レイシャルメモリー 〜蒼き血の伝承〜
1.謀略
何度か目を覚まし、その分だけ眠りについた。傷は相変わらず痛んだが、最初に気が付いた時よりは格段によくなっている。
ジェイストークは、変わらず窓の所にいる神官の後ろ姿に目をやった。見張られているのか心配されているのか。
どちらかといえば見張るという意味合いの方が強いに違いないとジェイストークは思った。なにせここに来てからは、マクヴァル本人を一度も見ていないのだ。ただ、眠っている時間が長く、目にしていないだけなのかもしれないが。
ふと神官が振り返った。目が合い、ジェイストークは力のない視線を返す。
「待っていろ」
神官はそう言うと部屋を出て行った。何を待てと言ったのか分からないが、一人でここから動けるほどの力は出ない。待つ以外になかった。
神官のいなくなった窓の外には、やはりファルの姿はすでに無い。自力で窓まで行ってファルを呼び、手紙を受け取るには、もう少し治癒が必要だろう。自分が起きられないことを理解して、無事にフォースの元へ戻ってくれていたらいいと思う。
だが、何を連絡してきたのかが、ひどく気に掛かった。フォースの元にはティオという妖精がいて、動物とも少しは話が通じるはずだ。ファルが何を見たのかも、もしかしたらフォースに伝えてくれるかもしれない。でもなぜ怪我をしたかまでは、さすがに伝わらないだろう。
あの黒い怪物の姿も、脳裏に蘇ってくる。あれが何であるかは分からないが、確実に異変が起こりつつあることも知らせたかった。
だが、過ぎたことだ。ジェイストークは落ち着こうとゆっくりと息を吐き切った。それだけで傷が疼く。息を大きく吸い込むと、身体のあちこちに痛みが走る。ジェイストークは眉を寄せて息を潜め、その痛みをやり過ごした。やり過ごせるだけ、治癒してきているのだと実感する。
勢いよく唐突にドアが開いた。薄く開けた視界の隅に、神官服が滑り込んでくる。
「傷はどうだ。痛むか?」
マクヴァルの声がしたと同時に、ドアが閉まる音がした。もう一人誰かいるのだと漠然と考えながら、ジェイストークは、ええ、と小さくうなずく。
「アレは、何だったのですか」
自分で思っていたよりも、弱々しい声が出た。視線を向けると、マクヴァルは難しい顔をする。
「それが分からないのだ。神に反応する所を見ると、妖精らしいと推測はしているのだが」
神に、という言葉を聞いて、ジェイストークは背筋に冷たいモノが走った。
シャイア神を襲わせるのに、これほどの適任者はいないだろう。やはり危険を承知でマクヴァルが連れてきたのだろうかという疑問が湧き上がってくる。
「最近、アレが多く目撃されているのだよ。国で報酬を出して狩らせている。一体どこから現れるモノだか……」
本当にマクヴァルがやっていることならば、狩られても支障がないほどの数を用意しているのか、それともあわよくばと思っているのか。
神に反応するという言葉も気になる。神の力に対しても反応するのならば、塔にいるはずのフォースを心配して見せた方がいい。
「レイクス様は、ご無事で……」
「それはお前の方が知っているだろう。私はずっと部外者のままだ」
その返事は、様子を把握できないことへの嫌味か、それとも塔にいないことに気付いているからか。心臓の鼓動と同調して疼く痛みで、注意力が散漫になっている。確かめようにもこちらがシッポを出しそうで、なかなか頭が回らない。ジェイストークは目を閉じてゆっくりと息をついた。
「感謝している」
マクヴァルの不意の言葉に、ジェイストークは眉を寄せて薄く目を開いた。のぞき込んでくるその顔が、マクヴァルの人格ではなく、懐かしい父の顔に見える。
「お前が助けてくれるとは。嬉しかった」
それはただの主観で感謝ではない。だから反応する必要はないとジェイストークは自分に言い聞かせた。だが、失われてしまった父の人格が戻っているのではと、どうしても期待してしまう。
「怪我をさせてしまって心配したよ」
怪我をさせたという言い方は、あの妖精の存在がマクヴァルのせいだとも取れる。考え過ぎか。妖精が現れた場所にいたことで無理をさせたと思っているだけかもしれない。
だが、そもそもどうしてあの場所にいたのか。エレンの墓に祈りを捧げることになっている時間以外は用が無いはずだ。しかも祈りを捧げていたわけでもなく、どこから現れたのかも分からない。階段から下りてきたなら、階段を上がれば逃げられた。それができなかったのは、すでに地下にいたということだ。
「どうした?」
考え込んでしまったからか、マクヴァルが心配げに顔をのぞき込んでくる。色々聞き出したいが、逆に自分が余計なことを話してしまう可能性もある。
「いえ。あなたが無事でよかったです」
マクヴァルに何かあってはいけないのだ。戦士の手で斬られなくてはならないのだから。ジェイストークは焦燥感の中、それだけは間違いないと思った。
ドアにノックの音がした。
「陛下がお越しになりました」
部屋の外から聞こえたその声は、待っていろと言い捨てていった神官のモノだ。その神官が呼びに行ったのは、マクヴァルだったのか、クロフォードだったのか。普段なら足音も聞き分けていただろうことに、ジェイストークは苛立ちを感じていた。
マクヴァルは自分でドアを開けに行った。開いたドアの向こうで、クロフォードがマクヴァルに視線を向ける。
「来ていたのか」
「はい。お邪魔でしたら、席を外しますが」
「いや。そなたは親なのだから、側にいたくて当然だろう」
クロフォードの言葉にマクヴァルは、ありがとうございます、と深く頭を下げる。ジェイストークはそのクロフォードが言い切った言葉の中に、フォースと会えない寂しさを感じた。
「快方へ向かってくれているようで、よかった。レイクスも心配している」
嘘だと分かっているその言葉にも、ジェイストークにはクロフォードの優しさが見えた。思わず笑みを漏らし、ふと思いついた不安に眉をひそめる。
「レイクス様のお世話は……」
「現在はナルエスが就いている。安心していい、彼はほとんど付き切りだよ」
実際フォース本人はいないのだが、肩の荷が下りたと同時に、ひどく寂しい気もした。大きく息をついてクロフォードを見上げると、眉を寄せて難しい顔つきをしている。
「陛下……?」
ジェイストークが声をかけると、クロフォードは苦悶を抱えた苦笑を見せた。
「しかし、数が増えてきているとはいえ、なぜエレンの墓に怪物など。どこから入ってきたのだ」
静かな調子でそう言うと、クロフォードは視線をマクヴァルに向ける。
「私も一体どういうことなのだか。調べさせましたが、入ってきた形跡や異変は何一つありませんでしたし」
クロフォードは少し間を置いて、ため息を一つついた。
「防ぎようがないということか。ならば、軍部から監視にあたる人員を数名借りてくればよかろう」
「いえ、すでに見張りの神官を増やしております。何かありましたらすぐにでも御連絡申し上げますゆえ」
マクヴァルはかしこまって辞退した。ジェイストークの目に映ったその顔は、硬く強張ったように見える。クロフォードはマクヴァルの言葉に、うむ、と大きくうなずいた。
「それで足りるのなら、そうしてくれ。どこも警備を厚くしなければならん。人手不足だ」
その言葉にマクヴァルは、はい、と頭を下げた。クロフォードは眉を寄せ目を細める。
「しかし城自体の警備が厚いはずなのだが、一体どこから神殿奥にまで入り込んだのだろうな。城のどこかにヴェーナと繋がる道があるのかもしれん」
「まさかそのような……」
どれだけ驚いたのか、マクヴァルは顔色を変えたが、すぐに難しげな顔に戻る。
「いえ、神殿もすぐに調べさせます。これ以上何か起こるようではいけません」
マクヴァルはクロフォードに深々と一礼し、部屋を出て行った。二人分の足音が遠ざかっていく。
「そこに残ったのはテグゼルだ。お前がこんなことになった時、テグゼルとナルエスにはすべてを話してある。心配いらんよ」
足音が聞こえなくなったところで、クロフォードはドアを指し示し、笑みを浮かべた。
ナルエスはフォースに心酔しているから問題はない。だがテグゼルはどうだったか。人当たりがよく、それだけに普段の態度を思い起こそうとしても、無表情なアルトスよりもさらに心情が推測できない。
だが、クロフォードの命令なのだ。テグゼルが従わないはずはないと思いたい。
「アルトスとイージスがマクラーンに向かってきている。イージスはヴァレスに潜入していたのだから、少しはレイクスの様子も聞けるだろう」
心配させまいとして言ってくれているのだろうその言葉が、ジェイストークは嬉しかった。だが一つ、どうしても伝えなくてはならないことがある。
「陛下。申し訳ありません」
何の謝罪か分からなかったのだろう、クロフォードが顔をのぞき込んできた。
「ファルが、……、レイクス様の鳥が、来ていたのです」
息が続かず切れ切れになる言葉も気にならないかのように、クロフォードが身を乗り出す。
「ですが、手紙を受け取ることが、できませんでした」
クロフォードはあからさまに残念そうな顔をしたが、その表情はすぐに苦笑に変わった。
「仕方があるまい。気にするな。もし立ち上がることができたとしても、ここにはずっと神官がいた。まさか目の前で手紙を受け取るわけにはいかないだろう」
ありがとうございます、とジェイストークはできる限り頭を下げた。
「もしかしたら、またその鳥を寄こしてくれるかもしれんな。ここは軍部が引き受けるとマクヴァルに命令をくだそう」
「そうしていただければ、ありがたいです」
クロフォードはうなずくと、窓の外、神殿の方角に視線を向ける。
「本当なら神殿の警備も任せて欲しいところだが。任せてくれないところを見ると、怪物のような妖精というのもマクヴァルの術策かもしれん」
「私もそう思います」
多分まだ回復していない自分を気遣って、クロフォードは全部を口にしてくれているのだろうとジェイストークは思った。クロフォードの表情は、困惑しているようでもあるが、変わらず優しいままだ。
「神殿に何かがあるなら、警備すら事を荒立てることになってしまう。あの怪物の目的が何なのかも分からない。どうにかして探りを入れたいが、言葉も通じないようだし。難しいな」
「はい」
甘えていると思いながらも、それだけ答えたジェイストークを、クロフォードは心配げにのぞき込んでくる。
「まずは傷を癒すことだけを考えてくれ。怪物がマクヴァルのせいだとしても、動きがあるのはまだ先のはずだ。自分が襲われているようでは、話しにならんだろうからな」
はい、と返事をしつつ、ジェイストークはフォースの行動に思いを巡らせた。ファルの手紙を受け取れなかったのは残念だが、ヴァレスに潜入していたというイージスが戻ってくるのだ、何か情報がつかめるかもしれない。
ジェイストークの、少しでも早くフォースがマクラーンに来て欲しいとの思いは、いつの間にか祈りに変わっていた。
***
木の枝を蹴り、透き通った羽を動かす。音も風も立てないように、完全に夜と同化する。リーシャは森の木の上部から、夜更けの街道を行く一台の馬車を見つめ、声に出してため息をついた。
「やっと追いついた。案外早いじゃない」
御者台にいるのはフォースだ。側にいたティオもリディアごと馬車の中なのだろう。その馬車のせいで神官が召喚した妖精が追いつけていない。
ティオが馬の都合に合わせてこまめに休みを取っているため移動が早く、馬も疲れが最小限ですんでいて元気なのだ。馬車などどうやって調達したのか。リーシャはため息をついた。
「あの神官、露見を怖れたりするから」
マクヴァルが街道を避けろと命令していなければ、今頃はあの車に群がっていたかもしれない。バレたところで、神の力を使えばいいのだと思う
「だいたい何よ。シャイア神にとって一番危険なの、あんたじゃないの」
人の心情まで見ることのできるリーシャには、フォースとリディアが互いに持っている恋愛感情が一目瞭然だった。この男は揺るぎない幸せを女に送りたいのだ。女はその想いごと男を支えたいのだ。
やっていることは間違いなく戦士の行動なのだが、戦士だということすらフォースの頭には残っていない。
ふと脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。歳をとったしわがれた声で何度も聞かされた、スマン、という言葉が耳に響く気がする。思わず両手で抱えるように、じくじくと痛んだ胸を抱いた。
長く生きても百年に満たない人間を相手にするのはバカバカしいと思う。頭に残るその男も、あの戦士もだ。だが、過ぎてしまったことは仕方がないし、今シェイド神を解放されてしうのは迷惑なのだ、どうしても阻止したい。
自尊心を思い切り傷付けられたのも忘れられない。リーシャは、フォースに突き飛ばされるように蹴られた腹の辺りを、手のひらで撫でた。
ティオが窓から顔を出して何か声をかけると、フォースは馬車の速度を緩めた。止まるつもりなのだろう。ならばできるだけ側に行って、相手の状態をうかがいつつ策を立てようとリーシャは思った。
「もう少し真面目にやらなきゃね。まずは下見下見っと」
馬車が街道の脇に止まり、中からリディアとティオが姿を現す。ティオは手を振りながら森に駈け込んでいき、リディアは御者台にいるフォースに手を引かれ、その隣に座った。
森に入ってすぐ、ティオは果実やキノコを採り始める。食料を調達するためだったのだ。妖精がいなくなったのは、気取られる心配が格段に減るので、様子をうかがうにはちょうどいい。フォースとリディアに気付かれないよう、リーシャは少しずつ近づいた。
「これ、フォースのお母様の石よね。お返しした方がいいかしら」
「え? ……、そうか。考えてもみなかった」
抑えてはいるが、弾んだ声の会話が聞こえてきた。リーシャは、武器を用意しておくべきだったかと後悔した。この距離で自分の剣の腕があれば、一撃で串刺しにできそうな気もする。
「私には本物がいてくれるから」
「本物?」
でも、どうせならリディアの前で正面切って戦って勝ちたい。そうすることでフォースにリディアを失う最悪の気持ちを味わわせ、自尊心も傷付けてやるのだ。
「フォースのことよ。フォースがいない時はフォースの代わりだったけど、ちゃんと帰ってきてくれたわ。でも、エレンさんは……」
リーシャも剣を持って久しいし、それなりの使い手ではある。だが人間は力が強いし、フォースは戦士なのだ。少し精神的に負担を持ってもらった方が確実だろうとリーシャは思った。それには何か仕掛けなくてはならない。
「きっと懐かしいと思うの」
「そうだな。俺もこれには随分助けられたし」
フォースは簡易鎧の胸プレート、リディアのペンタグラムがある場所をノックするように、こぶしでコツンと音を立てる。
「実際命も救ってもらって、」
不意にフォースが言葉を切った。リーシャは慌てて木の陰に半分隠れてから、神の気配に気付く。
「フォース、これ」
リーシャが顔を出すと、フォースは胸を押さえた格好で、心配げなリディアにうなずいて見せた。リディアの身体から、ほんのりと虹色の光が見えている。
「辛くない? 大丈夫?」
「一人でいる時と比べたら、無いも同然だよ。今は辛いとか苦しいじゃなく、神の力があるって感じるくらいだ。心配いらない」
心情をのぞくと、確かにフォースの言う通り、あまり打撃にはなっていないのだと分かる。だが、シャイア神がシェイド神の力を受けるまでの一瞬は、結構な隙があった。その一瞬を狙えば、付け入ることができるかもしれない。
ふとリディアが上を見上げた。リーシャが木々の間に隠れたあたりに視線を巡らせる。リーシャは動悸を抑えながら、見つかるわけがないと信じて息を潜めた。
「リディア?」
「誰かがいたような気がしたのだけど」
その言葉でフォースも近辺を探るように見まわす。
「何か動物だったのかしら。人がいるわけないわよね」
ため息をついたリディアに、フォースの注意が向く。
リディアは妖精の存在を感じることができるのかもしれない。まれにそういう人間がいると、長老から聞いたことがある。なんにしてもシャイア神が選んだ巫女なのだ。リーシャは緊張を解かず、息を詰めたまま様子をうかがった。
「イヤだわ。すぐ心配になったり不安になったり、悪い方へ悪い方へと考えてしまって」
「問題無い。ってより、むしろ役に立つよ。危機を感じる能力みたいなものだ。俺には無いし」
フォースはリディアの恐怖心すら負担に思わせたくないらしい。その言葉に安心したのか、リディアが微笑みを浮かべる。
フォースはリディアを落ち込ませないようにと言ったつもりらしいが、実は当たっているのだ。リーシャは自分がここにいることがフォースにばれていないと分かり、ホッと胸をなで下ろした。
それにしても、リディアに居場所が知れてしまうのは厄介だ。リーシャは風に流されるように少しずつ場所を変えながら、二人に視線を向ける。
「寒くないか? マクラーンに近づくほど寒くなる。気を付けないと体調を崩すよ」
その言葉に、リディアはフォースに身体を寄せ、その肩に頭を乗せた。
「フォース、あったかい」
フォースはリディアの肩に腕を回して抱き寄せ、そのまま唇を合わせる。
人間の男はいつでもずいぶん性急なモノなのかとリーシャは思った。いや、違う。女もそうだ。リディアは余すところ無くしっかり受け入れ、受け止めている。
妖精は百年、二百年と、長い時間をかけて、ゆっくりを愛を育んでいく。寿命の長さから考えると、自分の種族はそれでいいのだと思う。だが人間は短命だから、急ぐしかないのかもしれない。
最初から合わないモノだったのだ。そう思うと、またリーシャの胸が痛んだ。差し出す勇気が持てず、無理矢理奪われた。恨んだけれど、でも好きだった。好きだから、謝られるのが辛かった。そのくらいなら胸をはってお前は自分のモノだと言い切ってくれたらよかったのに。
そしてその気持ちを、リーシャはまだ引き摺ったままでいた。まだその時から時間はさほど経っていない。感情のなだらかさと同じで、忘れることは妖精には難しいのだと思う。
あの人はきっと、もう忘れている。どうやって過ごしたかだけじゃなく、二人が会ったということすら。人間なのだから、きっとなおさら。
「二人で住むのは小さな家がいいわ。振り返ったらいつでもそこにいる、くらいの」
「狭すぎだろ」
馬車の二人は、相変わらずリーシャにとってどうでもいいことを話し続けている。
「だって、掃除するのも大変よ?」
「そこか。そりゃまぁ、そうかもしれないけど。リディアは何もしなくていいよ」
フォースの言葉に、リディアは寂しげな顔をした。フォースは慌てて言葉をつなぐ。
「あ、いや、してもいいんだけど。ただ、側にいて欲しくて」
リディアはフォースに目を丸くした視線を送ってから、軽い笑い声をたてて頭をフォースの肩に乗せた。
リーシャがのぞいたフォースの感情は、自分が愛した人間のモノと酷似している。だが、間違いなく一つだけ違う所がある。
「どうしてあの人みたいに……」
思わず疑問が口をついた。二人に届かないうちに、風が声をさらっていく。
リディアの心も身体も、すべてを守ろうとしているから手を出さずにいるのだ。戦士だからシャイア神を守るという使命とは違い、これからの環境までをも見据えて。だがリディアの気持ちは、あまり自分と違うようには見えない。
リーシャは、自分が欲しかった想いがフォースにあることが、そしてその想いをリディアが受けていることが、ひどく癪に障った。
リディアも自分と同じ目に合えばいいと思う。そうしたら人間同士の関係がどう変わるか、知ることができる。もちろん、一つの例としてだけなのだけれども。
遊んでいる場合ではない。そう嘲笑してから目を見張り、リーシャは首を横に振った。
「そうか。そうよね」
フォースの戦意を削ぐには、それが一番かもしれない。リディアを傷付け、シャイア神を失うのだ。自尊心もさぞや傷付くことだろうし、そうなってしまうと簡単に倒せそうな気がする。
「あのおじさんは巫女を抱けなくて残念だろうけど。シャイア神の抜け殻ってことで、あの女を連れていってあげようかしらね」
しかも、シャイア神が降臨を解いて、この世界からいなくなるのだ。そうなれば自分の目的も半分果たすことになるのだから、これほど効率のいいことはない。
「楽にしてあげる」
押さえ込んだ感情を自由にすることくらい簡単な術はない。動力はフォースの感情に存在するのだから。リーシャは術を発動しようと胸に当てた手をフォースの方へと差し出した。
ふと、リーシャは妖精が近づいてくる気配を感じた。ティオが食物を集めて帰ってきたのだろう。手を下ろしてチッと舌打ちすると、リーシャはティオに感づかれないように馬車から距離をとった。ティオが木々の間から姿を現し、手を振ったリディアに笑顔で答える。
「おかえりなさい」
「もっと遅くてもよかったのに」
フォースの言葉に、ティオがケラケラと可笑しそうに笑った。
リーシャはこの妖精の存在をすっかり忘れていた。だが、食事なら日に何度かとるだろう。焦ることはない、ティオが遠くまで食べ物を採りに行っている間に仕掛ければいいのだ。
「ホントに遅くていいのかしらね?」
リーシャもティオにつられるように小さな笑い声をたてた。
***
机の上、いつもの場所には、数十冊の本が山を作っている。神殿地下の書庫からシャイア神が選んだ本だ。グレイは、その中からさらに重要度が高いとして、別に選ばれた本を手にしている。
「よかったな! リディアさんに選んでおいてもらって」
いくらか興奮したのか、サーディが上擦った声を出した。また知りたかった事実が書かれているのを見つけたのだから、嬉しくなっても当たり前だとグレイは思う。だが逆に気持ちが妙に冷えているのも感じていた。サーディはグレイの隣から、再び本をのぞき込む。
「やっぱりあの短剣が光っている時に、術師を傷つけろってことなんだな」
「でも、フォースが短剣を持ったら光が消えてしまうらしいよ?」
苦笑したグレイを見て、サーディの顔が引きつった。
「何で」
「さぁ?」
ウッと言葉に詰まったサーディを、グレイは何も言えずに見ていた。
「何見つめ合ってるのよ」
廊下から部屋へ入ってきたスティアがサーディに向かって言った。サーディはため息をついてからスティアに視線を向ける。
「いや、短剣が光っている時に斬れって書いてある本が見つかってね」
「聞こえてた」
スティアの返事に、サーディは不機嫌に眉を寄せた。
「だから。見つめ合ってるんじゃなくて悩んでるんだって」
分かってるわよ、とスティアは顔を引きつらせるような笑みを見せる。
「そのナントカって悪人を斬ってしまえば、とりあえずみんな幸せになれるんでしょ?」
「そうだな。でも、シェイド神はまだその神官の魂の中だ。そいつがまた生まれ変わってきたら、苦労するのはお前の子供だぞ」
呆れて言ったサーディに、スティアは言葉を詰まらせ、悲しげに視線を落とす。
「まさかお前、その時までリディアさんに巫女でいろとか言わないだろうな」
その言葉に驚き、スティアは慌てて手を振った。
「い、いくらなんでもそれは言えない」
「言いたいんじゃないか」
サーディは大きなため息をついて顔を覆った。スティアはスッと眼を細くする。
「何もできないのは、……、もうイヤ」
スティアがつぶやいた言葉に顔を上げると、サーディは苦笑した。
「フォースが戻ったら、いいだけ使ってやるよ。お前は政略結婚で殉国だ」
「なにそれ。望むところだわ」
二人が言い合っているのは、端から見ていると面白い。だが、どっちに転んでも、これから大変なのはこの二人なのだとグレイは思う。
神官らしく、シャイア神の像にひざまずき、祈ればいいのかもしれない。でもシャイア神はライザナルにいるのだし、むしろ上手くやってくれるようにと、グレイはフォースに祈りたい気分だった。
「お茶をお持ちしました」
その声に続いて、廊下からユリアがお茶を持って入ってきた。黙ったままテーブルの上にお茶を置いていく。
ユリアがサーディの側にお茶を置いた時、二人は一瞬だけ視線を合わせた。そのままわずかに笑みを浮かべながら、ユリアは廊下へと戻っていった。
ユリアがシスターになるための申請書を前にして悩んでいたのを、グレイは知っていた。ただ、それをまだサーディには伝えていない。言ってしまったら俄然張り切りそうな気がするからだ。
そんなことをしたら、ユリアがせっかく乗り気になってきた所を、サーディが焦ってぶち壊しそうだと思う。グレイは知らないフリで本に視線を据えていた。
サーディがお茶を持って口を付けると、スティアはその顔をのぞき込む。
「なんか雰囲気違う」
スティアの指摘に吹き出しそうになり、サーディは口の中の熱いお茶を無理矢理飲み込んだ。
「何のだよっ」
「何の? 分かってるくせに」
グレイは黙ったまま、本を見ている振りで兄妹に注意を向けた。スティアは薄笑いをサーディに向けている。サーディはフッと息で笑うと、似たような笑みをスティアに返す。
「お前は黙って嫁に行け」
その言葉でスティアの顔が明らかに不機嫌になる。
「何ですって? 色々失礼だし、憎まれ口を叩くし。メナウルの王妃様には絶対向いてないんだから」
「あぁ? お前の旦那だって、メナウルに潜入して色々探ろうとしたり、穏やかじゃない行動をする奴じゃないか」
まぁどちらも正論だ、とグレイは思った。でも特に恋愛感情は、正論だからと切り捨てられるモノではないだろう。
「……、分かった。黙る」
スティアの出した結論に、グレイは思わず吹き出した。兄妹の視線が自分に向いたのが分かったが、グレイは顔を上げずに先の文字に目を走らせながら口を開く。
「いいんじゃない? お互いの気持ちを尊重するってことで」
サーディとスティアは、いまいち納得できないというような顔で視線を交わしている。そこにノックの音がした。
「バックスです」
その声を幸運だと思って立ち上がり、グレイは本を置いてドアを開けに行った。
ドアを開けると、ファルが部屋に飛び込んできた。思わずファルを目で追う。
「そういうことで」
外に視線を戻したグレイは、そう言ったバックスが鎧を着けていないことに気付いた。
「あれ?」
「今日は非番でね」
グレイの視線で察したのか、バックスが親指で指差した後方、少し離れた場所にアリシアがいる。
「お出かけですか」
「日用品の買い出しだけどね」
バックスは目配せをして手を振ると、中に入らずに扉を閉めた。
グレイが振り返ると、ファルはいつもいる階段手すりにとまっている。
「また丁度よく来てくれたな。知らせるのか?」
ファルを見上げながら言ったサーディに、グレイは、もちろん、とうなずいて見せた。
「知らないよりは、ずっといいだろ」
目に入ってきた兄妹にも、それぞれ大切な恋人がいるのだと、グレイは頭の隅で思う。
自分が好きなのはシャイア神なのだ。そのシャイア神がフォースに頼り切っている状態でいるのは、やはり癪に障る。
グレイは本を手に取ると、いつもの席に落ち着いた。こうして本を読むことで少しでも手助けになると思えば、調べ物も苦にはならない。
「多少ふらちな感情を持ってしまうこと、どうぞお許しください」
本を目の前に、グレイは声に出してそう祈る。サーディとスティアが目を丸くしたのを見て笑みを浮かべると、グレイは本の続きに視線を向けた。