほど簡単に切断できた。妖精は勢い余って転倒し、石の上に黒い物体を擦りつけながら止まる。フォースはその後頭部に剣を突き立てた。妖精は崩れるように形を失っていく。
「相変わらず、だな」
 息の切れたその声に振り返ると、傭兵の鎧を着けたウィンが倒れたまま冷笑を浮かべていた。
「あの女のためなら容赦ねぇ」
 口も悪いが、顔色もひどく悪い。
「どうしてこんな所に」
 嫌味に聞こえた言葉を無視してたずねると、何か思い出したのか、ウィンはうめき声を立てながら上体を起こした。ズルズルと身体を引き摺って妖精の頭部だった部分に近づき、右手を崩れた妖精の頭部に突っ込んで何か探っている。
 思わず顔をしかめたフォースに苦々しい笑みを向けると、ウィンは妖精だったモノから手を引き抜いて、手に握っていた二つの球体をフォースに見せた。
「これさ」
 黒い液体をはじいて手のひらで光り出したそれは、多分妖精の眼球なのだろう。生きていた時そのままの色ではなく、真っ白な表面が虹色に輝いている。
 それを腰に付けた革袋にしまいこみ、ウィンはもう一体に近づいて同じように眼球を取り出した。その手が眼球を握りしめたまま、パタッと地面に落ちる。
「ウィン?!」
 駆け寄って首に触れると、血の流れはハッキリと感じられた。気を失っただけのようだ。だけと言っても、結構な距離を飛ばされているのだから怪我をしているのかもしれない。フォースはウィンの側にかがんで、身体を調べ始めた。
 いつの間にか側に来ていたティオが、リディアをフォースの側に降ろす。
「大きな外傷はないみたいだ」
 フォースは、心配げにのぞき込んでくるリディアを見上げた。リディアは安心したように微笑む。
「村に運びましょう」
「怖くないか?」
 ウィンは今でこそフォースをと言っているが、元々狙われたのはリディアの方だ。フォースはそれを心配したのだが、リディアは首を横に振った。
「私も歩くわ」
 その言葉にうなずくと、フォースはウィンが手にしている球体を、前の二個と同じ袋に入れた。

   ***

 妙な怪物が出るようになって旅をする者が減ったのか、それとも最初から客が少ない宿なのか。部屋は結構空いていた。ひどい匂いをさせていたので最初はしかめっつらだった宿主も、その怪物を退治してきたのだと分かったとたん、手の平を返したように丁寧になった。
 借りた部屋は村の宿にしては大きな部屋で、窓からドアの側までにベッドが三台平行に置かれていた。窓際のベッドにウィンを寝かせて薬師に介抱を頼み、その湯浴みをすませる。
 リディアは何かあった時のため、外に出てもおかしくない部屋着に着替えていた。庶民の格好だからと用意された服を着ているのだが、リディアが着ているところを目にすると、フォースの目にはどうやっても特別に見えた。人の目にも気を付けなくてはいけないと思う。
 部屋に入ると、まずティオがベッドの隅にちょこんと座っているのが目に入り、それから一番奥のベッドに寝かされたウィンと、その側の椅子に座った薬師が見えた。
「どうですか?」
 リディアが心配げに声を掛けると、薬師は大きくうなずいてから振り返る。
打撲はありましたが薬を塗っておきました。数日は痛みがあるかもしれませんが、すぐに治りますよ」
 その言葉にフォースはウィンの寝顔をのぞき込んだ。顔色もすっかりよくなっているように見える。安心して頬を緩めたフォースを見て薬師は、ではこれで、と立ち上がった。リディアは丁寧なお辞儀をし、ティオは無駄に元気に手を振って薬師を送り出す。
 リディアが部屋のドアを閉めた音に、フォースはため息をついた。自分を仇と思っている人間が同じ部屋にいるのだから、思い切りくつろぐわけにもいかない。
 だがフォースはリディアだけは休ませたかった。歩きやすい格好だったとはいえ、道のない森の中を通ってきたのだから疲れているだろうと思う。
 ティオはフォースの表情をうかがうと、ウィンを寝かせたベッドと反対側にあるベッドの下に勢いよく滑り込んだ。フォースはウィンの側を離れてリディアに歩み寄ると、向けられてくる笑顔に口づける。
「久しぶりにベッドなんだし、ゆっくり寝るといいよ」
「フォースは?」
 少し心配げに聞いてくるリディアに、フォースはウィンを親指で指差して苦笑を返す。
「ウィンがいたんじゃ寝られない。ここを出てから休むことを考えるよ。だから今のうちに休んでおいて」
 その言葉にリディアは笑顔でうなずいた。どちらかが起きているのが一番安心できることを理解してくれているのだ。
「このままでいいわよね」
 リディアは服のままベッドに横になった。足を隠すために薄い寝具を掛ける。フォースは椅子を持ってきて、ベッドの側に置いた。その椅子に落ち着いてベッドに目をやると、フォースの様子を見ていたリディアと視線が合う。
「おやすみ」
 フォースはもう一度リディアに口づけた。リディアは、おやすみなさい、と小声で返す。ちょうどベッドの下からティオの小さなイビキが聞こてきた。リディアは可笑しそうに微笑み、フォースの手を取って瞳を閉じる。
 リディアの手は少しひんやりとしていて、しなやかでなめらかな感覚を伝えてくる。ウィンが気付いていないかを視線の隅で確認しながら、フォースはただ黙ってリディアの手を握っていた。
 リディアの手からスッと力が抜け、眠りに落ちたのだと分かる。
 何かに集中することなく一人で起きているのは辛いモノがある。だがウィンが意識を取り戻したことに気付けないと、自分もリディアも危ないのだ。緊張感は楽に持っていられた。
 そっとリディアから手を離し、窓のある壁に付けて置いたベッドに視線を向ける。ウィンを寝かせているベッドだ。その頭部側の横にはウィンの着けていた鎧が置いてあり、持っていた武器はベッドの下、窓よりの方に隠してあった。
 そして枕の下にはウィンが大事そうに持っていた革袋をしまってある。
 フォースは、ウィンが妖精の眼球をなんのために集めているのだろうかと、想像を巡らせた。頭が弱点だと知っていたからには、何度かでも戦ったことがあるのだろう。
 眼球だけを見ると、巨大な真珠のように見えなくもない。そのままでも宝飾品として価値がありそうだ。
 フォースはリディアに視線を戻した。呼吸をするごとに、身体がゆっくりと小さく上下する。フォースはリディアの髪に触れ、そっと撫でた。
 もしもあの眼球が宝飾品だとしても、誰も目玉だと分かっていて身に着けたいとは思わないだろう。だが身に着けないまでも、何か宝飾品に使うことはあるかもしれない。
 ウィンを振り返ると、体勢を変えずに寝たままのウィンと目が合った。気が付いたのかと、安心すると同時に緊張感が増す。ウィンはケッと嘲笑するように笑った。
「誰も見てないと思って、キスしまくりやがって」
「は? 二回しか」
 そこまで言ってしまってから、フォースは慌てて口をつぐんだ。
「ほぉ、案外少ないな」
 ウィンはそう言うとノドの奥で笑う。
「まったく、こんなガキに腹を立てていなきゃならんなんて恥ずかしい」
 ウィンはこれ見よがしに大きなため息をついた。そう思ったら、こっちに気付かれる前に攻撃を仕掛ければよかったのだ。自分が隙をつかなかったことに疑問を持たれたと思ったのだろう、ウィンは視線を逸らして窓の方を向いた。
「ああ、そりゃ仇は討ちたいが、今はそんな金も暇もなくてな」
 その言葉に、フォースは思わず顔をしかめた。仇を討つなんて一人でも充分なのに、そんなに大がかりで攻めてくるつもりか。だが、本気だったなら、やはり今が好機だっただろうと思う。
「奴らの弱点を、なぜ俺に」
 フォースの言葉に、ウィンは肩をすくめて冷笑した。
「商売は楽な方がいいだろ? 大きさによっては、結構な値で売れるんだ。そのものの価値もあるが、退治料って意味もあってな」
「退治料?」
 そんな制度が出来ているほど数がいるのかという疑問に眉を寄せると、ウィンはベッドの脇に置いてある自分の鎧を指し示した。
「そのための傭兵だ。一日に二頭も見たのは初めてだが」
 初めてという言葉に、狙われているのはシャイア神だという思いが確信に変わる。顔を歪めたフォースに、ウィンは冷たい笑みを浮かべた。
「お前の後をついていけば、大金持ちになれそうだな」
「冗談じゃねぇ」
 遭遇をできるだけ避けるためにも、移動の速度を上げなくてはいけないとフォースは思った。
 自分が通った記録を残さずに手っ取り早く馬を手に入れるには、強奪するくらいしか方法がない。買い取ってしまうのも手かと思うが、乗るために慣らされた馬はそうそう売ってはいない。メナウルに戻る時に使った拠点なら、強奪できないこともないだろう。この宿からなら拠点は側にある。
 人目に付かないようにするため、休みながら進むためには馬車の方がありがたい。だが、馬車を強奪するとなると間違いなく大がかりになってしまう。とりあえずは、どうにかして馬を手に入れる方法を考えなくてはならない。
「それにしても」
 ウィンは可笑しそうに目を細め、アゴでリディアを指し示す。
「まさか女神のままだなんてな。まだやってなかったのか」
「やっ?!」
 思わず大声を出しかけて、フォースは自分の手で口をふさいだ。
「……れるわけないだろうがっ」
 そのまま続けたフォースに、ウィンはノドの奥で笑い声をたてる。
「サッサと幸せになっちまえよ。今お前が抱えている問題を解決した頃には、俺に殺されるんだからな」
「ちょうどいいじゃないか。暇つぶしに相手してやるよ」
 鼻で笑ってそう返したフォースに、ウィンは相変わらず可笑しそうに笑いながら背を向けた。
「おやすみ。せいぜい頑張って起きてろよ」
「ああ、そうするさ」
 フォースはそう返事をしたが、ウィンの笑い声はすぐにはやまなかった。だんだん腹が立ってきたフォースは、今なら簡単に殺せる、と小声で三度繰り返して口にする。それでウィンの声はようやく止まったが、身体はまだ小刻みに揺れていた。
 ウィンが静かになると、またティオの寝息が聞こえてきた。ふと、ティオがファルと話していたことを思い出す。
 馬を連れ出すのに馬と直接話を付けられるのなら、ティオほどの適任者はいない。しかも短時間なら人を操ることもできるので、見張りが一人なら何頭でも静かに馬を連れ出せそうだ。
 フォースはリディアの手に手を重ねると、ウィンの向こう側にある窓に目を向け、時が経つのをじっと待ち続けた。

   ***

 ウィンが眠っている、まだ暗いうちに宿を出た。
 眼球は金になるらしかったが、現金を持っているかどうかは分からないので、宿主に二日分の代金を預けた。当然これでウィンを懐柔できるとは思っていない。あの黒い妖精の情報代として、宿代くらいなら安いと思ったのだ。
 街道をまっすぐ北上する。まだ暗いせいもあり、人通りは無い。ティオは子供の姿なので、荷物はフォースが持つハメになる。リディアも一つ荷物を持っているのだが、そんなに軽くはない。リディアの指にかかる負担がフォースは気になっていた。
 拠点に近づくにつれ、建物の脇、少し離れたところに馬車が置いてあるのが見えてきた。メナウルに向かう時に使った馬車と同じ形をしている。隅の方に捨て置いてあり、馬はつないでいない。
「馬、呼んでくるね」
 ティオはそう言うと、馬小屋のある拠点裏へと駈け込んでいった。
 フォースはリディアと二人、しく思いながら馬車に近づいた。だが、側まで行くとなぜ放置してあるのか、すぐに理解できた。
 馬車の前方に、黒い物体が飛び散った跡があるのだ。これをなんとかしないと、使えないのだろう。わりと小型だが身分の高い人間も使用する馬車なのだから、このまま廃棄処分にしてしまおうというのかもしれない。ガラスが外されているので、その確率は高いだろう。
 放置した馬車が無くなったのなら、実際使っている馬車が盗まれるよりは、騒ぎにはならない。手入れをせずに数日おいてあったのか、上手い具合に汚れている。特にれている様子もない。
「ちょうどいい」
 小声でつぶやくと、リディアは笑みを浮かべてうなずいた。
 荷物を積みながら少し待つと、ティオが馬四頭と談笑しながら連れ立って歩いてきた。リディアと目があったのか、ティオは手を振ってくる。
 馬をどうやって手に入れようかと悩んでいたのが馬鹿らしくなった。それにしても四頭は多すぎだ。
 ティオはこちらを向いて思考を読んだのか、立ち止まると馬に向かって何か話している。ティオが手を振ると、四頭中二頭が戻っていき、残り二頭がティオと一緒に歩いてきた。
「じゃあ、頼むね」
 ティオがそう馬に話しかけると、返事があったのか無かったのか、馬をつなぐ金具の方へと勝手に歩いていく。
「フォース、つないでって言ってるよ」
 明るい声でティオが言う。フォースは言われてハタと気付いたように、慌てて馬をつないだ。
「この人たち、仲間うちでは力が強いんだって」
「え。そ、そうなのか」
 あまりののんびりした雰囲気に、強奪どころか馬を扱っているという感覚も薄い。
「終わったら乗ってね。街道をまっすぐマクラーンの方に行けばいいんでしょ?」
「お願いね」
 リディアはニッコリ微笑むと、馬車の戸へと歩を進める。不安感にティオを振り返ると、大丈夫だよ、と間を置かずに返事をした。
 言われるまま馬車に乗り込む。何をしているのか気になって耳を澄ますと、ティオが話している声が聞こえてきた。
「うん、じゃあ、行こっか」
 その声で、馬車はゆっくり動き出す。拠点からは誰も出てくる様子はない。建物の前を通り過ぎ、少し離れてから馬車は速度を増した。
 やはり黒いシミだけで、馬車には何も問題はないようだ。もしかしたらと思い、座席の下にある戸を開けてみると、毛布までしっかり入っている。
 降ろすのを忘れたのかと毛布を引っ張り出してみると、そこから小さな紙が一枚床に落ちた。フォースはそれを拾い上げる。そこには、取りに来る者がいると伝えてある、とそれだけ書かれていた。
「フォース、これ……」
 横から紙をのぞいていたリディアが見上げてくる。フォースは笑みを返してうなずいた。
「多分、俺たち宛だ」
「もしかして、気をつかってくれたのかしら」
「でも、馬はかっぱらわなきゃならなかったわけだし。片手落ちだ」
 口にした言葉は非難と変わらないが、それでもなんだか安心して、フォースはノドの奥で笑い声を立てた。
 周りの景色が森の木で覆われ始め、どんどん緑色になってくる。フォースはもう一枚毛布を取り出してリディアに渡した。風が当たるので、二人で並んで進行方向と逆向きの席に座る。リディアは毛布を広げると、フォースも一緒に包み込んだ。
 リディアの体温がじんわりと伝わってくる。フォースは毛布の中でリディアを抱き寄せた。一人で毛布にくるまるよりも、数倍暖かいかもしれない。
 リディアの見上げてくる瞳に笑みを向け、フォースは唇を重ねようと顔を近づけた。その少し後、車輪が何か踏んだのか、馬車が跳ねるように揺れたはずみで唇と鼻がぶつかる。
 驚いて離れると、お互い鏡を見ているように、鼻と口を手で覆った。妙な可笑しさが込み上げてきて、二人で顔を寄せて笑い合う。
 暖かさに安心感も手伝って、フォースを急激な眠気が襲ってきた。アクビを噛み殺したフォースにリディアが耳元で、寝た方がいいわ、とささやく。
「ファル!」
 御者台にいるティオの大きな声が、いきなり聞こえてきた。同時に馬車の速度もむ。
「道なりに走っててね」
 その声とほとんど同時に窓からティオが顔を出した。頭の上にはファルがとまっている。
「大丈夫なのか?」
 フォースは馬を放置してきたティオに言葉を向けた。
「すぐ戻るし、平気だよ。ちゃんと分かってるから」
 ティオがそう言っているうちに、ファルは窓から馬車の床へと降り立った。手紙がそのまま残っている。
「連絡が付かなかったのね」
 リディアが残念そうに眉を寄せた。ティオは難しげな顔をする。
「ジェイって人、怪我をして寝ていたって」
「怪我?」
 思わず顔をしかめたフォースに、ティオは首を縦に振った。
「ベッドから起きあがれないみたいだから戻ってきたって」
 一体どうして起きあがれないほどの怪我をしたのだろうと、フォースは意識を巡らせた。だが、マクラーン城にはそんな要因は思い当たらない。ファルはフォースの顔を見上げると、キィ、と一声鳴いた。
「黒い妖精の話しをしてたって」
 ティオはその話をしたくなかったのか、いくらか抑揚のない声で言う。フォースはりに目を細めた。
「それのせいか。塔でも襲うつもりなのかもしれないな」
 ならば、なおさら急がなくてはならない。その思考を読んだのか、ティオは、了解、と口に出すと、御者台に戻っていった。ファルも後を追うように外に飛び出す。
「ファル、今度はヴァレスに行ってもらいましょう」
 リディアの提案に、フォースはうなずいた。黒い妖精がメナウル側にも現れるかもしれない。調べて何か新しい情報があったら教えて欲しいし、こちらの無事も知らせておきたい。
 考えを巡らせようとしたフォースは、リディアに毛布ごと引っ張られた。同じ高さで顔を突き合わせると、リディアは微笑みを向けてくる。
「今のうちに、少しでも眠っておいてね」
 そう言うとリディアは、の上にフォースの頭を乗せた。柔らかで心地いい感触が頬に伝わってくる。この体勢で眠れるわけがないと思ったが、予想以上に自分が疲れていることにフォースは気付いた。
 この分では何を考えようとしても頭が回らないだろう。髪の間を通るリディアの指が、さらに眠りを誘う。フォースは瞳を閉じて眠気に身を任せた。